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私の日記です

2003年4月30日(水) すがすがしい気分

 今まで携わってきた仕事が、本当に自分に向いた仕事だったのか、本当に自分がしたい仕事だったのか。
 退職してから職安へ二、三度足を運んだ。先日は直接職員とも面談した。私ぐらいの歳になるとまず仕事はないという。自分に向いた仕事なら賃金は安くてもいいといっても、「今はご存知の通り就職難で、特別の技能でもあれば別だが、採用する側は若い人を希望するので無理だ」といわれた。その日はとりあえず各種セミナーの案内パンフレットを持ち帰った。パンフレットには「定員になり次第締め切る」とあったので、今朝早速下記の三つのセミナーの申し込みをした。
〇職業訓練セミナー 職業訓練の概要 キャリアアップの方法等
〇再就職準備セミナー 再就職に役立つノウハウ
〇健康管理セミナー 高齢期の健康づくり
 自分に向いた仕事で他人のために直接役に立っていると感じる仕事なら、賃金の多寡にこだわらない。とはいえ自分を犠牲にしてまで働くには、体力的に自信がなくなってきた。ボランティア的仕事でもいいが、私ぐらいの歳になるとかえって足手まといになるのではと躊躇する。体力も記憶力も衰えてきたことは実感するが、何かを勉強をしたいという意欲だけはある。これから、どのような道を歩むかは分からない。今すぐにしなければならないということはないのだろうけれど、気が急いてくる。気が急くのはサラリーマン時代の悲しい習性だ。
 セミナーの申し込みの電話をしてから、慌てて歯医者に行った。予約をしてあったからだ。「歯茎に張りが出てきましたね。せめて3までにしたいですね」歯と歯茎の間の透き間(深さ)の度合いを測る簡単な器具があって、一週間前に測った数値と比べながら医者が言った。この数値は小さいほど良い。5から4、6から5へと、かなりの箇所で数値が下がっている。歯を磨く回数は、相変わらず1日1回だけれども、5倍も10倍も時間をかけて丁寧に磨いてきたからだ。「11」というところの歯は、もう救いようのない歯だから抜くことにした。当分歯医者通いは続くが、歯の調子はいたってよい。すがすがしい気分だ。
歯は大切に。
歯ブラシの届かないところまで丁寧に磨きましょう。


 帰りの道すがら、お寺の塀の掲示板に書かれた句が気になったので書き留めておく。
   死なぬつもりで 佛法を いくら 聞いても 水の泡
                          稲垣瑞劔
                             究竟山 正行寺

■稲垣瑞劔について■
 明治18年に生まれ、97歳で亡くなられている。関西学院高等部卒、主に本願寺関係学校成徳学園校長、理事長として教職に就かれた。幼少の頃から学問にはげまれ漢籍、英文学、仏教学、東西の哲学のほか、とくに教行信証を中心とした真宗学や安心(あんじん)について、その深奥をきわめ、著述に伝道にその生涯を捧げられた。

2003年4月28日(月) 歯の健康にも十分注意しましょうね。

 外食をするのは好きではないが、外に出たついでに近くのレストランで朝食と昼食を兼ねた食事をした。その後、お金を引き出し振り込む用事があったので、銀行へ行った。明日は休日だし、連休も控えているためか、キャッシュコーナーは人であふれていた。振り込みの窓口も混雑していた。受付カードを引き、待ち時間を見ると40分と表示されていた。実際はそれほど待たされずにすんだが。
 最近は銀行の窓口での「本人確認」なども厳しくなっているようだ。窓口の女行員が登録印が押された書類を持ってきた。今回提出した引出票の印影の真ん中の部分を折って、付き合わせている。私としてはハンコに間違いはないと確信しているのだが、何度も同じ事を繰り返してから「少し大きさが小さいようですが、もうしばらくお待ちください」とかいって、しばらく待たされた。最後は「目をかえて、別の人に見てもらいますので」と、男の行員のいる窓口に行かされた。ハンコは長年つかっているもので、ちびっている。そのためかと思って「新しいのにかえた方がいいでしょうか」と聞くと「いや、その必要はありません」と答えた。ただ、印影を再度とられた。結果としては40分以上もかかってしまった。
 週1回のペースで歯医者に通っている。歯周病だ。在職中は、時間的に余裕もなかったので、歯医者にかかるのが延び延びになっていた。「もう少し早ければ、こんなことにはならなかったのに」と言われた。歯間ブラシというものを紹介された。歯周病の原因となるのは歯垢だ。歯ブラシが届きにくい歯と歯の間の歯垢を除去し、虫歯や歯周病の予防に効果がある。「5種類ほどありますが、一番大きいのを使って下さい」とも言われた。それほど私の場合は歯と歯の間の透き間が大きくなってしまったということだ。丁寧に磨き方を教えてもらって、今その通りに磨いている。丁寧に磨けばうずきもおさまってきた。いつもは2、3分ですませていたが、今は10分以上はかけている。
歯は大切です。
磨いたつもりではいけません。
丁寧に磨きましょう。
皆さん、歯の健康にも十分注意しましょうね。

2003年4月25日(金) 田蓑神社

 散髪をした後、ファミリーレストランで昼食をした。その後、家に戻り、ノートとボールペンを携えて外に出た。天気が余りに良かったので、近くを散策したかったからである。
 私の家のすぐ近くには由緒ある「田蓑神社」がある。窓を開ければ、社が四つ並んでいるのが見えるほどに近い。神社でお祭りがある夜は、遅くまで神楽の音楽が聞こえてきたりする。「田蓑神社」は大相撲の大阪場所がある頃は玉ノ井部屋(有名な力士では栃東がいる)の宿舎になる。私はこの町で産声を上げた。小学校、中学校、高等学校、大学、そして就職してからも、雨の日も風の日も、毎日この神社の境内を通り抜けて、通学・通勤した。この田蓑神社には多くの思い出がある。子供の頃は遊び場だった。伊勢湾台風の時には、近くの小学校に避難することになったが、この神社の境内を通って行った。途中、雨や突風が余りにも激しくなって、一時境内の蔵の軒下で、母と兄弟が肩を寄せあい、一休みした。その時、目の前の四つの社の手前の一つが、積木細工のように、いとも簡単に倒壊した。あの時、蔵の方が倒壊していたら、今こうして生きていなかったかもしれない。父は仕事柄、いつも台風の時は家におれないので、玄関を畳一枚ほどもある大きなベニヤ板で貼り付けてから出勤した。近所の家ではガラス窓の部分だけだったので、私は恥ずかしい思いをした。頑固で厳しい父だったけれど、今では、留守家族のことを心配しての父の「愛」だったと感じて、涙が出てくるのである。台風はこれまでに経験したこともない激しいもので、避難先の校舎の窓から外を眺めると、トタン板が紙のようにひらひらと舞いながら飛んでいた。そんな情景を今でも鮮明に憶えている。
 田蓑神社には一時間ほどいた。その時に筆写したものを記しておく。

立札(神社入口)
「おはようございます。境内を通り抜けの方へ 神前では一礼をして 通りましょう」
境内の掲示板
「ことばの鏡  凡そ神は 正直を以って 先をなし 正直は 清浄を以って 本となす 大阪府神社庁」
立札
「平成七年一月十七日未明に震度六とも七ともいう大地震がおこりました。震源地は淡路島の一宮。よって阪神淡路大震災と名づけられました。この佃の町も一丁目、二丁目を中心に町全体に多大の被害を受け、当神社も社務所の全壊を始め拝殿の傾き、標柱の倒壊、石鳥居・灯籠の傾き、参道の歪みと被害を受けました。町の復興を願いつつ、氏子崇敬者が再建に努められ同年秋の例大祭には参道を残し復興出来ました。諸祭祀の為おくれましたが、二十一世紀を目前に参道復興工事に入り、無事夏祭り前に修復出来ました。ここにこれらを永く伝える為に二百年程前に従一位、日野資枝がよまれた和歌と、左の標柱を建立しました。 平成十二年七月吉日 田蓑神社十八代宮司 平岡公仲」
(注)以前から「田蓑神社」と刻まれた、2メートルほどの縦長の碑があったが、阪神淡路大震災で、「神」の文字の所で真っ二つに割れてしまった。その碑が、この立札の左に、金属製の枠で囲まれ立っている。文中「左の標柱」というのはこのことである。恐らく今回の大震災のすさまじさを後代に残すためにわざと割れ目を接着せずにおいたものではないかと思われる。
石碑(上記立札の文中にある「日野資枝がよまれた和歌」)
「宮つくる 田蓑の嶋の 神垣を いのればやがて まもりますらし 日野資枝御詠 阪神淡路大震災復興記念 平成十二年七月吉日」
石碑
「佃漁民ゆかりの地」
 左側面に「昭和三十九年三月 大阪市建立」とあり、右側面には「佃島は古来漁業において名があり、・・・」などの由来が刻まれている。
詳細
石碑
「雨による田蓑の 島をけふゆけば なにはかくれぬ ものにぞありける  紀貫之」
立札
「  謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ 奉公に出て、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちに、はからずも路上で巡り合いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。妻は夫婦の縁は貧富などによって遮ぎられるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。 淀川支流の佃は川岸に沿って昔芦が群生していた所で、謡曲「芦刈」の舞台とした面影はないが、田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。  謡曲史跡保存会  」

石碑
「謡曲 芦刈ゆかりの地  平成二年吉日」
立札
「 田蓑神社由緒
御祭神 表筒之男命 底筒之男命
    中筒之男命 神功皇后
貞観十一年(八六九年)九月十五日鎮座 田蓑神社という
寛保元年(一七四一年)九月住吉神社と改名し 明治元年(一八六八年)に田蓑神社となる
  住吉の四柱
住吉大神は昔日向の橘の小門の憶原というところにお出ましになりました大神で伊邪那岐大神のお子様が表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命の三柱でございます 伊勢神宮の天照皇大神の御兄神に当れる神様です 神功皇后が三韓征討の時皇后みずから住吉三神を守り神と奉り進まれ遂に三韓の王等を降伏国におもどりに成る途中この田蓑嶋に立ちよられ勝ち戦を祝われ三神を奉られ 後に神功皇后も加わり四柱となる これを住吉四柱の大神という 時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀されている
 境内社 御祭神
   徳川家康公 金毘羅宮(大物主大神)
   天照皇大神猿田彦命事代王大神 大国主大神
   応神天皇、少彦名大神、菅原道真公(七重之社)
   宇賀御魂神(稲生社)
  昭和六十二年十月吉日  」

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