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私の日記



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2003年5月20日(火) 延命治療

 母が肺炎をおこして入院したのは今月の3日。憲法記念日の日だった。祝日が続いて、主治医が決まったのは連休明けの6日。肺炎はかなり進行していた。祝日のため主治医が決まらなかった3日間、どのような治療が行なわれていたのか疑わしい。主治医は、「今日からはきつい薬にします」と言った。だから「大丈夫でしょう」とまでは言わなかった。「なにせお歳ですから」としきりに言う。歳が歳だけに、医者の方でもはっきりと治るという保証が出来ないらしい。「延命治療について家族で相談しておいてください」とまで言われた。一度付けた延命装置は植物状態になったからと言って、途中で外すことは出来ない。たとえ家族から懇願されようと、途中で外せば死期を早めることになる。今の日本の法律では殺人罪に問われることにもなる。だからどうするかを今のうちに決めておいてほしいらしい。
 姪は「おばあちゃんには長生きしてほしいけれど、おばあちゃん生きていても苦しんでるかもしれんから、おばあちゃんに苦しいかどうか聞いてから決めてほしい」と言う。聞いてから決めてほしいと言っても、母は痴呆状態にある。真意を得るのが難しい。姉は「たとえ植物人間の状態でもいいから、生きていてほしい」と言う。今はそういう気持でも、今の医療の技術では、植物状態でも、10年、20年と生き続けることだってありうる。植物状態が数カ月続いただけでも、介護に疲れて「お願いだから、お母さん、もう死んでください」という気持になるだろう。そうなっても、延命装置を外すことができないとすれば、きっとその時後悔するだろう。植物状態でも生きていたいというのが母の真の意志なら、自分の母だから、最後の親孝行として、この先どれだけ費用がかかろうと、母の希望通りにしてあげたい。だが、子どもには迷惑をかけたくないと、常日頃から言っていた母だから、母はそんなことまで望んではいないだろう。植物人間の状態でも生きていてほしいと言うのは、本人のためというよりも、家族のたんなる気休めのためだと思う。
 母は85歳という高齢だ。もっと若ければ、植物状態でも一縷の望みをかけてということも考えられるが、今までの経過を見たら、たとえ回復したところで、総体としては、今以上によくなるということは期待できない。僅かでも会話ができ、意志の疎通ができる状態なら、どんなに費用がかかろうと、いつまでもいつまでも生き続けて欲しいが、母が既に植物状態になっていて、「延命治療をしますか」と問われれば、「もう結構です。自然に死なせてください」というのが家族で話し合った結論だ。

2003年5月19日(月) 火災予防作文「特選」

 全国火災予防運動に出品した私の作文が、「特選」に選ばれた時の表彰状と原稿が出てきたので記録しておく。

           表彰状
     特選
        大阪市立佃小学校六年一組
                    □□□□
      あなたが全国火災予防
      運動にあたって出品された
      作文は火災予防に最も
      効果があったのでここに
      賞品を贈り表彰します
        昭和三十三年十二月二日
       大阪市西淀川消防署長
             消防司令長 □□□□


(お断り)下記がその時に書いた原稿だが、下書きのため文法上の間違い等、不備な点が多々ある。

           防火の心構え
                  六年一組
                       □□□□
 ぼくのおじいさんは、昔は「火消し」といって、今の消防団員で、良く働き町の功労者として今も福井県坂井郡丸岡町霞ケ城のふもとに、石碑が建っています。夏休みに帰るたびにぼくは山へ登って石碑のおじいさんを見ます。ぼくの知らないおじいさんですが、石碑を見ているとぼくのからだのうちに勇気が湧くような気がします。
 昔は火が見えたら鐘をならしていたそうです。そのたたき方で遠い近いを知り、又受持区域だったら一番早くかけつける責任があったとのことです。玄関にはいつも火事の時着ていく法被という上の服と、ズボン、くつ、足にまくきゃはん、帽子、提灯、バケツ等をつるして平素から備えてあって、くらやみでも手早く身につけて走られる用意がしてあったそうです。ぼくはまといを持ったおじいさんの姿をいつも思いうかべます。
 大阪のぼくの家では、台所の水道の下にあるバケツの水をぼくや弟が外から帰って手や足をあらうのにくみだして水を少しにしておくのを、お父さんやお母さんに見つかると「いっぱいにしておきなさい」と、注意されます。ぼくは今では大きくなったので弟が使いっぱなしにしておくと気をつけていっぱいにしておきます。庭には、水そうをおいてフナや金魚を入れてあります。口やかましく火を大切にといって見たりくんれんして見ても、いざというときの水や砂を、手近な所に用意してなかったら火はだんだん大きくなり手におえなくなって消すことができません。小さい火の間に消すよう、一秒間でも大切な時間です。留守でないときに火を出して大きくなり消防署のおじさんにお手伝いしてもらうのは火を早く見つけなかったか、手近に防火の用意がしてなかったのだと思います。大きい会社や自動車等に、消火器が用意してあるのは大変よいことだと思います。燃えやすいぼくらの家に防火の用意のしてある所は、ほとんどないといってもよい。戦争のときは家々に大きなおけに水を入れて防火用水と書いて置いたそうですが、今でも、それぐらいの準備はした方が火災の被害を少なくする上で必要なことだと思います。

2003年5月18日(日) 諸行無常

 私の住むマンションの最上階から眺める景色は爽快だ。目が休まる。この地は、佃島 の丁度突端、三角州に当る。川はここで両脇に分岐して、左の尼崎側を左門殿川、右側を神崎川という。川べりは護岸工事が施されていて、緑道も整備されている。
 昔はこの西淀川区とすぐ隣の尼崎一帯は、公害の町と言われ、空気汚染に加えて、川の汚染もひどかった。紫色の油が浮かんでいて、日本一汚い川だと言われたこともある。とても生き物の住める環境ではなかった。今では川べりで水鳥が二、三羽、羽根を休めている姿さえ見ることができる。
 このマンションが建つずっと以前は遠浅になっていた。川べりまで行くことができ、子供の頃、土左衛門(水死体のこと)が時々岸に打ち上げられていて、ムシロをかけられてはいるが手足の見えるそれを、近くまで寄って恐る恐る眺めていた記憶がある。今では歩いていても、コンクリート造りの高い堤防が邪魔をして川面を見ることは出来ない。
 兵庫県と大阪府の境に当るこの左門殿川を渡って5〜10分歩くと「杭瀬市場」がある。一部はスーパー形式の店になっているが、いまだに「市場」の風情が残っている。市場独特のお客さんを呼び込む活気のある声が、あちらからもこちらからも聞こえてくる。お昼時に行くと、店の奥さんが店頭で座って昼食をしている姿を見かけることもある。そんな気さくな下町情緒あふれた町だ。最近は「市場」というものが珍しくなったせいか、年の瀬風景として大晦日の日など、テレビで紹介されたりする。昔は近くにコンビニやスーパーというものはなかったから、この市場に買物に行くのが母の日課だった。
 国道2号線沿いにあるこの市場の出入口の前で、私たちキョウダイは「乳母車」(当時の乳母車は竹で作られていて、四角い形をしていて小さい子ども二人ぐらいなら十分入る大きなものだった)の中で、母が買物を終えて戻ってくるのを不安な気持で待っていた。
 この市場を抜けて西の方へ進むと、映画館があった。映画館というところへ入ったのはこの館が初めてのことだ。当時は姉が高校を卒業し就職した年で、姉が初めてもらった給料で、私たちキョウダイを楽しませてあげようと思って連れて行ってくれたところだ。映画館に入る前にはチューインガムを買ってくれた。さらに太鼓焼きも買ってくれた。私は太鼓焼きを食べるために、口に入っているチューインガムを捨てようとしたが、捨てる適当な場所がなかった。チューインガムを噛んでいる同じ口の中に太鼓焼きをほおばって、チューインガムもろとも食べてしまったという記憶がある。チューインガムと太鼓焼きが口の中で交じり合った気持の悪い感触をいまだによく覚えている。当時はまだ幼かったので、ハンカチやティッシュといった気の利いたものを持っていなかったせいか、幼心にも、道端に吐き捨てるということは良くないことと思っていたのか、どうしてそんなことをしたのかはよくわからない。この時に見た映画の題名は石原裕次郎主演の「錆びたナイフ」「明日は明日の風が吹く」「風速40米」のどれかだったと思うが記憶が定かではない。後日談だが、姉が家に帰ると父から「このでべすけが!」と言ってなじられたそうだ。(「でべすけ」とは福井地方の方便では「出(外出)たがり屋さん」という意味。「うちのおっかあ、ほんとにでべすけで、今日もえんわ」というふうに使う。)父は日頃から何かと厳しく、子どもが外へ出かけるのを殊更嫌っていた。事故にあうことを恐れていたと思われるのだが、姉はいまだに自分の気持を理解してくれなかった父に恨みを持っているようだ。何かあるとその時のことを持ち出してくる。
 杭瀬市場の西側には、南北に走る大きな通りがある。この通りにある「小鳥屋」も懐かしいところだ。私が小学生で、兄が中学生のころ、兄が主体だったが、兄弟で伝書鳩を買っていた。多い時には二十羽ほどもいた。その時の一羽が猫に襲われた。首のところの毛がそっくりなくなってしまっていた。その鳩自身は痛くも苦しくもないのか、きょとんとした目つきで突っ立っていたが、兄は小鳥屋へ連れて行った。この小鳥屋は開店して間もない頃だったせいか、あるいは相手が子どもだったせいか、サービスだといって、無料で治療をしてくれた。治療の甲斐もなく、翌日鳩は死んでしまった。
 兄は動物を飼うのが好きだった。十姉妹、セキセイ、キンカチョウ、ウグイス、メジロ、カナリヤ、文鳥、それにモルモットまで飼っていた時がある。ある日「鳩を飼うぐらいなら、鶏でも飼え」と父は言った。鶏なら卵を産んでくれるので、少しは実益があると思って、冗談半分に言ったのではないかと思われる。だが、我家は長屋で、前栽という畳二、三畳ほどの庭があるだけなのに、兄は本当に白色レグホンと名古屋コーチンという名の鶏を数羽買ってきた。この時の父の心境はどのようなものだったかは分からない。最後はあきらめたのか、餌をやったり面倒を見ていた。その甲斐もあってか、鶏も卵を順調に産んでいてくれていたようだ。
 左門殿川を渡ってすぐ右側には、堤防に沿った道が続いている。この道も、私が幼い頃、母と連れ立って歩いたことのある道だ。確か母が仕立物を届けに行く用事だったと思う。懐かしい道だが、記憶も薄れ、堤防自身も新しく護岸工事が施されていて、当時の面影がない。諸行無常を感じた。
*母に関することのみを書こうと思っていたが、今日は家族全員が登場した日記になってしまった。

2003年5月17日(土) 母のこと

「観光土産品専門店 まるべに」「GINSO」「阪神百貨店」「清酒日本盛」「総本家駿河屋」「留袖・訪問着・其他高級呉服一式 杉山呉服店」「御菓子司 福寿堂秀信」「資生堂」「御菓子司 おかめ堂」「御昆布司 小倉屋山本」「松江銘菓 松江藩」
 これは何かというと、包装紙だ。色が豊富で、デザインも様々で、金文字のものや、美しい絵巻物が印刷されているものもある。これらの包装紙は、手芸の材料になるのだ。ある包装紙の裏には、「トウフ 140、セロリ 88、みかん 350、白菜 166、焼肉 740、天プラ 150、ツクリ 350、ハモ 350」と母の書いたメモがある。母は一家の主婦としての任務も果たしながら、家事の合間をぬって手芸をするのを趣味にしていた。衣装箱に入った包装紙は、あの阪神・淡路大震災と、家の建て替えの混乱の中で、とりあえず詰め込んだものだ。年月も経って、ホコリも被って汚くなっている。母の個性とは関係のないものだから捨てた。
 同じ衣装箱から、和裁に関して、ノート1冊と多数のメモが出てきた。そのノートやメモには、詳細な図と説明が書かれている。母自身が書いたもので、母が今日まで生きてきた証だ。これは捨てるわけにはいかない。今日も母の健康が回復することを願いながら、そこに出てくる語を気ままに抜書きしておく。
■道行き■角衿■みやこ衿■変りヘチマ衿■木ボタンは衿によって数が違います■女物コートの寸法■裁ち方■袖口■小袖、■堅衿■身頃■肩山■衿明■ヘラの仕方■小衿■縫い方順序■身頃に衿をはさんで四ツ縫をします■衿は0.6 1分5厘の深さで縫います■ぬれタオルを当てアイロンをかけて縮めます■衿芯は巾1.5 四分に切ります■図の通りヘラを切ります■ハッピ■アツシ■モヂリ袖■アイヌ人は今でも衣服として着ています■千代田袴■和洋両用のねんねこ半てん■四つ身袷羽織■ボタンホールの作り方■穴の大きさはボタンの直径の〇・二、三センチ加えたものにします■五布鏡仕立掛布団■四布鏡仕立掛布団■敷布団■綿の入れ方■綿は十八枚から二十五枚位迄入れます■縫い上がった布団は裏返して縫目を外に出し引返し口を下側にして平らに据えます■袖の色々=小振袖、小紋、中振袖、成人式、大振袖、打掛■筒袖、平袖、長袖■おどり針、流れ針■二重縫、つまみ縫、半返し、伏せ縫、耳ぐけ、三つ折りぐけ、本ぐけ、まつりぐけ、千鳥がけ、一目落し、二目落し、三目落し、重ねつぎ、結びつぎ■和服の色々=1.襦袢 肌・長 2.着物 うちかけ・振り袖・とめ袖・訪問着・一重の着物・袷着物・綿入 3.羽織 袷・一重・茶羽織・バテ・甚平 4.コート 一重・袷 5.帯 丸帯・半巾帯・中屋帯・名古屋・文化 6.ねんねこ・オンブバテ・亀の甲 7.袴 女・男 8.夜具 敷布団・上布団■ジャバラ留、カンヌキ留■兵児帯■基礎縫い 玉どめ=手の先に巻いて引く、糸こき=縫い合わせた所の糸をよくしごく事、半返し縫い=一針すくってその一針の1/2を後にもどし前に進む方法・・・■女袴、材料、あや、セル、モス■裁ち方、五布裁、四布半裁、四布裁■女袴仕上り標準寸法■後布 標付け、前布 標付け■縫い方の順序■行燈袴・・・

2003年5月16日(金) 大野川緑陰道路

 朝、書留郵便物が届いているので本局まで取りに行った。本局は自宅から徒歩20〜30分の、国道2号線沿いにある。国道2号線は、車がひっきりなしに通り、騒音が途絶えることがない。帰り道、この国道2号線からすぐ左に折れると、区民の憩いの場として親しまれている「大野川緑陰道路」に出くわす。ここに入れば車の騒音は聞こえてこない。
 この「大野川緑陰道路」は、約3.8Kmで、幅員は19〜47mある。端から端まで、途切れることもない並木が、多いところでは4列になって続いている。中央の部分は自転車専用道路で青い色、両端が歩行者専用道路で茶色というように、はっきりと色分けされているから、茶色の歩行者専用道路を歩いている限り、車や自転車のことを気にしなくていい。途中、ちょっと外れたところには公園もあって、4、50代の女性6人がキャッチボールをしていた。どこかのソフトボールの同好会にでも入っていて、試合のための練習でもしていたのだろう。大野川緑陰道路はこの地域の広域避難場所ともなっている。
 この道路はもとは川だった。西淀川区の中心部を横断していて、古くから舟運、利水、治水などで欠かせない存在だったが、地下水のくみ上げ等で地盤が沈下し、河川としての機能も低下、汚濁による悪臭も激しくなって、昭和45年度〜昭和47年度にかけて埋め立てられた。その跡地利用としてできたものだ。
 退職してから、自転車を買って遠乗りでもしようかと思っていたが、自転車や車だと、ついつい見逃したり、通り過ぎるだけになってしまう。ゆっくりと歩くのがいい。その都度立ち止まって、間近に自然に接することが出来る。高木約1万本、低木約12万本の100種類にも及ぶ樹木があって、葉が生い茂っている。木々の匂いが新鮮だ。ゆっくり歩いていると、清々しい気分になる。わざわざ遠いところへ行かなくても、近いところにも心休まる場所があるのだ。私の横を、四十代から六十代のおじさん、おばさんたちがランニング姿で、早足に駆けていく。手ぶらの人もいれば、リュックを背負っている人もいる。大野川緑陰道路は、健康づくりの場としても親しまれている。
 少し歩いては立ち止まり、木の幹に付けられた名札に書かれた木の名前をメモする。メモを取っていると、鳩が二十数羽と、雀もちらほら、餌をくれるのではと思って、私の足下まで集まってきた。
 下に、その時に取ったメモを記しておく。右側はあとで私が調べて書いたものだ。
■あきにれ(ニレ科)・・・秋楡。落葉高木。葉は楕円形。
■かんつばき・・・寒椿。ツバキの園芸品種の一。低木で枝と葉に毛がある。11〜1月頃開花。
■くすのき(クスノキ科)・・・楠。常緑高木。葉は卵形。全体に芳香があり、樟脳を採る。材は器具材とする。
■けやき(ニレ科)・・・欅。落葉大高木。防風林や庭木として栽植する。材は堅く、木目が美しいので、建材・家具材などに用いる。
■しらかし(ブナ科)・・・白樫。常緑高木。
■そめいよしの・・・染井吉野。サクラの一種。幕末の頃、江戸染井の植木屋から売り出されたのでこの名がある。
■とうかえで(カエデ科)・・・唐楓。落葉小高木。中国原産。
■なんきんはぜ(トウダイグサ科)・・・南京櫨。落葉高木。中国原産。種子から蝋、葉から染料をとり、材は家具・器具とする。漢方では利尿剤に用いる。
■にしきぎ(ニシキギ科)・・・錦木。落葉低木。
■はりえんじゅ(マメ科)・・・針槐。落葉高木。
■ひいらぎ(モクセイ科)・・・柊。常緑小高木。枝葉は節分行事に用いる。
■まてばしい(ブナ科)・・・まてば椎。常緑高木。街路樹や防風林とする。材は器具・建築用。
■もくせい(モクセイ科)・・・木犀。常緑小高木。
■やえざくら・・・八重桜。栽培園芸品種の一。
■やぶつばき・・・薮椿。
■やまもも(ヤマモモ科)・・・山桃。常緑高木。樹皮は茶褐色系の染料に用いる。

2003年5月14日(水) ぼけ封じ観音霊場

 阪神百貨店の仏具売り場で「打敷(うちしき)」を買った。打敷とは仏壇の前卓を飾る三角形の刺繍のある布で、もともとは、お釈迦様がお説教をなさる時、地面にじかにお座りになっているのを見た弟子が、あまりにもったいないことだと言って、お釈迦様のお座りになる所に美しい布や花を敷き、飾り付けたのがいわれだ。お釈迦様(御本尊)の座布団のようなものだ。お香、お花、お灯明をのせる台の下に敷いて飾るので、一種のテーブルクロスと言ってもいい。 打敷を買うのは、母にもしもののことが起こった時を考えてのことだが、前の日記に書いたように、準備万端整えておけば、かえって母は長生きしてくれるのではないかという、私なりの祈願を込めての行動だ。母にもしものことがあれば、私は生きる目的の一つを失うことになる。

 帰りに、母の健康の回復の祈願と、母のぼけ封じのために、大阪市北区にある「太融寺」に参詣した。太融寺は弘仁12年(821年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建された寺で、ぼけ封じ観音霊場第七番にあたる。
 少子化時代にあって、特にぼけ老人の問題が深刻になってきた。このような時代背景のもとに「ぼけ封じ観音霊場」が各地で発足している。ぼけ封じ観音さまをお祀りするお寺が、近畿では下記の通り十ある。これを「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」という。
  ぼけ封じ近畿十楽観音霊場
   @京都、観音寺「今熊野観音」
   A京都、千本釈迦堂 大報恩寺
   B宇治、慈尊院
   C大津、正法寺
   D信楽、玉桂寺
   E茨木、総持寺
   F大阪、太融寺
   G神戸、大龍寺
   H但馬、七寶寺
   I丹波、常瀧寺

太融寺内名所(一部)
■淀の方墓・・・元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃した淀の方の遺骨が祀られている。淀の方は豊臣秀吉の側室で、浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。浅井氏の滅後、秀吉に養われ、天正17年淀城に入る。大坂夏の陣により、子の秀頼と共に自刃した。
■近代日本政党政治発祥の地・・・明治11年板垣退助をはじめ、全国の有志が大阪に集り民権運動を起こした。この運動は愛国社(後の自由党)となり、明治13年3月17日第4回愛国社大会、明治17年10月29日自由党解党大会がこの寺で開かれた。この寺は、近代日本政党政治発祥の地でもある。

2003年5月13日(火) 大和田住吉神社

 朝10時に歯医者に行き、歯型をとった。歯医者通いはもう1、2回で終わるだろう。次は目医者に行く予定だ。目も在職中から異常があったのだが、仕事にかまけて行く機会を逸していた。今は医者にかかるだけの時間が十分ある。もう若くはないのだから、健康には注意しなければならない。
 歯医者を出ると近くの食堂で早めの昼食(=遅めの朝食)をし、この間頼んでおいた写真が出来上がっているはずなので駅前まで出た。最寄の駅は阪神電車の「千船」だが、この駅から歩いて5〜10分ほどのところに大和田住吉神社がある。今日はそこまで足を運んだ。神社に入ってすぐ右側に万葉の歌碑がある。
  浜清よく 浦なつかしき 神代より 千船の泊る 大和田の浦(万葉集 詠み人しらず)
 この歌碑から大和田の地は、万葉の時代にすでに文人の間に知られていたことが分かる。「千船」という地名はこの歌にちなんでつけられたものと言われている。他に義経の判官松の碑があった。
 神社や寺には必ずと言っていいほど、土があり、木があり、草があり、大木が茂っている。真夏でも木陰に入れば涼しくて、いつも静かで、心が休まる。じっと佇んでいるだけで、人生の煩わしいことのすべてを忘れさせてくれる。
 夜は実家の掃除、片付けごとをした。
 母は昔の人間で、物の不足した時代に育ったせいか、ものを捨てようとしない。不要と思われるものが家の中のあっちこっちに詰め込まれている。どこに何があるか分かるように、整然と整理してあればいいのだが、「捨てるのはもったいない」と言って雑然としまい込んだものだ。「ごみ」と思われるものも沢山ある。
 1年ほど前の母は、多少の痴呆状態にあったとはいえ、私よりもしっかりした面もあった。私が仕事から帰るといつも家の中は真っ暗で、布団の中で寝ていた。お昼はテレビのお笑い番組をよく見て楽しんでいたようだ。自由な時間があれば、家の中の整理でもすればいいと思われるのだが、当時はしきりに足が痛い、引きつる、腰が痛いとか言っていた。母の腰はずっと以前から折れ曲がっていたし、医者にもかかっていた。頭の方はしっかりしていても、本当に家の中の掃除や片付けごとをする体力も、気力もなかったのだと思う。
 母は痴呆状態にあった父を、子どもには迷惑をかけたくないと言って、最後の最後まで面倒を見てきた。夫の面倒を見るのは妻の責務であると信じていたようだ。父が死んでからの母の楽しみといえば、テレビのお笑い番組を見ることだった。そんな母が今、痴呆状態で、肺炎をおこし、入院している。今度は子どもの私たちが、母の面倒を見るのが道理だというのに。もう1年早く退職していれば、自由な時間があって、母のそばにいながら、片付けごとを共にし、親孝行の一つも出来たのにと思うと、悔やまれてならない。
 押入れの中は母の和裁道具や布切れ、華道の道具、母が作った手芸品で一杯だ。立体的な紙細工は、ガラスのビンに入っていたり、ダンボールの中に無造作に詰め込まれていたり、ビニールの袋で包んだりしたものもある。ホコリも被って、始末に負えない。御殿まりは無数にある。未完成のものも沢山ある。作り方の説明のメモも所々にはさまれている。狭い家だから捨てないと片付かない。
 母の今の病状から、もう二度と母自身が見るということはないと思われるが、これらは母の生きてきた証だ。母が生きている間は捨てるわけにはいかない。絶対に捨てることはできない。絶対に捨ててはならないのである。先日買ってきた「ハンディワイパー」でホコリをとるだけにとどめた。
 最後に、これまでの母の愛に感謝し、その愛に報いることが出来なかった自分を反省し、母の健康の回復を願いながら、下に大和田住吉神社の掲示板にあった句を記しておく。
  ことばの鏡  親を忘るるは易く 親をして 我を忘れしむるは難し 大阪府神社庁

2003年5月12日(月) 母のこと

 腕と肩、首筋の痛みが治まらない。私には薬の効き目はないようだ。今日も実家の掃除、書類の整理をした。母が保管していた紙箱がある。その中には、母自身が書いたメモ、母の写った写真、その他母に関する資料が入っている。
■母のメモ(主として和裁・華道の教師としての履歴が書いてある。)
昭和12年・・・・・・・上阪
昭和32年・・・・・・・西淀川区野里中村綜合センターにて10年間
昭和33年・・・・・・・千船病院にて10年間
昭和35年7月 4日・・「現代生花」指導教授の免許取得(三種生三級教授)
             学校法人池坊学園短期大学・華道文化研究所
昭和36年・・・・・・・青年会 寺にて3年間奉仕
昭和37年・・・・・・・西淀川佃五丁目大阪ゴムにて
昭和37年7月 4日・・「現代生花」指導教授の免許取得(三種生二級教授)
            「現代立華」指導教授の免許取得(二級助教授)
             学校法人池坊学園短期大学・華道文化研究所
昭和37年7月・・・・・「総華監正教授職二級」免許取得
             華道家元 池坊 専永
昭和40年・・・・・・・野田文化服装学園
昭和43年1月 1日・・学校法人野田文化服装学院和裁科教師に採用される。
             勤務時間及び日数
              毎週 昼間部 3日 月・水・金(10:00〜16:00)
                 夜間部 6日 月〜土(18:00〜21:00)
昭和43年3月24日・・「和裁科三級」教員免許取得
             大阪府学校法人洋裁学校協会
             和裁科教員検定委員会
昭和47年・・・・・・・河野プラスチックにて 和裁
            佃小学校にて 和裁・手芸
昭和48年・・・・・・・秋の交通安全デーに「御殿まりづくり」の講師
(注1)この件については、母の名前が出ている新聞記事の切抜きがあった。母が55歳の時のものである。朝日新聞か毎日新聞の市内版、昭和48年9月中旬頃の記事と思われる。下に抜粋しておく。

運転手におくる御殿まりづくり 安全へ母親の願いこめて -佃小のPTA-

 赤、白、黄、緑の色あざやかな糸で花模様を仕上げた小さな”御殿まり”。それにぶらさげた「交通安全」と書いた札-。西淀川区佃一丁目、佃小学校PTAのお母さんたちがいま、学校近くの国道2号を通る自動車の運転手さんにプレゼントして交通安全を訴えようと、運転席に飾るきれいな御殿まりのマスコットをせっせとつくっている。
 同校では、校下を通る国道2号や第二阪神国道を越えて通学しなければならない子どもが多く、子どもを事故から守るのが最大の課題。PTAに交通安全委員会を置き、横断歩道橋設置運動をしたり、五年前からは秋の交通安全運動期間に国道の車へ児童の書いた「運転手さんへ」の手紙を渡して安全運転を訴えてきた。おかげで登下校中の事故はこの五年間、ゼロ。今年は児童の手紙といっしょに御殿まりのマスコットを贈ることにした。
 手芸の得意な同区佃□丁目、□□□□□さん(五五)が先生になって九月上旬、お母さんたちに二回の講習をした。ボロ布をまるめて直径三〜五センチの玉をつくり白糸をきつくぐるぐる巻きにして固いまりをつくる。その上に色とりどりの糸で花模様を仕上げる。初心者だと一個に一日もかかったが、七十人のお母さんが参加して約二百個つくる。二十一日も同校に集まっ・・・」


(注2)阪神・淡路大震災時の実体験を題材にして作った私の短編小説
『御殿毬』をお読みいただければ幸いです。

昭和52年9月・・・・・区民ホールで華道教室の講師 53年3月まで
(注3)この件については「大阪市政だより NO.349 昭和52年7月」に掲載されているのを記しておく。

区民ホールで茶・華道教室


 炭は湯の沸くように置き、花はその花のように活け、夏は涼しく、冬は暖かに・・・。
 コミュニティ協会が初心者向けのお茶とお花の教室を企画しました。
 この機会に新しいお友達を増やし温かい人間関係を深めつつ、とかく忘れがちな”心”をゆっくり見つめなおしてみませんか。

<華道>
・期間・・・52年9月〜53年3月、月3回(第1,2,3の水曜日)、18回で終了。
・組分けと講師
  A組 午前10時〜正午 池坊 □□□□(←私の母の雅号)先生
  B組 午後2時〜4時  遠州流 □□□□□先生>
  C組 午後5時30分〜7時30分 未生流(庵家) □□□□□先生
・定員・・・各組25名
・会費・・・月1500円(別に花材代月額1500円)
・申し込みと問合せ
  西淀川区民ホール茶華道教室係


昭和52年9月・・・・・区民ホール 花・手芸 56年3月まで
昭和55年・・・・・・・佃会館にて
昭和56年・・・・・・・交通安全
■母の名刺 大阪府学校法人和裁科教員 池坊流 総華監 □□□□□(照月)

 母は変形性腰椎症、骨粗しょう症、狭心症で、痴呆も日増しに進行している。先日は肺炎にかかり、現在入院中である。この日記は母のメモ、母に関する資料から、母の健康の回復を願いながら、その一部を書き留めたものである。

2003年5月11日(日) 葬儀の準備?

 我家伝来の宗教は浄土真宗だが、私自身は無宗教で、なんの信仰心もない。とはいえ、肉親に不幸があれば、お世話にならなければならない。「テレビ・家具はもちろん、ふきにくかったスキマや、こまごました所のホコリも簡単にキレイにでき」る「ハンディワイパー」なるものを買ってきて、仏壇、仏具の掃除をした。灯籠、位牌、おりん、マッチ消、線香差、高月、花立、火立、香炉など、一つ一つ丁寧にホコリをとってから、仏壇の前で正座した。
 この仏壇は、いつかの日記で書いたように、あの阪神・淡路大震災で家を建て替えることになった時、約100万円をかけて「洗い」に出したものだ。薄暗い仏壇の中が金色に輝いている。父が死んでから8年目の日が、もうすぐやってくる。マッチを擦って線香に火を点した。父やご先祖さまに申し訳なく、恥ずかしいことだが、こうして仏壇の前で正座し、線香に火を点すのは8年ぶりのことだ。線香の匂いを嗅いで、厳粛で、神々しい気分になってきた。なんの信仰心もないとは言ったが、この仏壇は、私の命のある限り、父のため、母のため、ご先祖さまのため、ひいては自分自身の心の拠り所として、私が守っていかなければならないものであることを肝に銘じた。

2003年5月7日(水) 自由な時間

 朝10時、歯医者に行く。救いようもない歯1本を抜く。何の抵抗もなく抜け、血も出なかった。次回は入れ歯の歯型をとる予定だ。  昼からは写真屋に行った。父が死んだのは8年前の5月28日。葬儀の時に使った父の顔写真が部屋にかかっているが、ぼやけてしまった。写真の背景を消したりで6〜7千円かかるという。こんなことに目が届いたり、歯医者に行くのが面倒と思わないのも、自由な時間があってのことだ。

2003年5月6日(火) 病院へ

 10日ほど前から左の腕、肩、首筋が痛んで、他のことが手につかない。痛みの原因ははっきりしている。パソコンの使いすぎだ。在職中も一度経験したことがある。あの時は右腕だった。治るのに1ヵ月ほどかかった。医者には行かなかった。
 普段から、風邪を引いたぐらいでは医者には行かない。風邪薬なども飲んだことはない。薬の効果に期待していないからだ。日常ささいな病気や怪我程度なら、時が経てば自然と治るものと信じている。事実今までそうだった。
 今回もそう信じていたが、在職中と違って、医者にかかるだけの時間的ゆとりもあったし、その方面の状況も知りたかったので、病院へ行った。こんな程度のことで医者にかかるのは初めてのことだ。
 連休明けのせいで、院内は異常に混雑していた。急ぐ用事もないので、見物でもするつもりで、のんびりとした気分で、順番の来るのを待っていた。こんな程度のことでも、腕、肩、首あたりのレントゲンを10枚以上も撮って問診。薬局で3種類の飲み薬と湿布薬をもらって帰った(各々2週間分)。これまでも自然治癒能力は信じても、薬の効果は信じていない。薬というものを飲んではみたが、どれほどの効果があるものかは、しばらく続けてみないと分からない。ただ、湿布をすると患部が冷やされて、一時的には痛みが軽くなった。
 医療費の高騰がいわれている。自然治癒能力も信じて、安易に医者や薬に頼ることのないように心掛けることが大切だと反省した。
 薬局で「お薬手帳」というものを初めてもらった。お薬手帳は、「あなたの病気に合わせて処方されたお薬について記録しておくための手帳」で、「手帳を病院や薬局に見せることで、お薬の重複や相互作用を避けることができます。」「利用方法」「医療機関のみなさまへ」「お薬の飲み方」「薬の副作用歴」「食べ物アレルギー歴」「常用の大衆薬・健康食品」などの注意書きや記入欄、今回もらった薬の名前と量の記載がある。ちょっと前までは「お薬手帳」というものはなかった。医者任せにせず、自分が今飲んでいる薬がどんなものかがはっきり分かっていいことだと思う。
 今回薬局からもらった薬の名前とその効能・効果を記しておく。(「お薬について」のプリントより)
■ロキソニン錠・・・炎症による痛みや腫れを和らげたり、熱をさげたりする薬。
■ムコスタ錠・・・胃の粘膜を修復する薬。
■ミオナール錠・・・筋肉の緊張をやわらげる薬。
■アドフィード・・・炎症による痛みや腫れを和らげ、各種の関節痛、筋肉痛を治療する薬。

2003年5月3日(土) 母入院

 母が肺炎をおこして、緊急入院した。直前まで食欲もあり元気だったのに、85歳の高齢だから心配だ。いざという時のための、色々な準備をし、親類縁者がいつ訪れても、恥ずかしくないようにと、実家の掃除もした。縁起でもないことだけれど、準備万端整えておけば、かえって長生きしてくれるのではないかという気持からだ。

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