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私の日記



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2003年5月27日(火) 大阪湾突堤

 今日は大阪湾の突堤まで歩いて行くことにした。コースはおおよそ次の通り。
  自宅(13時30分出発)→千北橋→出来島大橋→川北小学校→大阪リバーサイドゴルフ場→西淀ゴルフプラザ→中島新橋→大阪湾広域臨海環境整備センター(フェニックス大阪)
 どうしてそんなところまで行く気になったのかというと、そこは小学生の頃、父に連れられて魚釣りによく行ったところだからだ。兄や弟も一緒だったし、母も同伴することもあった。その突堤で母が作ったおにぎりを食べたことを記憶している。岸壁には大きな岩があって、下を覗くと、フナムシが気持の悪いほど沢山いて、這いまわっていた。私たちキョウダイははぜを釣っていたが、父は主としてぼらを釣るのが目的だった。母は釣りをすることはなく、平らな岩を選んでそこに座り、編物のようなことをしていた。
 堤防へ出るまでの道を歩いていると、緑の草が生えているのが見える。その場所は道の端っこの狭い側溝沿いだが、ずっと続いている。その緑と草の匂いを鼻腔に感じながらゆっくり歩いていると、幼い頃のことを思い出す。大人になってからは、ゆっくりと花をめでたり、土や草の匂いを嗅いだりする機会がなかった。幼い頃は草の中に分け入り、キリギリスやカマキリを捕まえたり、トカゲや蛇を見つけた時は敵のように石を投げつけたりして遊んでいた。草の匂いを嗅いで子供の頃を思い出すのは、その頃に嗅いだ土や草の匂いが記憶として残っているからだろう。
 歩くのは良い。一人で歩くのはなお良い。いにしえを思い、感慨に耽ることが出来るからだ。今になってはどうしようもないことだが、あの頃に戻って、もう一度人生をやりなおしたいという気持も起こってくる。
 この西淀川区は中小の町工場が沢山あったが、今では場所によっては、注意してみないと見つからない。近代的な団地、マンションが沢山建って、住宅地に変わって来ている。緑もあちこちに見られるようになった。行政も行き届いて町並みが綺麗だ。「住宅・都市整備公団」「都市基盤整備公団」と看板のある団地に入った。人影がないので、誰も住んでいないのかと思って、裏へ回ると洗濯物が干してあった。自転車に子どもを乗せたお母さん方が集まって立ち話をしている。
 最近は一般の道路も堤防も、車道と歩道がはっきり分かれているから、ゆったりとした気分で歩くことが出来る。堤防は5mほどの高い壁だから、川面を見ながら歩けないのが残念だが、堤防が途切れる橋のあるところまで行くと、そこからは川面を見渡すことが出来る。ボートや工事船が浮かんでいるのを見ることも出来るし、さわやかな風にあたることも出来る。川の水はまだまだ汚いけれども、水鳥の姿もあちこちに見かけるので、魚も住めるほどに綺麗になっているのだろう。
 最初に出くわした「千北橋」の近くの堤防の壁面に、畳1枚ほどの大きさの写真(ビニールのような材質に印刷されている)が4枚、並べて貼り付けてあった。残念だが、写真を載せることができないので、そこに書かれていた文字の部分だけを記しておく。

   水辺の風景 神崎川(矢倉緑地付近)の野鳥
    ホシハジロ<冬> 守りましょう 水辺に遊ぶ鳥たちを
   水辺の風景 神崎川(矢倉緑地付近)の野鳥 チュウシャクシギ<秋>
   水辺の風景。神崎川(矢倉緑地付近)の鴨
   水辺の風景。神崎川(矢倉緑地付近)の葦


「なにわ自転車道」という標識があって、それを見ると、この千北橋から次の出来島大橋、あの西淀川公害訴訟で悪名高い国道43号線までは600mあることが分かる。
 堤防を歩いている途中、「乗合船・渡船 出来島渡船部 ミタス商事株式会社」「出来島渡船 のりば」という看板のある階段があった。堤防に登ってその乗り場の跡を見てみたかったが、階段は錆びたままで、金網の柵もしてあり「あぶない のぼらないこと 大阪府」という警告文もあった。渡船はなくなっても、このように、いつまでも看板が放置されている。こういうのを見ると、昔のことが偲ばれていいのだが、世の無常を感じて悲しくなる。
 出来島大橋に突き当たるすぐ手前に「なにわ自転車道終点」という大きな縦長の赤い看板がある。

      自転車道利用のみなさまへ
   この道路は、自転車歩行者専用道路です。
   バイクや自動車は通行できません。
   1.河川の増水時や夜間の利用は危険です。
   2.ゴミや廃棄物を捨てないでください。
   3.自転車利用者は歩行者に気をつけて走行してください。

      文字は白。続いてこの下に英文で同じ内容が書かれている。
      この看板の隣には地図の看板もある。

「出来島大橋」は堤防から見上げるような高い位置にあって、そこからこの下の堤防に下りる坂道がある。歩いて行くにも危険なほど急な坂道だ。「自転車はおりてとおって下さい」という掲示があるにもかかわらず、若いお母さんが、子どもを自転車の前に乗せたまま、私の目の前を、猛スピードで、落ちていくように下っていった。
 ここはあの悪名高い国道43号線が走っている。車の騒音、排気ガスがひどくて、「西淀川公害訴訟」で全国的に有名になったところだ。大型のトラックがひっきりなしに通る。高架下に有料駐車場があって、その前で靴の紐を緩めた。靴擦れがしてきたからだ。頭上の道路を走り去るトラックの音が地鳴りのように響いてくる。
「川北小学校」がある近辺は堤防から離れた位置にある。下町風情の民家が密集している。ここが川に囲まれた島だということを一時忘れさせるところだ。
 再び堤防沿いに歩く。堤防に平行して大きな車道がある。そこには大型の車がひっきりなしに通るが、堤防を歩いているのは私だけだ。やがて左手にはゴルフの練習場が見えてくる。このあたりに来ると、足下にゴミが捨てられているのが目立ってくる。ここから先は決して推薦出来るコースではない。捨てられているものの種類といい、量といい、範囲といい、これほどのものを見たことがない。ものの見事というのはこのような情景を言うのだろう。社会の汚い面、人間の恥部といったものも見ておきたいという方には取って置きの場所だ。
 自動車、冷蔵庫、家具、マットレス、布団、各種の電化製品、タイヤ、新聞紙、雑誌、茶碗、お皿、人形、ぼろぎれ、シャツ、パンツ、上着、空き缶、空き瓶、煙草の吸殻、ビニールの袋、その他ありとあらゆる生活廃棄物が捨てられている。捨てられていないものと言えば「棺桶」「お骨」ぐらいと言ってもいい。そんなゴミが、この堤防沿いに延々と続いているのだ。この堤防に平行して大きな車道が走っている。その車道と堤防までの間には草木が茂っているので、このような情景は車道からは見えない。こうして私のように歩いてみないと気付くことはない。
 左手には産業廃棄物処理場という建物がある。大阪湾広域臨海環境整備センター(フェニックス大阪)があって、産業廃棄物の処理などを扱っている。もともとこのあたりはゴミ捨て場だと思えば悲観することもないが、この堤防沿いが公共のゴミ捨て場になっているわけではなかろう。事実「空缶・空瓶・ゴミ等をすてないで下さい。大阪工業団地協会」という看板もあった。大阪湾の突堤近くだし、こんなところだから、真昼間でもここを歩いているのは私一人だけだ。不気味なところで、夜になると尚更人の目に触れないので、車でこのようなゴミを捨てに来る輩がいるらしい。
 魚釣りに来ていたのはこんなところではなかったはずだ。40年以上も前のことだから、記憶が確かでない。一つ道を間違えるとこんな汚いところもある。それが西淀川だ。魚釣りに来ていたのは向かいの岸だったのかもしれない。
 二度と足を運びたくないところだが、途中に外島保養院記念碑があったのでご紹介しておく。

 帰りも歩きたかったが、運動靴が私の足のサイズに合わなかったとみえ、靴擦れがひどくなってきたのでバスを利用した。(17時30分帰宅)。バスに乗っていた時間は20分もなかったと思うので、今日は3時間以上歩いたことになる。
 堤防沿いに尽きることなく捨てられていたゴミの印象が強烈で、不快な気分が残った一日だった。

2003年5月25日(日) 母回復

 前に見舞った時は眉間に皺を寄せ、酸素マスクもし、苦しそうな顔をして眠っていた。今日は明らかに安らかな寝顔だったので、腕を触って起こした。耳もよく聞こえ、「来てくれたんか」と一言いった。入院前の頃よりももっとよくなっている感じだ。 点滴をしていたが今は自分で食事もとれるようになっている。「家へ帰ってからゆっくり食べたい。ここでは食べられない。」とも言う。ここにいれば食べたいものがあっても自由に食べさせてもらえない。不満、ストレスが溜まっていたのであろう。点滴のチューブをはずし、看護婦さんを困らせていた。「点滴のチューブをはずすので治療が出来ない。ここの病院は治療をするところなので、引き取っていただきたい」というようなことを言われた時もある。  小便もチューブを入れていたが、私の介添えでベットのそばのポータブルトイレですることも出来た。足もしっかりしていて 歩くことも出来るという。2時間いて、特別の異常も感じられず、安心して帰った。この先こんなことが何回も繰り返されて、そのうちどうしょうもない状況がやってくるのであろうけれど、ひとまずは安心した。

2003年5月24日(土) 栄枯盛衰、世は無常

 今日は母が以前に勤めていた「□□屋」へ行った。私の自宅からは徒歩30分ほどかかる。国道2号線沿いの「野里交差点」のすぐ近くにある。3階建てのこじんまりとしたビルで、その2階か3階で、母は昭和32年から10年間、和裁やお花を教えていた。私が小・中・高校生の頃で、母はまだ45歳前後の歳だった。私がここを訪れるのは40年ぶりということになる。その建物の2階部分の端に「カネボウ化粧品 □□屋」という小さな看板が道路側に突き出ていたので私が記憶していたところに間違いはなかった。
 錆びたシャッターが閉まったままだ。2階、3階の表の窓は透明のガラス張りになっているから、中までその一部が見える。電灯は消されていて、人が居るという気配は全くなかった。コンクリートの壁はあちらこちらに亀裂が走り、黒く汚れたままだ。明らかに廃屋で、朽ちるに任せて放置してあるという状況だ。このビルは両隣の建物よりも小さいので、なおさらみすぼらしく、惨めな姿に見える。取り壊してもいいようなものだが、売りに出されているという風でもない。取り壊すにしても費用のいることだ。ここの主人はどうなったのか。母はここで40年前、溌剌と働いていた。今の母の容体と重ねて思うと、栄枯盛衰、世の無常を感じて、心の中が寂しくなった。
 「野里交差点」を渡って「喫茶とお呑み処」という看板のある店に入って食事をした。席はカウンターに6人、一般席に10人ほどしか座れない小さな店だ。私はおばさんに焼肉定職とオレンジジュースを注文した。私の座っている席のすぐ隣には調理場があって、おばさんが早速何かを刻んでいる。やがて、ジュウジュウと肉の焼ける音も聞こえてきた。料理が出来上がるまで15分以上も待たされた。取り立てて急ぐ用事もなかったので、不満はなかった。本来、料理というものは、お客様の注文を聞いてから取りかかるもので、この程度の時間がかかってあたりまえだ。現代人は急ぎすぎる。何かに煽られている。何か大切なものを失っている。
 腹ごしらえが済んだので、すぐ先の「淀川大橋」を渡ることにした。子どもの頃はこの橋で魚釣りをしたことがある。この橋を渡り切るには10分以上の時間がかかる。橋の途中で立ち止まって見渡すと、遠くを平行して走っている阪神電車の車両がおもちゃのように見えた。下をサルベージ船や小型のボートが通り過ぎる。左遠方には「梅田スカイビル」も見える。「梅田スカイビル」は親孝行のため、弟の誘いで、腰の曲がった母を連れて食事をしたことのあるところだ。橋を渡ってすぐの信号を左折し、堤防沿いを歩くと眼下に「淀川河川公園」が見える。土曜日の昼下がりとあって、小・中学生がサッカーをしていた。堤防の高いところから眺めると、彼らを含めて100人ほどの人がいた。 振り返って見ると、木造の「小屋」があった。小屋の正面には「鷺洲水防用具庫 淀川左岸水防事務組合」とある。小屋の左の方には土嚢が積み上げてあり、近くには下記のような立札があった。「鷺洲水防分団屯所」という小屋もあった。

           お願い
   此土嚢は非常時の災害防止用の物なので、
   関係者以外は持出したり使用したりしてはいけません。
             大阪府福島警察署
             淀川左岸水防事務組合
             鷺洲水防分団

           注 意
   この堤防は大阪市を守る大切な堤防です。
   皆さんにも無論大切な堤防です。
   この用具庫は非常の時の水防に必要な用具を入れてあります。
   個人のもの、又他の団体のものは一切入れておりません。
   この用具庫の入口の扉を破損したり、又無理に中へ這入りますと罰せられます。
             大阪府福島警察署
             淀川左岸水防事務組合
             鷺洲水防分団


 淀川大橋には下記のようなプレートもあったので記録しておく。

   淀川大橋南詰
              淀川陸閘左岸ゲート
         形  式   シェル構造180゜回転式ゲート
         純径間×扉高 24.00m×2.50m
         門  数   1門
         開閉方式   油圧シリンダ式
         扉体自重   31.9ton
         製作年月   平成4年7月
         製   作  日立造船株式会社


   淀川大橋北詰
              朝日 Morning grow
         この壁面は -つよくて、やさしい淀川-
         というテーマに託された”生命”の象徴として
         [太陽と水]をモチーフにデザインしました。
         左岸には夕映えを見ることができます。
                 平成5年3月
                   近畿地方建設局
                   淀川工事事務所


 帰りは先日の日記で紹介した大野川緑陰道路に寄ったので、今日は都合3時間は歩いたことになる。

2003年5月23日(金) 母のメモより

 この日記は私の私的な日記だから、私の好きなように書く。よって、今日も母のことについて書く。

母のメモより(講義の原稿。排紙に鉛筆書き。書かれた年月日不明)
        美しい和服姿を作る寸法のきめ方
 御多忙のところ、お出掛け下さいまして有難う御座います。女性として一番誰でものぞんでいる事。歩く姿は花の様にありたい気持ですね。着付け教室ブームの現在、皆々様にはお習得に一生懸命の事とお察し申し上げますが、何と言いましても、和服も洋服と同じ事が言えます。自分の体型に合った寸法でなければなりません。合った寸法で仕立てていますか? 自信のある方は手を上げてみて下さい。
 御自分の体に合った寸法で縫った着物を着るという事が着付けの第一のポイントだと私は思います。着付けの上手な先生でも体に合わないダブダブ又はせますぎる巾で仕立てた着物を持って行って着せて下さいと言いましても、それは無理というものです。既製品をお求めになるにしても、お仕立てに出されるにしましても、是非必要なのは、自分に合った美しい姿を作る寸法を知っておかねばなりません。着やすい、着心地の良い寸法を知っておくという事ですね。ですから今日は自分の体に合った寸法という題でお話をしてみたいと思います。
(以下に詳細な説明文があるが、標題のみ記す。)
   一、標準寸法と体型
   二、和服に必要な寸法の計り方
   三、着物丈と着丈
   四、身巾の割り出し寸法
   五、衿肩明の衿付の標
   六、衿のつけ込み(繰り越し)
   七、袖丈
   八、正しい袖付寸法
   九、身八ツ口
   十、形の良い羽織丈
  十一、男物巾の割り出し方

母の折り紙
 五人ばやし雛・・・古新聞に包まれていて、「区民ホールで教えた」という母のメモがある。一見細かく切り刻んだ紙くずのように見えるが、色紙を細かく折ったもので、数限りなくある。
 男雛、女雛・・・「福祉センターにて教えた 61年2月 4回」という母のメモがある。

他に見かけたもの
 「すばらしいおりがみ」株式会社サンリオ、1977年発行の色刷り小型本。
  まきがい、にまいがい、かに、つばめ、おひなさま、オットセイ、こいのぼり、くじら、いるか、シンデレラのくつ、サンタクロース、ふうせん、うさぎ、とんがりぼうし、ねずみ、電話、とり、かたつむりなどの折り方が詳細な図で説明されている。

2003年5月22日(木) 御殿まり、母のメモ

御殿まり
 御殿まりが、あちこちにある。完成したもの、未完成のもの、大きいものから小さいものまで、色々ある。今日は完成品のものだけを集めて、一つの衣装ケースに収めた。約50。未完成のものが同じほどある。まだまだ出てくると思われる。完成品の中には母が書いた作り方のメモが入っている。次はそのメモの中から、標題のみを書き出したものだ。
「サテンかがりの梅」「三角かがり」「六角交差の星」「変り麻の葉模様」「五角と三角のねじり」「星かがりのねじり梅」「山形合わせ」「菱と四角の交差」「五角の上に桜満開」「白ねじり梅」「紡錘型かがりの七宝」「しょうぶ」「紫露草」「ねじり四つ葉」「サッカーのボール」「ひまわり」「鉄仙くずし」「星型のねじり籠目」「親子麻」・・・

母のメモなど
 整理中に、母のメモがあちらからもこちらからも出てくる。紙の大きさも排紙を使っているのでまちまちだ。そのメモは雑然としていて、取り留めのないものだが、母に関するものなら全てこの日記に記録として留めて置きたいというのが今の気持だ。
 排紙に「和裁資料」と書いてゴムバンドで留めた束がある。中身を見るのは別の機会にすることにした。「和裁資料」と書かれた排紙の表の上隅には「懐中電灯電池ある」とか、その裏には次のようなメモが書かれている。これは一家の主婦としてのメモだろう。
 一、牛乳2箱、二、煉乳 2、三、パン 5、四、充実野菜 12、五、さんどいっち 3、六、電池2ケ、七、弁当 2

 古い手帳をちぎった用紙に次のようなメモもあった。
 おはよう グッ モーニング
 おやすみなさい グッナイト
 ちょっと待って ジャスタモーメント
 ごきげんいかがですか ハウ アーユー
 おかけなさい ドウ シッダウン
 さよなら グッバイ
 又お目にかかりましょう シーユーレイター
 おさしつかえなければ イフ ユードンマインド
 どうかしたんですか ホワッツ ウロング
 なにかご用ですか ホワット ケアナイドウ
 何時ですか ホワッタイム イジット
 そんな時間ですか イザット ザ タイム
 どっちの道 フィッチ ウェイ
 どのくらい(価格) ハウ マッチ
 もし。やあ。 ハロー
 あぶない。気を付けなさい。マインド
 お願いします。 プリーズ
 ゼミナール
  大学で教授などの指導のもとで学生が共同で研究すること。
 アイディアマン
  新しい技術・方法、製品などの着想や計画に並はずれた能力をもった人。
 アンダーウェア
  下着やシャツ類の総称。
 アウトウェア
  スーツ、カーディガン、セータなど上着の総称。
 イニシアル
  頭文字、特に姓名の頭文字を意味する。頭文字を装飾化してブローチにしたものがイニシアルブローチ。
 イヤドロップ
  耳にさげる耳飾り
 イメージアップ
  見かけをよくして印象をひき立たせること。
 インサーション
  新聞などの差込広告のこと。
 キャリア
  経歴、履歴、試合経験
 キャンペーン
  組織的な大衆運動、政治運動、宣伝活動、選挙運動。

*母は和裁や華道、手芸については詳しいが、英語は苦手だ。いつかアルファベットの大文字と小文字を書いてくれと頼まれたので、大きな字で書いて渡したことがある。その時に書いたものがどこからか出てくるかもしれない。
*母のメモは何の価値もないかもしれないが、今はまだ決して捨てはしない。

2003年5月21日(水) 母のこと

 この日記で、母のことについて書いている限り、母はいつまでも生き続けてくれるような気がするので、今日も母のことについて書く。

母がいただいた感謝状

           感 謝 状
             佃老人クラブ役員
                 □□□□□殿
      あなたは多年にわたり
      積極的に区内の交通安全
      と事故防止に尽されその
      功績はまことに大きいので
      ここに深く感謝の意を表
      します
       昭和五十六年十一月三日
         大阪府西淀川警察署長
              警視 □□□□

*母のメモには、昭和48年の秋の交通安全デーに、小学校のPTAのお母さん方を相手に「御殿まりづくり」の講師をつとめたことが書かれている。PTAのお母さん方が、近くの国道を走る車の運転手さんに、手作りの「御殿まり」をプレゼントし、交通安全を訴えた。母は講師としてだけでなく、みんなと一緒になって道路に出て、御殿まりを配った。肩に交通安全のたすきをかけ、御殿まりを配っている時の母の写真が残っている。少なくとも8年間、このような奉仕につとめたことに対していただいたものだと思う。

心を活ける

           心を活ける
       戦後、日本人の生活は、
       昔とまったく一変しました。
       住いにしても、生活様式
       にしても、美に対する感覚
       にしても、変わってきています。
       お花についても、床の間から
       窓ぎわや玄関へとその場
       所を変え、家具調度
       とマッチした活け方がとり
       入れられるようになりましたが
       一つ変わらないのは住む人の心
       を活けるということではな
       いでしょうか。
               池坊流  □□照月

*奉書紙に筆で書かれたもの。書いた時期は不明。母は通信教育で書道の講座を受けていたことがあるので、そのころに書かれたものではないかと思っている。「□□照月」というのは私の母の雅号である。

盛花の基本型式
           盛花の基本型式
      直体
          [図1] [図2] [図3]
      斜体
          [図1] [図2] [図3]
      垂体
          [図1] [図2] [図3]


          (注)「図」と書いたところに、基本の型が簡単に各3種ずつ描かれている。

*「直体」「斜体」「垂体」という文字は父が筆で書いたものだ。どうしてここで父の書いた文字が出てくるのか。父は自分では我流だと言っていたが達筆だから、母が書いてくれと父に頼んだのか、父の方から書いてやろうと母に言ったのか。父は日頃から、私たち子どもの前では、母に対して優しいことばや態度を見せたことがなかった。和裁、華道、手芸など、母のしていることを好ましく思っていなかった。そんな父だが、子どものいないところでは母に対して、こんな優しい心もあったのかと、微笑ましく思った。
 この「盛花の基本型式」は「電化のことなら何でもお気軽にご相談下さい 大王デンキ」と印刷された大きなカレンダーの裏に描かれていた。母は日常のメモは勿論のこと、和裁や華道、手芸に関する説明書も、新聞に挟まれてくる広告の裏の白い部分を利用して書いていた。そんな一見くず紙のような「書類」が、まだまだ沢山眠っている。

8年ぶり

 何度もこの日記に書いたが、私の実家は阪神・淡路大震災のため建て替えたのだが、細々としたものがいまだにダンボール箱に詰め込んだままになっている。今日は、百貨店での華道展示会時に撮った母の写真、母の和裁・華道の免許状、母の作った手芸品、父の俳画を取り出し、額に入れて壁に掲げた。これで8年ぶりにやっと、元のところにおさまったということだ。
 御殿まりが沢山あったが、よく見てみると半分近くは未完成品だった。このまま未完成のままで終わるであろうと思うと悲しい。
 特別大きな御殿まりが見つかった。直径20センチほどある。丁寧にビニールの袋に包まれていて、ガラスのビンの中に入っていた。これは完成品だ。このまま残しておこうとも考えたが、このまま眠らしておくのも惜しい。外の空気にさらして汚すのも惜しいが、天井から吊るすことにした。

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