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2007年 5月22日(火) 小学校同窓会の案内が届いたが・・・

 先日、小学校の同窓会の案内が郵便で届いた。場所は、ある中華レストランで、「会費 男性6,000円、女性 5,000円」とある。男性のほうが1,000円高いというべきか、女性のほうが1,000円安いというべきか。男女平等がやかましく叫ばれている時代にあって、どうして男女によって金額が異なるのだろう。その理由が知りたいのだが、聞くのも面倒だから、想像してみた。少しでも女性の方々に出席してほしいという意図か、女性に比べて男性のほうが飲み食いの量が多いからか。これ以外に理由が浮かんでこない。そこに私が納得できる理由があるのだろうか。その理由を聞くまでもなく、むかついてきたので、私は欠席することに決めた。

2007年 5月18日(金) 雑草・害虫・害獣

 昔、アパートの1階に住んでいた時の話である。玄関前には排水溝があって、春が来ると、その排水溝に沿って「雑草」が生えた。隣り近所の方々は、各々自分の玄関前に生えた「雑草」を、きれいに刈り取っておられた。私の玄関前の、幅一間半だけが刈り残されて、青々と茂っていた。見方によれば、ちょっと奇妙な風景に見えたであろう。
 正直に言って、当時の私は「ずぼら」をしていた、と言ってもいいのだが、「雑草」だからといって、安易に刈り取ってしまうことに抵抗を感じていた、というのも偽らざる気持ちだった。植物だって生き物。「雑草」だって生き物。精一杯生きている。「雑草」だから汚いというものでもない。そもそも「雑草」という言い方も、人間の勝手な価値判断だけで言っているのである。小さいけれども、時期が来ればきれいな花も咲かせる。人間にとってさほど害がないのならば、自然のままにしておきたい。誰にでも、心の中にはそんな素朴で、優しい気持ちがあるのではないだろうか。そんな感情を大切にしたいものだ。
 山道を歩いていると、たくさんの虫に出会う。うっかり踏みつけそうになるが、本能的に避ける。知らずに踏みつけている場合の方が、圧倒的に多いだろうが、気が付いたからには、避ける。人間には、ちっぽけな虫一匹の命でも「殺してはいけない」という気持ちが、本能的に備わっているのだろう。そう思いたい。
 やっかいなことには、人間にとってその存在が「有害」とされた場合である。山道を歩いていて、たまに、サル、イノシシ、シカ、などの動物に出会う(クマにはまだ出会ったことがない)。彼らは人間に意図的に迷惑をかけようと行動しているわけではない。彼らも生きている。生きていくために必要な限度で行動しているのである。山道で、「害獣の駆除のためワナを仕掛けているので注意」という看板を見かけることがある。人間にとって「有害」だから「駆除」するという発想に抵抗があるが、きれい事ではすまされない事情もあろう。人間側の都合で一方的に、弱い立場にある動物たちを「駆除」するという発想ではなく、最近は人間との「共存共栄」「住み分け」などといわれるようになったのは良いことだ。
 この4月から町会の班長になった。日常的には、回覧板を回すのが主な仕事の一つになっている。今、手元に「ごぎぶり駆除のお知らせ」という、町会長と町会女性部長名での文書がある。みんなで協力をして、ごぎぶり団子を作り、一斉にごぎぶりを「駆除」しようというのである。「ごぎぶり」は、その存在が人間にとって「有害」とされるから「駆除」の対象にされる。その姿が人間の価値判断からして、決して美しいとは見えない。玉虫のように輝き、病原菌を媒介しないという、人間側の価値判断で「清潔で、美しい」存在だったら、ごぎぶりの運命も変わっていたかもしれない。

2007年 5月16日(水) 最近、腹が立つこと多し。

 こんな人に腹が立つ。
@通勤・通学車内で食事をする人(あえて「人」を「女」とは言わない)
 老若男女に限らず、飲料水の「ラッパ飲み」すら、そのしている姿を見せつけられるのは不快だ。だから私は、「通勤・通学車内」での食事はもちろんのこと、飲料水の「ラッパ飲み」もしない(ように努めている)。(座席の形態・座席の設備から、車内での飲食を前提にしている場合、例えば旅行中の「長距離列車内」は別)
 そもそも、食べることは罪なことである。飲んだり食ったりする行為は、排泄行為と同じく汚いものと思っている私には、飲食中の行為を見ると、汚い排泄中の行為をイメージしてしまうのである。だから私は、人前で食事をしたり、他人が食事をしている姿を見るのが嫌いなのだ。私のこのホームページでも、これまで飲食の話はほとんどしてこなかったし、これからも原則としてしないつもりだ。
A通勤・通学車内で化粧をする人(あえて「人」を「女」とは言わない)
 もともと化粧は他人をだますためにするもの。舞台裏を見せてどうする。車内は自分の個室ではない。理屈はどうあれ、調査によると不快に感じている人が多いのだから。催し物の予行演習がテレビで放送されることがあるが、これも見方によったら奇妙なことだ。舞台裏を見てみたい気もするが、舞台裏を見せつけられると興ざめする。
B通勤・通学車内で、大声で話したり、大声で笑ったり、奇声をあげる人(あえて「人」を「女高生」とは言わない)
 車内放送が聞こえないので困る。その土地に詳しくない乗客(旅行者など)にとっては、車内放送の情報は重要なのである。携帯電話については、「車内での携帯電話のご利用はご遠慮ください。また、優先座席の近くでは携帯電話の電源をお切りください」などと、しきりに放送しているが、携帯電話に限らず、「車内での会話はご遠慮ください」とでも放送してほしいものだ。私が学生時代の頃の車内は、静かだったような気がする。「車内では静かにする」というのは「常識」ではないか。(「静かにする」というのは「車内」に限らず、公共の場所一般で言えることだ。)煙草や携帯電話の害については、しつこく言われるが、公共の場所での話し声の害も、注目してほしいものだ。
 特に、若者のマナーの乱れに腹が立つ。昔はおばさんがうるさかったが(オバタリアンと言われた)、最近は女高生がうるさい。
 若者の行為に腹が立つのは、わが人生が終末に近付いた証拠かもしれない。

2007年 5月15日(火) 「男性専用車両」を設けよ!

 女性専用車両は痴漢対策として設けられたのだろうが、ぜひ「男性専用車両」も設けてほしい。
@化粧中の女(あえて「女」と言う)の姿を見せつけられるのは不快だ。
A食い、「ラッパ飲み」をする女(あえて「女」と言う)の姿を見せつけられるのは不快だ。
B女(あえて「女」と言う)の強い香水の臭いをかがされるのは不快だ。
C女高生(あえて「女高生」と言う)の大声で話す声や、大声で笑う声や、奇声を聞かされるのは不快だ。

2007年 5月10日(木) 大阪歴史博物館へ。

 大阪歴史博物館
(常設展示:「都市おおさかの歩み」、特別展:脳!―内なる不思議の世界へ―、特集展示:博物館資料でみる船場の歴史)

〔特別展:脳!―内なる不思議の世界へ―〕
 「天才といわれる人の脳も、解剖学的にみると、普通の人の脳となんら変わりはない。どんなことにも興味をもって真剣にとりくむことが、脳へ適切な刺激をあたえ、その結果、脳の神経細胞のネットワークを強くする。」そうです。「大人になってからでも脳は変化する」ので、もう年だからといって勉強をあきらめることもなさそうですね。

2007年 5月 4日(金) 実力が付いてきた?

 以前に一度登った山に、最近再び登ってみたら、気楽に登れた。これは実力が身に付いてきたということだろう。最近は、1日1コースでは物足らず、1日に複数のコースを歩くようにしている。

2007年 5月 3日(木) 山高きがゆえに貴からず。

山は高いから良いと限ったものではない。また最近、近場の低山にも良い道があることに気が付いた。一つの山に登るにも、幾通りもの道がある。近場の山でも、まだまだ未踏の道がある。足下を見直す必要を感じている。

2007年 5月 2日(水) 物言い

 写真を撮ったりメモをしながら山道を歩いていたら、森林を管理している人か、農家の人か、軽トラックに乗った若者が、窓から顔を出して、「・・・をされている方ですか?」と聞いてきた。私は「単なるハイカーです」と答えると、「単なるハイカーですか」と私の物言いを繰り返した。私はここでむかついた。私は自分をへりくだって、「単なるハイカーです」と言ったのである。この場合、若者は「単なる」の言葉を除いて、「ハイカーの方ですか」と答えるべきだった。小さなことかもしれないが、自分の発した言葉がどこで相手に不快感を与えているかわからないから、物言いには互いに注意しましょうね。

2007年 5月 1日(火) 山歩きの道は「自然道」がいい。

山歩きの道には色々ある。コンクリートやアスファルトで舗装された道、丸太の階段、コンクリート製の階段、自然石を使った階段。人の手が加わった道は安全に配慮しているから安心して歩ける。だが、足の動きが単調になるから、かえって疲れる。山歩きの道はやっぱり「自然道」がいい。自然道はザレ場、ガレ場、岩場など、変化に富んでいる。ちょっと油断すると転倒、捻挫や骨折などの危険がある。それだけに、慎重に歩いている。安全な足の下ろし場所を、一歩一歩瞬間的に考えながら歩いているわけだから、適度な緊張感を脳に与えている。自然道の山歩きは、脚力と脳の老化防止に大いに役立っていると思う。

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