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2007年 8月26日(日) 「巡礼」と「山歩き」

「巡礼」とは、その宗教に固有の聖地・霊場を巡拝することであり、昔は旅そのものが難行であったため、それは「修行」であって、宗教上の果たすべき「義務」でもあった。今では健康祈願やたんなる観光旅行というのが一般的であるから、本人は「修行」のつもりでいても、普通の服装で、毎日のように出かけていれば、「結構なご身分でございますね」と恨まれることであろう。恨まれないためにも、昔ながらの手甲、脚絆に白装束、菅笠をかぶり、金剛杖を持つ巡礼の正装で出かけることである。「私は宗教上の義務を果たすため、修行に出ている巡礼でございます」という顔をしていれば、「よくぞお参りくださいました」と、むしろねぎらいの言葉の一つでもかけていただけるであろう。
 西国三十三カ所は修験場など山岳信仰で栄えた山中の古刹が多く、約三分の一が山上にある。昔から山は聖域であり、信仰の対象になってきたが、私には信仰心はない。だから、神社仏閣は山歩きのついでに「観光地」の一つとして訪れるにすぎない。信仰心がなくても山は私の心を癒してくれる。山の頂上を踏むことにより、この上ない達成感を味わわせてくれる。山を歩き、山に登ることは、私にとっては苦しい修行の「巡礼」とも言えるが、気楽な観光旅行という一面もあることは否定できない。だから、常に後ろめたい気持ちでいる。巡礼の正装で身を固め、「山歩きは私にとっての、肉体と心のリハビリなのです」「山歩きは私の『巡礼』です」と言えば、少しは後ろめたい気持ちがやわらぐだろうか。

2007年 8月24日(金) あなたは何に心を癒されますか。

 私は自然(人間の手が加わっていないもの)に心を癒される。たとえば自然のままの山や海や川である。だから私は心の癒しのために山歩きをする。ほとんどの心の病は山歩きで治ると主張する人もいる。自然には本来、心を癒してくれる何かがある。
 人間は時代を遡れば猿だった。そう、人間は森の中で住んでいたのだ。もっと遡れば、水の中に住む生物だった。だから水中にもぐると心が癒される(水中は母親の胎内にいたときの状況に似ているからともいわれる)。
 丸太階段の山道はご免だ。心が癒されるのは、人間の手が加わっていない自然のガレ場、ザレ場を歩く時だ。コンクリートやアスファルトで整地された登山道はもってのほかだ。山の上に神社があって、登山道が同時に参詣道になっている場合、一般の参詣者(お年寄りや観光客)のためを思って、丸太階段や石の階段で歩きやすく手が加えられているのを見かける。一般の参詣者のことを考えてのことだから仕方がないとしても、そうでもない山道を、単に歩きやすくするために手を加えるのは邪道だ。
 私は人間の手が加わっていないものを見たり、触ったりすることにより心が癒される。人間のにおいを感じさせるものに癒されることはない。
 コンクリートでかためられた堤防が殺風景だというので、近くの学校の美術部の生徒が、壁画を描いている。私は反対である。 堤防が、雨の滴の跡で黒ずんでいようが、あるがままの姿のほうが自然で気持ちがよい。人工的に美しく見せようとしても「人間の手が加わったもの」は、私には美しく見えない。自然のままがいい。自然に優る美はない。人間という生き物の存在、人間社会を忘れさせてくれるものを見たり、触れたりすることにより、私の心は癒されるのである。

2007年 8月 8日(水) 善人でいようとするから、心の病に冒されるのだ!

 人間は本来、善人なのか、悪人なのか。本来悪人だとしても、善人であろうと努める気持ちは貴い。だからといって、完璧な善人になろうなどと思うと、きっと心の病に冒される。

2007年 8月 7日(火) 人はなんのために「巡礼」するのか。

 昔の巡礼は主に修行が目的だったそうだ。今では健康祈願、観光など、人によって様々であろう。私は週に1回、多いときには1日おきに山歩きをしている。山歩きは私の「巡礼」である。過去の自分の言動に対する反省と、現在の自分を見つめなおし、自分や家族の健康を祈願する「巡礼」である。

2007年 8月 3日(金) いつまでも個性が尊重される生活を送りたい。

 老人ホームに入ると、みんなと一緒の、あらかじめ決められた日課で1日が過ぎる。自分はしたくない「お遊戯」のようなことだってさせられる。一人一人の個性を尊重していたら、施設の人員が足りなくなるからだろう。いつまでも個性が尊重される生活を送りたい。そのためにも老人施設にお世話にならないよう、健康の維持に日々努めよう。


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