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2007年 9月16日(日) 「常識」を疑ってみませんか。― @出口調査 A投票率

 政局は混沌とした状況にあり、衆議院の解散が取り沙汰されている。ここで選挙に関して・・・
@出口調査、その必要性について・・・出口調査とは、選挙結果を予測するため、投票を済ませた人から投票所の出口で直接、誰に投票したかとか、どの党に投票したかなど、尋ねて調べることである。主にテレビ局や新聞社などの報道機関が行っている。  数時間待てば確実な結果が得られるというのに、どうしてそんなことが必要なのか。
 出口調査は、国民の側からの、早く知りたいという欲求を受けて、マスコミが視聴率を上げるために行っているのだろうか。一般国民に、そこまで早く知る必要性が、どこにあるのか。早く知って、どうこうしようというわけではなく、たんに「早く知りたい」という人間の本能的な欲望があるに過ぎない。国民はマスコミに安易に踊らされてはいけない。出口調査のために、どの程度の人的、物的経費が費やされているのか。かけた経費に対してその効果はどうなんだろう。大きな無駄がそこにあるのではないかと、一考するのも意義あることではないかと思う。
 実は、どこかで早く知りたがっている人がいる。一分一秒でも早く、最新の情報を入手し、「情報戦争」に勝利したい。一歩でも他人に先んじて「競争社会」を有利に生き抜きたい。現代社会は、いわゆる「生き馬の目を抜く」ような人間達で溢れているのではないか。現代社会では、そんな人間が「仕事が出来る奴」「頭が切れる優秀な奴」としてもてはやされているのではないか。そうだとしたら現代社会は恐怖の社会だ。
A投票率、棄権について・・・日本国では男女ともに、除外事例を除いて、満20歳以上の日本国民であれば平等に選挙権が与えられている。投票した一票の価値の重みは、全く平等である。大所高所から、国のため、国民全体のためにと、熟慮した結果としての一票も、ただ自分の私利私欲のためだけで投票した一票も、価値は同じである。その質においては大いに差があるのに、その質の差は一切考慮されない。真剣に考えて投票しても一票、軽い気持ちで投票しても一票。ただ「一票」として数に加えられるだけである。
 ここでも、あえて常識はずれの主張をしておく。選挙において、投票率の高低は選挙そのものの良し悪しとは関係がない。たんに棄権者を少なくして、投票率を高めようとすることにはあまり意味がない。一票一票の投票の質が問題だ。投票率が低くても、一票一票の質がよければいいのである。一票一票の質を高めるためには何が必要か。一人一人の「教育」である。 哲学者プラトンは、哲人王を統治者とする独裁政治体制の一種、「哲人政治」を思索した。「哲人王」は「教育」によって生み出される。 だから「教育」は国家の最重要課題であり、それは国民の権利であると共に、義務でもあるとされているのだ。

2007年 9月15日(土) 「常識」を疑ってみませんか。― ゴミのポイ捨てについて。

■ゴミのポイ捨てについて・・・道を歩いていて、いつも気にかかることがある。それはゴミのポイ捨てが多いということである。あまりに多いので、拾う気もしない。「落ちているゴミを拾おうとしない」と非難する人がいる。あえてここで「常識」に反した主張をしておきたい。落ちているゴミを拾わないからといって、非難される理屈はない。悪いのはあくまでも捨てた奴である。このような観点がとても重要ななことである。非難の矛先は常に悪い奴に向けられるべきである。「落ちているゴミを拾おうとしない人も悪い」と言うと、本来向けるべき矛先を曲げてしまって、まんまと犯人を逃してしまうようなものである。「ポイ捨てをする奴」と「ポイ捨てのゴミを拾おうとしない人」とを同列において、非難してはいけない。「ポイ捨てのゴミ」は拾わなくてもよいと言っているわけではない。それは別の問題だと言っているのだ。
「悪い奴」は「捨てる奴」であって、「拾わない人」ではない。責任の追及の矛先は「捨てる悪い奴」に向けられるべきである。同様に、 「だまされるほうも悪い」のではなく「だますほうが悪い」のである。ここでも常識はずれの主張をすれば、「だまされたほうには何ら責任はない」のである。だますほうが悪いのであって、あくまでもだました本人の責任を追及すべきである。本来の悪人を決して逃してはならない。
 家の鍵をかけ忘れたために泥棒に入られた。悪いのは鍵をかけ忘れた人か、泥棒か。現代社会においては、「泥棒も悪いが、鍵をかけ忘れた人も悪い」と言って、泥棒と同じほどの非難にさらされる。本来、鍵をかけ忘れた人には何ら責任はない。悪いのは「泥棒」である。責任の追及は泥棒に向けられるべきである。悪いのが泥棒だとしたら、このような悪い泥棒をなくすためには何が必要か。「教育」である。

2007年 9月14日(金) 人生の良し悪しを問うのは結果論。経過が大切。

 私は人生を生きていく上で「健康であること」が最も大切なことだと思っている。その健康を維持していくために、山歩きをしている。山歩きは健康に良い。特に私には「心の健康」のために大いに役立っている。
 ところが、心配していることがある。私は多いときには毎日のように山歩きをしている。健康のためと言いながら「過ぎたるは及ばざるがごとし」とならないか。「心の健康」という観点からは問題なく役立っていると思っているが、「肉体の健康」に悪い影響を及ぼしていないかということである。若い頃、スポーツ選手だった人が、意外にも若くして亡くなっている事例がある。「肉体を鍛える」ことは「肉体を酷使する」ことと重なるところがある。良いことだと思ってしていることが、必ずしも良い結果を生むとは限らない。そのような観点からは注意する必要があると思っている。
 私の山歩きは、「過ぎたるは及ばざるがごとし」となるかもしれない。 私がこのまま山歩きを続けて、90歳になり、さらに100歳までも生きられたとしたら、山歩きのためだと言われるだろう。 逆に私が今、急死したとしたら、山歩きのせいだと言われるだろう。良し悪しを問うのは結果論である。
 若いころから、好きな煙草を吸い、好きな酒を飲み、それが原因でガンになって、太く短い人生を終えるのも一つの人生。煙草や酒は一切やらず、食事は腹八分目で、健康には十分留意して、細く長く生きるのも一つの人生。人生を生きる道は多様である。どのように生きようと、どちらが良いかなど決められるものでもない。人生の良し悪しを問うのは結果論である。人生はその経過を大切にしたい。
 山を登るのは辛い。しんどい。どうしてこんなしんどいことをしなければならないのかと思うときもある。だが、たとえ低い山でも、苦労して山頂に立ったときの達成感は何事にも変えられない。私の数少ない至福のときである。私の山歩きが、健康のために真に役立っているのかは、実は私にも分からない。全ては結果論である。良い結果で終わるか、悪い結果で終わるか。そんなことを考えるよりも、日々の経過が楽しければ良いと思っている。

2007年 9月13日(木) 医は仁術なり。

今日、近くの総合病院へ定期健診にいった。病院は、相変わらず混雑している様子であった。院内はコンピューターでシステム化されているので、待合席に設置してあるディスプレイからは、「現在40分遅れで診察しています」というようなテロップが流れていた。
若い医師は、私の話を斜に構えて聞きながら、目や手は、パソコンの端末機のディスプレイに向けられていて、キーボードからの入力に必死である。「一度に言われると入力が出来ないから、ちょっと待ってください」などと制止され、むかつく。必要なことはメモにとり、あとでゆっくり入力すればいいのにと思う。
 昔はまず、医師は患者の目の前に座り、「変わったことはありませんか」と患者に問う。次ぎに「脈をとらせてください」と言って、おもむろに患者の手に触れ、脈をとる。「胸を開けてください」と言って、聴診器を胸にあて、打診もする。今では打診、聴診、触診はなく、問診はあると言っても既述のような状況である。これも忙しさのあらわれなのだろう。患者と真正面で向き合い、患者の訴えをゆっくりと聞くというゆとりもないのである。コンピューターシステムに乗せられて、ことはたんたんと進んでいく。
今は、診断は検診結果のデータが中心である。古い言葉だが「医は仁術なり」と言う言葉を、医業に携わる人たちはあらためて肝に銘じてほしいとも思う。

 

2007年 9月12日(水) 偶然は意外に起こりうるもの。

 偶然は意外に起こりうるものである。先月の23日には、以前に勤めていた職場の人に出会った。出会ったのは全く「偶然」としか言いようがない。そして今日、私のホームページの「掲示板」を開けてみると、今月9日の皆子山の山歩きで、現地のバス停で出会った人から、「偶然、とおきみちのりさんのホームページに辿り着きました」という旨の投稿があった。私はこの方に対して一切、自分のことについて話していなかったのだが。この方が私のホームページに辿り着いたのも、全くの偶然としか言いようがない。

2007年 9月 9日(日) 夏でも涼しく歩けるコース。

 夏(7月・8月)はその暑さのために、山歩きは不適とされている。それでも私の実践から、比較的涼しく気楽に歩けるコースがあるので、この日記(一般)に書き留めておきたい。
@栂ノ尾・高雄から清滝(京都府)・・・渓谷美で知られる清滝川沿いを歩く。
A柳生街道(奈良県)
B赤目四十八滝(奈良県)・・・渓谷沿いに多数の滝がある。
C吉野・宮滝万葉の道(奈良県)
D能勢妙見山 初谷川ハイキングコース(兵庫県・大阪府)・・・沢に沿った道を歩く。
E室生山 龍鎮渓谷(奈良県)
F六甲地獄谷(兵庫県)・・・小滝の連続。幾度もの渡渉。ちょっとスリルな沢歩き。
G皆子山登山道 足尾谷・ツボクリ谷・寺谷 (滋賀県・京都府)・・・渓谷沿いの道や沢を歩く。


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