▼戻 る▼

2007年12月22日(土) 血液検査(LDH、CPK)

 私は山歩きを始める前から、血糖値やコレステロール値が高かった。今も変わらない。いわゆる生活習慣病(糖尿病など)の予備軍にあたるであろう(もしかしたら既に「生活習慣病」にかかっているかもしれない)。
 原因は不規則な生活、特に食生活のそれが影響しているように思う。それで、最近病院で栄養相談を受け、食事制限をしている。
 生活習慣病の予防には、規則正しい生活、適度な運動と適度な食事が大切である。頻繁に山歩きをしているのに、と思われるかもしれないが、運動も、しすぎてはいけない。また、運動が適度でも、食事も適度でなければいけない。昔から「腹八分目」とか「過ぎたるは及ばざるがごとし」というではないか。

  先日、血液検査をした結果、下記の数値が基準値を超えていた。
LDH 244(基準値:106〜211)
CPK 323(基準値: 24〜195)
 担当の若い医者は、その場でこの数値についてはなんら言及することがなかった。私は主として生活習慣病、特に血糖値、糖尿病の関係で相談、検診を受けている。そのためか、担当の若い医者は、血糖値にしか目がいかなかったとみえる。さもなければ、何らかの指摘があるはずだった。医者は私の話を聞きながら、パソコンに入力する作業のほうに必死であった。数値が基準値を超えていることは、私が自分の検査結果を持ち帰り、自宅でていねいにみていて気が付いたのだ。
 早速、インターネットで調べてみると、基準値以上の人に考えられる原因として、「急性肝炎、心筋梗塞、脳血栓、脳梗塞、脳損傷、悪性腫瘍、薬物中毒などがある。」と恐ろしいことが書かれていた。ただ、「激しい運動で上昇することがある。」「基準値は検査方法や測定方法、測定機器、用いる試薬、単位などにより値が異なる。単に数字を見るだけではなく、測定方法や単位なども注意深く確認してください。また、個人個人の生理的変動によってかなり左右される項目もある。少し値が基準値から外れていたからといって神経質にならないで、あくまで健康の目安として考えるとよい。」とも書かれていた。
 検査日前日に何をしていたかを手帳で調べると、実に10時間以上、歩いていた。一日に5時間ほど歩くのは頻繁にあることだが、 10時間は滅多にない。激しい運動をしたことになるのだろう。たとえ医者にたずねても「そのせいでしょう」ということになるだろう。どうせ年明け早々に血液検査をすることになっている。その結果をまてばはっきりすることであろうから今は放置してある。

2007年12月20日(木) 「人体の不思議展」に行く。

 「人体の不思議展 ―からだ=未知なる小宇宙」
主催:人体の不思議展実行委員会
会場:新梅田シティミュージアム
ホームページ:
人体の不思議展

2007年12月 7日(金) ゴミの分別収集について(「はがせるラベル」)。

 私の住む市でも、ゴミの分別収集が進んで、普通ゴミ、資源ゴミ、プラスチックなどに分別した上で、各々決められた日に出すことになっています。例えばビンの場合、本体はガラス製だから資源ゴミに、キャップはプラスチック製だからプラスチックに、ラベルは紙製だから普通ゴミにということになります。ここで問題になるのが、例えばビンに貼られたラベルです。はがそうとしてもきれいにはがせるものではありません。しばらく水につけておくと容易にはがせるようになるのでしょうが、ちょっと面倒です。ビンに貼られたラベルに限らず、分別収集が当然になったからには、商品の生産者側にも、分別しやすい商品づくりを考えてほしいものです。
 今日、コーヒーを飲みながら、コーヒーのビンに貼られたラベルを何気なくながめていたら、そのラベルの左下に小さく「はがせるラベル」と書かれているのに気が付きました。ラベルのすみを少しだけ爪で起こしてみると、難なくきれいはがすことが出来ました。これも一つの技術の進歩なんでしょうね。私が知らないだけで、ほかにも同じような事例があるのかもしれませんが、大変感心させられましたので、ここに会社名と商品名を記しておきたいと思います。発売元:味の素(株)、商品名:MAXIM。

2007年12月 6日(木) ATMでの定期預金の記帳ができない。

 今日、近くの信金のATMへ、自動継続にしている定期預金の記帳のために出かけました。「記帳」のボタンを押し通帳を入れても、機械からは「業務時間内に窓口までお越しください」のアナウンスがあるだけで、記帳ができません。面倒だが、少し足をのばして店まで出向むくことにしました。窓口で「都市銀行ではATMで記帳できるのに、どうしてできないのですか?」と聞いてみました。「システムができないようになっているものですから、申し訳ありません。」という答えでした。全く納得のいかない答えでしたが、窓口ではちゃんと記帳をしていただき、「定期預金を継続していただいてありがとうございます」というお礼の言葉と共に、「粗品」をいただきました。要するに、地域に密着した信金だから、システムとしてお客さんと直接対面する機会を持てるようにということだったんですね。

2007年12月 5日(水) ゴミは持ち帰りましょう。

 最近は公園でも灰皿はなく、ゴミ箱までも撤去されています。「自分の出したゴミは持ち帰りましょう」ということでしょう。それはそれでいいことだと思いますが、ちょっと一言。
 先日、自動販売機で缶コーヒーを買いました。その場で飲んで、さあ空き缶を捨てようとしたのですが、空き缶を入れる「ゴミ箱」がありません。周囲をしばらく丁寧に見渡したのですが、確かにありません。これも「自分の出したゴミは持ち帰りましょう」ということなんでしょうか。もしそうだとしたら、やりすぎです。この場合、業者(店)側に回収の義務があってもおかしくはないと思います。ちょっとむかついたので、これからは自動販売機の近くにゴミ箱(空き缶入れ)がないところでは決して買ってやらないことに決めました。

2007年12月 2日(日) 「常識」を知った上で、あえて「常識」を疑ってみよう。

 あなたは、多数意見が正しいと限ったことではないのに、少数意見だからといって無視され、歯がゆい思いをしたことがありませんか。世の中で争いが絶えないのは、反対の意見に対して、それがたとえ少数者の意見であっても、耳を傾け、理解しようとする姿勢がないからではないでしょうか。
 一家に二台というのもおかしくない車社会になって、細い道路まで車であふれています。昔は自分の家のすぐ前の道路でよく遊んだものです。今では車のほうが優先。「車が通るような道路で遊ぶほうが悪い」という見方が「常識」としてまかりとおっているのではないでしょうか。子供が家の近くで、安全に気楽に遊べる場所がなくなっています。
 交通事故は車を運転していた人以外にも、他人の体を傷つけ、他人の命を奪います。結果は「自己責任」ではかたずけられません。山歩きでの事故は、自分の命を失うことがあっても、他人の体を傷つけたり、他人の命を奪ったりすることはありません(山で遭難した場合、山によっては二次遭難という、多大の迷惑をかけることもあるでしょうが)。運転中に脳卒中でも起こしたらどうなるのでしょう。車は凶器です。ただこれほどまでに普及してしまうと凶器であることを忘れてしまいます。
 車を運転する人が多くをしめてしまうと、車を運転しない人の意見は軽く扱われ、時には無視されてしまいます。日常的に車を運転していて、車の恩恵を受けている人と、そうでない人との間には大きな意識の差があると思います。
 車は凶器であるということは、車社会の「常識」をあらためて疑ってみて分かってくることではないでしょうか。車を運転している人は、「自分だけは大丈夫」という意識で運転しているでしょう。「自分だけは大丈夫」という意識は単独行で山歩きをしている人にもありますが、その危険性はどちらが高いかは言うまでもないことです。
 車優先の社会に慣れてしまって、車の危険性など頭にない。車の便利さゆえに、その及ぼす悪影響まで、深くは考えようともしない。「常識」に頼ると、あらためて考えなおしてみるということがなくなって、思考がそこで停止してしまい、発展がありません。
 いつかの日記で「山で出会った時には、あいさつをする必要はない。お互いに黙って通り過ぎること」というのがマナーだったら良いのにと書いたことがあります。現実の社会の複雑な人間関係から逃れ、痛んだ心の癒しのために、山歩きを楽しんでいる人もいるでしょう。だから、そんな場所がどこかにあってもいいのではないかというような気持ちで書いたものです。煙草の煙を吸いたくないのに吸わされるのは耐えられませんね。そんな場合は「禁煙車」に乗ればいいのです。意見がくいちがった場合、どちらか一方の意見にまとめるというのではなく、いわゆる「棲み分け」ることで解決できる場合もあるのではないかというようなことを模索しています。社会の常識を知った上で、あえて非常識な考えを記してみましたので、「常識的批判」は私の意図するところではありません。
 当時は「女人禁制」だったが、禁制が解かれて女性も自由に出入りが出来るようになった山もあるでしょう。 当時では想像できなかったであろうことが現実化しています。道徳やマナー、常識といったものは時代の進展にともなって、いかようにも変化しうるものです。
「常識」にとらわれたり、惑わされたりせずに、「常識」に疑問をなげかけてみましょう。  今の社会では少数意見であっても、突飛で非常識で「あなたは病気?」と思われかねないような主張でも、本人にとっては真面目に考え深刻に悩み抜いた上での主義・主張であるかもしれません。
この日記で、「非常識」なことをたくさん書いてきましたが、「常識」を知った上で、あえて常識を疑ってみようとするのが、私の意図してきたところですから、「常識的批判」はご容赦ください。

2007年12月 1日(土) 山歩きを始めて3年が経過しました。

 今年も最後の月がやってきました。月日の経過の速さに空しさがよぎります。人生は長いようで、短いものですね。もっと有意義な日々の使い方があったのではないかと、反省しきりです。おそらくどんな生き方をしても、常に反省やら後悔が伴うのが人生なんでしょう。
 山歩きを始めて3年が経過しました。総日数は300日超。週に2日のペースで出かけたということになります。この3年間は、私の人生で最も充実した、最も楽しい日々でした。このような自由な環境を私に与えてくださった方々に感謝しなければなりません。
 石の上にも3年。なにかと3年という期間が一つの区切りとされています。これまで、今でしか出来ないことだからとやってきましたが、頑張りすぎた感じがします。頑張りすぎはかえって健康を害します。もうそろそろ「山」歩き、「山」登り、登「山」はやめ、安全な平地を歩く「ウォーキング」「ハイキング」にしようと思っています。年令のこともあります。誰にも迷惑はかけないようにと、肝に銘じてはきましたが、「山」には危険が一杯です。遭難しても、ほっておいてくれといっても、そうはいかないでしょう。それはわがまま勝手な考えでしょう。登った山は里山・低山ばかりでしたが、私の気持ちには、「極めた」つもりの満足感があります。私のレベルとしては、もうこの程度で十分だろうと思っています。


▼戻 る▼