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2008年 5月21日(水) 菜食のススメ。あなたはこの「映像がとらえた屠殺のシーン」を直視できますか?

 人間は「自然」から何を学ぶか。私は山歩きをしていて、ウサギ、リス、シカ、イノシシ、サルなど、多くの野生動物に出会った。「自然」の中で生きている動物たちはみな、静かに、健気に、謙虚に生きている、と私は思う。彼らに比較して人間は何と勝手で、傲慢な生き方をしていることか。人間は足るを知らなければならない、と私は思う。
菜食のススメ・・・このサイトにある「映像がとらえた屠殺のシーン」は衝撃的です。(このサイト「菜食のススメ」のトップページの左上にある「PHOTO」をクリックするとメニューが出ます。)

2008年 5月20日(火) 宮本武蔵遺文『我れ神仏を尊んで、神仏を恃(たの)まず』

『我れ神仏を尊んで、神仏を恃(たの)まず』・・・「独行道」という剣聖・宮本武蔵の遺文に書き記されている言葉である。その意味は、「神や仏の存在や神聖を否定しないが、神や仏に頼りはしない」ということである。武蔵は一乗寺下り松の決闘の前に八大神社に立ち寄り、今日の戦いの勝利を祈ろうとした。だが、武蔵は神や仏にすがる自分の弱さを悟り、祈る寸前で考え直し、祈願することなく戦いに挑んだと伝えられている。武蔵はまだ21歳という若さ。親鸞は「他力本願」を説いているが、比べてみると興味深いものがある。今日、この武蔵ゆかりの八大神社を訪れた。

2008年 5月11日(日) 通勤電車内で食事をするな!

 タバコを吸うか吸わないかは個人の自由だけれども、吸いたくもない煙を吸わされるのはかなわないから、「喫煙所」で吸っていただきたい。小さな声で話そうが大きな声で話そうが個人の自由だけれども、聞きたくもない声を聞かされるのは苦痛だから、話は「談話室」でしていただきたい。化粧は「化粧室」で。食事は「食堂」で。通勤電車内で食事をするのは、電車内で糞をしていることと変わらない。糞をしている姿を見せ付けられるのは不快だから「便所」の中で食ってほしい。

2008年 5月10日(土) お母さん、私を産んでくれてありがとう。

 お母さん、私を産んでくれてありがとう。海や川や湖、そして新鮮な緑に満ちた山々。そんな自然を見て、素直に「美しい」と感じる生き物として、私を産んでくれたお母さん、ありがとう。ひたすら山頂を目指して歩き、途上で喉の渇きをうるおすとき、何も入っていない、ただ水だけの水だけれども、「ああうまい!」と感じる生き物として、私を産んでくれたお母さん、ありがとう。何かと危険が伴う山歩きだけれども、狭い我家の浴槽につかりながら、今日も無事、下山できたことに胸をなでおろし、緊張から解放された気分に浸っているとき、「ああ生きていて良かった」と感じる。そんな生き物として私を産んでくれたお母さん、ありがとう。

2008年 5月 8日(木) 信仰心のない私だが・・・

 私は信仰心がない。神や仏の力に頼ろうなんて思っていない。だから、心からの信心で、神前で手をたたいたり、仏前で手を合わせたりしたことがない。「お賽銭」だって、ほとんどしたことがない。私にとって、神社仏閣、神像・仏像は、歴史的建造物や文化財として、見学の対象でしかなかった。だから「拝観料」とか「入山料」とか「文化財維持のためご協力をお願いします」とかいった「志納金」などとしてなら、特別の抵抗もなく、払ってきた。ただ最近になって、「お賽銭」をあげることが頻繁になった。信仰心がないと言いながら、一方で自分の幸福を神や仏に願うのは、身勝手なことで、矛盾している。だから私は、自分自身の幸せではなく、自分の母や兄や姉や弟の幸せを願って「お賽銭」をあげている。自分は神や仏を信じないが、私の母や兄や姉や弟は、素直な心の持ち主で、世間並みの信仰心があることだろう。だから私は、私自身の幸せを願っては拝まない。私は、私の母や兄や姉や弟の幸せを願って拝み、「お賽銭」をあげるのだ。これが私なりのこだわりであり、私なりの「屁理屈」なのである。こんな「屁理屈」が神や仏に通用するだろうか。

2008年 5月 7日(水) 花を愛でる心の余裕。

 最近の山歩きでは、標準所要時間よりはるかに短い時間で、頂上に達することがある。脚力が付いてきた証拠だろう。そのため、時間的余裕ができ、道中で立ち止まっては花や、草木をゆっくり観察している。今までは、無事に頂上に達することができるだろうかとか、日暮れまでに下山できるだろうかとか、全く時間に余裕のない山歩きだった。それだけに緊張感があり、帰宅してからの解放感が心地よいともいえるのだが、最近になってようやく、山歩きの道中を「楽しむ」ことができるようになった。これも「余裕」があってのことだ。人間関係においても、自然の花や草木の美しさを、ゆっくりと眺めて愛でる「心の余裕」があれば、いさかいも少なく、少しは人生を「楽しむ」ことができるのではないだろうか。

2008年 5月 6日(火) 「クマ出没」のニュースを聞いて一言。

 クマが出没し、人間に危害を与えたといって、ニュースになる。山歩きをしていて思うのだが、クマにとっては「出没」したのは人間のほうであり、クマにとっては迷惑な話だろう。人間は、自然の中で静かに生活している動物たちの生存権をむやみに侵害してはならない。

2008年 5月 5日(月) 人は幾つになっても人生の未経験者である。

 30歳の人が、30歳を経験するのは初めてのことである。31歳になっても、31歳を経験するのは初めてのことである。たとえ60歳の人であろうと、その人が60歳を経験するのは初めてのことである。その人が61歳になっても、61歳を経験するのは初めてのことである。だから人間は、何歳になろうと、すべからく謙虚でいなければならない。

2008年 5月 4日(日) いつ死んでも悔いはない。

 ここ数年、憑かれたように頻繁に山歩きをしてきた。わが人生でこれほどまでに、自分の思い通りのことを、遠慮なく実践してきたものはない。そのような自由な環境を私に与えてくださったすべての方々に、感謝しなければならない。今、とても充実した気持ちでいる。「いつ死んでも悔いはない」という心境だ。

2008年 5月 3日(土) 低学年から株取引や商取引(商売)について学習させていいものか。

 学生時代の真の友人関係というものには利害関係がない。一方、学校を卒業し、社会人になった時、その社会人としての付き合いには多くの利害関係がからんでくる。真の友情が生まれてこないのである。きっと、学生時代のことを思い出し、「あのころはよかった」「あのころに戻りたい」「学生時代のような、純粋で利害関係のない人間関係でありたい」と、懐かしく振り返ることだろう。利害関係のない人間関係は、児童・生徒・学生の時代にしか生まれてこない。学校は聖域である。低学年から株取引や商取引(商売)について学習させてはいけない。社会の悪を学校に持ち込んではいけない。人間社会は悪事で満ちている。児童・生徒・学生の時代のころの、利害関係のない人間関係の体験が、将来、社会の浄化作用として働くのであるから。

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