▼戻 る▼

2009年 2月20日(金) 今年も「e−Tax」で確定申告を済ませました。

「e−Tax」とは「国税電子申告・納税システム」といって、自宅からインターネットで確定申告ができるというものです。パソコンがトラブルなく動いてくれれば、かなり便利になることは確かなのでしょうが、なかなかうまく動いてくれません。最近、パソコンを買い換えたこともあって、あらためて関連ソフトをダウンロードし、インストールしたりしたのですが、すぐにはこちらの思い通りには動いてくれないのです。かえって手間がかかって、私にとってはほとんどメリットがないのですが、これも老化防止のためになるのでは、と思ってのことです。今年も昨年同様、悪戦苦闘、試行錯誤のすえに、なんとか送信完了に至りましたが。

2009年 2月14日(土) トラウマにならないために。言うべきことは言おう。

いまだに「トラウマ(心的障害)」になっていることがある。このことは2007年10月26日の日記に「無口は誤解を招く」という表題で書いたことだが、将来において、このようなトラウマで神経を疲れさせないために、注意を喚起させる意味で、再掲しておきたい。若い頃の私は、こんなにも愚鈍な人間だったのだ。

[2007年10月26日の日記より]
事務職員として働いていた頃の話である。業務上で、ハガキをある人に送る必要があったのだが、ハガキは自宅で完成させ、あとは切手を貼るだけという段になってから、自宅に長い間使わずにおいてある80円の切手があったことを思い出した。多分、お年玉年賀ハガキの抽選で当選品としてもらったものではないかと思う。ハガキの料金は1通50円である。30円の払いすぎになるのだが、料金不足なら困るが、余分に払う訳だから、何ら問題はなかろうと考え、80円の切手をそのまま貼った。  通常、業務でハガキや手紙を送る時は、庶務課に置いてある切手を使用する。使用した切手の種類と枚数を備え付けの帳面に、自分で記入し、切手も自分で貼って、そばのかごに入れておく。あとで係の者が定期的にポストに投函してくれるというシステムだ。私は当然、帳面には記入せず、ハガキだけをかごに入れておいた。  しばらくたって、庶務課の担当者から、料金が間違っているとの連絡があった。丁寧にチェックしていれば、当然気が付くだろうから、そう指摘されるのは当然である。私は連絡を受けてすぐに庶務課に行ったところ、この件で早速、私について庶務課の二人が良からぬ話をしていた。そのころの私に対する評価は、真面目で、几帳面で、仕事には間違いがないというのが一般的だったのではないかと想像しているのだが、この件一つで私の評価が、少なくとも話をしていた二人に対しては、落ちてしまったということである。その時の私は、何らの言い訳もしなかったから。  無口は誤解を招く。私は当初から払いすぎであることは承知していた。だがその時のハガキに貼った切手は、私の所有のものであった。だから、払いすぎているからといって、勤務先やほかの誰かに負担をかけるというものではない。損害を負担するのは私である。そのような気楽な判断による行動が良くなかった。少なくともあの時、ハガキに貼った切手は、実のところ私の所有物であったのだということを、はっきりと言っておくべきであったと反省している。いまだにその時のことが「トラウマ」になっている。

2009年 2月13日(金) 歩いていて、最近無性に腹が立つこと。

@駅構内に流れる「小鳥のさえずり声」
JR駅構内に「小鳥のさえずり声」が流されている。明らかに人工的な小鳥の声だ。何かしなければと、思い図ってのことだと思うが、余計な配慮だと思う。森の中で聞く小鳥のさえずり声は、森の空気や木々の匂いと一体となって、清々しい気持ちで聞けるが、都会の雑踏の中で、他の環境が整ってもいないところで、さえずり声だけを聞かされてもやかましいだけだ。かえって、構内アナウンスが聞き取れなくて困ることがある。何もしないでいい。静かであることの大切さをもっと知るべきだと思う。
[お断り] 駅構内に流れる「小鳥のさえずり声」は視覚障害者のためだったことを、この日記を記載後に知りました。自分の無知を恥じなければなりません。
[参考]:
旅客施設における音による移動支援方策ガイドラインの策定について
A飼い犬の行動は、飼い主に責任がある。
天下の公道を歩いているのに、散歩中の犬に吠えられた。飼い主は自分の幼子を諭すように、しきりに静止しようとするが、私に対して謝る素振りがない。ここは一言、こちら(私)に対して謝罪の言葉があってしかるべきだと思う。「私が悪いのではありません。この犬が悪いのです。」と言わんばかりである。むしろ、犬には責任がなく、飼い主のほうに責任があると言ってもいいのだから。
Bセンサーライトについて。
天下の公道を、夜歩いている時、いきなり私を照らすやつがいた。照らされた私は一瞬ぎくっとする。失礼千万なやつだが、これはいわゆる「センサーライト」というやつで、不法侵入者を威嚇するためのものだ。だが、天下の公道を歩いているのに、いきなり照らされては困る。ゆっくり段階を経て明るくなるようにするか(そんな機能がついているかどうかは知らないが)、敷地内に踏み込んだら作動するように調節すべきだろう。それができないなら、電気代がかかるが、終始点灯しておくべきだ。天下の公道を歩いていて、ある人からいきなり懐中電灯で照らされたら、あなたはどう思いますか。「失礼なやつだ」と思いませんか。「機械が自動的に反応しているので、私には責任はありません」とでも言うのだろうか。

2009年 2月 9日(月) 偉大な存在は「人間」ではなく「神」である。

 人間は自分のことを万物の霊長といって、この世の生き物の中では最も賢い生き物と思っている。人間は歴史上、新たな「発見」「発明」をし続けてきたが、ここで「発見」といっても、たんにすでに存在していたものを見つけたということであって、見つけたのは偶然ということもあるのだから、大した業績でもない。「発明」のほうはどうかというと、発明だって、すでに存在する自然界の法則なるものをそのまま利用したり、応用したりしてできたものである。「発見」「発明」した人間の能力をたたえる前に、この自然界、宇宙の中に存在する「物」や「法則」を創った「創造主」のことを考えてみよう。その創造主とはどこの誰か。それは目には見えない。目で見ることができない。見えないもの、見ることができないもの、それを「神」と言うんだろう。そういう「神」というものの存在が偉大なのだ。偉大な発明をした人間、偉大な発見をした人間、偉大といわれる業績をあげた人間が偉大だというわけではなく、そのような人間を創造した「神」というものの存在が偉大なのだ。宇宙にまで飛び出す技術を開発した人類の頭脳をたたえる前に、そんな人類という生命体を創造した「神」というものの存在に敬意をはらわなければならない。あらゆる存在にはそれを創造した「創造主」がいる。その「創造主」が偉大な存在なのだ。道端に転がる小石一つだって、いかに賢い頭脳の人間だって、一から創りだすということは不可能なことであるから。

2009年 2月 3日(火) 近場だからといって、侮ってはいけない。

 山歩きを始めて約5年になる。近畿圏の一般的ルートは、歩きつくしたとまでは言えないけれど、今日はどの道を歩こうかと苦慮する。最近は、一度歩いた道でも、サブルートを歩いたり、寄り道をしたりする。サブルートの方がかえって静かで、私にとっては好みの道であったりする。わざわざ遠い地に出かけなくても、近場の未踏の地に、まだまだ心安らぐ道があることを期待している。

2009年 2月 2日(月) 井上ひさし『自家製 文章読本』読了。

2009年 2月 1日(日) 私の「コダワリ」 

 どうして道を間違えたんだろう。納得がいかない時、確認のために、間もなく、同じ山に出かけたりする。これは私の「コダワリ」である。このような「コダワリ」が、過去において、私の成長を大いに促してきた。



▼戻 る▼