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2009年 3月 25日(水) 『現代童話U』今江祥智・山下明生(編)読了。

『現代童話U』今江祥智・山下明生(編)、福武文庫、1991年。
短編童話を中心に、子供と子供の本についてのエッセイや評論も収めたアンソロジー。
『はらぺこおなべ』神沢利子、『ジオジオのパンやさん』岸田衿子、『木馬がのった白い船』立原えりか、『赤いオバケと白いオバケ』北杜夫、等。

2009年 3月 16日(月) 「常識」は変化しうるものである。

 「常識」は社会の変化、時代の風潮、その時々の力関係によって、いかようにでも変化しうるものです。
 多数の人がそう考えるからといって、その考えが正しいと限ったものではありません。今は少数意見であっても将来、多数意見になるかもしれないのです。もちろん多数意見になったからといって、その意見が根本的に正しいかどうかは、わかりません。現在多数意見だからといって、その意見に左右されてはいけないということを言いたいのです。
 私がタバコなるものを吸い始めたころの話です。当時勤めていた職場(官庁)では、男性に限って言えば、タバコを吸う人の方が多く、上司にあたる人はほとんどが吸っていました。そんな中で、タバコの煙を嫌がる女性が一人いらっしゃいました。その女性は日常的に、露骨な言葉や態度で、自分の意思を表明されていましたので、逆にみんなから「煙たがられ」、嫌がられる存在でした。当時の私は、「社会生活をおくる上で、多少のことはお互いに辛抱すべきだ」と考えていましたので(周囲の人もそのような考えではなかったか―これも当時の「常識」?―と推測しています)、タバコを吸わない私も、タバコを吸う人に対する嫌悪感はありませんでした。それどころか、私自身が職場でタバコを吸うようになったのです。当時の私には、職場内でタバコを吸うことに、多少の遠慮の気持はありましたが、罪悪感というほどのものはありませんでした。当時の私は、「社会生活をおくる上で、多少のことはお互いに辛抱すべきだ」と考えていましたから。

2009年 3月 15日(日) 親の教育が大切。

 小さい子どもだったころの話である。ある夏の日、両親に連れられて、里帰りをした。里の親戚から「どうぞお食べなさい」と皿にのせて、アイスキャンデーが出された。その時の私は、アイスキャンデーが嫌いというわけではなかったのだが、生来、実直で引っこみ思案の私だったから、すぐには手を出さなかった。すすめられたからといっても、すぐに手を出すのは品のないことである。何度も遠慮の態度を示してからのことである。そのころの私は、勝手にそう思い込んでもいた。親戚の人は何度となく食べるようにすすめてくれたが、私は食べようとしなかった。そのうち私は手を出すタイミングをのがしてしまった。アイスキャンデーは皿の上で溶けてしまった。そばにいた親は話に夢中になっていたのか、的確な助言をしてくれたという記憶がない。社会のしきたりは自然に身につくというものではない。特に就学前の子どもは何もわからないのだから、親は的確な助言の言葉で導いてやることが大切だ。

2009年 3月 5日(木) 「常識」「マナー」

 「常識」や「マナー」が正しいと限ったものではありません。「常識」や「マナー」が他人に迷惑をかけていることだってあるんです。「大きな声で挨拶しよう!」という標語を学校の近くで見かけました。「常識人」なら疑問に思わないことかもしれません。でも、TPOをわきまえましょうね。挨拶ができなくて苦しんでいる子どもがいるそうです。挨拶ができなくったっていいではないですか。各々のこどもの「個性」といったものを尊重したいもんですね。以前、ある食品会社の広告で「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい!」なんていうキャッチフレーズがありましたが、「ひ弱でもいい。誠実な人間に育ってほしい!」と言ってほしいもんです。「常識」「マナー」といったものを疑ってみることは必要です。そうすれば、意外と根本的な解決が得られるのではないかと思います。少数者の意見には、なおさら耳を傾けることです。少数者の意見には慎重に聞くべき内容が含まれています。「非常識な意見だ」と、頭から否定するのではなく、聞く耳を持ってほしいですね。
 どうして現代人は「音」や「声」に無頓着なんでしょう。携帯電話というものが世に出てからなおさら、そうなったような気がします。車内での大きな声での会話。大きい声が他人の迷惑になっていることに気づいていないようです。大きな声を出してもいいところで大きな声を出してください。大きな声で挨拶してもいいところで、大きな声で挨拶してください。常に、TPOをわきまえましょう。昔は車内も静かでゆっくり読書ができたような気がします。空気はみんなのものです。タバコの煙で汚されてはたまりませんね。それと同じように、静かな環境を勝手気ままな行動で騒音、雑音で満たされてはたまりません。

2009年 3月 4日(水) 「ご郵送申しあげます」という表現は間違いか?

 サラリーマンとして勤めていたころの話である。
ある人に小包を送ることになって、その送り状なるものを書いたのであるが、二人がかりで「その表現は間違いだ!」と指摘され、実に不愉快に思った記憶がある。今になってもはっきりと記憶しているわけだから、相当私の自尊心を傷つけられた出来事であったのだ。
「ご郵送申し上げます」の表現で、郵送するのは自分だから、自分の行為に対して「ご」という敬語を使うのはおかしいというのである。その当時の私には、文法的に正しいか正しくないかという判断ができるほどの知識はなかった。私は、仮に文法的には間違った表現であっても、そのように一般的には表現されていることであると判断し、このような表現をしたまでのことだが、私の主張は二人から頭から否定されてしまった。
 今「あなたも敬語が正しく使える」(国文学第21巻12号改装版、昭和52年発行)という古い本を開いているのであるが、それによると、「お・・・申しあげる」「ご・・・申しあげる」という表現は、「お・・・する」「ご・・・する」より丁重な謙譲表現であり、「お話し申しあげる」「ご説明申しあげる」という表現が具体例として挙げられている。ということは「ご郵送申しあげます」という表現は間違いではなかったということではないか。これもまた、いまだにトラウマになっている出来事である。

2009年 3月 3日(火) こんな夢を見た。(退職願提出)

 昨晩、こんな夢を見た。
 新たな職を求めて、退職願を出した。 普通、要領のいい人なら、新しい勤め先の就職試験に合格し、就職できることが確定してから、今の勤め先に「退職願」を出すということになるのであろう。だが、そのように、自分の都合だけで「要領よく振る舞う」ことができないあほな人間である私だから、先に「退職願」を出してしまった。あとになって後悔し、取り下げようかと逡巡しているうちに目が覚めた。こんな夢を見るのも、現在、一つの不安((その内容はここでは言えないが)を抱えているからではないかと自己分析している。

2009年 3月 2日(月) 他人の立場に立って考えることの難しさ。

 サラリーマンとして勤めていたころの話である。
 給料が支給される日に、給料の担当者から「給料が出ましたよ」という連絡が入った。早速もらいに行こうと腰をあげたところ、その時にあびせられた言葉の詳細は忘れたのだが、要するに私の態度が「浅ましくて醜い」と見られたのである。「そうガツガツしなさんな。」ということである。
 私は以前に給料の支払いの仕事を経験していた。「給料が出ましたよ」と連絡しても、すぐに取りに来てくれない人が多いので困った。その日一日、ぱらぱらともらいに来る人が続いて、仕事にならない。私の都合だけを考えるならば、帰りがけにもらって帰るほうが、安全でもあり、都合がよいのであるが、私はそんな内情を十分理解していたから、連絡が入るとすぐにもらいに行こうとしたまでのことである。
 私は生来無口なほうであったし、言い訳は良くないと考える「慎ましい」人間だったから、私の真の気持は誰にも理解されずに終わってしまったことであろう。他人の行動を軽々に非難してはいけない。善意のつもりで行動してきたことが、自分では気づいていないところで誤解されてきたのではないかと恐ろしく思うときがある。「言い訳」は男らしくないと言わずに、「言うべきことは言う」ことだ。あとあとトラウマにならないためにも。

2009年 3月 1日(日) 永井龍男『一個/秋その他』、『青梅雨その他』読了。




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