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2009年11月30日(月) 正直に吐露すれば、変人・堅物・へそ曲がりで、偽善者に見られるだろうが・・・

本来、自然現象に良いとか悪いということはないのに、晴れた日に「今日は良い天気ですね」とか言うのは、あくまでも晴れた日のほうが何かと都合が良いという人が圧倒的に多いから、そう言うのであって、雨が降らずに困っている人などにとっては、晴れた日は「悪い天気」なのである。晴れた日を「良い」と判断するのは多数の横暴と同じであって、晴れの日でも、逆に困っている人がいるんだということを認識すべきである。

人が人を殺してはいけないのなら、人が他の生き物を殺すのも許されない。もしそれが許されるのなら、人以外の生き物が人を殺そうとしても、これを認めなければならない。どちらが生き残るかは、正義の問題ではない。力があるほうが生き残るのだ。

マスコットにされている乳牛も、肉牛として飼育されている牛も、いずれは市場に出されて、その命を絶たれ、人間の食料になっている。一方で動物愛護を宣伝したり、動物の虐待を非難しているのに、大きな矛盾を感じる。どう解釈したらいいのだろうか。人間が生きるためには綺麗事ばかりを言っておれない、理屈がどうであれ、仕方がないことと諦めざるをえないのだろう。

深く考えていては生きていけない。食事の前に感謝の気持ちで「いただきます」と言えばいい。形式よりも気持ちが大切だから、言葉に出して言うのが嫌な人は心の中で「いただきます」と言えばいい。

人前で食事をすることが嫌いだ。食事をしている時の口の動きを見ていると、どうしてもその反対の排泄行為を思ってしまう。それは異常な精神状態だと言われるかもしれないが、そんな気持ちにさせられるのは事実なのである。

そうは言っても、私だって食べなければ生きていけない。けれども、せめて程度をわきまえ、ほどほどにしたい。だから、私はグルメ(食通。美食家)は大嫌いだ。

私のホームページでは、食事処や食べ物に関する土産物店の紹介を一切していないのはそのためである。

2009年11月29日(日) 山を下りることを「下山」という。反対は「登山」であり「上山」とは言わない。

※山歩きの日記を書いていて、表記に迷った点を、思いつくままに記してみた。
※自信がなければ、無理に漢字を使わなくても、ひらがなで表記すればいい。

越える・・・特定の場所を過ぎて、その先へ進むこと。例:峠を越える、山を越える、巨岩を乗り越える。
超える・・・一定の分量を過ぎて、その先へ進むこと。例:四十歳を超える、百円を超える。
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近景・・・近くに見える景色。反対は遠景。
遠景・・・遠くに見える景色。反対は近景。
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近影・・・最近写したその人の写真。「遠影」という言葉はない。
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遠望・・・遠方を見ること。「近望」という言葉はない。
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遠方・・・遠いところ。「近方」という言葉はない。
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下山・・・山を下りること。反対は「登山」。「上山」という言葉はない。
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安い・・・例:値が安い。
易い・・・例:滑り易い。
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上る(のぼる)・・・例:坂を上る。上り坂。
登る(のぼる)・・・例:山に登る。木に登る。
昇る(のぼる)・・・例:日が昇る。
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下りる(おりる)・・・坂を下りる。
降りる(おりる)・・・電車を降りる。
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分かる(わかる)・・・事情が分かる。理由が分かる。
解る(わかる)・・・意味が解る。

2009年11月28日(土) 現状で満足できる人は能力者である。

 人間社会は常に進歩していなければならないものなんだろうか。なんのための進歩なんだろうか。幸、不幸感は極めて主観的なものである。どんなに金銭的に困窮していても、気楽に楽しく生きている人もいるだろう。反対に、金銭的には余裕があっても、人間関係や、色々な欲望に悩まされて、常に不満を抱きながら生きている人もいるだろう。現状に満足できる人は幸せである。現状に不満があって、その不満を解消しようとして、社会は進歩するのだろうが、人間社会は常に進歩していなければならないものなんだろうか。もし現状で満足できる「能力」が人間にあったら、進歩する必要性はなくなるだろう。
 野菜はそのまま食してもおいしいのだから、調味料なんていらない。料理という手間をかけなくてもいい。山に住むサルやシカやイノシシは、そこにあるがままのものを食して生きている。少しでもおいしく食したいという人間の欲望が、引いては、今騒がれている地球温暖化を招いているのだ。人間は現状で満足できるという「能力」を身につけなければならない。現状で満足できる人は能力者である。現代社会における人間の欲望は尽きることがなく、その欲望を満たそうとする行動は醜悪ですらある。山の中を歩いていて、いつもそう思う。

2009年11月27日(金) 過去に体験した恐怖も、目前の恐怖に比べたら、何でもないことだった。

 たとえ低山でも、山歩きをするにはそれなりの装備が必要だが、時間的余裕を持つことも大切だ。つい道に迷ったりして、予定外に時間を費やしてしまうことがある。そんな時は、下山途中で日が暮れてしまったという場合もある。日没後の山の中は、全く暗黒の世界である。明りがなければ歩けないから、常に懐中電灯は携帯している。そんな日暮れの山中を歩いていたら、オバケや幽霊に出くわすのではないかと考えて、恐ろしくはないのかと思われそうだが、私の場合は、全く気にならない。むしろ、普段なら昼でも恐怖に感じるかもしれないけれども、こんな場面で、より現実的に恐ろしいのは、道に迷うことであるから、この道で間違いはないのだろうかとか、この道を下れば確かに下山できるのだろうかとか、そんなことしか頭にない。その時は、そのことのほうが一大事であるから、オバケや幽霊のことなど頭に浮かんでこないし、たとえ浮かんできても気にならないのである。

2009年11月26日(木) 道標(みちしるべ)となるべき人を持とう。

 山歩きは多くの人生訓を含んでいる。里山と言われるような低い山を登るにも、道標(みちしるべ)があると気楽に安全に登ることができる。登頂への最短距離でもあったりする。逆に、道標がないと、たとえ低い山でも、道に迷って、危険なこともある。実際そんな危険を何度か味わってきた。どちらかと言えば、独立独歩を好んできた私は、道標となるべき人を持とうとはしなかった。学校での勉強に限らず、人生のあらゆる場面で、道標となるべき良き教師、良き友人、良き先輩などを持つということは、極めて有意義なことである、と今になって思う。

2009年11月25日(水) 人生は「普通」に生きていければ、ただそれだけで幸せ。

 特別に楽しいと思うこともなく、特別に苦しいと感じる出来事もなく、ごく「普通」に生きていければ、それだけで幸せなことだと思う。それだけ人生は「普通」に生きていくことが難しく、苦しむ機会も多く、うまくいかないものだ。だから、「普通」であることに不満を言ったり、「普通」であることに退屈したりしてはいけない。また、「普通」であることを恥じる必要もない。人生「普通」に生きていければ十分に幸せと思わなければならない。

2009年11月24日(火) 盆栽いじりは性に合わない。

 「自然は人間が手を加えなくても自然のままで美しい」と思っている私にとって、人間側の都合で葉や枝をちょんぎって美しく見せようとする「盆栽いじり」は性に合わない。
 若いころに、こんなことがあった。アパート住まいで、一階の部屋を借りていたころのことである。玄関のすぐ前には排水溝があって、その溝に沿うように「雑草」が生えていた。両隣の人はもちろん、その並びの人たちは、玄関前に生えている草は「雑草」であったから、綺麗に刈り取られていた。私はたとえ「雑草」であっても、自然に生えているものであり、人間側の都合だけで刈り取ってしまうことに抵抗の気持ちがあった。そこで、いつまでも刈り取ることはしなかった。私の家の前だけが刈り取られずに残されていたから、一見、奇妙で、滑稽な風景が現出していたのである。近隣の人たちはきっと私をずぼらな若者と見ていたことだろう。これもいまだにトラウマになっていることの一つである。

2009年11月23日(月)勤労感謝の日 少数意見(少数者の立場にある人)に耳を傾けよう。

 多数決の原理の中には「少数意見を尊重する」ということがある。多数の横暴と言われないためにも必要なことだ。少数意見だからといって、間違った意見と限ったことではない。少数意見を尊重しようとしないところから差別が生まれる。すべての考えを優しく受け入れられることのできる包容力を持ちたいものである。
 卑近な例だが、「ゴミは前日ではなく当日の朝に出しましょう」と言われる。大多数の人にはそれでいいのかもしれないが、前日の夜から仕事に出かけないといけない人にとっては、前日の夜に出さざるをえない。そんな人は少数だからといって無視されたら、困るのである。すべての人にとって無理のない、納得できる方法を模索すべきである。

2009年11月22日(日) 晴れた日ばかりが素晴らしいとは限らない。

 山歩きには多くの人生訓を含んでいる。今日は曇天のため、展望は期待していなかったのであるが、勝尾寺の古参道から、かえって幻想的で、墨絵のような「素晴らしい」風景を見ることができた。晴れた日ばかりが素晴らしいとは限らないのである。

2009年11月21日(土) 武庫川渓谷―この素晴らしい景観を、いつまでも残してほしい。

 JR福知山線廃線跡を歩いた。八度目になるが、秋の季節に歩いたのは今日が二度目である。初めて歩いた時は武庫川の渓谷美に感動した。渓谷美といえば、京都では清滝川沿いが有名であるが、武庫川渓谷はそれに優るとも劣らないと思った。そんな武庫川渓谷だが、ダムを建設する計画があるらしい。反対運動もあって、結末がどうなったかは知らない。できることなら、この渓谷美をいつまでも残してほしい。自然の景観は一度破壊すると、復原が容易でない。ダムのために水没したり、景観が損なわれるとしたら、実に惜しいことで、残念だ。
※写真を掲載していますので、汽車に乗った気分で、武庫川の渓谷美を楽しんでください。
JR福知山線廃線跡(武庫川渓谷)

2009年11月20日(金) 植木鉢の植木だって、健気に、たくましく生きている。

 今は亡き父が、毎日世話をしていた植木鉢の植木が、毎年花を咲かせている。私はただ、週に2〜3度、水道の水をかけているだけなのに。その健気さ、生命力に驚く。私も年をとっても、気丈に生きていかなければと思う。

2009年11月19日(木) ワナにかかったシカの親子。

 イノシシやシカなどは、作物を荒らすので「害獣」とされ、駆除の対象になっている(日本全国どの地域でも、そのように扱われているのかどうか、その詳細は知らない)。今日、唐櫃越を歩いたのであるが、途中、舗装道路(林道)に出た時、甲高い悲鳴のような声を聞いた。最初はサルが私の存在を知って、威嚇の意味で鳴いているのかと思った。前回、この辺りでサルの集団に出会ったからである。よくよく、声が聞こえてくる方向を探したところ、声の主はシカだった。仕掛けられたワナにはまったシカの親子が、おりの中でもがいていた。シカの親子は、なんとかこのおりから出ようとし、「助けてくれ!」と言うように、しきりに甲高い悲鳴に似た声をあげていた。人間にとっても、生きていくためには、「害獣」の駆除もやむを得ないこととはいえ、哀れと思いながら、結果として救ってやれなかった自分が不甲斐なく、後味の悪い山歩きであった。

2009年11月11日(水) 人間は感情で動く下等動物である。

 「決して気を悪くしないから、私に欠点があれば、遠慮なく指摘してください。」と言われたからといって、その友人の欠点を気安く指摘してはいけない。一つでも指摘すると、感謝されるどころか、気まずい関係になることは間違いない。それほど人間は、自分の欠点を他人から指摘されることを嫌うのである。欠点の指摘に限らず、たった一言によって、長い友人関係が断絶することがありうる。一度嫌われてしまうと、昔そのままの状態に戻るのは不可能である。すべては感情的にとらえられ、善意でしたことがすべて悪意に解釈される。「あなたの長所だ」とほめてくれていたことが、一転して、けなす対象とされてしまう。その対象となっている中身になんの変化もないのに、人間に対する評価が全く反転してしまうのである。人間関係は理屈よりも、感情で成り立っている。感情的に対立している相手には、いくら理屈を並べて説明しても、受け入れてもらえない。反対に、人間関係が良好な関係にある時は、多少理屈がおかしくても、感情が先に立つから、素直に受け入れてもらえるということになる。

2009年11月10日(火) 「早い者勝ち」でいいのか?

 狭い山頂なのに、シートを広げて、その場を独占しているグループがいた。山頂には沢山の人が登ってくる。山頂で記念写真を撮りたいとか、山頂からの素晴らしい景色を写真におさめたいとかいう人たちが来る。広い場所ならいいのだが、こんなところは交代して譲るという姿勢が必要だ。「早い者勝ち」と思っているのだろうか、グループには譲る気がなさそうである。「早い者勝ち」といっても、時と場所にもよると思う。
 祭りでパレードを見物に行った時のことである。前列に陣取った観客は、満足げに観覧していた。一方、後列の観客集団は、前列の観客集団の体が邪魔をしていたから、「垣間見る」という状態で、不満がつのっていた。そんな時、後列の観客の中から突如、「交代しようよ」という声が飛んだ。要するに、前列の人たちは、長い間、十分見れて満足していることだろうから、前列の人と、後列の人が交代しようというのである。後列の人は満足に見れない状態が続いている。見れない人はいつまでも見れない。場所を交代することによって、より多くの人が平等に見れるようにということなのである。私はなるほどと思った。「早い者勝ち」だからといっても、始めから終りまで、良い場所を占領するという権利まであるのだろうか。「早い者勝ち」といわずに、そんな配慮が必要だろう。そうでないと、他人を押しのけてまで前に出ようとか、一歩でも他人より先んじようとか、そんなことをみじんも考えていない私のような、遠慮深くて、気が弱い人間はいつも損をすることになるのである。

2009年11月 9日(月) 休み過ぎるのはいけない。

 山歩きには多くの人生訓を含んでいる。登山道で疲れたら我慢せず、休めば良い。だが、休み過ぎてはいけない。再び登り始める時、とても辛いから。

2009年11月 8日(日) 「内部告発」を大いにすべし。

 今はインターネットで、自分の意見や知ったことを、メールで容易に投稿できるようになった。そこで、内部からの勇気ある「告発」を期待したい。外からは内部の事情がわからない。官庁や民間会社、その他、世の中にはびこる悪習、不正、嘘をあばくためにも、大いに利用してほしいと思う。ただし、言うまでもないことだが、不正な使用は厳に慎むべきである。

2009年11月 7日(土) 「千里の道も一歩から」ということわざを痛切に感じる時。

 山歩きには多くの人生訓を含んでいる。先を見過ぎてはいけないということもそうだ。これから登る山の頂きを山裾から眺めて「ああ、あんなにも遠いのか。今日中に登って帰るなんて、できっこない」と思う。ところが、一歩一歩、歩みを進めていれば、意外と知らぬ間に頂上に達しているものである。事前に先をみつめ過ぎたら、うんざりする。人生もそうだ。先々のことを思い煩うことはない。今日1日だけのことを考えて、一歩一歩、歩みを進めればいい。時の経過とともに、自然と頂上が目の前に現れる。
どんなに険しい山道でも、ただ一歩だけなら、どんなに辛くても進めるはずだ。その一歩ができるのなら、二歩ならどうか。二歩だけなら進めるだろう。その一歩、二歩の積み重ねが頂上への道につながっている。山裾から眺める山の頂上は遠くに見えるが、意外と近いものである。

2009年11月 6日(金) 脱サラがはやった時代のこと。

 会社では社長や部長と、それなりの地位にあった人が、不況で脱サラし、ラーメン店を開業するための修行に出た。自分の息子ほどの若者から教わる。若者といえども、その道でのプロだから「先生」である。修行は厳しい。昔は社長さんであった人でも、沢山の部下を従えた部長さんであった人でも、「先生」の前では新人、見習いの若輩者である。侮辱的言動も叱咤激励のつもりと思い歯をくいしばって辛抱しなければならない。それは愛する妻のため、幼い子供のためでもある。そんなリポートのテレビ番組を見たことがある。 その道では「先生」だからといって、若者が偉そうにふるまうのはどうかと思う。元社長さんや元部長さんは、ラーメン道では素人だが、人生の先輩だ。道が異なっても、厳しい世間の荒波を乗り切ってこられた人たちだ。それなりの尊敬の気持ちがあってもいいと思う。教える立場だからといっても、侮辱的言動は慎むべきだろう。といっても、それは厳しい修行の世界、「叱咤激励の言葉だ」といわれるかもしれないが。内心では大いに心が傷つき、歯がゆい思いをされているのではとおもんばかる。私には、こんな人間関係は一時なりとも我慢できないことである。人生は厳しい。そんな厳しい人生を、道が違っていても経験してきた人たちである。尊敬の気持ちがあれば、自然と言葉や態度に出てきていいと思うのだが。
 高齢になってくると、長生きしている人に対する尊敬の気持ちが起こってくる。その人の人生の内容を問うことなく、たんに長生きしているということだけで、尊敬したい気持ちになる。それほど、生きるということは大変なことだと思っているから。ただ長生きしていることだけでも、十分尊敬に値することだと思うようになった。こんなことを考えるのも、自分が年をとってきた証拠かもしれない。

2009年11月 5日(木) 自分を客観的に見ることができる人間でありたい。

 10年ぶりに会った知人の容貌に、「あいつ、やけに老けやがったなあ」と、憐みの感情で見つめたことがある。その時、相手の知人も自分を見て、同じように感じていたことに気づかないでいた。自分のほうは、10年経過しようが何も変わっていない。昔のように、いつまでも若いのだ、と思っていた。ところが、客観的にみれば、知人と同じように年をとり、容貌も知人と同じように老けてきているのである。ただ、知人という他人の容貌の変化は感じ取れても、自分の容貌の変化は感じ取れないでいる。自分もあのように「老けて見られているんだ」と客観的に見ることができる人間でありたい。自分は他人と違って、いつまでも変化なく、若いんだと思うのではなく、客観的な目で見れば、自分もみんなと同じように変化しているということに気づかなければならないと思っている。

2009年11月 4日(水) 話し声が気づかないところで迷惑をかけている。

 道路は自動車に占領され、昔に比べると子供が安心して遊べる場所が少なくなった。車を気にせず、安心して遊べる場所といえば公園だ。ここでは小さな子供が大声をあげながら、足り回っている。ところが、この子供の声がうるさいという苦情が近隣から出たりする。こんな場合、どう理解したらいいのだろうか。子供のことだから、また公園内のことだから、大目に見てほしい。許してやってくれ。ということになるだろうが、付き添っている大人同士の会話がうるさいことがあるので注意する必要がある。
 また、時と所によっては、子供だからといっても、甘やかしてはいけない。小さいころからの、いわゆる「しつけ」が大切だ。
 登山道の入口付近で「静かに歩きましょう。」という看板をよく見かける。わざわざ看板を設けているということは、それだけ、近隣の人には迷惑になっているということだ。ある特定の登山者については、その道を通るのは初めてだとしても、入れ替わり立ち替わり、多くの人が通り、近隣の人にとっては決して一時的な騒音ではないのである。
 夜更けの公園内での話し声。本人たちは近隣の人には聞こえていないと思っているらしいが、これが意外にもよく聞こえてくるのである。何気なく行動していることが、ひどく他人に迷惑をかけているということに気づかなければならない。

2009年11月 3日(火)(文化の日) 今日、大阪WTCコスモタワーを訪ねた理由。

 今、大阪府庁舎のWTCへの移転が問題になっている。そこで、一度は訪ねたことがあるのだが、WTCとはどのようなところなのか、その立地について深く知るため現地に出かけた。展望台からの眺めは絶景であった。大阪府庁舎のWTCへの移転は、防災上に難点があるといって反対する人がいるが、そんな理由よりも、私は単純に、こんな素晴らしい環境を役人の仕事場にするのはもったいないと思った。その全部を市民のために開放すべきだ。そんな観点から、私は大阪府庁舎のWTCへの移転に反対だ。これは今日、展望台からの絶景を眺めて感じた、私の素直で短絡的な意見である。もっともっと色々な角度から検討する必要があることはもちろん承知はしているが。

2009年11月 3日(火)(文化の日) 大阪WTCコスモタワー展望台入場券について。

今日、大阪WTCコスモタワーの展望台に登ったのであるが、その入場券には、タワーの上部が雲の群れを突き抜けて頭を出している写真が印刷されていた。私の目には明らかに合成写真と見えるのであるが、もしそうならばひとこと「これは合成写真です」とか「イメージ写真です」などという断り書きを入れておくべきであろうと思う。そのような断り書きを入れたパンフレットをよく見かけるが、それが客に対する正直で親切な態度だろう。日ごろ「お客様は神様です」とか「お客様あっての商売です」と言ってみたところで、こういう写真を見せ付けられると「だから商売人の言うことは信用できない」という気持ちにさせられる。商売に限らず、他人をだますようなことはしてはいけない。「現実にあることなのだが、なかなかシャッターチャンスがなくて、合成写真に仕上げました」とか「イメージ写真にしました」とかいうのならわかるのだが(ただし、簡単でもいいから断り書きを入れること)、ありえない姿を、真実の姿であるかのように合成し、そのことについて何の断り書きもなく他人に示すのは、他人をだましたことになる。




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