▼戻 る▼

2009年12月29日(火) 摩耶山山上からの夕景、市章山・錨山・諏訪山からの夜景。

摩耶山山上(掬星台)からの夕景、市章山・錨山・諏訪山(ビーナスブリッジ)からの夜景。
撮影:2009年12月29日。

摩耶山からの夕景



市章山からの夜景


市章山からの夜景


錨山からの夜景


諏訪山(ビーナスブリッジ)からの夜景

2009年12月21日(月) そろそろ「ハングリー精神」もほどほどにしよう。

 自分の人生を振り返ってみると、「ハングリー精神」で生きてきたと思う。それが良かったのか悪かったのか。カゼをひいても薬に頼ろうとはしなかった。体の中には、本来病気を治そうとする力が備わっているものだと信じてきたから。エベレーターやエスカレーターがあっても、乗らないことを信条にしてきた。車内で空席があっても、出来るだけ座らないように努めてもきた。真冬の寒い時でも、薄着で頑張ってきた。今日は、服の上に何枚も服を重ねて、厚手の靴下をはき、厚手の手袋をして出かけた。足は軽快で、体全体が実に楽だった。年齢のことも考えて、そろそろ「ハングリー精神」もほどほどにしようと思う。

2009年12月20日(日) 食べ物だって、自然のままで十分おいしいのだ。

 デパートの入口付近で、長蛇の列を見かけた。「あそこの店のケーキがおいしい」とかいう評判を聞いて、買いに集まってきた人たちだろうと思う。食べ物に興味がない私には、失礼ながら、実にあさましい光景に見えた。
 私は薄味に慣れている。スーパーの「お惣菜」や、親類の家で食事をいただいたりしたとき、とても味付けが濃いと感じる。こんなに濃い味付けでは健康を害するのではないかと思う。それだけ私は薄味に慣れている。薄味でも十分おいしいと思っている。本来、野菜は生で食べてもおいしいのだし、調味料を入れなくても、炊いただけでも、十分味が出るものだ。人間は常に少しでもおいしくして食べようとしてきた。そういう人間という生き物があさましく、その貪欲さが醜く見えて仕方がない。
「健康な胃が最大の調味料」というではないか。健康な肉体と精神があれば、何を食べてもおいしいのだ。

2009年12月19日(土) 「JRふれあいハイキング」に参加して。

 今日は「JRふれあいハイキング」(主催:南大阪歩け歩け協会)に参加した。このような催しには時々参加するのであるが、ただ一心に歩くだけという感じで、つまらない。コースは、険しい道はなく、安心して歩くことができるが、みんなの歩調に合わせて歩くというのは疲れる。自由がない。自由がないから、少し立ち止って見学したいとか、その場で静かに古を偲ぶということができない。写真を撮りながら、気兼ねなく、のんびり歩くということもできない。やっぱり自由に行動できる「単独行」が良い。

2009年12月15日(火) 人間には理解できないことでも、「神」には理解できる。

 鶏の頭脳では理解できないことでも、サルの頭脳では理解できる。サルの頭脳では理解できないことでも、人間の頭脳では理解できる。人間の頭脳では理解できないことでも「神」には理解できる。
 人間の頭脳では、いまだに解明されないでいることがある。宇宙とか、生命の存在である。これらも、人間のような「低級な頭脳」では理解できないだけであって、いわゆる「神」は、何でもないこととして理解されているのだ。私は人間が信仰する宗教なるものは信じないが、このような「神」の存在は信じる。

2009年12月14日(月) 脇道・横道を歩くためには、本道をよく知り、時間的・体力的余裕が必要。

 初めて歩く山道は、状況がわからないので、ガイドブック通りの道を慎重に歩く。三度目ぐらいになると、現地で脇道があると歩いてみたくなって歩く。すると、その脇道の方が私の好みの道だったりする。また、意外な発見があったりする。もちろん、道に迷うと危険なので、いつでも本道に戻れるよう、十分に気をつけている。安全に脇道に入ったり、横道を歩けるのは、本道をよく知り、体力的にも、時間的にも、余裕があってのことである。これは一つの人生訓でもある。

2009年12月13日(日) 歩くことが楽しくて仕方がない。

 歩くことが楽しくて仕方がない。病気の予防ということで歩いているのではない。たんに歩くことが楽しくてたまらないから歩いている。健康のためを考えて、歩いているわけではない。もしかしたら、健康に有害なことをしているのではないかと思うこともあるが、今はただ、歩くことが楽しくて、じっとしておれないから歩いている。歩く理由はただそれだけだ。

2009年12月12日(土) 信仰心がなくても、「神」の存在は信じる。

 人間が創造したものは、一つもない。「発見」はすでに存在していたものを見つけ出したということにすぎず、「発明」はすでに存在している法則、原理を利用しただけのことであり、法則や原理を人間が新たに創造したわけではない。例えば、練習に練習を重ねて、オリンピックで金メダルをとった選手がいたとしよう。金メダルがとれたのも、本人の弛まない努力があったからだと、本人を称賛することが普通だろうが、そのように努力できる人間を誰が創ったのかというと、「神」が創ったとしかいいようがない。だから、私は信仰心がなく、宗教を信じてはいないが、このような「神」の存在は信じている。

2009年12月11日(金) 再び、再び、訴える!!! 男性専用車両を設けよ!!!

 女性専用車両は、痴漢防止のために設けられたということはわかっているが、男性専用車両も是非、設けてほしい。痴漢に関しては、被害者からの申告以外に物的証拠がない場合が多い。疑われたほうも無実を証明することが困難だ。だから、冤罪事件に発展することも多かろう。 「私は無実だ!」と主張しただけで、信じてもらえるだろうか。「男のことだから、悪いことだとわかっていても、つい出来心で」ということもあるから、「あなたやったんでしょう」ということになる。確かにそういうこともあろう。私も将来にわたって、絶対にそういうことはしない、とは言いきれない。しかし、真実していないことを、なんの落度もないのに、したと言われたら、恐ろしいことだ。
 過去に私は、万引きをしたと疑われたことがある。全くの無実であるのに、疑われて、ガードマンに派出所まで引っ張られていったのである。その時は幸いなことに、はっきりと無実であることを証明できる証拠があったので助かった。今から考えてみると、私にも落度があったと反省はしているのであるが、罪人扱いにされることが、どれほど不安で、恐ろしいことであるかを、身をもって知った。
 混雑した車内では、疑われるようなことをしないようにといわれても、無理なこともある。わざと示談金目当てに痴漢をされたと申告するやからもいる。
 携帯電話については、「車内での携帯電話のご使用はご遠慮ください。」とか、「車内ではマナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください。」とか、「優先座席付近では、携帯電話の電源をお切り下さい。」とか、しきりに放送している。もし、男性専用車両を設けることが困難だとしても、「女性専用車両が空いています。女性の方はできるだけ、女性専用車両にご乗車いただきますよう、ご協力をお願いいたします。」と、放送していただきたいものである。

2009年12月10日(木) 物事を一面のみで判断してはいけない。

 山歩きを紹介した本を見ていると、「山頂からの展望は望めない」とあった。山歩きの一つの楽しみは、山頂から見る景色であるから、期待せずに登る。ところが、意外や素晴らし展望であったりする。反対の場合だって、もちろんある。山は季節によって、異なる姿を見せる。夏に登ると、木々の葉が生い茂っていて、展望が望めなくても、冬枯れの季節に行くと、素晴らしい展望を目の当たりにすることができる。一つの季節だけを見て、その山の善し悪しを判断してはいけない。人間だって同じこと。置かれている環境の違いによって、異なった姿を見せ、異なった態度・行動に出る。人間には機嫌の良い時や、悪い時がある。だから、優しい人間になったり、厳しい人間になったりする。要するに、物事を一面のみで判断してはいけないということである。特に噂話だけで、噂の対象になっている人を判断してはいけない。自分の目で確かめよ!

2009年12月 9日(水) 図書館で勤務していた頃の苦い思い出。

 図書館で、図書の貸出・返却のカウンター業務を担当していると、席を自由に外すことができない。カウンター業務が暇な時でも、原則としては、業務に支障がないように、席にじっと座っていなければならない。それで、カウンター業務が暇な時でも、席を外さずにできる仕事として、カウンターで本を読むことにした。ところがこれがいけなかった。私は、仕事の一環としての勉強のつもりで、図書館業務に関する本を読んでいたのであるが、業務中に小説でも読んでいるように見られていた。他人から見れば、そのように見られても仕方がない。カウンターでは「さぼっていません。これこの通り、真面目に働いています」と見られるようにふるまうべきであった。
 当時の私は、仕事中に私語を交わすのは嫌いだったし、仕事中に仕事をさぼろうなど、これっぽっちも考えたことがなかった。クソ真面目な人間だったから、仕事中にした私事といえば、クシャミぐらいだったと思っている。だから、なおさら、そう見られていたことにショックを受けた。なぜその時、弁解しなかったのかと、今になって思う。当時は、自分から言い訳や説明をしようとは少しも思わなかった。結局は、仕事中に、暇だからと言って、自分の趣味的関心から「小説」を読んでいたと思われたままになっていることだろう。今振り返ると残念でならない。これもトラウマになっていることの一つである。愚鈍で無口な私だから、色んなところで、誤解され、そのままになっていることが多々あるのではと想像すると、ぞっとする。

2009年12月 8日(火) 第25回2009なにわ人権展及び記念事業(講演会)に出席。

 第25回2009なにわ人権展―多文化共生社会の実現にむけて―
パネル展示、人権標語・ポスター展示、ビデオでの啓発コーナー
場所:浪速人権文化センター(大阪市浪速区)
--------------------
記念事業
人・愛・ふれあいプラザ(講演会)
演題:ワタシは一体ナニジンなんだろう
講師:ピーター・フランクル(数学者・大道芸人)

2009年12月 7日(月) 「これで満足です」と言える「能力」を持とう。

 山歩きも近畿圏内の日帰りで満足している。旅行も北海道や沖縄の経験はないが、行きたいとは思わない。ましてや海外旅行など、望んではいない。
 お米を炊いた「ご飯」は、それだけでおいしい。飲料水は牛乳やジュースよりも、水道の水で十分だ。山歩きなどで、自分をハングリーな状態に置けば、素朴で、質素なものでも、十分満足できる。これで「満足です」と言える「能力」を持てば、地球温暖化の問題も解消できる。宇宙に飛び出す必要もなくなる。「これで満足です」と言える「能力」を持とう。

2009年12月 6日(日) 素直に喜ぶことができない私は、不幸な人間なんだろうか。

 子供の頃は相撲に興味があり、ひいきの力士がいた。プロレスは力道山の時代だった。外人との試合では力道山のほうを応援した。ボクシングの世界タイトルマッチでは、日本人であるボクサーのほうが勝つことを願った。今ではオリンピックでも、特に日本人のほうを応援するということはない。自分が日本人だからと言って、どうして日本人のほうが勝つことを願わなければならないのか。その理由がわからない。阪神が勝とうが負けようが、巨人が連敗しようが、阪神が優勝しようが、私には関係のないことであるから、プロ野球にも全く関心がない。今、巨人の監督は誰かと問われても、私は答えられない。
 仲間意識は危険だと思う。仲間のすることは正しいとか、仲間だからかばうとか。そのような考えや行動が、引いては差別につながるのではないか。そう思う。「あなたの郷里はどこですか」「青森です」「え、青森ですか。実は私も青森なんですよ」。郷土が同じという、ちょっとした共通のことがきっかけとなって、親しい関係になる。県人会などといった集団や、学校の同窓会なる集まりも発生する。よく考えてみるとおかしなことだ。
 世界では、宗教や民族の違いによる争いが絶えない。国家、民族、宗教、言語、習慣、出身地、主義主張などが違っても、違いを認め合うこと。それが大切なことだと思う。
 とはいえ、人間は所詮、感情の動物であるから、こうあるべきとわかっていても、できっこない。もし、感情をおさえて、冷静、沈着、客観的に物事を眺めて、理想の姿が達成され、戦争と言った殺し合いがなくなることは素晴らしいことだ。けれども、いわゆる娯楽に属するようなことまで、感情をおさえて、冷静、沈着、客観的に眺めて、理想を追求し過ぎると、自分自身の人生や人間関係が味気ないものになるのではないかとも思う。オリンピックで日本人が勝っても、素直に喜べない私は不幸な人間なんだろうか。

2009年12月 5日(土) 野口健(アルピニスト)講演会に出席。

 場所:御堂会館、演題:エベレスト清掃登山、富士山麓のゴミ問題、その他環境問題。開演:午後1時。

2009年12月 4日(金) 初めて「フリーハイキング」に参加。

 今日は初めて「フリーハイキング」なるものに参加した。近鉄の「駅長お薦めフリーハイキング」である。
「フリーハイキング」とは、あらかじめ決められた時間内に、決められた場所に行き、そこでモデルコースの地図をもらい、各自この地図を参考にして、自由なスタイルで歩くというもので、係員は同行しない。

2009年12月 3日(木) 道を間違えても、道に迷ってはいけない。

 山歩きには沢山の人生訓が含まれている。
「道を間違える」とは、分岐点で右の道に行くべきだったのに、左の道へ行ってしまったというような場合のことである。時間や労力を無駄に費やすことになるが、間違いに気づいた時点で、分岐点まで戻り、正しい道のほうを行けばいいだけのことだ。一方、「道に迷う」とは、分岐点まで戻ろうとしても、その分岐点がどこだったか、わからなくなってしまうような場合のことである。つまり、自分が今いる場所がどこかがわからなくなってしまう。これは危険だ。道の入口や出口を探して、無鉄砲に歩きまわることになる。無駄に時間や労力を費やすことになる。危険な道に突き進んでいることに気づかないでいる。冒険をするのもいいが、いつでも分岐点(原点といってもよい)に戻れるようにしておかなければならない。

2009年12月 2日(水) 常識なんて糞くらえ!

 乗客がみな、携帯電話の画面に釘づけになっていて、車内が異様に静かである。こんな将来を想像した情景を、何かの広告で見たことがある。まだ、携帯電話がほとんど普及していなかった頃の話である。誰もが持つほどに普及した今、そんな情景を現実に見かけることがある。最初は異様と感じた光景も、見慣れてしまえば異様でも何でもなくなるのである。
 袈裟を着て、バイクに乗って檀家回りをしている坊さんは、今では普通に見かける。最近では袈裟を着ながら自動車を運転している坊さんを見かけた。
 茶髪は不良の象徴だったが、今では判断材料にはならない。
 シャツをはみ出して着ていても、それが一つのファッションだとなると、非難するわけにもいかない。好き嫌いの感情は別にして。
 新しいことをやり始めるのは、最初は少数者だけれども、いずれは多数を占めることになる。
 少数者、少数意見は間違いというわけではない。反対に、多数の人がそう考えるからといって、そう考えるのが正常で正しいのだと限ったものではない。常識を疑って見るという、柔軟な頭を持とう。

 少数意見を主張するのは疲れるが、間違っていないと思うなら大いに主張しよう。
「好き」「嫌い」は誰にでもある。感情的なものだから、個人の勝手だ。だから、シャツをはみ出して着ている人を見て、そんな姿はだらしがないことであるから「嫌いだ」と言うのはいい。だけど、「あなたは間違っている」とまでは言えない。「好き」「嫌い」と言うのは個人の自由だが、「あなたは間違っている」とまで指摘するからには、十分に納得できる理由、理屈が必要だ。納得できる理由も理屈もなく、たんなる感情だけで「あなたは間違っている」というのは、その人を侮辱していることになる。他人を批判するには、考え抜いた理由、冷静な判断、他人が聞いても納得できるものがなければならない。
 だから、私の意見や感想について、「好きだ」「嫌いだ」というのは自由である。そう言われても反論する気持ちはないが、深い思考もなく、いわゆる「常識」程度の判断で、「あなたは間違っている」と言われると心外だ。反論もしたくなる。
私の主張することは、少数意見かもしれない。時には異常で特殊で容認できない意見があるだろう。「好きです」「嫌いです」は自由におっしゃってくださって結構。好き嫌いの判断は個人の自由だがら。だが、「私はあなたが嫌いです」と言われてもショックを受けないが、たんなる「常識」だけで「あなたの主張、意見は間違っている」と言われることには容赦できない。常識にとらわれずに、もっと根本的なことに目を向け、深い思考の結果での指摘であってほしい。たんなる「常識」なるもので判断されては困るのである。たんなる「常識」を根拠にして、安易に他人の意見を否定したら、あとであなたこそ恥をかくことになりますぞ。
「大きな声であいさつしよう」というが、大きな声であいさつができないで悩んでいる弱い子供がいる。常識にとらわれず、少数者にもっと目を向けてください。

2009年12月 1日(火) なつかしい「匂い」。

 下山し、民家の横を通り過ぎる時、小窓からサバの煮つけの匂いがしてきた。なつかしい匂いだ。小学生の頃、学校が引けると、家の近くの公園でお友達とよく遊んだ。夕食の時間になると、お母さんが「ごはんやでー」と呼びに来た。家の玄関に入ろうとすると、台所の窓からサバの煮つけの匂いや、香ばしい醤油の匂いや、ふっくらと炊けているであろうご飯の匂いがしてきた。そんな頃から、何十年もの歳月が過ぎた今、そんな匂いが、どこからともなく匂ってきたりすると、子供の頃のことが思い出されて、なつかしく思う。
 最近はたき火をしなくなった。ダイオキシンとかいう、有害な物質をまき散らすことになるかららしいが、たき火というのは、冬になるとよく見かけたものだった。このたき火を山歩きの帰りに、農家の近辺でよく見かける。このたき火の「におい」もなつかしい「におい」だ。
「におい」は、悪い「におい」は「臭い」と書き、良い「におい」は「匂い」と書く。汚水の「におい」は「臭い」であり、花の「におい」は「匂い」なのである。サバの煮つけの「におい」は「匂い」だろうが、たき火の「におい」はどうだろう。たき火は有害な物質をまき散らし、昔のことを思い出させて、私を切ない気持にさせるが、私にとってはなつかしい「匂い」である。




▼戻 る▼