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2010年 6月27日(日) 私の「歩幅」「歩行速度」


 出かける時には、腰に歩数計を装着して出かける。正確ではないにしても、歩数が分かれば歩行距離が分かる。ただ、山歩きのような階段や坂道では、正確な距離の把握は期待できない。今回、山歩きではなく、平地の長い距離を何度か歩いたので、少しは自分の正確な歩幅、歩行速度が分かるのではないかと思い、集計し、平均値を出してみた。
5月29日     大阪→京都    約46km 13時間     72,800歩
6月14日     大阪→神戸    約31km 10時間     53,500歩
6月16日     大阪→奈良    約39km 10時間50分  62,500歩
6月18日     大阪→宝塚    約26km  8時間     41,100歩
6月19日 20日 大阪→富田林   約24km  8時間30分  47,300歩
6月21日     大阪→千里中央  約13km  3時間50分  22,500歩
6月22日     大阪→河内長野  約30km 11時間40分  60,400歩
6月27日     大阪→貝塚    約30km 11時間40分  66,500歩
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合計                約239km 77時間30分 426,600歩

私の「歩  幅」:約56cm(←239km÷426,600歩)
私の「歩行速度」:約3km/時間(←239km÷77時間30分)
私の「歩行歩数」:約5,500歩/時間(←426,600歩÷77時間30分)

2010年 6月19日(土) 地球は意外と小さいものだ。


 数ヶ月前に、ふと本屋に立ち寄り、目にした本。それが『震災時帰宅支援マップ』(昭文社発行)という本(本というより地図)である。震災時に徒歩で自宅まで安全に帰るためのサポートをしてくれる。今の私は歩くことが好きだから、震災時のためということではなく、ただ歩きたいという気持ちから、ここで紹介されているルートをすべて歩いてみたいと思った。その一日目が先月の29日(大阪〜京都、約46km)であった。今月に入ってからは、14日(大阪〜神戸、約31km)、16日(大阪〜奈良、約39km)、18日(大阪〜宝塚、約26km)。そして、今日は大阪〜富田林、約24kmを試みたのであるが、雨が激しくなり、そのためほぼ中間点に近い松原で断念し、残りは次の機会ということにした。
 歩きに歩いて、何を感じましたかと聞かれたら、「地球って、意外と小さいものですね」と答えるだろう。決して「地球って、大きいものですね」とは答えない。千里の道も一歩から始まるのだ。おそれることはない。

2010年 6月15日(火) 競争原理にあおられてはならない。競争するなら自分自身と競争せよ。


 私には関心のないことだが、国際的なサッカー大会で、日本が勝ったと世間が騒いでいる。私は、相手を打ち負かして喜ぶよりも、昨日の自分自身と戦い、昨日の自分自身に打ち勝つことにより、より強い自分に成長していく自分の姿と、その成長の過程を喜びたいと思う。
 競争原理によって、人間や社会が成長すると言われるが、競争原理にあおられたり、惑わされてはならない。喜びは他人を打ち負かすことにあるのではなく、むしろみんなで協力し合ってことを成し遂げるところにあるべきではないかと思う。
 私は毎日のようにウォーキングに励んでいるが、他人を打ち負かそうと考えているわけではない。喜びは他人を打ち負かさなくても、自分自身に打ち勝とうとする行為でも得られるのだ。

2010年 6月 3日(木) ノコギリにまつわる、幼い頃の思い出。


 幼い頃、父の日曜大工を手伝ったことがある。そこで私は一本の角材をノコギリで切ることになった。私はまだ幼かったので、ノコギリを扱うのは初めてであったのではないかと思う。私は、要領がわからなかったので、ただむやみにノコギリを押しては引いていた。父はそんな私を見て、「ノコギリは引く時に切れるのであるから、押す時には力を抜いて手を休め、引く時にグイと力を入れて引くのだ」と言った。何でもないことではあろうが、その時の私は「なるほど」と思った。親は幼い子の前では、身近で第一番の良き指導者であらねばならないし、第一番の良き指導者となりうるのである。

2010年 6月 2日(水) アイスキャンデーにまつわる、幼い頃の苦い思い出。


 夏になると思い出す、幼い頃の苦い思い出。それは父の里帰りに同行した時のことである。親戚のお宅にお伺いしたら、暑い季節だったので、アイスキャンデーが出された。アイスキャンデーは皿の上に置かれていたのであるが、私は手を出さなかった。度々親戚のおばさんから、食べるようにすすめられたのであるが、いつまでも手を出さずにいた。そのため、アイスキャンデーは皿の上で溶けてしまった。私はどうして、その時、食べようとしなかったのだろうか。 幼心に、すすめられてもすぐに手を出すのははしたないことであるというような気持でいたのではないかと思う。父はその間、親戚の人との話に夢中になっていて、私のことなど眼中になかったのだろう。父のほうからは何の働きかけもなかった。大人にはわかることでも、幼い子にはわからないことがある。あの時、父のほうから一言、「いただきなさい」という助言があれば、躊躇なくいただいていたことであろう。親は幼い子の前では、身近で第一番の良き指導者であらねばならない。

2010年 6月 1日(火) 「常識」を疑ってみよう。少数意見に耳を傾けよう。


「常識」とは何なんだろう。「常識」に従って生きていると楽かもしれないが、思考はそこで停止してしまっているから、根本的なところから問題にしなければならない時には、「常識」というものは役に立たない。役に立たないどころか、邪魔な存在になる。
「常識」を打ち破らなければ、差別の意識や偏見はなくならない。差別されるのはいつも少数意見、少数者の側なのだから、差別の意識や偏見をなくすには、少数意見、少数者の考えに耳を傾けるべきだ。多数者に都合のよい考え方を「常識」というのであって、決して「常識」が、正しいと限ったものではないのであるから。



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