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2011年 1月19日(水) 積極的にエコに協力している店で買い物をしましょうね。

 ある量販店に電池を買いに行った。勘定場で「古くなった電池は、この店で回収してくれるのですか?」とたずねた。店員は難しそうな顔つきで「回収はしますが・・・」と答えた。「ここに持ってきたらいいのですか」と聞くと「ここでいいですが・・・」と、口ごもったような返事だ。しばらく間があって、「いきなり古い電池だけを持ってこられると『うん? 何?』ということになりますので・・・」と言う。要するに、この店では積極的に回収しているわけではなさそうだ。この店で何かの品物を買ったついでなら、ということらしい。みなさん! 積極的にエコに協力している店で買い物をしましょうね。

2011年 1月18日(火) 商売人よ、梅岩の教えを学べ。

 梅岩は言う。「正しい心で商売をしなければならない。商売を通して正直な心を養えば、おのずと客の信頼を得ることができる。商売の原点は、一時的な安売りや小手先のサービスではなく、私心のない真っすぐな心だ。」
 現代は「正直」が疎んぜられ「駆け引き」が横行している。商売人よ、今こそ先哲、梅岩の教えを学ぶべきではないだろうか。
(梅岩は江戸時代の思想家で倫理学者、石門心学の開祖)

2011年 1月17日(月) 恋愛映画の古典的名作「カサブランカ」を観る。

 インターネットの動画サイトで「カサブランカ」(1942年 アメリカ作品) を観た。「第二次大戦下、フランス領モロッコのカサブランカで、運命的に再会した男女の別れをドラマティックに描き、アカデミー賞作品賞を受賞した恋愛映画の古典的名作」ということだが、私には期待外れの作品だった。イングリット・バーグマンの「美貌」だけが、わずかに心に残っただけである。

2011年 1月16日(日) 映画史に輝く不朽の名作「風と共に去りぬ」を観る。

 インターネットの動画サイトで「風と共に去りぬ」を観た。前編と後編に分かれていて、合わせて4時間近い大作である。「南北戦争当時のアメリカ南部を舞台に、炎のように激しく生きたスカーレット・オハラを描く、映画史に輝く不朽の名作」(紹介文より引用)である。(1939年アメリカ作品)

[登場人物]
スカーレット・オハラ・・・この映画のヒロイン。男を翻弄させる美貌の持ち主だが、気が強く、計算高く、極めて自己中心的な人物である。
メラニー・・・アシュリーの妻。病弱だが芯は強く、スカーレット・オハラとは異なり、心優しく純真で健気な女性で、いわゆる「良妻賢母型」の女性である。
アシュリー・・・メラニーの夫。名家出身で教養もあり、紳士的な長身の美青年。スカーレット・オハラから恋い慕われる。
レット・バトラー・・・粗暴で、悪事も平気ではたらくが、自分の子供を溺愛するという優しい面もある。

 映画、登場人物に対する評価は、色々ある。なぜこれが名作? という人もあるが、感動的で、涙を誘う場面もあった。
 人は何に感動し、感動させられるのだろうか。人間の真面目さ、健気さ、純真さであろう。気の強い女がふと見せる「弱さ」や、粗暴な男がふと見せる「優しさ」などである。。
 また、ヒロインを醜い風貌の女が演じたとしたら、みんなが賞賛するほどの映画に仕上がっただろうか。「人間は理性ではなく、感情で行動する下等な動物である」から、外見の美醜に惑わされやすいが、最後は、真面目さ、健気さ、純真なこころに感動させられるのである。だから、我々は実生活においても、真面目さ、健気さ、純真なこころを失わずに生きていかなければならない。とても困難なことであろうけれども。

2011年 1月15日(土) 「金(かね)では手に入れることができないもの」こそ、最も大切なもの。

 金(かね)で手に入れることができないものはないと豪語する「大金持ち」がいるかもしれないが、いくら金があっても手に入れることができないものがこの世にあることは確かなことである。この「金では手に入れることができないもの」こそ最も大切にしなければならないものである。「金では手に入れることができないもの」とは何だろう? その一つは、「愛」とでも言っておこう。真の「愛」は「金では手に入れることができないもの」であるが、「金では手に入れることができないもの」とは、別の言い方をすれば「金がなくても手に入れることができるもの」ということである。だから、金がない貧乏人でも、心が豊かであれば、心がけ次第で、「愛」は手に入れることができるのである。「金では手に入れることができないもの」こそ、この世で最も大切にしなければならないものである。

2011年 1月12日(水) ハングリー精神で生きてきたが・・・

 今日まで、ハングリー精神で生きてきた。冬の寒い日でも薄着で出かけた。暖かい格好をして「楽をする」ことに、抵抗があった。どこかで「楽をする」ことに「申し訳ないことである」とか、「情けないことである」とかいった気持があった。
 最近、ある人から厚手のコートをいただいた。薄手のコートは着たことがあるが、厚手はない。例のハングリー精神が働いて、抵抗があったが、じっとしまったままにしておくのももったいないことであるから、この厚手のコートを着て山歩きに出かけた。結果はどうだったかというと、意外にも、いや当然のことであったのだか、すこぶる暖かくて、快調な山歩きが楽しめたのだ。この心地よさを知ったからには、幸か不幸か、もうこの厚手のコートなしでは冬の山歩きはできなくなってしまった。
 もう年齢のことも考えて、やせ我慢やハングリー精神はよそうと決めたのではあるが、性格はなかなか変えられない。別の方面では、まだまだ私のハングリー精神は続くであろうと思う。

2011年 1月11日(火) あなたならどうする? 年賀状について

 親族関係は、ほとんどは義理で出していると言ってよい。葬式があれば親族ということで出席する必要もあるから、相手の住所や家族の安否の確認のためでもある。
 旧職場関係の人たちは、退職後しばらくは出し合うことになるが、数年もすれば、どちらからということもなく、途絶えてくる。途絶えてくるのは、ほとんどは深い付き合いではなかった人たちである。深い付き合いがあったと思われる人たちも、ある一点で結ばれていただけの人たちであろうし、職場での上司や同僚や後輩という関係があったからで、退職してからも続けていたら、交流が少ない私でも、数百枚という年賀状を、毎年出し続けなければならなくなる。
 年賀状のやりとりがなくても、友人としての交流を続けている人もいる。年賀状は歴史的にどうであれ、良い習慣だと思えば、そうすればいい。反対に、意味がないと思う人がいてもいい。
 こちらから出すことはしなかった人でも、いただいた方には必ずお返しする。ただ、商売をされている方など、最初から儀礼的に出されていると思われる方は別だ。
 こちらが出したのに、先方から返事がない。こちらから挨拶をしているのに、返事がいただけないのであるから、こちらとしては気分がよろしくない。ただ、年賀状の場合、義理でやりとりしている場合が多いので、相手の気持ちを感じ取って、こちらから出しても、二年に渡って返事をいただけない場合は、三年目からは出さないことに決めている。それでも、ひょっこりいただくこともあるが、その場合、いただいたからには、必ずお返しする。
 深い付き合いもなかった数名の方から、毎年いただく。私という人間は、相手にとっては何十名や何百名のうちの一人にすぎず、今は忘れられた存在で、ただ事務的に出されているだけかもしれない。こちらとしてはそれほどの関係ではなかったのに、私と言う人間に、特別の興味を持っていただいているということであれば、ありがたいことでもあるが、たんに事務的、儀礼的に出されているということであれば、こちらからお断りしたい。ただ、真意が知れないので、こちらから出さない場合でも、いただいたからには出す。出さないと、挨拶されて黙っているようなものだからである。
 山歩きをしていて、人と出会ったときは、互いに挨拶を交わすのがマナーといわれる。一時でもいいから、人間社会のゴタゴタを忘れたいという気持ちで山の中に入っているのに、こんなマナーを誰がどこで作ったのだといいたくなる。そんなに挨拶を交わすのが嫌いな私でも、相手が挨拶をすれば、挨拶の言葉を返す。
 一言、添え書きをするのが良いとされている。確かに、ワープロで印刷された文字ばかりのところで、文字数が少なくても、一言添え書きがあれば、親近感が出る。それでも、私は添え書きをしない。その理由は、字がヘタだからということもあるが、添え書きは、技巧的で、わざとらしいことであるから、私の性格にあわない。そう、私のへそは曲っているのである。

2011年 1月10日(月) ことわざ「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」について。

 「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」ということわざがある。その意味をある事典から引用すると「知らぬ事を聞きただすのは、そのときは恥ずかしい気もするが、聞きたださなければ一生その事を知らず、常に恥ずかしい思いをしなければならない。」ということらしい。
 このことわざを自分の都合のいいように解釈して、事前に調べるということもせず、他人に聞きまくっている人がいる。聞くは「一時の恥」と言うことだから、一時でも「恥」に変わりはない。「一時の恥」なら許してやろうということであり、「二時」「三時」と恥を重ねることは許されない。そう解釈したいものである。
 「単独行」の山歩きでは、頼りになるのは自分ひとりである。道に迷ったからといっても、聞く人がいない。たまたま運よく人に出会ったとしても、安易に道を聞いてはいけない。聞いた時点で「遭難」したものと理解しなければならない。それだけの覚悟で、それなりの装備(地図、コンパスなど持参)で出かけるべきである。自戒をこめて。

2011年 1月 7日(金) 山歩きは、道迷いに注意! 時間と体力に余裕を持って!

 今日は京都の嵐山付近を散策した。「嵐山」という名は、観光地の名称として有名だが、「嵐山」という「山」があることを御存じでない方が多いのではないかと思う。過去に幾度か登ったことがある低山だが、低山だからといっても、侮ってはいけない。嵐山に登頂後、その先の烏ヶ岳(これも低山)まで足を伸ばそうとしたのであるが、一度は踏んだことがある烏ヶ岳の山頂を、見つけることが出来なかった。残念な気持ちを抱きながら、やむなく来た道を戻ることにした。ところがである。途中で違う道に迷い込んでしまった。一本道を進んで来ただけだから、単純に一本道を戻ればいいだけだ、と安易に考えていた。これがいけなかった。一本道に見えた道でも、逆に辿ると、枝道がたくさんあることを知らされたのである。とにかく山では「道迷い」に注意! そして、時間と体力に余裕を持って! そんなことを自戒した一日であった。

2011年 1月 4日(火) 病院に隔離収容しなければならないのはどちら?

 精神に異常があるからという理由で病院に隔離収容されている人がいる。異常になった原因は何かといえば、性格が「真面目(まじめ)」過ぎたから。一方、病院の外では、「不真面目人間」がはびこっている。「嘘も方便」ということわざがある。だから、嘘をつくのは当たり前。過大広告など、だれも批判しない。二番ではだめで、一番でなければ意味がないとされる競争社会。「過大広告や嘘の広告にだまされた」と文句を言うと、「だまされたほうも悪い」と言われるどころか、「だまされたほうが悪い」と言われかねない。嘘の一つもつけない人間は、この社会では生きる権利がないかのように扱われている。病院に隔離収容しなければいけないのは、どちらのほうなんだろうか。

2011年 1月 3日(月) 噂だけで人を評価してはいけない。対話が大切。 

 噂話には意外と真実が含まれている(かもしれない)が、噂だけで人を評価してはいけない。変人、奇人と噂されている人も、その人と深く付き合ってみると、噂ほど奇人でも変人でもないことがわかったりする。相手を理解しようとするならば、相手との対話の機会を頻繁に持つことだ。国と国との関係でも、対話がなくなれば、戦争になる。要するに「話せば分かり合える」ということだ。

2011年 1月 2日(日) 信仰心のない私ですが・・・ 

 虚空蔵山に登った帰りに、中山寺に寄りました。信仰心のない私ですが、奥の院まで登り、母が健康で長生きすることと、キョウダイが仲良く生きていけるよう祈願しました。

2011年 1月 1日(土) 2010年(1月〜12月)の山歩き等の日数・歩行時間・歩行歩数のまとめ

2010年(1月〜12月)
01月  13日    67時間   325,400歩
02月   9日    60時間   280,800歩
03月  19日   107時間   473,300歩
04月  22日   130時間   594,500歩
05月  21日   141時間   646,200歩
06月  19日   131時間   642,800歩
07月  16日   108時間   475,900歩
08月  16日    94時間   423,400歩
09月  23日   128時間   618,000歩
10月  23日   122時間   585,600歩
11月  24日   142時間   686,400歩
12月  18日    85時間   425,500歩
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合計  223日  1315時間  6,177, 800歩
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(注1)出かけた日数は223日。
(注2)出かけた日は、1日平均約6時間(約28,000歩)歩いたことになる。
(注3)歩幅を40cmとすると、1年で約2470km歩いたことになる。大阪東京間の片道距離を500kmとすると、大阪東京間を2往復半した距離になる。

2011年 1月 1日(土) あけましておめでとうございます 



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