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2011年 2月27日(日) 「男性専用車両」を設けてください!

「女性専用車両」が設けられた理由は、痴漢対策からということは理解しているが、同時に「男性専用車両」を設けるべきであると思う。
 痴漢行為では、疑わしくは無罪という法原則はなく、疑わしくは有罪とされてしまう。無実を証明することは難しいので、しばしば冤罪事件として問題になっている。こちらでは気にしないで振る舞っている行為が、どんな誤解で「痴漢」扱いにされるかわからないのであるから恐ろしい。
 できるだけ女性には近付かないようにするしかないが、混雑している状況では、個人の努力にも限界がある。「女性の方はできるだけ女性専用車両にご乗車いただきますよう、ご理解とご協力をお願いいたします」とでも、車内放送をしていただきたいものである。痴漢の被害から女性を守るために「女性専用車両」があるのならば、同時に、痴漢の嫌疑をかけられると困るという男性のために「男性専用車両」を設けると言うのが、正しい男女平等思想というものであろう。

2011年 2月20日(日) 時々は自分の行動を冷静に点検し、見直す余裕が必要ですね。

 電気ストーブの差込プラグをコンセントに差し込もうとしたら、「バシッ!」という音とともに火花が飛び散りました。こんなことは初めてのことでしたが、原因がすぐに分かりました。電源コードの劣化によりショートしたのでした。毎日、気にせず行っている行動に、大きな危険が潜んでいるかもしれません。時々は自分の行動を冷静に点検し、見直す余裕が必要ですね。

2011年 2月16日(水) 自然の美に優る美はない。

 山歩きを終え、バス停でバスが来るのを待っていました。ふと見上げると、漆黒の空に満月(正確には二日後の17時36分のようですが)がぽっかりと浮かんで見えました。シンプルながらも、実に神秘的で、どんな造形美術品よりも美しいと感じました。「花鳥風月」ということばがありますが、昔の人は「花見」や「月見」といって、「自然」をそのままに美しいものとして、愛で楽しんだのですね。人間が手を加えなくても、美しいものがある。むしろ手を加えないものにこそ、感動的な美が隠されている。そんな気がします。着飾らない、「自然」のままの美しさに現代人はもっと気づくべきではないかと思います。

2011年 2月13日(日) 人生、「普通」に生きていければ、ただそれだけで幸せ!

 人生を「普通に」生きていければ、とても幸せなことだと思います。「普通であること」「普通に生きていられること」に感謝しなければなりません。「特別幸せなこともなく、退屈な人生だなあ」なんて、不満を言ってはいけない。何かと争いや不幸な出来事に出会うのが人生なのですから。
 健康な胃が最大の調味料と言います。健康であれば、何でもおいしく食べられます。お米を炊いた「ご飯」に、ちょっとお塩を振りかけただけで、いいえ、お塩を振りかけなくても、「ご飯」そのものに「味」があって、「ご飯って、こんなにおいしいものだったんだ」と、思い知らされたことがあります。人間はおいしさを追求し過ぎて、いわゆる「舌が肥えてしまって」、素朴な、食材が本来持っている味を忘れてしまっていることがあります。そもそも「まずい」と言う前に、今食べるものがあるということに感謝しなければなりません。
 寒い外から帰ってきて、内ぶろの温かいお湯につかっていると、有名な温泉に入らなくたって、「ああ、幸せ!」って感じます。物事は気持ち次第です。「毎日の何気ない小さな幸せ」を大切にし、「小さい」から、つまらないことととらえずに、それに感謝する気持ちがあれば「大きな幸せ」を感じることができるのです。

 

2011年 2月10日(木) 「食育」について。 無駄な殺生はしない。ほどほどにしておけ!

 「食育(しょくいく)とは、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。」 (フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)

「食育」の一環として、食肉用の家畜を育てて、それを屠殺して食べる授業を実践している学校があるそうです。屠殺現場を見せて、生き物を殺すことの罪深さを知らしめるべきである、と私は常々思っていますが、そこでは、どのような授業が行われているのでしょうか。命の大切さを言いながら、一方で、他の生命の犠牲の上で自己の生命を維持せざるをえないという現実があります。この矛盾をどのようにとらえ、どのように理解させればいいのでしょう。本当にそこで「正しい教育」が行われているのでしょうか。
   畜産業を営む方から、「家畜は人間に食われるために生まれてきたのであるから、人間に食われて本望なんだ」という声を聞いたことがあります。正直に言って、これは人間側の勝手な解釈であると思います。こんなことは「言わずもがな」ですが、屠殺される側の牛や豚に発言できる能力と機会があれば、きっと「殺さないでくれ!」と叫ぶに違いありません。
「残さずに食べることで、食べられるほうがむくわれるのです。」という、人間側の勝手な理屈を教え込んでいるんじゃないでしょうか。牛や豚は、「残さずに食べてください。でないと私はむくわれません。」なんて、言っているわけではないでしょう。殺される側の気持ちが分かっているかのように言うのは困ります。
「残さずに食べることで、食べられるほうがむくわれる。」そんな理由づけをしたあとで、「おいしいおいしい」と舌鼓を打って食している。どこかおかしいと思いませんか。生き物を殺して食べることは、実はとても罪深いことなんです。どう考えても正当な理由が見つからない。そんな罪深い行為を、少しでも正当化しようとして「残さずに食べることで、食べられるほうがむくわれる。」なんていう、奇妙で、理解不能な言い方が生まれてきたんですね。
 私は、生きている牛、豚、鳥を、自分の手で殺すということができない「小心者」です。「おいしい、おいしい」と言って、高級レストランで牛肉を食しているあなた! あなたは、自分の手で牛の喉をかき切って殺すことができますか。屠殺現場を正視できますか。さばかれた肉を料理することができても、生きている牛や豚の喉をかき切って殺すことまではできないことでしょう。でも、料理されて出された肉は、なんの抵抗、疑問もなく、食することができる。どこかおかしいと思いませんか。
 世の中には生きていくためには、仕方がないということがありますが、「無駄な殺生はしない。ほどほどにしておけ」というのも正解の一つではないかと思います。 「しゃぶしゃぶ・すき焼き食べ放題! 時間無制限! ゆっくり肉のおいしさを堪能できます!」とか、「ログハウスに泊って、カニ三昧!」とか、そんなキャッチフレーズにむかついている私です。だから私は「グルメ」には決して与しないのです。

2011年 2月 7日(月) 某学校長のブログ「校長だより」を読む。

 二年前に校長に就任された某先生のブログ「校長だより」を最初から最近のものまで、読ませていただきました。あくまでも校長としての職務を優先しながら、合間の時間を使って書かれたもののようです。教師と生徒とのあるべき関係などが、押しつけがましくもなく、ユーモアやエピソードを交えて、教育者としての熱い思いが語られています。始業式や終業式での生徒に対するメッセージも、その都度掲載されています。
 インフルエンザの流行で、教育現場では修学旅行や体育祭や文化祭などの学校行事が相次いで中止されている頃、煩悶の末、色々な教育的な観点から、文化祭を実施するという決断を、校長としてされたことなど、教育現場の苦労も語られています。
「たとえ自分の子供であっても、子供を育てるということは難しいことです。厳しく育てればいいというわけでもない。厳しく育てたからといって、立派に育つと限ったものでもない。放任はいけない。愛情をかけて育てなければならないとも言われるが、放任されても、健康に育っている子供もいる。これらは全て「一概には言えない」ことであるから、子供を育てることは非常に難しいところがある。」先生は、個人の経験からこのようなことを述懐されています。  教育のプロと言われる先生にとっても、子供を育てるということは「難しい」ことなんですね。

2011年 2月 6日(日) 太宰治『パンドラの匣』を読む。

 昨日、ハイキングの帰り、近鉄生駒駅に向かう途中、日下・石切周辺を散策していたのですが、「くさか山」への道を案内する小さな標識を見かけました。「山」とあれば登ってみたくなり、「くさか山」についての予備知識はなかったのですが、さほど高い山でもなさそうなので、寄ってみることにしました。
 民家の間から少しばかり登るとすぐ池(日下新池?)があり、そこから全貌が見える小さな山でした。山頂を目指して登り始めたのですが、途中で「この先、行き止まり 危険ですので入らないでください。」という看板が目立ち、日暮れも迫っていましたので、登頂はあきらめ、眺望の良い登り口付近から写真を撮るだけにしました。
 登り口には「太宰治」の名や、「パンドラ」という言葉が出てくる看板があり、この辺りは、太宰治ゆかりの地なんだということが想像できました。詳細は帰宅後にネットで調べることにしました。
 太宰治の作品に『パンドラの匣(はこ)』という小説があります。昭和12年〜17年秋ごろまで、「くさか山」がある日下(くさか)新池(東大阪市日下町)の畔に、健康道場として結核療養施設がありました。ここで療養していた人の病床日誌を題材に、太宰治が、戦後に小説化したものです。太宰治の生誕100年となる2009年には、映像化されています。
「日下山を市民の森にする会」では、健康道場の跡地を「パンドラの丘」として、日下山一帯の整備と保全活動が続けられているそうです。
※太宰治の小説『パンドラの匣』はインターネットの電子図書館「青空文庫」で、無料で読むことができます。

2011年 2月 1日(火) 小鳥の「偽傷」行動を間近に見て、感動させられました。 

 今日、羽束山と宰相ヶ岳に登ったあと、花山院・有馬富士公園に向かう途中の県道68号線沿いで、鳥の「偽傷」行動を見ました。うまく写真に撮れたのですが、写真1枚だけでこの行動を理解していただくのは困難と思いますので、ちょっとばかり解説しますと、「偽傷」とは、けがをしたように振る舞い、敵の注意を自分に向かせて巣から遠ざけ、卵やひなを守ろうとする行為のことです。こんな予備知識がなければ、本当に羽根をけがして飛ぶことができずにもがいているだけとしか見えなかったことでしょう。自分の命を犠牲にしてまで、卵やひなを助けようと、何度も羽をばたつかせ、けがをしたように足を引きずる行為を繰り返す。そんな姿を間近に見ていて、実に痛々しく、本能とはいえ、その健気さに感動させられた一日でした。