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2011年 5月25日(水) 飼い犬や飼い猫は、最後まで面倒をみる覚悟で飼うことである。

 大野川緑陰道路を歩いていると、老婆が野良猫に餌をやっていた。公園では「猫や鳩に餌を与えないでください」という看板をよく見かける。餌を与えると、そこに住み着いてしまって、いわゆる「糞公害」などで、近隣の住民が被害を被るからである。六甲のイノシシも条例で、一定の地区内では、餌を与えてはいけないことになっている。違反しても刑罰はないが、注意や指導のようなことを受けるらしい。確かに、一時の「可哀そう」という感情で餌を与えるのは良くないことだとは思うが、「可哀そう」という感情は大切にしたいものである。
   野生のイノシシは、人間から餌をもらわなくても生きていけるだろうが、野良猫はどうなんだろうか。もとは人間に飼われていたことだろうから、人間から餌をもらわなければ生きていけないのではないだろうか。そうならば、「猫に餌を与えないでください」というのは酷い話である。見殺しにしろと言っていることになる。可哀そうという気持ちから餌を与えているのなら、自分で飼えということになるが、そこまでは出来ないのが現実だ。本来、捨てた飼い主が悪いのである。飼い犬や飼い猫は、最後まで面倒をみる覚悟で飼うことである。

2011年 5月23日(月) 「常識」を疑ってみよう。―「あいさつ」について―

 常識に従って生きていけば、楽に生きていけるのであろうが、つい本質的なところまで考えて「常識」なるものを疑ってしまうのが私の性癖である。他人からは、たんなるへそ曲がり人間に見られているだけであろう。この日記で「非常識」なことを多々書いてきたが、誤解があってはいけない。私としては、一時の冗談や、戯れで言っているのではない。常に真面目に、真剣に考えて言っているのであるから、真面目に、真剣にとらえていただきたい。
 こんな話がある。もう数年前のことであるが、別に立ち上げた私のホームページに、「掲示板」というものがあった。私は単独行の静かな山歩きを、この上ない趣味として楽しんでいるのであるが、この掲示板に自分の正直な気持ちとして、「山で出会ったら、お互いにこんにちはとあいさつを交わすのがマナーとされているが、出会っても、お互いに黙って静かに通り過ぎることがマナーであればいいのになあ〜」と、「常識外れ」なことを書いた。早速、一登山者という方から、「あなた様は」と丁重な言葉で(もちろん私には慇懃無礼な言い方に聞こえたのであるが)、「あいさつするのは常識である」と、全くストレートなご意見をいただいた。私には常識を知らないところもあろうが、今般は「常識」を知った上で言っているのである。騒々しい人間社会から一時でもいいから、逃れられるところがあってもいいではないかという気持ちがあっての意見である。
 京都に「哲学の道」と言われる小道がある。有名なところだから、ご存知の方が多いことだと思う。哲学者の西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われている。西田幾多郎はこの道で人に出会うたびに、あいさつを交わしていたんだろうか。そんな状況下でも「思索にふける」ことが出来るものなんだろうか。そもそも当時は有名なところでもなかったから、人通りもほとんどなく、そのため「散策しながら思索にふける」ということが、容易に出来たんだろうか。西田幾多郎は思索にふけっていたため、出会ってもろくにあいさつもしなかったんだろうか。また、この道を通る人は心得ていて、思索の邪魔になってはいけないと、声もかけなかったのだろうか。
 私が、耳が不自由で、またうまく言語を発することが出来ない人間であるとしたら、そして唯一の趣味、生き甲斐が、単独の山歩きだとしたら、こんな「常識」「マナー」のために、私の人生は台無しにされてしまうのである。
 常識は少数者(少数者は、多くの場合、「弱者」である。)の意見を無視したところに成り立っている。 何度もこの日記で書いてきたことだが、多数者の意見が正しいと限ったことではないのである。全員一致の意見に従って行動に移せば、問題はないのだが、「全員一致」ということは、多くの場合、ありえないことである。全員一致を待っていては事が進まない。それでは困るから、多数意見(これを「常識」と言ってもいい)が正しいものであるかのように扱われて事が進む。少数者の意見の中に、真の平等や正義の精神が含まれているということに気づかなければいけない。多数決で結論が得られても、それで良しとしてはいけない。
 あらゆることで言えるのであるが、すべての意見に耳を傾け、すべてのものを優しく受け入れる「寛容の精神」が求められる。この「寛容の精神」は一部の宗教家に見られる。私は、そうすべきであると思っていても、そのように出来ないという俗人である。自省する意味で、今この日記を書いている。

2011年 5月20日(金) 「見学したい方は・・・」という表現について。

 ある幼稚園の入口で見かけた看板である。ここは「したい方」よりも「されたい方」と表現したほうが良いのではないかと思う。「したい方」では「見学させてやる」という雰囲気が感じられて嫌だ。私は敬語に詳しいわけではない。ただ、そう感じただけである。

2011年 5月19日(木) 「くらくなるまであそばない!」という表現について。

 歩いていて、ある小学校・PTAが作成された「くらくなるまであそばない!」と書かれた看板を目にした。その意味は「暗くなったら、何かと危険なことがあるので、遊んではいけません。早くお家に帰りましょう。」ということであろうが、「明るいうちは、遊んではいけません。暗くなってから、遊びなさい。」とも読み取れるのがおもしろい。

2011年 5月18日(水) 「東日本大震災」に思う。自分が今、容易に出来ることから・・・

 実に悲惨なことである。幸いなことに、人間は困った時には互いに助け合うということが出来る。自分に今、何が出来るかと考えてみた時、自分の無力さを思い知らされるのだが、これだけの惨事を自分ひとりで背負うことは出来ないことだし、その必要もない。自分が今出来ることで助け合おう。自分が出来る範囲で、無理をせず、たとえ1円の寄付だって、1億人の人がすれば、1億円になるのだ。わずかの金額だからといって、やめておこうなどと思わず、小さいことでも、自分でも出来るということで、まず「実行」することだ。小さな力がたくさん集まって、大きな力になるのだから。

2011年 5月17日(火) 歩け! 歩け! ゆっくり歩け! ゆっくり歩けば、見えなかったものが見えてくる。

 神社仏閣を訪ね歩くにしても、名所旧跡を探訪するにしても、観光のための旅であろうとも、マイカーや観光バスでは、目的のもの(遺跡や景色。風景など)を、ゆっくりと立ち止って見るということがない。ただ、通り過ぎてしまうだけで、得るものが少ないのではないかと思う。少し立ち止って、見直すとか、間近に見て、感慨に耽るとか、振り返ってみるとかいうことが望まれる。そんな「ゆとり」を持つことが大切だ。
 この「ゆとり」は、心がけ次第で生まれるかもしれないが、やはり、経済的、時間的、精神的余裕がなければいけない。競争がある社会では無理なことだろう。競争であるからには、勝ち負けがあるだろう。競争に追いやられている人間が悲しく見える。競争はスポーツの世界でやればいい。余裕がなければ、見えるものでも見えなくなる(見過ごしてしまう)。他人に配慮する気持ちも起ってこない。

2011年 5月16日(月) 「東日本大震災」に思う。せめて人為的な「戦争」は避けたい。

 3月11日に起った「東日本大震災」は、人間(人類)に大きな反省を促した。人間の知識や技術をはるかに超えるものであった。自然の力は強大だ。だから古来から、山や巨岩など、自然が崇拝の対象にされてきた。自然を侮ってはいけない。「想定外のことだった」と言われるが、その言葉は人間が自然の力に負け、自然の前にひれ伏したということである。
 自然災害は、防ぎようがないこともあるのだから、せめて人為的な「戦争」で傷つけ、殺し合うという行為は阻止したいものである。これは自然災害以上に、防止が難しいことなのかもしれない。「人間は理屈ではなく、感情で動く、超下等な生き物」であるから。

2011年 5月15日(日) 人間は理屈よりも、感情で動く下等動物であるから、「差別」もあって当然?

 出身地や母校が同じとか、そんな理由だけで、互いに親しい感情を持つことがあろう。深く考えてみると、不思議なことである。悪い表現をすれば「人間の感情って、いい加減なものだなあ」と思う。
 県人会、同窓会、囲碁クラブなど、人は何らかの共通点、共通の話題、共通の趣味があれば、それを契機に、一つの集団ができる。理屈としては当然のことだと思う集団もあるが、奇妙な団体もある。後者の場合、見方、考え方、とらえ方によったら、当事者は気にしていなくても、「差別の意識」と変わらない感情が潜んでいることに注意しなければならない。
 「私も以前、そこに住んでいたんですよ」とか、何らかの接点があることで、その人に親しい感情を抱くということも、よくあることである。だから、人間は理屈よりも感情で動くとか、感情に左右されやすい動物であるとか、と言えるのである。
 たまたま所属することになった団体であるだけなのに、別の団体に所属することもあり得たことであるのに、自分が今所属している団体(例えば学校など)が勝利するよう、応援する気持ちになったり、たまたま日本に生まれただけなのに、日本が勝利することを願ったり、たまたま郷里が青森県だから青森の高校が勝利することを願ったりする。
 感情で結びつく関係は不条理だからと言って避けていれば、人間関係が味気ないものになってしまうでしょうね。そこのところが、理屈だけでは解決できない人間関係があり、実に難しいところですね。

2011年 5月14日(土) 人間社会で競争(競争原理)は必要なんだろうか。

 人間社会で競争(競争原理)は必要なんだろうか。「競争があるから社会は進歩する」と言うが、本当にそうだろうか。そもそも社会は進歩しなければならないものなんだろうか。貪欲な人間という生き物の、計り知れない欲望を満たし続けるために、絶えまなき競争と、絶えまなき進歩が求められるんだろうけれど、現状で十分満足しているものにも、この競争(競争原理)というものが、重くのしかかってくる。競争を止め、互いに協力し合う方法で、よりよい社会を目指すというのが、賢い動物と自認する人間の進むべき道ではないのか。「一度立ち止って、よく考えてみよう」なんて言ったら、「立ち止っていたら、競争に負けるではないか」という声が聞こえてくるが。この地球上で最も賢く、最も愚鈍で、最も哀れな生き物、それが「人間」。

2011年 5月13日(金) 「ピックアップ写真集」を作成しました。

 ホームページに掲載した写真の数が数万枚という量になりました。そこで、私の勝手気ままな主観で、特に印象に残ったもの、特異なもの、面白いもの、是非見ていただきたいものなどをピックアップしてみました。今回は2009年までの分を作成しました。「年月日順」「エリア別」「標高順」に並んで、「ピックアップ写真集」がありますので、そこをクリックしていただくとご覧いただけます。