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2012年 4月10日(火) いつも笑顔で?!―常識を疑ってみよう―

 苦しい時は、苦しい顔をすればいい。楽しい時は、楽しい顔をすればいい。他人の意向に沿う必要はない。心の持ちようまで、他人に支配されるのには耐えられない。
 悲しい時には泣けばいい。悲しい時にも「泣くな!」というのは、不自然だ。笑いたい時には笑えばいい。笑いを耐えるなんて、もったいない。
 どうして自分の素直な気持ちを隠さなければならないのだ。他人のために。
 どうして、他人から、偽りの態度を求められるんだ。

大切なこと、それは「自由」。

 いつも笑顔でなんて言われても、笑顔でいられない。悲しい時は悲しい態度、その方が、周囲も理解しやすいではないか。
「いつも笑顔で」って、これがあるべき態度なんだろうか。疑問だね。私は「自然」が好きだ。自然体でいたいね。この世界で最も大切なもの、それは「自然」そして「自然体」で生きるということ。我々は「自然」から生まれてきた。自然は母だ。その母の肌のぬくもりに触れ、一時でもいいから、心穏やかな気分で過ごしたい。だから「自然」を大切にしたい。いつも「自然体」で生きていきたい。いつも自然の中にいたい。人間社会は心を癒してはくれないからな。人間の企てるものにろくなものはないからな。すべて信じられない。すべては欺瞞だ。押しつけだ。体裁を繕っているだけだ。心を癒してくれるもの、それが「自然」だ。山や川や湖や。だから私は「自然」を求めて、山に行くのだ!

2012年 4月 9日(月) 競争社会が人間社会のあるべき姿なんだろうか?―常識を疑ってみよう―

 人間社会には、競争があるのが当然のように思われているが、本当にそうなんだろうか。競争がなく、互いに協力し、助け合いながら生きていく社会が、人間社会のあるべき姿ではないのだろうか。競争があるから社会が進歩するとも言われるが、そもそも「社会は進歩しなければならない」というのは迷信ではないだろうか。
 私は一人で山歩きを楽しんでいる。山中にいる時が私の至福の時である。他人とスピードを競って、日本一になろうとか、世界一になろうとか、ギネスブックにのせてもらおうとか、そんなことを思って、歩いているわけではない。あくまでもマイペースである。もし競争しているとしたら、その競争相手と言うのは、自分自身である。
 初めて登った山は、山頂に至るまで一時間を要した。二度目は50分で、しかも気楽に登ることができた。過去の自分と比較して、実力が付いてきたためであろうから、そのことをうれしく思ったりする。何も他人と競争したり、他人を打ち負かしたりしなくても、十分満足な気分に浸ることができるのである。他人との競争で、他人を打ち負かして、それで満足しようとすれば、打ち負かす相手が必要である。私の山歩きには、満足を得るために、他人を必要としない。自分一人いれば、それで十分だ。
 スポーツの世界は、ほとんどが勝負を争う世界だ。山歩きにも、スピードを競ったりする、いわゆる「競技」というものがあるだろうが、私の山歩きは、「競技」ではない。誰かを打ち負かそうとか思って歩いているわけではない。あくまでも、他人とは関係なく、他人とは争うつもりもなく、気楽に、楽しく歩いている。他人を打ち負かさなくても、それで十分満足している。そんな、とても平和なスポーツなのである。
 人間は万物の霊長と自負していながら、どうして競争がなく、みんなが等しく幸せになれる社会の「仕組」をつくれないでいるのだろうか。個人間の競争、企業間の競争、国家間の競争。競争することが当然のことのように思われているが、「競争させられている」のではないだろうか。「社会は進歩しなければならない」という迷信にとらわれているのではないだろうか。「社会は進歩しなければならない」という迷信にとらわれ、競争原理に翻弄されている限り、「人間は、貪欲で、満足することを知らない、下等な生き物である」と言わざるを得ない。

2012年 4月 8日(日) 人間は高尚な知能を持った動物ではなく、非論理的で、極めて感情に左右されやすい、下等な動物なのである。

 美しい黒髪の持ち主でありながら、わざわざ茶色に染めている女性がいる。男でありながら、ピアスを付けたり、服飾にこだわる男がいる。私は何事も、[自然」であることを好む。また、「好き」「嫌い」の判断は個人の自由であるから、今は「こんな輩は嫌いだ」と言うことにしておこう。ここで私が「こんな輩は嫌いだ」と言うことはできても、「だから、あなた方の行動は間違っている」とまでは、言うことができない。
 人間は、「好き」という感情を抱く人には、その人の言動すべてを「正しい」と思ってしまう傾向にある。逆に「嫌い」という感情を抱く人に対しては、その人の言動すべてを、たとえ客観的に見て正しい言動でも、否定してしまいがちである。その人に対する評価が、「好き」「嫌い」という感情に左右されてしまうのである。このことは人間関係が破綻した時に、だれでも経験したことではなかろうか。今まで褒め称えてくれていた自分の「長所」というものが、全く反対に「欠点」として、評価替えされてしまうのである。人間は高尚な知能を持った動物ではなく、非論理的で、極めて感情に左右されやすい、下等な動物なのである。

2012年 4月 7日(土) 「通行禁止」「立入禁止」の看板について。

 ハイキング道の入口で、「通行禁止」という看板に出合った。残念な気持ちを抱きながらも、忠実に従い、引き返すことにした。後日「歩行者は通行できます」とか「歩行者は注意して通行してください」とかいう添え書きがされた看板を見かけて気がついたのだが、あの時の「通行禁止」というのは、車に対するものであったのだ。今は車社会だから、歩行者のことまで眼中にないのだろうけれど、自動車は通行禁止でも、歩行者は通行可能ならば、その旨を明示していただきたいと思う。
 山道に限らず、道を歩いていると、「立入禁止」という看板をよく見かける。なぜ「立入禁止」なのか、その理由を簡単でもいいから表示していただければ助かる。「芝生養生中につき立入禁止」「私有地につき立入禁止」「土砂崩壊により危険なため立入禁止」など。理由もなく「禁止」ばかりでは腹が立つというのも人情。その理由が分かれば、協力の気持ちも出てくるものだ。

2012年 4月 6日(金) こんな夢を見た。

 公園を散策中に、大切なものが入ったカバンを盗まれた。大切なものとは、銀行の預金通帳やキャッシュカードや印鑑などである。歩いた道を隈なく歩いたが、見つからなかった。ある人が川に捨てられていたカバンを見つけ、知らせてくれた。黒い色をした大きなカバン。私のものに違いはなかった。開けてみると、中は空っぽだった。銀行に連絡して、支払い停止にしてもらわなければと、気がせいたところで目が覚めた。こんな夢を見るのは、日常的には意識していなくても、心の底では常に何らかの不安をかかえながら生きているという証拠であろう。

2012年 4月 5日(木) 頭上に注意!

 山道を歩いていると、正面前方に、きらきら光る、紙のようなものが、木の枝にぶら下がっているのが見えた。何やら文字が書かれているようだが、遠くからは判読できない。それで、おもむろに近付くと、頭をしこたま打ってしまった。痛い頭をさすりながら、張り紙らしきものを見てみると、そこには「頭上に注意!」と書かれてあった。よくある笑い話だが、現実に体験してしまったという、つまらないお話。

2012年 4月 4日(水) 私の地震対策

 日本は地震多発期に入り、近いうちに大地震が再び起ることが予想されている。我が家は、東日本大震災クラスの津波には、もちろんのこと、耐えうる家ではない。だから、大地震は、私が外に出かけている時に起ってほしいと願っている。私が毎日のように外に出かけているのは、私なりの地震対策なのである。

2012年 4月 3日(火) 所得税の確定申告不要制度について

 平成23年分以後の各年分について、公的年金等の収入金額の合計額が400万円以下で、かつ、公的年金等に係る雑所得以外の所得金額が20万円以下である場合には、所得税の確定申告をする必要がなくなった。確定申告をしなくてもいいケースが増えたということである。ただ、注意しなければならないことは、
@所得税の「還付」を受けるためには確定申告書を提出しなければならない。
A所得税の確定申告が必要でない場合であっても、住民税の申告が必要な場合がある。
ということである。
@は、申告をしなければ、還付されるべきものでも、還付されないということ。
Aの場合、申告する側から見れば、かえって複雑で面倒なことになる。
 従来から、住民税の申告の義務があろうがなかろうが、所得税の確定申告さえしておけば、住民税の申告は不要であった。用紙が複写式になっているので、コピーが住民税を扱う市区町村まで届くことになっているからである。今回の改正は「所得税の申告が不要な場合は税務署には提出してくれるな。住民税の申告が必要な場合は、直接、住民税を扱う市区町村の窓口に提出してくれ」ということなんだろう。そうすれば、税務署も少しは業務が減ることになるから。税務署にとってはそれでいいかもしれないが、私のように、親やキョウダイの分も、本人にかわって申告している場合には、、人により、年度により、申告内容が様々なので、税務署一カ所ですんだことが、市区町村の窓口まで行かなければならない場合があるということである。
 今回、税務署には提出不要のケースがあり、その点を質すと、従来通り、税務署には提出不要な場合でも、しぶしぶといった感じではあったが、受け取っていただいた。データーも従来通り市区町村に届くということである。ただ、一旦受け取りますが、税務署に対する確定申告書の分は不要なので、お返しする形になりますといって、特別の書類に署名と印を求められた。来年もこのような方法でも受け付けていただけるのかたずねると、法改正がない限り、それで良いという返事をいただいたので、来年も税務署一カ所に提出するつもりである。
 そもそも申告しなければならないとされている場合は申告しなければならないが、「申告の必要がないものは申告してはいけない。申告しても受け付けない」というわけでもなかろう。税務署対策として、日頃から明確にしておくためにも、申告の義務がないケースでも、わざと申告して、明確な記録として手もとに置いておくという事例を聞いたことがある。

2012年 4月 2日(月) 「甲子園に停まりますか」と聞かれて・・・

 甲子園で全国高校野球大会が開催されていた時のことである。車内で、「この電車は甲子園に停まりますか?」と聞かれた。いきなりのことで答えることができなかった。列車には「特急」「急行」「準急」「区間急行」など、沢山の種類がある。「特急」は普段なら甲子園に停まらないだろうが、大会期間中は停まるかもしれない。私はいつも、深く考えずに、来た電車に乗っていた。急ぐ旅でもないし、乗り間違えたからといっても、大事に至ることもない。だから、私自身にとっては、正確な知識などなくてもよかったのである。だが、このように他人から聞かれることもあるのだから、自分にとっては必要がないことでも、基本的な知識や情報は、身につけておくべきだと反省した。
「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」ということわざがある。知らないことを聞くのは、その時は恥ずかしいが、聞かなければ一生そのことを知らず、常に恥ずかしい思いをしなければならないという意味である。だから、知らないことは他人に聞けということになるのであるが、安易な気持ちで聞いてはいけない。何度も気軽に聞いている人もいるが、私は、一度だけなら許してやろう、という意味にとらえている。
 単独行の山歩きは、頼れるのは自分一人である。道に迷った時は地図と磁石で、正しい道を見つけなければならない。たとえ他人に出会っても、安易に道を聞いてはいけない。聞いた時点で「遭難」したことになる。

2012年 4月 1日(日) 岩場が登れなくなった。

 長年、山歩きをしてきたが、最近になって、なぜか岩場が登れなくなった。岩場が怖いのである。神のお告げなんだろう。「そろそろ年齢のことも考えて、冒険はよしなさい」と、そんな声が聞こえてくる。確かに、これまで、何度も「冒険」をしてきた。一歩間違うと、「遭難」「事故」になっていた「かもしれない」ことが、幾度かあった。山歩きはいつまでも続けるつもりでいるが、そろそろ「冒険」は慎もうと思う。