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2012年 7月 6日(金) 駅と電車内の迷惑行為ランキング

 下記は日本民営鉄道協会のホームページから抜粋したものである。
「平成23(2011)年度  駅と電車内の迷惑行為ランキング 音に関する迷惑行為が今年も上位に!
アンケートの結果では、3年連続で「騒々しい会話・はしゃぎまわり等」がトップとなり、「携帯電話の着信音や通話」、「ヘッドホンからの音もれ」がそれぞれ3位、4位にランクインするなど、音に関する迷惑行為が引き続き上位となる結果となりました。」

 多くの人が迷惑に感じているんだ。自分は神経質だから、自分だけかと思っていたが、そうではなかったんだ。昔は電車内は静かだった。のんびり読書が楽しめた。公共の場所は自分一人のためにあるのではない。車内の騒々しい会話のために車内放送が聞き取れなくて、「実害」を被っている人がいるということを知ってほしいものである。

2012年 7月 5日(木) なじみの犬に吠えられた。

 駅に行く途中の民家に、大きな犬がいる。大きいけれど、とてもおとなしく、吠え声を聞いたことがない。いつも玄関先で体を横たえ、うとうとしている。とても優しい「犬のおじいさん」といった感じだ。だから今日も安心して、その前を通ろうとしたところ、突然吠えられた。吠えられただけではない。本気で何度も私に飛びかかってきた。幸い犬は鎖につながれていたので難を逃れたのだが、もし鎖につながれていなかったら、私はきっとかみ殺されていたことであろう。私は恐怖で振り返って見る余裕もなく、一目散に通り過ぎた。いつもおとなしいのに、今日はどうしたんだろう。機嫌を悪くする何があったのだろうか。人間だって、いつもニコニコしているわけではない。駅へ着くまでの短い時間に、色々考えた。
 私は化粧品の類はほとんど使わない。石鹸は、洗髪用、洗顔用、ボディー用と、使い分けている人もいるようだが、私は昔ながらの固形せっけん一つで間に合わせている。ところが最近、「おやじ臭」というものを自覚するようになって、今日はオーデコロンなるものをふりかけて家を出た。
 犬の嗅覚は、人間の数千倍とか、数万倍の能力があると言われている。件の犬は、このオーデコロンなるものの「におい」に反射的に反応した結果の行動だったんだろうか。他に理由が見当たらないのである。

2012年 7月 4日(水) マナー違反にも刑罰を。

 マナー違反には刑罰がない。はなから守る気がない者には、マナーなんて何の効果もない。真面目な、従順な者が従う。守っているものが馬鹿で、損得を言えば、損をしている。損と言うのは、金銭的なものを言っているわけではない。
 マナー違反を平気でできる神経の持ち主が、この世では出世していく。マナーに平気で違反する人間ほど、行動が活発で、かえって善行も積極的に行う場合がある。ただ、ここでしっかりと確認しておかなければならないことがある。「悪いことは悪い」とする判断だ。善行によって、悪行が善行になるわけでもない。「正しいことは正しい」「間違っていることは間違い」と判断することが大切なのだ。

2012年 7月 2日(月) 競争社会では不正義が勝つのだ。

 ほとんど使うことがない携帯電話だが、世の中の「進歩」のために、持ちたくもないものを「持たされている」。ほとんど使わないとはいえ、世の中の「進歩」に呼応して新しい機種に変えざるを得なくなった。機種が色々あって迷ったが、「ワンセグ」というものがあって、テレビ放送を受信できるものにした。ただ、「ワンセグ」について一つ気になった。NHKとの受信契約が必要かどうかということだ。衛星放送も受信できる契約を、一所帯で一つしておけば、問題ないようだ。ただ、「受信契約をしていなくても、NHKには分からないから、支払わなくてよい」という風な事を言う大手の携帯電話会社の店員がいた。「分からないから支払わなくてもよい。」というのは、明らかに正当な理由にならない。売上競争が激しい競争社会のなかでは、商売人に倫理観を求めることが困難になっている。一人の店員だけの問題ではない。会社ぐるみで、そんな教育がなされているんだろう。「競争原理」で動いている現代社会では、広告や宣伝に、多少の「ウソ」は許される。「誇張」は本来悪いことだが、悪いこととはされず、「多少の誇張は許される」ということになっている。競争社会では不正義が勝つのだ。

2012年 7月 1日(日) どうして競争社会がいけないのか。

 電鉄会社発行のハイキングガイドの地図のことだが、競争相手の会社の線路には、駅名が表示されていないとか、ひどい例では、まったく存在しないがごとく、表示されていないものがある。電車は公共交通機関である。駅は重要な目印になる。競争相手の会社だからといって、無視し、記載しないのは、日頃は「利用者はお客様」といいながらも、全くお客様の立場に立っていないと言わざるを得ない。これは「競争社会」が、善良であるべき人間の心をむしばんでいるという、一つの例である。競争至上主義の中にあっては、人はそのことに気付かず、当然のこととして、疑うということもしない。恐ろしいことだ。