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2012年10月22日(月) 私には「難所」ではなかった。

 「今日は出かけるのはよそう」と思った。窓を開け、空を見上げる。いい天気だ。居ても立っても居られない気持ちになった。結局、今日もまた出かけてしまった、山歩きに。出不精だった私。今の私は、病気かも知れない。
 行き先は大阪府民の森「ほしだ園地」。家族連れで、気楽な山歩きが楽しめる。とはいえ、ほしだ園地最大の難所と書かれた所もある。どれほどの難所なんだろうかと、挑戦してみた。どうということもなかった。注意書きが大げさだと思った。確かに、お年寄りや、小さな子供らには、ちょっと危険と言えなくもない。ピクニック気分で、のんびり歩いてみたいという人には「難所」には違いなかろう。
 私は山歩きが好きだ。山歩きには慣れているから「難所」も、そうとは感じられなかったんだろう。いつまでも難所を「どうということもなかった」と言えることを願っているのだが・・・。

2012年10月18日(木) 人生を不完全燃焼で終わらせたくない。

 人生は短い。不完全燃焼で終わりそうだ。完全燃焼で終わらせるには、残された時間がない。いっそ、百二十歳まで生きてやろうか。さすれば、我が人生はまだ半ばじゃないか。あせることはない。

2012年10月17日(水) 女性専用車両を設けるのなら・・・

 女性専用車両を設けるのなら、男性専用車両も設けよ。禁煙車両と喫煙車両の区別があるのなら、禁会話、禁化粧、禁飲食の車両を設けよ。聞きたくもない会話を聞かされるのは耐えられない。化粧は、人目のつかない、隠れた場所でするものである。舞台裏を見せ付けられては興ざめだ。食べることは罪なこと。飲食行為は排泄行為を想像させる。排泄行為と同じこと。排泄中の行為は見たくない。

2012年10月16日(火) 安く出来る理由を明示していただきたい。

 企業間の売上競争が激しく、商品の広告宣伝がやかましい。価格競争も激しく、価格破壊という値下げが続く。どうしてそんなに安く出来るのかと、不思議に思う。消費者にとって、商品の価格が安くなるのは歓迎するが、どうして安いのか、どうして安く出来るのか、その理由を明示していただきたい。たとえば、家具などの場合のように、「少し傷あり」とかいう風に。企業努力でと言うならば、どのような企業努力で安く出来たのかとか。
 パチンコは、負ける客がある一方で、勝つ客がいる。負ける客から得た利益を、勝った客とパチンコ店が分け合っているにすぎない。ものを買えばポイントが付く「ポイント制」というものがあるが、気が付かないところで高く買わされている客がいて、その客から得た利益を、ポイント制の財源にしている気がする。何もないところから利益が生まれることはない。消費者はうまくだまされているのである。

2012年10月15日(月) 山の辺の道を歩く。

 今日、山の辺の道を歩いた。幾度も歩いた道だが、いつも新鮮な気持ちで歩ける。「山の辺の道を歩く」といえば、桜井駅から天理駅間の約18kmを歩くのが普通だが、天理駅から柳本駅、柳本駅から桜井駅という風に、二つに分けて、のんびり歩くのも良い。
 とはいえ、今の私には、桜井駅から天理駅間の約18kmを歩くだけでは不満が残るので、多くの場合、中間地点の長岳寺あたりから、山の辺の道を外れて、竜王山を往復する。今日も、桜井駅を出発し、途中、竜王山に登り、長岳寺まで下ってきた。続いて、天理駅に向かって歩いていたのだが、道の途中で「疲れた」といって、休んでいる人に出会った。もう疲れて歩けないと泣き言を言い、電車の駅はどちらかと、たずねられた。私は地理に詳しくはないので、おおよそのことしか教えてあげられなかった。この方も、私と同じく、桜井駅から歩いてこられたようで、天理駅まで歩くつもりが、力が尽きたようである。私のような「おじいさん」ではなく、私よりも若い「おっちゃん」という感じの方だった。私は「桜井駅から歩いてこられたんですか。私と同じですね」と言ってから、「私は途中で竜王山に登り、これから天理まで歩くところですよ」と言うと、「へー」と言って、びっくりされた。私は他人と競争しようとか、自慢しようとかいう気はなかったのだが、私の今の体力は、まんざらでもないなという気がして、少しは爽快な気分もし、ちょっとばかり優越感に浸ることが出来たのである。

2012年10月14日(日) 究極の苦しみのあとには、極上の快楽が待っている。

 もう数十年も前のことだが、職場の先輩や同僚たちと一緒に旅行に行ったときの話である。長距離列車でもあるので、みんなは摘みの菓子などを買い込んで、車内で缶ビールを飲み始めた。私は酒に弱い。とはいえ、付き合いということもあるので、私も、ほんの少しだけ飲んだ。これがよくなかった。ただでさえ、酒に弱いのに、電車にゆられたものだから、気分が悪くなってきた。吐きそうになったので、車内の洗面台に向かった。洗面台までは何とかたどり着き、そこでしばらく突っ立って、酔いが覚めるのを待っていた。ところが、急激に苦しくなってきた。と同時に、急に目の前が真っ暗になった。苦しみはますます増し、今まで経験したこともない苦しさが私を襲ってきた。究極の苦しみとでも言おうか、地獄の苦しみと言おうか、苦しみながら「死ぬ」ということは、こんな状態のことを言うのだろうとか、色んな思いが巡ったのだが、それも一瞬のこと。私は、すぐさま、その場でぶっ倒れてしまったのである。
 気がつくと、「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」とたずねる車掌さんの顔が目の前にあった。私は、通路で仰向けになって倒れていたのだが、ぶっ倒れてから、どれほど時間が経ったのかは全くわからない。そばの席に座っていた乗客が「頭を打っているから、医者に見てもらったほうがいいよ」という声も耳に入ってきた。もう、そのときは、究極の苦しみから全く開放されて、実に爽快な気分だった。今までに経験したことがない極上の快楽。「天国」とよく言われるが、きっとあるとすれば、私は今、まさにその「天国」にいるのだと思った。
 究極の苦しみのあとには、極上の快楽が待っている。苦しめば苦しむほど、あとからやってくる楽しみが大きい。世界一になろうと、オリンピックの選手が、苦しい練習にも耐え、頑張っている。苦しいけれども、勝利を得れば、この上ない快楽を得ることが出来る。だから、苦しい練習にも耐えられるのだ。山歩きだって苦しいのだ。苦しいから楽しいのだ。
 苦しみのあとには楽しみが待っている。苦しければ、苦しいほど、あとで、楽しい楽しいことが待っている。そう思って、苦しいときにも頑張って生きていこう。

2012年10月13日(土) 中高生の車内でのマナーの悪さの原因は?

 中高生の車内でのマナーの悪さには閉口する。つい比較してしまうのだが、昔はこれほどひどくはなかった。どうしてだろうかと考えた。根本的には、親の家庭での教育が出来ていないということだろう。親に車内でのマナーについて、子供に教育する機会、場がなくなったからだ。
 昔は自家用車というものはなかった。行楽地に出かけるには、必ず電車やバスに乗って出かけた。親と一緒だから、親は自分の子供に、車内でのマナーについて、その都度、現場で教育が出来た。今は、マイカーに乗って出かける。マイカーの中では、どんな大きな声で話そうが、どんなにゴミを散らかそうが、自由だ。親も直接、社会に迷惑をかけているわけではないので、大目に見ている。
 親は自分の子供が、公共の場である車内で、大声を出し、騒いで、他の乗客に迷惑をかけているということは知らない。その場にいるわけではないから。
 車内で騒ぐ子供に耐えられなくて、注意した時があるが、注意されてもなぜ注意されたのか、分かっていない。自分の行動が他人に迷惑になっているということの認識がない。どうしてだろうか。こんな場面で、注意されたことが過去にないからだろう。公共の場所は自分だけの場所ではない。自分だけの場所ではないから、自由が制限される。他人に対する配慮ということも必要になる。自分の行為に迷惑と感じている人もいるんだということを知らしめることが必要だ。それを知らしめることは、子供の段階で必要だから、親の責任が重大だと思う。

2012年10月 3日(水) 歩け! 歩け!

 駅前での違法駐輪が目立つ。「駐輪禁止」の道路表示の上に、堂々と駐輪している輩も多い。まさに無法地帯。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という状況だ。すぐ近くに、有料だが駐輪場がある。どうして駐輪場を利用しないのか。有料だから躊躇しているんだろうか。
 先日、駐輪場の管理人に聞いてみたところ、駐輪場は満杯だそうだ。そうなら、違法駐輪も仕方がないと、その時は思ったのだが、今の私は歩くことが好きだから、つい「歩けばいいじゃないか」と言いたくなる。歩け! 歩け!

2012年10月 2日(火) 自然を大切に。

 人間はみな病気なのです。私もまた、病気なのです。自然に逆らって生きようとした時から、人間はみな病気になったのです。私もまた、病気になったのです。自然を大切にしないから、病気になったのです。自然は自然のままが一番いいのです。自然に勝る芸術や技術なんてものも、存在しないのです。自然が持つ力に驚異を感じることです。自然の驚異を感じるために山に出かけましょう。静かな山に。騒々しいのはいけません。だから単独行でいきましょう。

2012年10月 1日(月) 同じ山に幾度も登る理由。

 山歩きを始めて10年近くになる。近畿圏の山は登りつくしたという感じがするが、近畿圏外に出かけてみようという気はない。現状で十分満足している。幾度も登った山でも、飽きるということはない。日本には四季がある。山も季節が異なるごとに、その姿を変える。同じ山道も逆に辿れば、登りの道が下り道になり、下りの道が登り道になる。同じ道でも全く異なった道を歩いているのに等しい。山頂に至るにも、ルートが複数あるのが普通である。違ったルートで歩けば違った景色が楽しめる。同じ山を、同じ季節に、同じルートで登ることにより、以前と比較して体力に衰えがないかどうかのチェックもできる。