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2012年11月21日(水) 真実の発見には「常識」を疑う心が必要。

 世間で「常識」と言われていることには、一応、耳を傾ける必要があるが、あくまでも参考程度にしておくべきである。「常識」に従って行動している限りでは、気楽な人生を過ごせるだろうけれど、いつまでも真実を発見することはできない。

2012年11月20日(火) 立ち食いのそば屋で感じたこと。

 外食するのは好きではないが、最近は駅中の「立ち食いそば」に入ることが多くなった。「いらっしゃいませ!」いきなりの大声に驚かされることもあるが、騒音というものでもなく、むしろ清々しい気分にさせてくれる。
 まだ見習いなんだろうか。店主(と思われる)から、こまごまとした指示を受けながら、健気に動いている。しばしば、店主の口から厳しい口調の言葉も出る。他人の命令や忠告や指示に、つい逆らってしまいそうだが、むしろ逆に、素直な態度で受け答えしている。本人は店主より年上のように見える。本人は苦しい心境にあるかもしれないが、傍目には清々しい感じがして、好感が持てる。文句も言わずに、従順に従うことは、なかなかできないことだ。凡人はすぐに逆らってしまう。

2012年11月19日(月) 思い込みは危険です!―続「尾籠なお話で恐縮ですが・・・」

 今月10日の日記で、便通がなく困ったというお話をしましたが、勝手な思い込みがあると、大変なことになるかもしれませんので、ここでご忠告申し上げます。
 私はずっと前から、便通を良くするためには生野菜をたくさん食べると良い、という知識がありました。それで、意識的に生野菜を食べるようにしてきました。最近では、野菜は生でなくても、炊いてもいいから、「たくさん」食べると良いという話を耳にしました。野菜は炊くとカサが小さくなるので、たくさん食べられるからです。だから、生であることにこだわらずに、「たくさん」食べることに努めてきました。
 野菜はどうして便秘対策になるのでしょう。私は次のように理解していました。野菜には食物繊維が豊富に含まれている。この食物繊維というものは、消化されにくい物質である。消化されにくいので、腸内に「カス」として留まる。腸内に留まった「カス」で、腸内の圧力が高まり、その圧力が便を押し出す力として働く。便通が良くなるというメカニズムをこのように理解していたのです。
 最近になって、あらためてインターネットで調べてみると、必ずしも野菜を食べると便通が良くなると言うわけではなさそうです。一言で「便秘」と言っても、色々のタイプがあります。一般的な対処法としては正しいとしても、その方法が自分にあっているかどうかは分からないのです。かえって逆効果を与えているかもしれないのです。「野菜は健康に良い。だからたくさん野菜を摂取しましょう。」と言うことをよく耳にします。野菜を食べ過ぎて体を壊したという話を、私は聞いたことがありません。ですから、最近の私は安心してレタスやキャベツなど、丸々一個を一度に食べるということも度々ありました。
 よくよく反省し、原因がどこにあったのかと、色々と考えてみたのですが、その結果、「野菜のとりすぎ」が原因だったのではないかと思っています。消化しない、また消化しにくい「食物繊維」と言うものを摂取しすぎて、「カス」が溜まりに溜まって、それが栓の役割を果したために、逆に便通の妨げになった。この解釈が正しいかどうかは分かりませんが、何事においても「過ぎたるは及ばざるが如し」です。ほどほどということを心がけていないと、大変なことになるのではないかと思い、ここにご忠告申し上げます。

2012年11月18日(日) 山登りは登りよりも下りが危険!

 今日の山登りの終盤、金毘羅山から江文神社へ下る途中、転倒して、尾てい骨を打ってしまった。骨に異常はないが、腰掛けるときには注意しないと痛む。足を滑らして、仰向けに倒れてしまったのだが、普通はザックを背に担いでいるので、尾てい骨を打つなど考えられないのだが、運が悪かったというほかない。転倒するのは決まって下りの時だ。山登りでは登りよりも、下りが危険! 雨後は特に滑りやすいので注意しましょう。

2012年11月17日(土) 小心者の私ですが・・・

 昨日の日記で、三角点の石盤をテーブル代わりにして飲食している女性グループに、むかついた私が注意したという話を書いたが、私は小心者なので、普通の精神状態の時は、注意するだけの勇気はない。他人の行動を見て、一瞬「むかつく」ことがある。この「むかつく」気持ちが高じて、事後のことも考えずに、言わずもがなのことを言ってしまうことがある。
 過去に、こんなことがあった。私がある学校の事務職員として働いていた時のことである。当時私はひょんなことで、職員組合(労働組合)の執行委員に選ばれ、書記長の任務を仰せつかった。労働組合は、労働者の労働条件の維持改善のために活動する団体で、その団体の書記長というのは組合三役の一つと言われ、重要な地位にあるのである。
 労働者を保護する法律として、労働基準法がある。労働基準法では、一定の労働時間を超える場合には、所定の休憩時間を与えなければならないとされている。この休憩時間は、完全に労働から解放された時間でなければならないから、休憩時間に電話当番として待機させるのは、休憩時間を与えたことにはならないとされる。
 学校には事務職員と教員という職種があり、私は事務職員として、教職員に対して給与や出張旅費などの支払いをする会計の仕事を担当していた。お昼の休憩時間であるにもかかわらず、旅費などを取りに来るというのが、ごく当たり前のことになっていた。教員の立場から言うと、休憩時間だからといって、席をはずされていては困るのであるが、事務職員の立場からは、労働基準法に反することが、まかり通っていたということである。
私が、労働組合員であっても、一般の組合員にとどまっているうちはよかったのだが、組合の執行委員、それも組合三役と言われる書記長という重要なポストに就いていたのであるから、このような事情を見て見ぬ振りをするわけにはいかなかった。このあたりが私が「くそまじめ」といわれる由縁なんだろう。
ある日、事務職員の休憩時間中に、休憩時間だということを知ってか知らずか、一人の教員が、仕事を言いつけに来た。仕事を言いつけられたのが私だったのか、それとも他の事務職員だったのかは、昔のことで忘れてしまったのだが、小心者の私だったが、ムカッと来たので、その時の勢いで、「事務職員は今は休憩時間だから、休憩時間が終わってから来てくれ!」という内容のことを、命令口調で言った。何せ昔のことなので、詳細を思い出すことが出来ないが。その時の私の言い方が、自分自身でもまずかったと反省しているのだが、当然、言われた教員は気分を害したことだろう。以後、その教員の私に対する見方、態度が一変したことは言わずもがなである。ある日、他の教員から「事務職員は休憩時間があっていいねえ」と、嫌味を込めて言われたことがある。だからこの件はもう、教員の間で知れ渡っているということが伺えた。私の教員からの評価が、それ以来一変し、地に落ちてしまったのである。
 私は普段から、休憩時間であろうと奉仕の精神で働いていた(奉仕を強制されては困るが)。労働者には年次有給休暇というものがあるが、ほとんど使用せず、働いていた。学校には夏休みがある。その時期には、事務職員にもいくらかの休日をもらえたが、そんな休日も、ほとんどとらずに働いた。同じ事務職員でありながら、みんなと歩調を合わすことなく働いた。それては、困るという人も出てくる。休日をとらない職員が出てくると、休日をとりたい人が休日をとりにくくなるのである。それで私は出勤した日でも、出勤していないことにして、出勤簿にはハンをおさないという日も多くあった。
 私の主張に間違いはない。間違いがないという自信があるので、自信を持って、強く主張できる。小心者の私だが、気分がむかついているときには、普段ではとても言うことができないことでも、言ってしまうということがある。
 私は勤務時間中は純粋に「仕事」に専念してきた。勤務時間中に私的なことをしたことは全くない。あえて私的なことをしたといえば、くしゃみぐらいだと思っている。それほど一途に職務に専念してきたのに、まことに残念だという気持ちがして、今でも時々、そのときのことを思い出しては、「俺はなんと馬鹿な人間なんだろう」と、思ったりする。

2012年11月16日(金) 「よくぞ注意していただきました」と言われて、かえって恐縮した私。

 山歩きには最適の季節である。今日は六甲散策。紅葉で名高い瑞宝寺公園を出発点にして、六甲最高峰に登り、蛇谷北山、東お多福山、荒地山、鷹尾山と、低山ではあるが五つの「山頂」を極めた。山頂を極めるということは、たとえ低山であっても、征服感、達成感があって、実に爽快だ。
 山頂には多くの場合、三角点というものがある。この三角点まで到達し、写真に撮って帰るというのが目標でもある。山頂が見つけられず、やむなく不明のまま下山した日などは、達成感というものが得られず、不満が残り、すっきりしなかったりする。今日はこの山頂(三角点)での出来事について。
 今日は、これまでの山歩きで、最も多くの人に出会った。最初の六甲最高峰では、あちらこちらでグループがシートを敷いて、食事をされていた。三角点がある山頂は、山によっては一人でさえ座ることもできないほど狭いスペースのところもあれば、一帯が広々としていて、シートを広げて、大人数での「宴会」もできるほどゆったりした所もある。六甲最高峰の山頂は、後者に近い。
 私はいつもの通り、山頂を示す標柱を写真に収め、その右にある三角点と、三角点の石盤に目をやった。ところが、十人ほどの若い女性グループが、三角点と、三角点の石盤に集まり、談笑しながら飲み食いしていたのである。三角点は隠れて見えず、三角点の石盤はテーブル代わりにされていた。私は一瞬、むかついた。「あなたがたね、こんなところで食事をしていいんですか。」私はほとんど隠れて見えなくなっている石盤に触れながら注意した。直接注意の対象とされた彼女は、すぐさま驚いて、「すみません」「すみません」と何度も口にしながら、飲み食いを止め、片付け始めた。さらにすぐ隣にいたリーダーと見える年配の女性に向かって「山登りをする人だったら、三角点を大切にしなければいけないじゃないですか?」と説教じみたことを言ってしまった。「私の言っていることは間違っていますか?」と、そのリーダーと見える年配の女性に問うと、あわてて、「いえいえ、ごもっともです。あなたのおっしゃることはごもっともです」と答えた。その答え方に嫌味は全くなく、むしろとっても品のある答え振りであった。「よくぞ注意していただきました。ありがとうございます」と感謝する言葉さえ返ってきた。こちらこそ恐縮する気持ちが起こって、すぐ彼女らに背を向け、去りかけたのだが、振り返り「こんなこと言ってごめんね!」と手を振りながら、叫んでしまった。この出来事は、時間にするとほんの一分ほどのことであった。
 家に帰ってから、ゆっくりと想像してみた。たんなる想像だが、彼女らはどこかの大学生のゼミ仲間で、「六甲山に行こう」ということで話がまとまり、この日、やってきた。そしてリーダーと見える年配の女性はこのゼミを受け持つ先生だったのだ。私が注意したことに不満の態度を表すこともなく、反対に「よくぞ注意していただきました」とか「注意していただきまして、ありがとうございます」と答えた。私は、感謝の言葉が返ってくることは予想していなかった。だから、注意した私のほうこそ恐縮してしまったのだ。
 先生は山歩きが初めてで、山の事情も良く分からなかった。学生に薦められて、同行しただけだったのかもしれない。先生は私に注意されて初めて、よくないということに気づかれた。話し方といい、私の言うことを冷静に受け止めていただいた態度といい、「自分は教育者だ」という固い意識があってのことに思えた。教育者か、宗教者でないと、容易にはできないことではないかと思う。

2012年11月13日(火) 自問自答「山歩きでタクシーを利用したことがありますか?」

 山歩きをするのにタクシーを利用するなんて本末転倒だと思っている私だが、二度ある。現地で、登山口まで行くバスに乗り遅れた時のこと。次のバスは3時間後だ。これでは下山途中で日が暮れる。日が暮れてからの山歩きは危険だ。遠くからやってきたので、ここで諦めるわけにはいかない。そんな事情があって、登山口までタクシーを利用したのが一度目。
 物事が予定通りに進まないことがあるのは当たり前のこと。山歩きだって同じこと。無事に下山したものの、歯医者の予約時間に間に合わない。「緊急の用事ができたので、別の日に変更してください」と、一本電話を入れればすむことだが、それが私にはできない。バスや電車を乗り継いでいたら、約束の時間に間に合わない。約束の時間を守るためにタクシーを利用して帰ったのが二度目のことだ。

2012年11月12日(月) トレッキングシューズを買い換えた。

 トレッキングシューズが、汚れがひどくなり、ほころびも目立ってきたので、買い換えた。一年前に買ったものと、価格も全く同一のもので、2万円。2万円もする靴が、たった一年しかもたなかったということになるが、粗悪品だったというわけでもなかろう。
 靴の傷みの度合いは、使用頻度に比例する。私は毎日のように出かけていた。1年しかもたなかったといっても、普通の使用頻度に換算すると、5年や10年はもったということになるだろうから、仕方がないことである。

2012年11月11日(日) 思わず「ありがとう!」と叫んでしまった日。

 今日は雨。雨を承知で出かけた。じっとしておれなかったから。堤防を歩いた。歩行者は私一人。雨はひどく、水溜りがあちこちに出来ていた。車は雨が降る中でも、私の存在など気にもかけずに、スピードを落とすこともなく、私のすぐ横を、走り過ぎていった。
 そんな中でも、歩く私のことを気遣って、水をはじかないようにと、スピードを落として近づいてくる車があった。車は静かに私の横を通り過ぎた。私は、遠ざかる車に向かって思わず「ありがとう!」と叫んでしまった。私の存在など気にもかけずに、びゅんびゅんと通り過ぎる車ばかりだったから。

2012年11月10日(土) 尾籠なお話で恐縮ですが・・・

 私は便秘ぎみである。便秘に良いというので、野菜を多く食べるようになってからは、少しは改善されたような気もするが。
今日、トイレを済ませてから出かけようとしたが、便通がない。尾籠なお話で恐縮するが、直腸あたりで、便が固まって、栓のようになっている。便意がなければいいのだが、便意はあるのである。だから、便器に座りながらじっとしていた。周期的に便意が襲ってくる。そのたびに気張ってみるのだが、気張れば出るというものではなく、無理に気張れば腸まで一緒に出てくるような感じだ。ペットボトルの水を飲みほしてみたり、下腹部を揉んだりしたが効果がない。これが最後の手段だと、ポリ袋で包んだ指を肛門に突っ込んで揉んで見たり、色々と便が柔らかくなることを試みたが、まったく進展がない。便意が周期的に襲ってきて痛む。息が苦しいとかいうわけではなく、今すぐ生死にかかわるという出来事でもないのだが、どうしようもない状況にあった。救急車を呼ぼうかと、本気で考えた。2時間以上、便座にすわっていたと思う。疲れてきて、半分は眠っていたかもしれない。そのうち、以前、二、三十年も前のことだが、同じことで困ったことを思い出した。そのときには「浣腸」をして無事、難を逃れたのだった。私は、安易に薬に頼るのは好きではなかったのだが、この時だけは、よく効いて、薬のありがたみに素直に感謝したものだった。
 こんな「浣腸」の効果を思い出したので、早速、最寄駅前の薬局まで買いに走った。「走った」といっても、文字通りに「走った」わけではない。周期的に襲ってくる便意の間をぬってのことなので、気持ちが走っていたのである。何事もないときに買うには、恥ずかしい思いがしたかもしれないが、私としては、非常の事態なので、そんな気持ちが微塵も起こらず、若い女店員に「浣腸ありますか」と聞いた。「あります」と言って、一箱を持ってきてくれた。「効きますか?」と聞いてもしかたがないかもしれないことを聞いていた。それほど切羽詰った状況にあったのは事実である。もちろん、「効きますよ」という返事が返ってきた。
「人間の体には、病気を治す力が、本来備わっている。」と考えている私は、原則として薬に頼らない。だから、風邪は万病の元といわれても、風邪程度のことで、薬は飲まない。常備薬として、風邪薬や、胃腸薬の類の薬は置いていない。だが今、浣腸だけは常備薬として置くことにした。1箱2個入り、2箱で400円。私にとっては極めて安くてお得な買い物である。宣伝になるが「イチジク浣腸」に感謝!

2012年11月 2日(金) あるスポーツ用品店のコマーシャルを聞いて・・・

 「最初から上等のものを手に入れたいものですね。」あるスポーツ用品店のコマーシャルだ。経済的に余裕があれば、そういうこともできようが、いや経済的に恵まれていても、「最初は安価なものでいいんです。徐々に充実させていけばいいんです。」と言いたくなる。
 いかにも「上等」「高価」な装いの「山ガール」をよく見かける。私なんかは、ズボンは着古したサラリーマン時代の通勤着でまにあわせている。
 企業は売るために商品を製造する。製造された商品は売れないと困る。だから「買ってくれ」「買ってくれ」となる。
 商品が売れないと社会全体の「景気」も悪くなる。景気が悪くなると困る人がたくさん出てくる。高価なものでも「節約」せずにどんどん買ってくれないと困るのである。「節約」の美徳は過去のものになったんだろうか。人間の経済行動に、どこか根本的におかしいことがあるように思えてならない。

2012年11月 1日(木) ラジオを鳴らしながらの山歩きはやめてください。

 ラジオを鳴らしながらの山歩きはやめてください。ラジオはイヤホーンで聴いてください。静寂を求めて山に来る人もいるのですから。自然はあなただけのものではないのですから。クマが出る可能性がある山で、クマ対策としてなら仕方がありませんが。