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2012年12月31日(月) 2012年(1月〜12月)の山歩き等の日数・歩行時間・歩行歩数のまとめ

2012年(1月〜12月)
01月  22日   112時間   519,100歩
02月  15日    81時間   350,900歩
03月  19日   112時間   460,000歩
04月  24日   121時間   523,000歩
05月  19日   103時間   432,300歩
06月  19日   107時間   409,400歩
07月  24日   129時間   513,000歩
08月  19日    94時間   400,100歩
09月  18日    84時間   362,500歩
10月  19日    91時間   450,100歩
11月  20日   100時間   450,800歩
12月  17日    73時間   369,000歩
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合計  235日  1207時間 5,240,200歩
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(注1)出かけた日数は235日。
(注2)出かけた日は、1日平均約5時間(約22,300歩)歩いたことになる。
(注3)歩幅を40cmとすると、1年で約2,000km歩いたことになる。大阪東京間の距離を500kmとすると、大阪東京間を2往復した距離になる。

2012年12月18日(火) 「少子化」のメリット?

 日本では現在、「出生率の低下」「少子化」が問題になっている。「出生率の低下」「少子化」によって「一人っ子の家庭が増える」と単純に理解しては誤りかもしれないが、「一人っ子の家庭」にもメリットがある。兄弟姉妹で誰が親の面倒を見るかで争うことがなくなる。遺産相続の醜い争いもなくなる。「少子化」によって、少しは平穏な家族関係が築かれるということになる?

2012年12月11日(火) ボランティアとしての「交通巡視員」を募ってみてはいかが。

 自転車の道交法違反が目立ちます。信号無視、二人乗り、二列走行、逆走などなど。違反を見つけたら、善良なる一市民としては、注意したいのですが、注意しずらいものですね。どうしてでしょうか。恥ずかしいという気持ちと、勇気がないからも理由でしょう。一市民の立場からだけでは、注意したことがトラブルの原因になるかもしれないので恐い、ということもあるでしょう。
 制服を着た警察官は、警察官という立場から、気楽に注意することができます。警察官は、それが仕事の一部でもあるわけですから。注意されたほうも、注意された警察官には、警察という権力が背景にあるので、仕方なく従うでしょう。
 日本の警察においては、交通巡視員と言って、警察官とともに道路交通に関する取締りや指導、交通整理などを行う警察職員がいます。逮捕や検挙したり、違反切符を切る権限はないとしても、ボランティアとしての「交通巡視員」を募集してはどうかと思います。一見して交通巡視員ということが分かる服や腕章、違反を見つけた場合に鳴らす笛などを無料で貸し出すのです。交通巡視員と分かる服を着て、腕章も着けて活動すれば、交通巡視員はそれが仕事なんだから、注意もしやすい。信号無視の自転車を見つけたら、すぐその場で警笛を鳴らす。警笛を鳴らされた違反者は、衆目にさらされて、恥ずかしく思うでしょうから、抑止力になります。
「赤信号みんなで渡ればこわくない」がまかり通っては困るのです。
 みんなで気楽に注意しあって、自分たちの地域は自分たちで守るという姿勢が必要です。前カゴに「パトロール中」と書いた紙をつけて走っている自転車を見かけたことがあるでしょう。この地域では防犯対策に力を入れているということを、アピールしているんですね。「みんなから見られているんですよ」とアピールすることが、犯罪抑止力になっているのです。
 ボランティアとしての「交通巡視員」なら、活動範囲や活動の時間は制約されますが、応募したい心境です。私服で、善意で注意して回っている民間人(それは私?)がいたとしたら、「あの人、ちょっと頭がおかしいんじゃない?」と思われるかもしれませんからね。

2012年12月10日(月) 自転車から降りて通行しましょう。

 大野川緑陰道路を歩いた。名前に大野川と付くように、元は川だったのを埋め立てて造られたもので、歩行者自転車専用道路である。自動車は通行できない。 歩行者用と自転車用は明確に区別されている。歩行者用は茶色、自転車用は青色である。だから歩行者は、車に気を取られずに、のんびりと歩くことができる。
 ところが、歩行者専用道を通行する自転車が多い。区別は明確なので、私は例の「むかついた」勢いで、自信を持って注意する。ほとんどは私の注意に無関心である。「ちょっと頭がおかしんじゃない」なんて思われているんだろう。
 当初は、注意してから「しまった!」と思ったことがある。自転車専用道に入るためには、歩行者専用道を通らざるをえないところがあるような気がしたからだ。他人の非を責めるには、よくよく考えてしなければ、恥をかく場合があるので注意が必要だ。そこでよくよく考えた。歩行者専用道を通らないと自転車専用道に行けないからと言って、歩行車専用道を自転車に乗ったままで通行しても良いという理屈は通らない。歩行者専用道に入れば自転車から降りて通行すれば良いだけのことである。自転車から降りれば歩行者の扱いになるのであるから。自転車に乗ったままで、歩行者専用道を通過しようとするのは「横着」というものである。

2012年12月 8日(土) 男性専用車両を設けてください!

 山道を歩いていて、「女性の一人歩きはやめましょう」という看板を見かける。単独行の山歩きをこよなく愛する私は「よくぞ男に生まれけり」と、安堵する。
ところで、男に生まれたために、困るということもある。それが痴漢の冤罪を受けると言うことだ。
何事にも、誤解というものがある。誤解されないように注意して行動することも必要だろうが、限度がある。痴漢をするほどの勇気もない私だが、どんな「誤解」で、痴漢にされるか分からないのであるから、安心して電車に乗っていられないのである。
 気の弱そうで、まじめそうで、うそをつくなど、これっぽっちも思えないほどの、若くて可愛いい娘さんが、私を「痴漢です!」と訴えたら、あなたはどちらの言い分を信じますか。訴えた娘さんに嘘はないといっても、そこに「誤解」というものがありうるのである。

2012年12月 7日(金) 人間という悪魔が「美しい自然」を破壊したのだ!

「自然」とは、「この世で最も美しいもの」のことを言うのだ。「この世で最も美しいもの」とは、人間の手が加わっていないもののことを言うのだ。人間の手が加わっていないからこそ「美しい」のだ。
 自然は自然のまま「が」美しいのだ。自然は人間の手を加えなくても美しいのだ。人間の手を加えるまでもなく、自然は自然のまま「で」美しいのだ。自然は自然のまま「でも」美しいのだ。いや、自然は自然のまま「であってこそ」美しいのだ。
 人間が自然に手を加えたその時から、自然は自然でなくなったんだ。自然は人間が手を加えたために美しさを失ってしまったんだ。自然の破壊者は人間。自然から美しさを奪った悪魔が人間。

2012年12月 6日(木) 駅名の表示が見えないではないか!?(JR宝塚線「中山寺」駅でのこと)

 今日は中山最高峰と大峰山に登ったのですが、出発点のJR宝塚線「中山寺」駅でのこと。今日の写真集の1枚目と2枚目を見ていただきたいのです。駅の写真を撮ろうとしたのですが、駅名の表示が通路の屋根に隠れて見えません。少し離れて見ると、全く見えなくなります。通路と通路の屋根は、最近造られたようですが、ずさん過ぎます。誰が見ても、この状態はおかしい。日頃は小心者の私ですが、「むかつく」と、黙っていられなくなるのです。早速、戻って駅員に「駅名の表示が見えないが、どうなっているのだ」と問い詰めました(実は問い詰めたというほど、強い口調ではありませんでしたが。)応対に出た若い駅員が「宝塚市がしたことなんです。」と答えた。私は通路はJRの所有地で屋根の設置もJRがしたことだと思っていました。それで、JRの無神経さに「むかついていた」のです。ところが「宝塚市がしたことなんです」と答えたものだから、一瞬仕方がないことかと思いました。が、「宝塚市がしたからと言って、明らかにおかしい状態になっているのだから、宝塚市に文句を言うべきではないのですか。あれが完成した状態なんですか。おかしいではないですか。駅と言うのは旅人の目印にもなっているんですから、見えないのは困ります。善処してください(またまた、但し書きをしておきますが、実は、こんなに強い口調で言ったわけではありません。)と言って、その場を去ったのです。私が言わなくても、JRの方でも、誰かが気づいていることだったのかもしれませんがね。
※この問題はどのような結論に至るのでしょうかね。
民法上では、隣りあった土地の間の法律関係(これを「相隣関係」という)について色々な規程があるのですが、これで解決できる問題なんでしょうかね。
法律上の判断とは別に、私なりに考えてみました。
@宝塚市が駅名が見えるように、低い屋根に造り直す。(費用の負担はどちら?)
A造り直すのは費用、手間がかかるので、現状のままにし、新たに見える所にJR駅名の看板を設置する。(費用の負担はどちら?)
そもそも、宝塚市がJRを困らせる意図があってしたとは考えられません。宝塚市が屋根を造るに際して、完成後にはJRの駅名が見えなくなるとは思っていなかったのでしょう。JR側も、出来上がってから気が付いたのではないでしょうか。
もしかして、こんなことを気にしているのは私だけかもしれません。私以外には誰も文句も言う人も出ず、いつまでも現状のままでいくかもしれませんね。

2012年12月 1日(土) あいさつができない子供はダメなのか。

 あいさつは子供の世界でも大人の世界でも必要というのは「常識」。「あいさつなど必要ではない」と言えば非常識な奴だと非難を浴びるのは火を見るより明らかなこと。それを承知で言うのですが、あいさつができない子供の心理というものを、少しは考えてほしいと思います。
 あいさつができない子供はダメだというのは、多数意見の横暴であるかもしれません。多くの人が正しいからといっても、真に正しいかどうかは分かりません。あいさつがうまくできる子は、将来、人生を上手に(悪い意味で要領よく)生きていけるでしょうが、あいさつができない子供は、ぎこちなく人生を生きていくことになるでしょう。ぎこちないということは、あいさつができる子供に劣らず、いやそれ以上に、より誠実で、正直な人間に成長して行く気がします。
「ここはあいさつ通りです。お互いにあいさつをかわしましょう」という標語を見かけますが、一律に「常識」を強制されては困ります。あいさつができない子供はダメだと決め付けてほしくないのです。きっと、あいさつができない子供が苦しんでいることでしょう。
 あいさつができない子供は「病気」だと言うならば、あたたかく見守ってやってください。私はあいさつができない子供でしたが、あいさつができる子供に劣らず、いやそれ以上に、より誠実で、正直な人間に成長したと自負しています。しばしば「馬鹿正直者」とか「クソまじめ」とか「へそ曲がり」とか、侮辱的言葉を浴びていますが。