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2013年 4月24日(水) 「晴耕雨読」というけれど・・・

 「晴耕雨読」ということわざがある。晴れた日には外に出て田畑を耕し、雨の日には家の中にこもって本を読む、といったように、自然に逆らわず、のんびり、ゆったり生活することを言う。
 今日は雨。「晴耕雨読」と言いたいのだが、じっとしておれない。雨を承知で、ウォーキングに出かけた。雨の日でも、出かけたくなるのである。若いころは出不精だった私だが、今では真逆の生活を送っている。
 晴れた日でも家にこもっていたころのことを思い出して、なんと無駄な日々を過ぎしてきたことかと、しきりに後悔している。後悔先に立たずである。

2013年 4月15日(月) ちょっとした配慮と工夫をお願い致します。

 切符の自動販売機を前に、切符を買おうとして、一万円札を差し入れ口に入れようとしたのだが、入らない。高額紙幣では買えない機種があるので、そのためかと表示を確認したが、一万円札でも可能の表示がしてある。札にしわがあったり、変に曲がっていたりすると、入らないことがよくあるので、そのためかとも思い、慎重にやりなおすのだが、受け付けてくれない。幾度か試みているうち、販売機の前面に、「節電のため、この販売機は使用できません」という意味のことが書かれた紙が貼られているのに気がついた。
「ああ、なんと俺は鈍感な人間なんだろう」としきりに反省はするが、世の中には、こんなどんくさい輩も居るのであるから、紙幣や硬貨の差し入れ口に被さるようにして張り紙をしていただいていたら、こんなことも起らないのではないかと思う。世の中には、視力の衰えたお年よりもおられることでもありますから。

2013年 4月13日(土) 地震でも「山歩き」は私の日課のようなものだから・・・

 「山歩き」は私の日課のようなものだから、今日も山に出かけようとしたのだが、目的の山へゆくためのJR線が、地震の影響で不通になっていた。仕方なく、近隣の「散歩」ですますことにした。近隣とは淀川河川公園である。地震があったとはいえ、天候は良かったので、清々しい気分で河川敷を歩いた。
 ところが、山歩き以上に疲れたのである。山道は変化に富んでいるので、足の筋肉は常に異なった部分を使っている。一方、平地は変化がないので、同じ部分の筋肉を使い続けることになる。多分、そのためではないかと思っている。
 やっぱり、山歩きのほうが良い。脚力に任せてグイグイ急坂を登り、たとえ低山であろうとも山頂に至ると、征服感がある。大げさな言い方をすれば、一大事業を成し遂げたという達成感が得られ、清々しい気分に満たされる。
 そこで急きょ、「山歩き」をすることにした。目的の山は、阪急電車を利用すれば行ける「中山最高峰」。今の私には、山歩きに勝る観光地はないのである。

2013年 4月 2日(火) 「化粧」は隠れたところでするもの。化粧中の女性の顔は見たくもない。

 テレビのチャンネルを切り替えていると、化粧中の女性の顔がいきなり飛び込んできたりする。最近は特に多い。働く女性が多くなったので、彼女らをターゲットにした化粧品の広告なのである。
 ところでこの「化粧」とは何かということなのだが、「化ける」ということである。「化ける」とは他人を「だます」ということである。真実を隠そうとする、いかがわしい行為のことである。決してほめられていい行為ではない。むしろ、忌み嫌われてもいい行為である。
 化粧中の顔を公の電波を使って、ばらまく行為は「公害」という「犯罪」にも匹敵する。化粧中の女性の顔を見せつけられるのは、私にとっては、便所の扉を開け放しにしながら排便中の女性の姿を見せつけられているのに等しい。
 化粧は他人をだます犯罪行為とまでいうと、言い過ぎになるだろうが、化粧中の行為を見せつけられるのは不愉快だ。「化粧」は人前にふれない、隠れたところでするべきものである。これが私の「常識」である。
「化粧」という行為にも、他人の視線を気遣いしながらするという「奥ゆかしさ」がほしい。電車内で臆面もなく「化粧」をしている女性を見かけるが、今日、企業の広告にしろ、女性の行動にしろ、この「奥ゆかしさ」がなくなっているのが悲しい。

2013年 4月 1日(月) これは「落書き」ではないのか?

 今日、観音山に登った。15回目である。低山ながらも、山頂からの眺望は素晴らしく、北山貯水池や甲山を見下ろし、遠くは北摂の山々、生駒山、大阪湾、振り返れば、六甲の山々まで一望できる。下記はこの山頂で、少しばかり驚かされたというお話しである。
 山頂には大きな岩がある。その岩には、この大きな岩に負けてはならぬとばかりに、これまた大きな文字で「観音山」と書かれていた。その文字そのものは美しくデザイン化されていたのだが、これは「落書き」ではないか、と思ったのである。
 山頂では、いわゆる「登頂板」というものが、沢山ぶら下がっているのをよく見かける。この「登頂板」というものも「ゴミ」だという人もいる。登山道では、「ゴミは持ち帰りましょう」とか「ゴミのポイ捨ては止めましょう」とかいう看板は、始終見かける。これも、そんな注意を促す看板そのものが「ゴミ」だという人もいる。「自然」の山中においては、人間の手が加わったものはすべて「ゴミ」である。そう思いたい。
 一時でもいいから、うっとうしい人間社会を忘れて、「自然」を満喫したい。そのために山に入るという人もいるのである。そんな人にとっては、いかに美しい文字で書かれていても、「落書き」であり、何らかの親切から出たこととしても、「ありがた迷惑」というものである。
「自然」は「自然のまま」が一番美しいのである。殺風景だという理由であろうが、近隣の小学生などがコンクリートの堤防に絵を描いている。もちろん、堤防を管理しているお役所の同意や許可を得てのことであろうから、「落書き」とは言えないだろうが、山や川や湖といった「自然」の近辺は、出来るだけ「自然」な状態であってほしいと思う。
(「観音山」と書かれた大岩の写真は、本日の「山歩き写真集」に掲載しています。あなたなら、これを見てどう思われますかね〜。)