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2013年 5月29日(水) 言わずもがな、「とおきみちのり」は架空の人物である。

 言わずもがな、「とおきみちのり」は架空の人物である。映画の中で英雄を演じている役者のようなものである。だから「とおきみちのり」が言う意見、主張は、映画の中の役者である「とおきみちのり」が言っていることである。「とおきみちのり」は本名の私とは別人だ。映画の中の役者と、本名としての私とを、混同してはいけない。
 映画の中での英雄を尊敬したり、憧れたり、ありがたがったりするのはいいが、その役者の私生活も「英雄」に値すると限ったものではない。私は、映画の中で、俳優の「とおきみちのり」を演じているだけである。だから、極めて自由に、言いたい事を言っている。現実の社会ではありえない、実現不可能な主張もしている。だからといって、「とおきみちのり」に名を借りて、無責任なことを言っているつもりはない。「とおきみちのり」の主張は、自分なりに深く考えてのことなので、軽率に批判されては困るのである。「とおきみちのり」は本名の私自身ではないが、私の分身のようなものであるから。

2013年 5月28日(火) 安い価格で販売できる理由を明示していただきたい。

 自動販売機で飲料水を買おうとしたら、普通は120円の商品が100円で売られていた。ごくまれではあるが、半額以下の50円というものも見掛ける。消費者にとって、価格が安いのは喜ばしいことではあるが、どうしてこうまで安く販売できるのか、疑問である。何らかの理由があって、安くできているのであろうから、その理由を明示していただきたいと思う。たとえば、「このような企業努力をした結果、こんなに安い価格で提供できるようになりました」とか。特別な理由もなしに安く販売しているということならば、日ごろは正当な価格より高い値段で買わされているのだと、勘ぐりたくなる。

2013年 5月27日(月) 消費者はポイント制にだまされている。

 ポイント制とは、販売者側が顧客の囲い込みを狙って導入したシステムである。たとえば、10,000円の商品を買ったとき、その商品の価格の1%、つまり100円のポイントが付与される。その付与されたポイントは、次回商品を買うときに利用できる。要するに、100円分、安く購入できるのである。消費者としては得をしたという気分になる。はたして消費者は、真に得をしているのかは疑問である。得をしたとするならば、一方で損をしている人がいるはずだというのが私の主張である。
 ポイントを付与した金額だけ、販売者のほうが損をしているのであろうか。いや、販売者のほうが、一方的に損をしているとは考えにくい。損をしているとしても、どこかでその損を取り返しているはずである。つまりは、他方で損をしている消費者がいるということである。本来の価格よりも高く買わされている消費者がいるということである。
 これは、パチンコ屋の場合を考えてみれば、よく分かる。パチンコをして、勝つ人ばかりではなく、負ける人のほうが多い(特定の人に注目すれば、常に勝っている人がいるかもしれないが、総体としては、負けているケースのほうが多いということである。)。だから、パチンコ屋は利益を得て、営業が成り立っている。勝ったほうは、負けたほうから、金銭を得ているわけで、客同士で取り合いをしているようなものだから、店にとっては、なんらの損害もないのである。
 だから、ポイント制というシステムで得をしたとほほえんでいてはいけない。自分が得をした分、どこか別の消費者が、本来あるべき価格よりも高い価格で商品を買わされて、損をしているということになる。喜んでいてはいけない。あなたはどこかで、逆に損の役割を担わされているということに気づかなければいけない。 (このポイント制というのは、企業の会計処理上にも、問題があると言われている。)

2013年 5月26日(日) 24時間テレビ 「愛は地球を救う」チャリティーマラソンについて

 ネットサーフィンをしていて、24時間テレビ 「愛は地球を救う」で毎年実施されているチャリティーマラソンの走者が決定したというニュースを知った。このような番組があることは知っていたのではあるが、特別の興味はなかったから、詳しい内容は知らないのだが、ちょっと調べてみると、番組の始まりごろに出発し、番組の終了する24時間後までにゴールすることを目標に100kmの距離を踏破するということらしい。
疲労困憊してゴールするときの瞬間が、毎年感動的に報じられているようで、踏破するのは実に過酷なことのように思っていた。
 私は今月2日、JR「大阪」駅前を早朝の6時10分に出発し、約46kmを歩いて、JR「京都」駅前に19時20分に着いた。所要時間は13時間10分。大阪から京都まで歩いたのは、今回で二度目、三年ぶりのことである。途中で名所や旧跡があれば、寄り道をしたりしているので、大まかに言えば、50kmを半日の12時間で歩いたことになる。こんな私でも、100kmを24時間(一日)以内で踏破することも不可能なことではないということになる。もちろん色々と条件が異なるのであろうから、一概には言えないことではあるが。
 走るとなると、上下運動を伴う。歩くことに比べれば、格段に体力を消耗する。ゆっくり歩いたほうがかえって、らくにゴールができるのではないかと思うが、歩くことはいけないことのようである。走らなければ様にならないということだろう。歩いてゴールのテープを切るよりも、たとえ辛くても、走る格好でゴールするほうが見栄えがよく、感動的に見えるということなんだろう。100kmを24時間以内で「走る」ことはできなくても、24時間以内で「歩く」ということであれば、私にも不可能なことでもないから、感動するに値しない行事だと思う。

2013年 5月 7日(火) 大池地獄谷は夏向きの穴場?

 今日は、大池地獄谷を遡行した。初めて大池地獄谷を歩いたのは、わがホームページで調べてみると、2007年7月30日のことであった。当時、名前が「地獄谷」というので、行くのをびびっていたことを覚えている。実際に行ってみると、道は明るく、特別に「危険」というほどの箇所もなく、阪神間で、これほど身近で気軽に沢歩きが出来る道があるとは、と感動したものである。こんなにいいところなのに、どうして「地獄谷」なんていう名前が付けられているんだろうか。沢山の人たちに来られて、荒されては困る。それでわざと「地獄谷」なんていう、恐ろしい名前を付けたんだろう、と当時は勝手に解釈していた。
 交通の便もよく、気楽に沢歩きが楽しめる。沢歩きと言っても、ジャブジャブと水の中に入っていくわけではなく、沢に沿って歩けばよい。何度も渡渉があるが、靴を濡らすというほどのこともない。涼しげで、もうすぐやってくる夏の季節に向いたコースである。コースの最後に、ダイヤモンドポイントと名前が付けられた展望所まで歩みを進めれば、北摂の山々の好展望が満喫できる。歩いてみる価値があるコースと思う。

2013年 5月 2日(木) 大阪から京都まで、約46kmを踏破!

 今日、JR「大阪」駅前を早朝の6時10分に出発し、約46kmを歩いて、JR「京都」駅前に19時20分に着いた。所要時間は13時間10分。歩行歩数72,500歩。
 大阪から京都まで歩いたのは、今回で二度目、三年ぶり(前回は2010年5月29日)のことである。前回の記録と比較して、所要時間や歩行歩数がほぼ同じなので、体力に衰えはないことが分かって、うれしく思った。
 最近の山歩きでは、歩きつくして、同じ山に何度も登っているということになるが、同じコースで登って、過去の所要時間と比較することにより、体力の衰え度をチェックできるというメリットもあるのである。

2013年 5月 1日(水) 「汚いもの」とは「人間」。「美しいもの」とは「自然」。

 山には多くの場合、沢があって、清らかな水が流れている。そしてそこには、イノシシやシカやウサギ、その他沢山の動物が生きている。それらが生き物である限り、排便という行為をしている。沢の水が清らかに見えても、実は汚いものが混じっているということになる。ところが、「まあきれいなお水!」といって感動し、この水で、手を洗ったり、口に含んだりしている。その時には、この水に動物の糞尿が混じっているかもしれないなどということは、頭にないのである。
 倒木がどのような醜い姿で行く道をふさいでいても、その倒木を「汚いもの」とは思わない。鳥に食い散らされた柿の実が道に散乱しているのをよく見るが、これも「汚いもの」とは思わない。
 ところが、すぐそばに、菓子袋など「ポイ捨て」されていたりすると、いきなりあたり一帯が汚いものに見えてくる。木が倒れたのは「風」という「自然」の仕業である。柿の実を食い散らかしたのは「鳥」という「自然」がしたことである。「自然」がしたことは汚いとは思わない。一方、「ポイ捨て」は人間の行為である。人間の行為は汚いものである。「ポイ捨て」でなくても。
 人間の口から出る「言葉」というものも、その表現がいかに美しいと評価されても、その言葉の裏には「嘘」という汚いものが隠されている。言葉だけでは容易に信用できない。
 人間社会で「自然」に生きるということは、いわゆる「馬鹿正直」に生きるということである。今の社会で「馬鹿正直」に生きるということは、敗北を意味しているだろうが、本来のあるべき生き方であると思う。できるだけ技巧をこらさず、「自然」に生きたいものである。「自然」に勝る美しいものはないのであるから。