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2014年 2月22日(土) 杖をすすめられたが・・・

 今日、室生寺に行く東海自然歩道で、一人のハイカーに出会った。「杖はいりませんか?」と、自身が手にしている杖をすすめられた。「いや、いりません」と答えると、「先は雪が深いですよ」と言って、再度すすめられたのだが断った。雪道とはゆえ、この道は幾度か通ったことがある道なので、道の状況は推測できる。杖を使わなければ登れないほど力が衰えているとも思っていない。まだまだ杖に頼りたくない。一度頼ると、杖無しでは歩けなくなる。そんな思いもあって断ったのだが、すぐさま後悔した。ここは一旦はすすめられた「好意」を素直に受けて、いただいておけばよかったと。杖といっても、明らかに登山道で落ちていた枯れ枝である。断らなくても、その場では一旦いただいておいて、先へ進んでから、感ずかれない所で捨てればよかったのだ。そのほうがすすめた相手も気分を悪くしなくてすんだんだと。

2014年 2月20日(木) 競争社会が本当にいいのか、よーく考えてみよう。

 放射性廃棄物が無害になるまで、種類によっては途方もない年数(人類が誕生した時から今日までの年数)がかかるそうである。放射性廃棄物を短時間で無害化する技術が開発されるまで、原発再稼動は認めてはいけないと思う。
とはいえ、原発の仕事に携わってきた人達が、いきなり職を失ったりすると困る。原発の存在を前提にして生きてきた人達のことも考えないといけない。
とはいえ、地震調査研究推進本部から、南関東で発生するM7程度の地震が、今後30年以内に発生する確率が70%程度という予想が出ている。東北大震災で起った事故が、今にも起るかもしれないのである。
「とはいえ」という言葉が続くのであるが、それほどに解決が困難な問題だということである。

 解決が困難だと言って、問題の先送りをすることは、後の世代に任すということになって、今が良ければそれでいいと言う無責任極まりないことになる。
どこに問題があるかをよく考えてみよう。私は、人間の果てしなき欲望と、人間社会は進歩しなければならないという迷信にとらわれ、その進歩の原動力を「競争原理」に求めた結果であろうと思う。競争のある社会に善はない。
 どうして一番でなければ意味がない、一番でないと価値がない、一番でなければいけないと言うのか。一番でなくてもいいではないか。一番にならなければダメだという、そんな価値観を生んだ人間社会に問題があるのではないですか。競争がある社会が本当にいいのですか。
 なぜ一番でなければいけないのでしょうか。一番だけが勝者なのですか。競争社会を見直してはどうですか。人間同士が競争するのではなく、協力し合う間柄でありたいですね。

 今、オリンピックで日本中が、いや世界中が、勝った、負けたと湧き上がっています。でも私は勝ち負けを決める競技には関心がありません。勝ち負けや、順位を決める必要はないではないですか。フイギュアスケートは美しいと思う。失敗があっても、美しいと感じる部分だけを見ればいいではないですか。順位などつけなくてもいいではないですか。勝った負けたと騒ぐことは、おかしなことでしょう。私は勝負事は嫌いです。オリンピックで日本中が、世界中が、どんなに騒いでいても、ニュースで見る程度で、強い関心はありません。

「正義が勝つ」と言うけれど、競争社会では正義は必ず負けると思う。悪に満たされているのが競争社会。まじめに行動していれば馬鹿にされる。蹴落とされる。嘘がつける人間でないと生きていけない。それが競争社会の現実です。
 一番になりたいとか、リーダーシップをとりたいとか、そんな人間に導かれて、競争社会が始まった。
 テレビを観ていると、商品の宣伝合戦花盛りである。自社の売上高がナンバーワンだとか言って自慢している。こんな社会が本当にいいんでしょうかね。
私のようなくだらない人間の主張など、だれもまともには聞いてくれないでしょうけど。

私は一時でもいいから、こんな人間社会から逃避したくて、今日も山に行くのだ!
行ってきまーす!

2014年 2月18日(火) なぜ「山歩き」をするのですか、と問われれば、なんと答えようか。

 なぜ「山歩き」をするのですか、と問われれば、なんと答えようか。「そこに山があるからだ!」なんてきざな事は言わない。ただ「山歩きが好きだから」とでも言っておこう。「どうして山歩きが好きなんですか」と問われれば、健康のためということにしておこう。健康のためと言っても、精神の健康のためである。精神の健康に役立っていることは実感している。肉体的には酷使している感じがするので、「過ぎたるは及ばざるがごとし」になっているかもしれない。
 毎日のように続けている山歩きが、是か非かは、その結果次第だ。結果が良ければすべて良しということになるが、その結果は私の寿命そのものが尽きた頃に出ることを願っている。
 趣味は個人によって千差万別である。私は今、「山歩き」をこの上ない趣味としている。全く、これほど私自身の性格にあった趣味はない。
私は他人と比較されるのは嫌だ。私は他人と優劣を競うつもりはない。至って平和的な人間なのである。他人を蹴落としてまで、上へ上ろうと言う気はない。一歩でも先に出ようなんて気持ちはない。山歩きをしていても、誰よりも速く登頂しようとか、競争を意識して歩いているわけではない。こんな私だから、競争がある地上の社会では生きていけない。だから私は山に行くのだ!
 競争している相手がいるとしたら、その相手は自分自身だ。
 一度登ったことがある山でも、何度も登る。同じ条件下で、以前に比べて、気力、体力に衰えがないかのチェックをしている。このチェックを行うのに他人の助けはいらない。他人と比較する必要はない。過去の自分と比較すればいいだけだ。
 私の山歩きには、特別の装備は必要としない。私の場合は、里山歩きと言っていい低山歩きだから、服装などは、着古したもので十分間に合う。服装には頓着しないのである。弟から「太ってはけなくなった」というズボンをもらった。数本あるので、自分の寿命が尽きるころまで、新しく購入することはないだろう。帽子や手袋も、特別に登山用というものを買っているわけではない。100円ショップで間に合う物ばかりだ。日帰りだから、ザックも小さい物でいい。かかる費用と言えば、交通費だ。我が家から比較的近い金剛山は、登頂回数が山頂の掲示板に名前が掲示される50回に、近々なる。金剛山登頂に要した交通費の総額は、優に10万円を超えるのだが、無駄使いをしているとは思わない。最近、100万円で(船内でのボランティア活動をしながらということかも知れないが)世界一周旅行ができると言う広告を見たのだが、過去10年間の山歩きに費やした交通費を合計すると、世界を2、3周できる費用になる。だからと言って、世界一周旅行などする気は毛頭ない。小さな日本国のそのまた小さな近畿圏の、そのまた小さくて低い山歩きで、十分満足している。交通費に多額の金を使っていることになるが、日常生活の内容は至って質素だと思っている。ここで具体的な生活内容を吐露するのは避ける。他人に言っても、理解していただくことは困難であろうから。
 自然の中に入ると、人間の傲慢さを感じる。自然を人間が利用する時、できるだけ自然のままで利用するのが望まれる。私は、、自然を自然のままで利用させていただいている。私はそれで十分満足している。現状で満足してはいけないのでしょうか。人間社会は常に進歩しなければならないものなんでしょうか。

2014年 2月17日(月) 三角点は大切にしてください。

 今日、六甲最高峰に登ったのだが、最高峰の三角点に到着すると、三角点の解説表示板をテーブルや腰掛代わりにして、鍋物料理を楽しんでいる若い女性3人のグループがいた。けしからん奴らである。山登りをするものにとっては、三角点は神聖なものである。大切に扱うべきものである。私はそう思っている。
 登頂したことを「三角点を踏む」と表現したりするが、この意味は「三角点がある山頂まで到達した」という意味に私は理解している。ところが、文字通りに登山靴で三角点を踏んでいる写真をホームページで見かける。これは誤った解釈だと思う。
 三角点に限ったことではないが、山中での看板などの構築物も大切にしていただきたい。私は彼女らに注意した。私は小心者で、注意するなどできる性格の人間ではないのだが、最近では注意できるようになった。それは勇気があるためではなく、むかついて抑えきれない感情に襲われて、思わず言ってしまうのである。だから、相手が怖そうなおっさんだろうが、あきらかに私の方が正しいと確信が持てる場合には、注意の言葉を発してしまう。例えば最近の例だが、車道と歩道が明確に色分けされているのに、前から歩道を自転車に乗って走ってくる人がいて、怒鳴るように「自転車は自転車専用道を通って下さい!」と言ってしまった。

2014年 2月 9日(日) 親切にするのは誰のため?

 「困っている人がいたら、助けてあげたい」という親切心は誰にでもあるだろう。けれども、こうしてあげたら喜ぶだろうと、かってに解釈して、親切心の押し売りになってはいけない。真の親切は、自分の親切にしてあげたいという親切心を、満足させるためにするのではない。親切を受ける側で、本当に喜び、感謝していただけているかの確認と、反省が必要である。往々にして、自分の親切心を満足させるために、他人に親切にしているという場合が多いのではないかと思う。

2014年 2月 8日(土) 食料品(弁当、食材)のお買い得情報

 毎日のように外に出かけていて、帰宅が夕方になるのが常態だ。午後7時前後の時間になると、自宅近くのスーパーで弁当やその他食材の安売りが始まる。最初は2割引で、閉店時刻が迫るにつれて、3割引になり、最後は半額の値段で売っている。それを特別に狙っているわけではないが、丁度帰宅時間がそうなるのである。私は外食するのが嫌いだから、「弁当」を買って帰る場合が多い。外食すると約800円かかる。同じ程度の弁当だと、お持ち帰りなら400円程度だ。その400円程度の品物が、半額割引になると200円になる。外食の四分の一の出費で済むのである。だから、半額で買うことが当たり前になってくると、本来の正価で買った時などは、大損をした気分になる。半額だからといっても、味の点など、私にとっては、全く変わりはない。衛生上も、すぐに食べれば、なんの問題もない。冷蔵庫に保存しておけば数日でも大丈夫。食べるときに「チン」すればいいだけ。味が少し落ちて文句を言うのは、「食べることは罪なこと」と思っている私には「贅沢」な文句だと言わざるを得ない。
 子沢山の家庭で、このような時間帯を狙って、子供連れで、どっと買い出しに出かけるという姿を、おもしろおかしく番組にしたテレビを見たことがある。「かっこわるい」と言ってはいけない。生きるための一つの知恵でもあるのだから。
 月に100万円以上も稼ぐ水商売などの娘でも、100円ショップで間に合うものは間に合わせているという話しを聞いたことがある。100円ショップを利用するのが、たんに便利だからか、それとも倹約が目的かは知らないが、贅沢と言われる生活をしていても、節約できるところでは節約に努めるという精神ならば見習うべきであろう。 経済的に困っていると言う事情があるならば、なおさらのことである。

2014年 2月 7日(金) 最上級の言葉は、多用すると逆効果である。

 「全くもって申し訳ございません。」「すべて私の責任でございます。」の場合、「全く」とか「すべて」という言葉を外して、たんに「申し訳ございません。」とか「私の責任でございます。」とか言ったほうが、かえって言葉に嘘が感じられなくて、好感が持てる。
「私は天に誓って、他人のものを盗むなどといった恥ずかしいことは、一切したことがありません。また、天に誓って、金輪際、そんことをすることはありません。」と言っていた人が、窃盗の罪で捕まったという話しがある。
「私たちは、いついかなる困難に遭遇しても、一生添い遂げることを神に誓います」と言いながら、すぐ別れたという夫婦もいる。
「全くもって」人の言うことは、その言葉だけでは信じられないものがある。

2014年 2月 6日(木) 日中、日韓の首脳会談が行われない状況にありますが・・・

 日中、日韓の首脳会談が行われない状況にあります。中国側、韓国側が拒否しているためです。首脳会談を拒否している側は「強固な意志」を見せ付けているつもりでしょうが、問題の解決には話し合う場が必要です。いかなる事情があっても、対話がなければ物事が進展しません。

2014年 2月 5日(水) 「だんまり戦術」について。

 自分の意見や、主張が受け入れられなくなった時、だんまりを決め込む人がいます。だんまりを決め込むのは、議論に負けたということを、自ら宣告したようなものです。気まずい思いをして困るのは、だんまりを決め込んだほうです。だんまり戦術では,問題は解決されません。逃げの姿勢と言わざるを得ません。「子供と地頭(昔の役人の一種)には勝てない」ということわざがあります。わがまま勝手で理屈が分からず、泣きじゃくるような小さな子供や、暴力や権力を背景にした役人の言うことには逆らえないという意味です。だんまり戦術をする人はこのような子供や地頭のようなものですから、そのうちまともに相手にしてもらえなく、やがて無視されることになるでしょう。だんまり戦術を続けている人は、自分の強固な意志を見せ付けて「格好がいいだろう」と言いたいのでしょうが、まったく逆であることに気づいていないのですから厄介です。このようなことは、逆の立場に立って見れば、容易に気付くことではあるのですが、人間は感情というものに強く支配されてしまう結果、「わかっちゃいるけど」どうしようもないことなんでしょうね。

2014年 2月 4日(火) 「女の腐ったような奴」という表現について。

 何度も何度も、しつこく注意すると、「御前は女の腐ったような奴だ!」と侮辱されることがあります。ところでこの「女が腐ったような奴」というのは、差別用語です。もともと女というものは劣った存在で、その劣った存在の「女」というものが、さらに腐った状態を意味しています。だから女性に対する差別用語であるとともに、男性に対する差別用語でもあるので、使わないほうがいいでしょうね。

2014年 2月 3日(月) 人間関係を良好に保つには「話すより聞く」ことだ。

 人間関係を良好に保つには「話すより聞く」ことだと思います。話しかけられたら、つい自分のほうから相手の話し声を打ち消すように、ぺらぺらと話しだすことがあります。相手が話し出したら、まず落ち着いて、相手の話を聞いてやろうと言う姿勢が必要です。仲違いをしていた友達に、自由に言いたい事を言わせた結果「ああ、すっきりした」といって、仲直りをしたと言う話しがあります。つい、相手の話をさえぎって、自分の話を聞いてほしいとしがちですが、まず相手に話させるということが大切なのです。 実はこれも「分かっちゃいるけど」私のような凡人には、とても難しく、できないことではあります。

2014年 2月 2日(日) 中庸(ちゅうよう)が大切。

 ちょっと軽く注意しただけなのに「はい!承知いたしました! 以後、絶対にそのようなことは、いついかなる時も、決して致しません!」と大層に言われると、逆に「けんかを売っているんか!」と言いたくなります。簡単に「以後気をつけます。申し訳ありませんでした」と言うだけでいいのです。「絶対に」とか「決して」と言う言葉を安易に使うと、かえって逆効果で、忠告を素直に受け入れようとする気持ちが感じられなくなります。「中庸」であることが大切です。
中庸(ちゅうよう):過不足がなく調和がとれていること。

2014年 2月 1日(土) 「歩け!歩け!」を基本にして生きています。

 「歩け!歩け!」を基本にして生きています。自動車を運転していた頃もありましたが、今では自転車すら乗ることがありません。車に乗らない者から見れば、自動車や自転車の存在が邪魔でなりません。特に自転車の信号無視、斜め横断、並列走行、逆走、違法駐輪など、法規違反が目立ちます。
自動車や自転車に乗っていた頃は、歩行者が邪魔で、「もっと端に寄って歩け!」などと、思ったものですが、立場が変わると見方が変わるものですね。
因みに、自転車は道路交通法上「車両」に属するため、車道を通行するのが原則です。歩道通行可の場合でも、歩道上では歩行者が優先するため、歩行者の通行を妨げてはいけません。ベルを鳴らしながら「そこのけそこのけ」という風に走るのは、違法です。急ぐというならば原則通りに車道を走行するのが正しいそうですよ。