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2014年10月21日(火) 可哀そうと思う気持ちは、私にもあるのですが・・・

 親切は、自己の気持ちを満足させるためにするものではありません。可哀そうだからといって、野良猫にエサを与えている人にお願いです。可哀そうと思う気持ちがあるならば、自分で責任を持って飼ってください。気まぐれにエサを与えないでください。エサを与える時には、場所を考えて、与えてください。私にだって、可哀そうと思う気持ちがありますが、他人に迷惑をかけることになるから、辛抱しているのです。特に、野生の動物にはエサを与えないでください。彼らは人に頼らず、自立して生きているのですから。

2014年10月20日(月) 相手の立場に立って考えれば容易に理解できることとはいえ・・・

 早くも年賀はがきの予約注文受付の案内状が届いた。性急すぎではないか。12月に入ってからにしてほしいと思う。
 ところで、年賀はがきに関連して、こんなことがあるが、あなたはどう思われますか。
@毎年、ワープロで書いた年賀はがきを出すのだが、メールでのごあいさつが返ってくるのみという人がいる。ワープロが普及して間がないころは、ワープロで年賀はがきを出すのは失礼だと思われていた。ところが今日では、ワープロで書いたものでも全く失礼にはならなくなった。職場の上司あてであろうと、年長者あてであろうと、今では新年のご挨拶を「メール」で済ませても、全く失礼なことではないということになっているんでしょうかね。
A直接会って、新年のご挨拶を申し上げるのが礼儀かもしれないが、そうすることが嫌だから、年賀はがきを出すことで済ませているという人がいる。それでも、新年の正月中に直接会った時には、普段の挨拶ではなく「新年としてのあいさつ」をするのが自然だろう。新年の挨拶は年賀はがきで済んでいるから、新年としてのあいさつは「しない」とか「しなくていい」とか、そういうことにはならないのではないでしょうかね。
 これと似たことであるが、贈り物をいただいた時、直接お礼の電話を言うのは言いにくいから、メールで済ませているという人もいるだろう。こんな場合、以後に直接会った時、「お礼の言葉はメールで済ませているからもういいや」というのではなく、お礼のメールとは別に、あらためて、一言でもいいから、「先日はありがとうございました」とお礼の言葉を言うのが、相手に良い印象を与えるものである。「お礼の言葉などいただくほどのことではございません」と相手は謙遜して言うだろうが、実は相手は、お礼の言葉の、その一言を待っているのである。その一言があるかないかが、人間関係に大きく響いてくると言うことを心得ていたほうがいいでしょうね。
 これらのことは、逆の立場に立って、つまり「相手の気持ちや、相手の立場に立って考えてみる」と、すぐに分かることなんだろうけれど、理屈は理解してても、実践となると、これがことのほか容易なことではないのである。

2014年10月19日(日) 山道は「哲学の道」

 この日記はほとんど山歩き中に考えたものである。山中で自分とは何かとか、自分はこのままでいいんだろうかとか、人間とはどうあるべきなんだろうかとか、日ごろから自分が主張していることは、本当に正しいのだろうかとか、さらに進んで、この宇宙と言うものは一体どうなっているのだろうかとか、宇宙には果てがあるのだろうかとか、果てがないとしたならば、果てがない宇宙とはどんな姿をしているのだろうかとか、根本に戻って考えている。格好よく言えば「哲学」しているのである。あなたもたまには山道を歩いて「哲学」してみませんか。何か気付かされることがありますよ。山道を歩くと言っても、がやがやと大勢で歩くのはダメです。たった一人で、黙々と、ただひたすらに、歩くのですよ。そうでなければ、決して「哲学」はできませんからね。

2014年10月18日(土) 私は原発再稼働に反対する!

 私は原発再稼働に反対だ。賛成派は、その一つの理由として、原発を廃止すれば、それで生きてきた人たちが職を失って困るからと言う。窃盗、強盗、殺人などの犯罪者が少なくなると、警察官が職を失うから困るという理屈と同じではないか。社会は変動するのが常であるから、変動に応じて、人間社会の知恵や新たな技術で、対処法を別途考えればいいことである。放射性廃棄物が無害化になるまで、気の遠くなるほどの年月が必要とされるそうだが、そもそも即座に無害化出来る技術が開発されるまで、実用化すべきではなかったのである。

2014年10月17日(金) 金剛山登頂51回目。山頂の登拝者掲示板に自己の名前が掲載されていることを確認する。

 本日、金剛山登頂51回目である。山頂の登拝者掲示板には登頂50回で名前が掲載されることになっている。こうして自己の名前が掲載されると言うことは、励みになってよいものだ。何千回と登頂を果たしておられる方がたくさんおられるが、私は登頂回数を他人と争う気は毛頭ない。だから、私は私なりのペースで、これからも登頂回数を重ねていきたいと思う。
 今日は最も安全で、気軽に登れる「千早本道」を登った。その沿道沿いには石仏が点在し、その石仏には人生訓が添えられていたので、これからも生きていく上で、役に立つのではと思い、下記に記録しておく。

石仏に添えられた人生訓

1.雨の日には雨の日の 風の日には風の日の かけがえのない 大切な人生がある おめあては 生死流転のこの私
2.しあわせって たどりついたところに 有るんじゃなくて たどり着こうとして 努力している期間を 言うのじゃないのかなあ
3.勝つことも勉強 負けることも勉強 人生何をしても すべてが勉強 たった一言が 人の心を傷つける たった一言が 人の心を暖める
4.親が子供に遺すものは 財産でなく 徳である ひろげよう 心のぬくもり 人の世に
5.無理しなくても あなたのいいところ 私はいっぱい 知っていますから おはようと さわやかに 言えたら 今日も素敵な一日です
6.堪忍袋 胃袋 おふくろ 銭袋 この四つの袋 一生の袋
7.ひとつふたつ みっつ 不幸の数 数えるより 幸せの数を 数えてみよう
8.人生には照る日も 曇る日もある ままならぬことに ぶつかったとき つぶやいてみることがある 悲しい壁は私が もっとやさしくなるため 苦しい壁は私が もっと強くなるため
9.ありがとうと すべて思えば こんなにしあわせな 毎日が来るのです
10.大地より神より 人より 美と喜悦 勇気と壮大 そして偉力の 霊感を 受ける限り 人の若さは 失われない

2014年10月16日(木) 自転車は車道を走行するのが原則。

 自宅近くの大野川緑陰道路を歩いた。この道路は汚濁が激しい大野川を埋め立てて造られたもので、全長約3.9kmの歩行者・自転車専用道である。道沿いには植林もされ、サイクリングやウォーキング、ランニングのコースとしても、区内屈指の道路である。
 この道路は、自転車道は青色、歩道は茶色と明確に区分されているのであるが、それでも、しばしば歩道を走ってくる自転車に出会う。こんな時、気弱な私だが、その時のむかついた気分でつい注意してしまうのである。大概はその注意も無視されているようだが。
 自転車や自動車の往来を気にせず、ゆっくりと歩行を楽しみながら、時々は立ち止って写真を撮ったり、花を眺めたりと、自然と親しみながら歩きたいのである。自転車や自動車を気にせず、気楽に、のんびり、マイペースで歩くことが出来る所に、この道の良さがあるのであり、そこに価値がある道なのである。規則はきっちりとまもっていただきたいものである。
 一般の歩道でも、自転車が走行できるのは例外で、「自転車通行可」の標示がある道路に限られるのではないか。たとえ「自転車通行可」の表示がある道路でも、歩行者が優先するのであるから、歩行者の通行を妨げてはいけないのである。歩行者が優先するとはいえ、「自転車通行可」の標識がある道路では、歩行者も自転車の通行のために、できることなら車道側をあけて歩くようにしたいものである。