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2016年 9月28日(水)  「相手の立場に立って考えてみる」ということの難しさについて。

 母が生前に趣味で作った御殿まりがあり、旧友に会う機会があったので、プレゼントしようと思って持参したのですが、受け取りを拒否されました。死者の魂が込められているので、気持ちが悪いというのが理由らしいですね。私としては、喜んでいただけるだろうと思い込んでいただけに、受け取りを拒否されことに強いショックを受けました。著名な仏師や絵師の作品なら、たとえ故人の作品であってもありがたくいただき、自室に飾っていても、なんの違和感もないのでしょうか。不要ならばその場で受け取りを拒むのが、正直で誠意ある態度なのでしょうか。相手の気持ちを考えて、一度は受け取り、家に持ち帰って、後日ひそかに処分するということも、許されるのではないかと思うのですが。
 退職時にある同僚だった女性から、餞別の品だといって、有名な焼き物の茶碗をいただきました。双方が立ったままで、私は彼女から、その茶碗の説明を受けました。その後、私はその茶碗を受け取り、ケースに収めようとしたのですが、そのケースの底が抜けて、茶碗は床に落ち、茶碗は彼女と私の目の前で、見事に割れてしまいました。ケースの底がしっかりしていなかったのでしょう。私も気付かず、軽率だったといえばいえるのですが。
 彼女は「後日新しいものを送らせていただきます」と言いながら、割れた茶碗のかけらを拾い集め、ゴミ箱に捨てようとしました。私はそれを阻止し、「折角のご好意ですから、割れたものでも、そのままいただいてかえります」というようなことを話し、彼女と一緒になって、かけらを拾い上げ、そのすべてをケースの中に戻し、私は自宅まで持って帰りました。 もし、私も彼女と一緒になって、どうせ割れて使い物にならなくなったのだからと言って、ゴミ箱に捨てたら、彼女はどんな気持ちになったでしょうか。
 多少、不合理な考えであっても、逆の立場に立ってみる(相手の気持ちを考えてみる)ことも必要なことではないかと思います。

 

2016年 9月 1日(木)  たった一言でも、絶大の効果があるのですね。

私は自転車には乗りません。「乗れない」のではなく、「乗らない」のです。まだまだ元気なつもりでいますから、便利なものではあっても、頼りたくないのです。
ところで、自転車に乗らない私から見ると、自転車に乗っている人たちの「マナー違反」が気にかかります。いや「マナー違反」ではなく、「法規違反」というべきでしょう。
例えば、自転車は法規上は自動車と同じく「車両」に属しますから「車道」を通行しなければいけません。ただ、「自転車通行可」の標識がある道では自転車も歩道を通行することができますが、この場合であっても、歩行者の通行を妨げてはいけません。だから、ベルを鳴らしながら「そこのけそこのけ」という風に通行するのは違法なのです。そんなに急ぐなら、原則通りに「車道」を走ればいいのです。  通行人が邪魔だと言わんばかりに、歩道を後ろからベルを鳴らして通るのは、違法です。だから私は、後ろからベルを鳴らされても、特別道を開けるということはしません。そんな頑固な私ですが、「すみません!」とひとこと詫びの言葉を言いながら通り過ぎようとする人には、つい道を譲ってしまうのです。 「すみません!」とか「ありがとうございます!」だとか、言葉は短いものですが、この一言の言葉があるかないかで、受ける印象が全く異なってきます。短い言葉でも使い方で大きな効果があるのですね。