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2017年12月 4日(月) 素直にお礼の言葉が言えない人のために。 

 親が高齢のため、姉夫婦の家で世話をしてもらっている。「お世話になっているのにお礼の言葉がないと言われている。だから夫に、お世話をかけていることに対して、お礼の言葉をかけてほしい」と言われたら、あなたならどうしますか。もちろん、あなたと姉との関係が、普段から良好であれば、なんでもないことかも知れませんが、良好でなかった場合、「姉のいる前で言うのはしゃくだ」という気持ちから、言えないでしょうね。事実世話になっている姉の「夫」には「ありがとう」という気持ちを言葉で伝えたいことは確かなんでしょうが、自分と姉との関係が普段から良好でない場合には、姉の言うことに素直に従うことがしゃくで、言えないんですね。こんな場合、どのような方法で感謝しているということを姉の夫に伝えたらいいのでしょうか。
 私の場合、直接お礼の言葉をいうのは「恥ずかしい」ので、「ウォーキングで今日は近くに来たので、そちらにお伺いしてもよろしいですか」と電話を入れます。特別の事情がない限り、通常は「いいですよ」という返事があるからお伺いする。その時、手土産として姉にはちょっと高級なお茶など、酒が好きな姉の夫にはこれも、ちょっとばかり高級な酒を、土産に持っていく。母がお世話になっていることに対し気恥ずかしくて、言葉で感謝の気持ちを言えなくても、このような形で接触の機会があれば、言葉としてのお礼はなくても、自ずとこちらのお礼の気持ちが相手に伝わっていくものであろうと思う。私も、礼を言ってくれと言われたからといっても、気恥ずかしい気持ちがあって、できない。そこでこのような方法をとってきた。
 何らかの接点を残しておくことである。断交状態では事態は進展しない。お礼を言ってくれと言われたからといっても、お礼だけが目的でわざわざ出かけるのも大層だから、ウォーキングで近くに来たから寄ってみたということにする。
 頃を見計らって度々顔を出すことである。自然な形を装って、会うきっかけを作ることである。断交状態は解決の糸口がなくなるので一番よくない。「子供の用事で近くに来たので、ついでにちょっと寄ってもいいですか」とか、接触の機会を設けることである。交渉の断絶は最もいけないことである。仲直りなど、解決の糸口をなくしてしまうので、どうしょうもない。

2017年12月 3日(日) 「村八分」について

 「村八分」という言葉がある。この意味は、村での付き合いの全体を十分として、「八分」は付き合わないということである。残りの「二分」は付き合うということで、この「二分」とは葬式と火事のことである。仲間外れにされても、葬式や火事の時だけは、世話をしてやろうとか、かかわってやろうとか言う意味である。昔の家は木造だったから、火事になると周辺に燃え移って、大変なことになるから、みんなで協力して、消火につとめなければならないから、また「葬式」については,死というものは最後のできごとだから、色々と厄介なことがあったとしても、水に流して、成仏することを願ってやるということである。この二つについては、面倒を見てやろう。それ以外のことでは、助けてやらない。絶交だ。というような意味だ。葬式と火事については面倒を見たり、付き合ったりするが、それ以外のことでは絶交だということである。要するに、葬式についてはどんなに人間関係が破綻していても、付き合ってやろう、協力してやろうということである。だから、いくら関係がこじれていても、「葬儀には出てやらない」というのは非情なこととされているのである。昔からのことわざには深い真理があるのである。

2017年12月 2日(土) 私は生きている「今」を大切にしたいと思っています。

 私は生きている「今」を大切にしたいと思っています。私が死んだ時、私の葬儀をどのように行い、遺骨をどのように扱うかは、残されたもので自由に話し合い、決めてくださいと言っています。葬儀は行わないということでもいいのです。死んでからの処置については何の希望もありませんから、残されたものにとって便利で楽な方法でしていただいて結構なのです。何度も言いますが、私は生きている「今」を大切にしたいと思っています。父や母が亡くなった時は、葬儀・告別式といった「儀式」を行いましたが、これらは親戚の手前もあり、常識的な「慣習」にただ従ったまでです。
 費用を少なくしたいという意図から、葬儀屋やお寺の世話を極力受けないということも考えられますが、慣れないことですから大変面倒なことになるのではないかと思っています。一例として、特に火葬場との関係でも、時間の段取り、色々な交渉、連絡事項をはじめとして、火葬場のほうでもイチイチ説明しなければいけないわけですから、嫌がられるそうですね。葬儀社などに任せたほうがいいのではないかと思っています。段取り良く進みますので、火葬場も助かるということです。お金というものは使うべき時には使わないと、もったいないですね。
 とにかく私は葬儀や仏壇といった宗教的儀式や物に何のこだわりもありません。葬儀・告別式も慣習に従っているだけです。仏壇についても何のこだわりもありませんから、死後にどのように扱われてもかまいません。
 再び言いますが、私は生きている「今」を大切にしたいと思っています。せめて親子、兄弟姉妹の間では、意見の相違を抱えながらも、なんとか仲良く生きていきたいものですね。死んでからのことを考えるよりも、今どうあるべきかを考えるほうが意味があることですし、先に考えなければならないことだと思っています。

2017年12月 1日(金) 「介護」について勉強を始めました。

 古稀を過ぎてからは「介護《の問題が他人事ではないと思うようになりました。介護する側になろうと、介護される側になろうと、問題が現実味を帯びてきたということです。それで最近になって、「介護」に関する本を買ってきて、勉強を始めました。