我 家 伝 来 の 古 物

  祖父(父方)がいただいた功労杯

■漆塗りの杯・・・桐の箱には「□□宇三吉君爲十二ケ年間勤續功勞大正四年七月贈之 功勞杯 丸岡町消防組」とある。福井県丸岡町の消防団員として60歳に近い頃まで、25年という永い間、無報酬の消防手を務めた。霞ケ城(丸岡城)天守閣下にある記念塔の裏面に名が刻まれている。私は小学生の頃、全国火災予防運動に出品した作文が特選に選ばれたことがある。この祖父のことを題材にしたものである。

  オジの軍隊手帳

  

■「軍隊手牒」・・・白地に「勅諭」「勅語」が赤い文字で、振り仮名付きで、長々と書かれている。「讀法」は黒字で「兵隊ハ 皇威ヲ發揚シ國家ヲ保護スル爲メニ設ケ置カルルモノナレハ・・・第一條 誠心ヲ本トシ忠節ヲ盡シ不信不忠ノ所爲アルヘカラサル事・・・」とあり、続いて「國民一般ニ賜ハリシ詔書」「軍隊手牒ニ係ル心得」が記載されている。最後の方には、所管「第十五師団」、「部隊號 騎兵第二十六聯隊第四中隊」、兵科「騎兵一等卒」、本貫族籍「福井縣」、氏名、誕生、身長、戦時著装被服大小区分とあって、帽子、衣袴、外套、靴の大きさ、兵役の記録、出身前履歴、給与通知事項が続く。我家には私の父が作った家系図があって、四代遡ることができる。その家系図によると、この手帳は私の父の兄(私のオジ)のものであることが分かる。
 父の遺稿に、このオジ伊三郎のことについて書かれた部分があるので、その一部を抜粋しておく。
「大正十一年適齢検査(兵隊)の結果、甲種合格(丈五尺三寸四分、足袋十文七分、骨格太く、色白の好男子)。然も当時兵隊の中でも一般の羨望であった騎兵というので、鳶が鷹を生んだ様だと両親の自慢でもあった。血統が良く好男子で比較的裕福な家庭の子でなければ騎兵にとらないという世評もあったので、私達も嬉しかった。吾家では最初の現役入隊である。入隊前には表に竹と杉葉等でアーチが造られ、貧弱な家の玄関を飾っていた。大正十二年一月十日、第十五師団(豊橋)騎兵第二十六連隊第四中隊に入隊した。このとき父と重太兄が豊橋まで見送ったと思う。兎に角この入隊は□□家の名誉と存在を高揚した。その功績は大である」
 我家にはこの当時に撮られたと思われる9枚の写真がある。軍帽をかぶり、髭を生やし、胸のところには勲章を装着し、手にはサーベルを携えている9名の、上半身を撮った写真である。一人だけは髭を生やしていない。写真は白黒で、古いとはいえいまだ鮮明である。欄外には写真の説明が書かれていた形跡があるのだが、消されていて判読できない。父が消したのか。もっと以前に、既に消されていたのか。父が消したのなら、どういう理由で消したのか。この写真の1枚が私のオジなのか。父はもう死んでいないので、確かめようがないのが残念だ。もしかしたら母が知っているかも知れない。今度会う機会があったら聞いてみようと思っている。
■オジ伊三郎(私の父の兄)の写真・・・厩舎のすぐ前で馬にまたがり、背筋を伸ばした凛々しい姿で写っている。騎兵の時に撮った写真だ。あごが張った顔で写っているが、あごが張っているのは□□家の特徴だ。馬の腰のあたりからはサーベルが下がっている。この写真は黒い厚紙で包まれているが、そこに同じ黒い字で何かが書かれている。蛍光灯の下で、何度も角度を変えたりしながら見直すと、やっとのことで「愛馬熊野」と読み取れた。続いて漢数字らしきものが見える。おそらく、この馬の年齢か、この写真を撮った年月日だろう。この写真が収められているファイルの表には「豊橋清水町コガイ写真館」とある。



  匕首(あいくち)

  2時間かけてみがいた後



  奉公袋

 

■「奉公袋」・・・表の名前のところには、父の名前が書かれた布が貼ってあるのだが、この布は比較的新しい。この袋の本来の持ち主は、上記に記した私のオジであろう。裏には「收容品」とあり、「一、軍隊手牒、勲章、記章 二、適任證書、軍隊ニ於ケル特業教育ニ關スル證書 三、召集及点呼ノ令状 四、其他貯金通帳等應召準備及應召ノ爲メ必要ト認ムルモノ」と書いてある。かろうじて読み取れるほどに古びているので、引用文に間違いがあるかもしれない。
(注意):上記「 」書きしたところで、一部新漢字になっているところがあるが、勿論、現物は旧漢字で書かれている。カタカナに濁点がないのは、「勅諭」「勅語」は天皇の「おことば」だから、濁りがあってはならないとされ、濁点はつけないことになっているからである。

  大福帳

 

■『大辞林』によると、大福帳とは「商家で、売買の金額を書き入れる元帳」のことである。大きさはおおよそ、縦31.5センチ、横11.5センチ、厚さ1センチある。表には大きく墨で「大福帳」と書かれていて、右の方にやや小さな字で「大正七年」、左の方には「五月十一日」とある。大正七年といえば、私の母が生まれた年である。裏表紙には「モラツタ日 大正八年四月三日」「書イタ日 大正九年七月十四日」とか「大正九年九月四日午後八時二十五分 □□□□書」とか書かれている。ここに出てくる「□□□□」とは私の父のことであるが、その父がまだ12歳の頃のものということになる。私の祖父やオジにあたる人は、色々なことを手がけていたので、父が祖父かオジからもらったものであろう。父自身も若い頃、丁稚奉公に出て、その奉公先が閉鎖になると自ら商いを始めたと聞いている。この大福帳の内容についてはよく分からない。前半は「平地」「サクサン」といった布地が出てくるのだが、後半には「玉石」「土砂」のほか、「酒一升」「二升酒」「茶菓子」「トウフ」「アゲ」「ダシシャコ」「カレ」「タコ」「黒サト」「割橋」「タネアブラ」「カマボコ」「ノリ」といった食料品が出てくる。「天守行」「入営酒買覚」「小原店行」「高瀬屋現金払」という表記もある。

  経典




■和綴じ(形式は「四つ目綴じ」)の本が出てきた。いかにも古い。こういうのが博物館でガラス張りのケースに入っているのをよく見かける。外装は表も裏も真っ黒で灰色の蓮の図柄がある。サシで測ってみると、およそ縦25センチ5ミリ、横20センチ5ミリ、厚さ1センチ5ミリ。洋式の数え方でいえば約100ページ。筆で大きな字で書かれているので、1ページは7行。白地の和紙は変色しているが、文字は墨で書かれているのでいまだ鮮明である。中身は大きく四つに分かれていて、各々の最後には下記のような年月日が記されている。
  「アナカシコ 文明六年二月十七日 書之」
  「アナカシコ 明應七年二月廿五日 書之」
  「アナカシコ 明應七年十一月廿一日ヨリハシメテコレヲヨミテ人々ニ信ヲトラスヘキモノナリ」
  「アナカシコ 文明十七年十一月二十三日」
 筆跡は力強く、男が書いたものと思われるが、「アナカシコ」という言葉が各節の終わりに必ず出てくる。この「アナカシコ」という言葉は手紙の最後に女性が用いる言葉だ。どういう意味かといえば、昨日の日記で書いた『浄土真宗聖典-勤行集-』での注釈では「尊敬と感謝をあらわすことば」とある。手許にある『大辞林』を引くと、「恐れ多いことですがの意で、書状の終わりにおく挨拶の語。女性が用いる」とある。続いて「古くは男女ともに用いた」とあったので納得した。
 同じく『大辞林』でその年代を調べてみると、次の通りである。
  「文明」・・・年号(1469.4.28 - 1487.7.20)。応仁の後、長享の前。後土御門天皇の代。
  「明應」・・・年号(1492.7.19 - 1501.2.29)。延徳の後、文亀の前。後土御門・後柏原天皇の代。
 これによると、500年以上も前に書かれたものということになる。応仁の乱があったり、群雄割拠の戦国の時代だ。文明17年(1485年)といえば、山城で国一揆が起こっている。長享2年(1488年)には加賀一向一揆が守護を滅ぼしている。「一向一揆」とは『大辞林』によれば「室町・戦国時代、北陸・近畿・東海などの各地に起こった宗教一揆。真宗本願寺派の一向宗の僧侶や門徒の農民たちが連合して守護大名・戦国大名などの領国支配に反抗した。特に約90年間一国を支配した加賀の一向一揆が有名」とある。我家は北陸越前の出身で、寺の宗派は、ここで出てくる「真宗本願寺派」だけれど、そんなに古いものが我家に伝わっているとは考えにくい。先祖代々仏壇と一緒に引き継がれてきたものだから、古いものであることに間違いはないのだが、いわゆる「写経」というものではないか。今の私には、その方面の知識が全くないのでこれ以上のことは分からない。

  寸珍和讃(明治19年)



  仏壇



  すりこぎ

  防空頭巾と防空マント(母の手作り)

 

  五つ玉のソロバン(父が使っていたもの。左右の枠が欠落しています)