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2003年4月25日(金) 田蓑神社

 散髪をした後、ファミリーレストランで昼食をした。その後、家に戻り、ノートとボールペンを携えて外に出た。天気が余りに良かったので、近くを散策したかったからである。
 私の家のすぐ近くには由緒ある「田蓑神社」がある。窓を開ければ、社が四つ並んでいるのが見えるほどに近い。神社でお祭りがある夜は、遅くまで神楽の音楽が聞こえてきたりする。「田蓑神社」は大相撲の大阪場所がある頃は玉ノ井部屋(有名な力士では栃東がいる)の宿舎になる。私はこの町で産声を上げた。小学校、中学校、高等学校、大学、そして就職してからも、雨の日も風の日も、毎日この神社の境内を通り抜けて、通学・通勤した。この田蓑神社には多くの思い出がある。子供の頃は遊び場だった。伊勢湾台風の時には、近くの小学校に避難することになったが、この神社の境内を通って行った。途中、雨や突風が余りにも激しくなって、一時境内の蔵の軒下で、母と兄弟が肩を寄せあい、一休みした。その時、目の前の四つの社の手前の一つが、積木細工のように、いとも簡単に倒壊した。あの時、蔵の方が倒壊していたら、今こうして生きていなかったかもしれない。父は仕事柄、いつも台風の時は家におれないので、玄関を畳一枚ほどもある大きなベニヤ板で貼り付けてから出勤した。近所の家ではガラス窓の部分だけだったので、私は恥ずかしい思いをした。頑固で厳しい父だったけれど、今では、留守家族のことを心配しての父の「愛」だったと感じて、涙が出てくるのである。台風はこれまでに経験したこともない激しいもので、避難先の校舎の窓から外を眺めると、トタン板が紙のようにひらひらと舞いながら飛んでいた。そんな情景を今でも鮮明に憶えている。
 田蓑神社には一時間ほどいた。その時に筆写したものを記しておく。

立札(神社入口)
「おはようございます。境内を通り抜けの方へ 神前では一礼をして 通りましょう」
境内の掲示板
「ことばの鏡  凡そ神は 正直を以って 先をなし 正直は 清浄を以って 本となす 大阪府神社庁」
立札
「平成七年一月十七日未明に震度六とも七ともいう大地震がおこりました。震源地は淡路島の一宮。よって阪神淡路大震災と名づけられました。この佃の町も一丁目、二丁目を中心に町全体に多大の被害を受け、当神社も社務所の全壊を始め拝殿の傾き、標柱の倒壊、石鳥居・灯籠の傾き、参道の歪みと被害を受けました。町の復興を願いつつ、氏子崇敬者が再建に努められ同年秋の例大祭には参道を残し復興出来ました。諸祭祀の為おくれましたが、二十一世紀を目前に参道復興工事に入り、無事夏祭り前に修復出来ました。ここにこれらを永く伝える為に二百年程前に従一位、日野資枝がよまれた和歌と、左の標柱を建立しました。 平成十二年七月吉日 田蓑神社十八代宮司 平岡公仲」
(注)以前から「田蓑神社」と刻まれた、2メートルほどの縦長の碑があったが、阪神淡路大震災で、「神」の文字の所で真っ二つに割れてしまった。その碑が、この立札の左に、金属製の枠で囲まれ立っている。文中「左の標柱」というのはこのことである。恐らく今回の大震災のすさまじさを後代に残すためにわざと割れ目を接着せずにおいたものではないかと思われる。
石碑(上記立札の文中にある「日野資枝がよまれた和歌」)
「宮つくる 田蓑の嶋の 神垣を いのればやがて まもりますらし 日野資枝御詠 阪神淡路大震災復興記念 平成十二年七月吉日」
石碑
「佃漁民ゆかりの地」
 左側面に「昭和三十九年三月 大阪市建立」とあり、右側面には「佃島は古来漁業において名があり、・・・」などの由来が刻まれている。
石碑
「雨による田蓑の 島をけふゆけば なにはかくれぬ ものにぞありける  紀貫之」
立札
「  謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ 奉公に出て、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちに、はからずも路上で巡り合いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。妻は夫婦の縁は貧富などによって遮ぎられるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。 淀川支流の佃は川岸に沿って昔芦が群生していた所で、謡曲「芦刈」の舞台とした面影はないが、田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。  謡曲史跡保存会  」

石碑
「謡曲 芦刈ゆかりの地  平成二年吉日」
立札
「 田蓑神社由緒
御祭神 表筒之男命 底筒之男命
    中筒之男命 神功皇后
貞観十一年(八六九年)九月十五日鎮座 田蓑神社という
寛保元年(一七四一年)九月住吉神社と改名し 明治元年(一八六八年)に田蓑神社となる
  住吉の四柱
住吉大神は昔日向の橘の小門の憶原というところにお出ましになりました大神で伊邪那岐大神のお子様が表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命の三柱でございます 伊勢神宮の天照皇大神の御兄神に当れる神様です 神功皇后が三韓征討の時皇后みずから住吉三神を守り神と奉り進まれ遂に三韓の王等を降伏国におもどりに成る途中この田蓑嶋に立ちよられ勝ち戦を祝われ三神を奉られ 後に神功皇后も加わり四柱となる これを住吉四柱の大神という 時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀されている
 境内社 御祭神
   徳川家康公 金毘羅宮(大物主大神)
   天照皇大神猿田彦命事代王大神 大国主大神
   応神天皇、少彦名大神、菅原道真公(七重之社)
   宇賀御魂神(稲生社)
  昭和六十二年十月吉日  」