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2003年8月29日(金) 福沢諭吉誕生地へ

[本日歩いたコース]
  阪神「福島」駅→浄正橋交差点→玉江橋北詰→福沢諭吉誕生地→田蓑橋北詰→田蓑橋→大阪市立科学館→扇町高校→リーガロイヤルホテル→大阪国際会議場→住友病院→堂島大橋南詰→玉江橋→阪神「福島」駅→阪神「野田」駅→福島区役所、福島区図書館、福島警察署→阪神「野田」駅

 堂島川に架かる玉江橋を渡ると中之島です。ちょっと歩みを進めたところに大阪市立扇町高等学校があります。私の母校です。校門は改造されていましたが、校舎は変わっていませんでしたので、昔を偲ぶことができました。だが近辺は様変わりしていました。既に知っていたことですが、私が勤めたことのある大阪大学は、本部の事務局を始め、医学部、歯学部、蛋白質研究所など、みんな吹田市に移転していました。かわって大阪市立科学館という建物が目につきました。美術館もできるらしいです。周辺は工事中のため、高い塀に囲まれていて、私が仕事をしていた建物は垣間見ることさえできませんでした。当時医学部には法医学解剖室というものがあって、しばしば死体が搬入されていたようです。遠くはないところに三畳ほどの古びた薄暗い宿直室があって、そこで一人で何度か宿直をしたことがあります。いい気分ではなかったことを記憶しています。その建物も、あの建物も、みんなもう解体されてしまったのでしょうか。懐かしいものが消えていくのは悲しいことです。
 福沢諭吉について・・・ 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の言葉で知られています。慶応義塾大学の創始者。緒方洪庵の適塾で学び、勝海舟らによる幕府の遣米使節、遣欧使節の派遣の際、随行。主要著書に「文明論之概略」「西洋事情」「学問ノススメ」。明治時代を代表する啓蒙思想家。現在一万円札の肖像になっています。誕生地(阪神福島駅南約300m、現在の福島区福島一丁目、堂島川に架かる玉江橋北詰、阪大病院跡地南)に、昭和29年1月、慶應義塾社中の建立になる「福沢諭吉誕生地」の碑があります。


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2003年8月24日(日) 宝塚歌劇、清荒神清澄寺

観劇 宝塚大劇場(阪急宝塚線宝塚駅下車)
 宝塚歌劇 雪組公演 11時開演
  ●ミュージカル・プレイ Romance de Paris
  ●レビュー・ファンタスティーク  レ・コラージュ −音のアラベスク−
清荒神清澄寺(阪急宝塚線清荒神駅下車)
 真言三宝宗大本山。火の神、台所の神。
 開創千百年。宇多天皇の創意により平安時代の初めに創建されました。
  ・龍王滝(滝の左側の岩肌に不動明王がお祀りされています。)
  ・鉄斎美術館(世界の画聖富岡鉄斎の作品を展示。)


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2003年8月22日(金) 甲子園球場

 今日は阪神甲子園球場まで行きました。例によって、行きは徒歩、帰りは電車です。距離はともかく、コースは下記の通り極めて簡単です。
 自宅−(国道2号線を西へ直進)→上甲子園交差点−(南へ直進)→甲子園球場

11時00分 左門橋
 左門橋は交通要所の国道2号線上にあり、丁度大阪府と兵庫県の境に位置しています。大阪側は大阪市西淀川区です。私の母校の小学校の校歌に歌われているように、ここは「大阪の西玄関」にあたります。左門橋南詰の東側(大阪市西淀川区)には1945年6月26日の空襲被災者を慰霊した被爆者鎮魂碑があります。この橋の欄干は、昔は鉄の柵でしたが、今ではコンクリート製の壁になっています。この橋を渡ると兵庫県尼崎市です。この一帯は公害の街と言われ、大気と川の汚染がひどかったです。今は改善されています。
11時15分 杭瀬熊野神社(兵庫県尼崎市杭瀬本町)
 国道2号杭瀬交差点南側にあります。学校法人熊野学園が「杭瀬幼稚園」を経営しています。
 国道に沿った歩道を歩いていましたが、炎天下のせいか、歩いている人は少なかったです。工事現場に出会いましたが、交通誘導の警備員がこの炎天下にかかわらず立っていました。それが仕事とはいえ大変なことです。
11時25分 杭瀬自動車学校
 私が普通自動車運転免許を取得したのは、今から三十年前のことです。免許取得のために通ったのがこの学校でした。当時既に就職していたのですが、夜に通い、三ヶ月で取得しました。その時の費用は三万円から四万円だったと記憶しています。今は二十万円以上かかるようですが、隔世の感がします。
 大阪市消防局の救急車が走っていました。ここは兵庫県尼崎市なのに、大阪市消防局の車が走っているのに疑問を感じました。電話の市外局番は尼崎市も大阪市と同じ「06」です。そんなこととは関係はないでしょうが、消防や救急車の場合の管轄はどうなっているのでしょう。一度調べてみたい気がしました。忙しく働いている時は、気にもかけず、また気付きもしなかったことかもしれません。時間にゆとりがあって、ゆっくり歩いていると、今まで見えていなかったものが見えてくるという例の一つかもしれません。
11時35分 稲川橋・大物(だいもつ)公園
 大物公園には「デゴイチ」の名前で蒸気機関車の代名詞にもなっているD51型蒸気機関車が展示されています。車輪の直径が私の身長ほどもあります。公園の敷地は結構広いです。
11時45分 大物公園を出る
11時55分 尼崎市総合文化センター
 財団法人尼崎市総合文化センター(昭和48年4月1日設立)
 アルカイックホール・・・ オペラ、オーケストラを中心とした多目的ホール。
 アルカイックホール・オクト ・・・音楽、演劇、ファッションショー、展示会等の多目的ホール。
 アルカイックホール・ミニ ・・・音楽、演劇、講演、レセプションなどの多目的ホール。
 アルカイックホール リハーサル室・・・演劇、舞踊、音楽の練習など多目的
 アルカイックホール・オクト 練習室・・・演劇、舞踊、音楽の練習など多目的
    その他、美術ホール、文化教室、宴会室、会議室。
 近くにホテルニューアルカイック、尼崎中央警察署、尼崎市防災センターがありました。
12時00分 尼崎市中小企業センター、尼崎商工会議所、玉江橋
 玉江橋の下を覗くと、黒い色をした、大きな鯉が大量に群れていました。百匹以上いたかもしれません。その中に、一匹だけ赤い色をした鯉が混ざっていました。半分以上の鯉が暑さのせいか、酸素不足のためか、大きな口をパクパク動かしていました。こんな川に鯉がこんなにも大量に住んでいたとは思ってもみませんでした。
 このあたりで「神戸 22Km 西宮 7Km」という道路標識に出会いました。
12時20分 尼崎市立労働福祉会館
 尼崎市立労働福祉会館は国道2号沿いにはなく、国道2号から北に向かって数分歩いたところにあります。どうしてわざわざここに寄ったかといいますと、私にとっては想い出の場所だったからです。私は大学生の頃にギターを習っていました。ここは演奏会というものに私が初めて出場したという懐かしいところです。昔を懐古したく、演奏会のあった大ホールに入りたかったのですが、「立ち入りはご遠慮ください。」という張り紙がしてあって、入ることができなかったのが残念です。
12時30分 尼崎市立労働福祉会館内の食堂にて昼食
 尼崎市立労働福祉会館とその前の道路との間には、広いスペースがあったように記憶していたのですが、建物のすぐ前にはバスの停留所があって、私の記憶とは異なっていました。昔の記憶は思いのほか確かな場合もありますが、長い年月を経ると、別の新たな記憶と重なって変貌していくようです。
13時10分 尼崎市立労働福祉会館を出る
 道路脇で蝉が一匹、裏返って死んでいました。ついさっきまで元気で生きていた生き物が、こうして死んでいく姿を見るのは辛いことです。蝉の鳴き声は賑やかですが、その一生を考えると、その鳴き声もとても悲しいものに聞こえてきます。
 国道2号線は幹線道路だから、多くの車が通ります。今日も渋滞ぎみです。頭のてっぺんが太陽の直撃を受けて熱く、暑さでのぼせてきました。帽子を持ってこなかったことを後悔しました。頭にタオルを乗せ、建物の日陰がある道路の南側を歩きました。阪神電鉄のバスが横を通り過ぎて行きました。このバスに乗れば、容易に目的地にたどり着くことができるのですが、たとえ苦しくとも、全くその気はありませんでした。
13時45分 入江橋
13時50分 尼崎拘置支所
14時15分 武庫大橋
 橋も、あたりの景色も美しい。川の水も、底が見えるほど透き通っています。
 今まで、尼崎市を歩いてきたのですが、この武庫大橋を渡ると、いよいよ甲子園球場のある西宮市です。
14時25分 上甲子園交差点
 この上甲子園交差点を左折(南下)すると、あとは自然と甲子園球場に至ります。
14時48分 阪神甲子園駅
14時50分 甲子園球場に到着
 ついに甲子園球場に到着しました。「ばんざい!」と叫びたい気分です。場外にいても、応援団の太鼓の音や歓声が聞こえてきました。
15時03分 甲子園球場に入場
 甲子園球場では、今第85回全国高校野球選手権記念大会が行われています。一塁側外野席に座りました。座れないほどかと思っていましたが、十分席があいていました。スコアボードを見ると、茨城の常総学院と群馬の桐生第一との試合で、6回が終わったところのようでした。
 甲子園球場を見るのは初めてのことではありません。二、三十年ほど前に二度ほど来ています。今日はその時の記憶よりも一段と大きく見えました。芝生の緑が鮮やかです。広い。ホームランを打つのは神業のように思えました。外野席に座っているとキーンという打球音が、打った選手の動きにわずかに遅れて伝わってきます。結果は6対2で常総学院が勝ち、明日の決勝進出を決めました。
 それにしても、選手は勿論のこと、応援団の何と元気なことか。この炎天下にあっても、溌剌としています。これが青春のエネルギーか。私も、彼らを見ていて、もう一度青春時代に戻りたいと思いましたが、私だってこうして、この歳で、ここまで歩いてやってきたのだ。決して君たちに負けやしないという気持ちも湧き出てきました。
16時00分 甲子園球場を出発
 阪神電車「甲子園」駅から乗車
17時20分 自宅着


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2003年8月19日(火) 継体天皇陵、大阪第二警察病院、紫金山古墳

 今日の行き先は、徒歩で行くには遠いので電車とバスを利用しました。コースは次の通り。
  自宅→摂津富田(JR)→継体天皇陵(太田茶臼山古墳)・太田神社→摂津富田(JR)→茨木(JR)→福井(阪急バス)→大阪第二警察病院・紫金山古墳→千里中央(北大阪急行)→自宅

 9時30分 自宅を出発
12時15分 継体天皇陵(太田茶臼山古墳)
 墳丘がこんもりと樹木で生い茂っています。5世紀頃に築造された前方後円墳です。その規模は全長226m、前方部の幅147m、長さ117m、高さ約20m、後円部の径は138m、高さ約19mとされています。濠に近接して一般の住宅が建ち並んでいましたが、周囲は金網の柵で囲われており、立ち入ることができませんでした。
 私が今回どうして継体天皇陵を訪ねる気になったかといいますと、継体天皇の出身地(福井県)が、私の父の出身地に極めて近いところにあるからでした。
12時30分 太田神社
 継体天皇陵のすぐ近くに太田神社がありました。極めて小さな神社です。それでも、高くて真っ直ぐな樹木がそれなりに茂っていました。立ち入る人も少ないためか、境内の敷地は苔むしていました。社の後ろに回ろうとしたら、木に止まっていた蝉が二十匹ほど、一斉に飛び立ちました。引き返す時、足元の敷石を、一匹のトカゲが素早く横切っていきました。トンビが飛んでいるのも見えました。
 太田茶臼山古墳は、第26代の継体天皇の御陵であるとされてはいますが、土地の豪族の墓という説もあります。本当の継体天皇陵は、約1.5km東北方向にある今城塚古墳という説が有力です。そのため今城塚古墳に寄りたかったのですが、閑静な住宅街に迷い込んでしまいました。「この先行き止まり」という立札にしばしば出くわし、そのたびに後戻りするので、少しも前に進むことができませんでした。太陽は容赦なく照りつけ、手に携えていた手帳のカバーに触ると、火にあぶったように熱くなっていました。暑い。蒸し暑い。あまりの暑さに、今回は断念しました。バスの停留所を探し、JR摂津富田まで戻りました。
14時 7分 JR摂津富田発
14時10分 JR茨木着
14時25分 茨木(阪急バス)発
14時45分 福井(阪急バス)・大阪第二警察病院着、紫金山(しきんざん)古墳
 私は中学三年生の時、胸を患い、約一年間療養生活を送ったことがあります。その療養所が大阪第二警察病院でした。当時は大阪警察病院茨木分院と言っていました。建物は改築され、様変わりしているであろうことは承知していたのですが、私にとっては懐かしいところです。今日訪ねるのは四十年ぶりということになります。(ここでの生活を題材に『ちょっぴり悲しい僕の青春』という題で短編小説を書き、このホームページ上でも公開しています。ほとんど事実に基づいて書いたもので、御一読いただければ幸いです。)
 当時は木造で、「青松寮(せいしょうりょう)」「紫竹寮(しちくりょう)」「白梅寮(はくばいりょう)」という名の三つの病棟がありました。「青い松」「紫の竹」「白い梅」という意味ですが、「松竹梅(しょうちくばい)」という言葉に関連付けて、うまく名付けたものだと、感心したものです。私は「紫竹寮」に入っていました。 最寄りのバス停から病院の正面玄関までは、数百メートルの真っ直ぐな道で、道そのものは砂利が敷かれた幅の広い畦道のようなものでした。その道の両脇には一面に、緑の田んぼや畑が広がっていました。と私はこのように記憶していたのですが、そのような畦道は見当たりませんでした。正面玄関がバス停のすぐ近くに迫っています。敷地の外周を巡ってみました。建物はすべてコンクリートの建物に変わっていました。木造のものは見当たりませんでした。昔の面影がどこかに残っていないかと、記憶を呼び起こしながら歩きましたが、一つとして見つかりませんでした。これほどまでに変わってしまっては昔を懐かしむということもできません。私は落胆しました。外は暑く、広い病院の敷地を外周したため、私は汗だくになっていました。疲れも出てきたので、あきらめて帰ることに決めました。体を冷やしてからと思って、とりあえず正面玄関から病院の中へ入りました。気落ちしながら、ぼんやりと待合席のベンチに腰掛けていると、若い白衣の看護婦(今は看護師という)さんが、何人もしきりに前を通り過ぎていきました。私が入院していたころにも、二十歳前後の若い看護婦さんが沢山おられました。今になっても、名前も顔もはっきりと浮かんでくる人もいます。もしかしたら、その時の看護婦さんが、まだここで勤めておられるかもしれません。いや、そんなはずはない。四十年も前のことだ。人事異動もあるだろうし、結婚のため退職してしまった人だっているだろう。不幸にも亡くなられている方もおられるかもしれない。当時二十歳としたら、今は六十歳になっている。早い人なら孫も出来ていることだろう。悲しいけれど、それほど歳月が過ぎてしまったということです。色々なことが脳裏を駆け巡りました。
 冷房がよく効いているので気持ちがよくなり、眠くなってきました。しばらくうとうとしていましたが、突然、私は四十年前の記憶の中から、重大な記憶があることを発見しました。私が療養生活を送っていた「紫竹寮」の背後に小山があったこと。その小山に幾度となく登ったという記憶を。その小山というのは古墳のことです。古墳なら壊すはずはありません。移設するということも考えられません。その小山が古墳なら、四十年後の今だって、きっと同じ場所に残されているはずです。その小山の位置は見当がついていました。私は勇んで正面玄関の前に立ちました。その小山のある場所は、正面玄関から見ると右の方です。そう思って右手を見ると、確かにありました。樹木がこんもりと茂っているのが見えます。あれに間違いはない。早速、そこにつながっているであろうなだらかな坂道を登り始めました。一分ほど歩くと、私はもう暗くうっそうと木々が茂った、山の中腹にいました。右手には険しい山肌が迫っています。私はもう少し歩みを進めました。道は所々ぬかるんでいます。落ち葉が重なって落ちています。踏みしめるたびに、そのふわふわとした感触が足から伝わってきます。この感触、このぬかるみの色。当時経験したものと全く同じでした。四十年前の記憶が鮮明に蘇ってきました。もう少し進むと、右手に頂上に至る坂道があるはずです。その道は簡単に見つかりました。ここからは一気に道が険しくなります。険しい傾斜も昔と少しも変わっていません。ほどなく頂上が見えてきました。頂上とは大きな直方体の石のことです。頂上まであと数歩というところは、特別急な勾配になっていて、道が二手に分かれています。その分かれ具合といい、角度といい、全く当時と変わっていません。よくも四十年という歳月、風雨に曝されながらも、崩れずにおれたものです。自然であっても、変わるものは変わるが、いつになっても変わらないものもあるのです。私は退職してから、昔を懐かしんで、色々なところを訪ね歩きましたが、最後の一歩を踏みしめ頂上に至った瞬間、これまでにない感動を覚えました。時刻は15時22分25秒でした。
 頂上には当時にはなかった看板がありました。平成2年3月に大阪府教育委員会と茨木市教育委員会が設置したものです。この看板によると、この小山は紫金山(しきんざん)古墳といい、所在地は茨木市室山1丁目、標高は約70メートル、規模は全長約102m、後円部径76m、前方部幅40mであることが分かりました。
15時40分 下山
 下山しようとしましたが、登って来た道が分からなくなりました。山道は一歩間違うと危険ですが、下までの距離は短く、道でない道を下りました。途中、直径20cmほどもあるキノコを一つ見つけました。アゲハチョウも飛んでいました。アブラゼミの鳴き声に混じって、ツクツクボウシの声も聞こえました。夏もそろそろ終りに近付いたということでしょうか。
 紫金山古墳ではキャンプをしているような数十人の集団を見かけました。後でインターネットで調べてみると、この時期、京都大学考古学研究室が発掘調査をしていることが分かりました。おそらくその方々ではなかったかと思います。
17時10分 大阪第二警察病院発
17時30分 千里中央(北大阪急行)着
17時47分 千里中央(北大阪急行)発
19時20分 自宅着