随筆

 

 人生の良し悪しを問うのは結果論、経過が大切(2007年 9月)

 私は人生を生きていく上で「健康であること」が最も大切なことだと思っている。その健康を維持していくために、山歩きをしている。山歩きは健康に良い。特に私には「心の健康」のために大いに役立っている。  ところが、心配していることがある。私は多いときには毎日のように山歩きをしている。健康のためと言いながら「過ぎたるは及ばざるがごとし」とならないか。「心の健康」という観点からは問題なく役立っていると思っているが、「肉体の健康」に悪い影響を及ぼしていないかということである。若い頃、スポーツ選手だった人が、意外にも若くして亡くなっている事例がある。「肉体を鍛える」ことは「肉体を酷使する」ことと重なるところがある。良いことだと思ってしていることが、必ずしも良い結果を生むとは限らない。そのような観点からは注意する必要があると思っている。  私の山歩きは、「過ぎたるは及ばざるがごとし」となるかもしれない。私がこのまま山歩きを続けて、90歳になり、さらに100歳までも生きられたとしたら、山歩きのためだと言われるだろう。逆に私が今、急死したとしたら、山歩きのせいだと言われるだろう。良し悪しを問うのは結果論である。  若いころから、好きな煙草を吸い、好きな酒を飲み、それが原因でガンになって、太く短い人生を終えるのも一つの人生。煙草や酒は一切やらず、食事は腹八分目で、健康には十分留意して、細く長く生きるのも一つの人生。人生を生きる道は多様である。どのように生きようと、どちらが良いかなど決められるものでもない。人生の良し悪しを問うのは結果論である。人生はその経過を大切にしたい。  山を登るのは辛い。しんどい。どうしてこんなしんどいことをしなければならないのかと思うときもある。だが、たとえ低い山でも、苦労して山頂に立ったときの達成感は何事にも変えられない。私の数少ない至福のときである。私の山歩きが、健康のために真に役立っているのかは、実は私にも分からない。全ては結果論である。良い結果で終わるか、悪い結果で終わるか。そんなことを考えるよりも、日々の経過が楽しければ良いと思っている。

 医は仁術なり(2007年 9月)

今日、近くの総合病院へ定期健診にいった。病院は、相変わらず混雑している様子であった。院内はコンピューターでシステム化されているので、待合席に設置してあるディスプレイからは、「現在40分遅れで診察しています」というようなテロップが流れていた。 若い医師は、私の話を斜に構えて聞きながら、目や手は、パソコンの端末機のディスプレイに向けられていて、キーボードからの入力に必死である。「一度に言われると入力が出来ないから、ちょっと待ってください」などと制止され、むかつく。必要なことはメモにとり、あとでゆっくり入力すればいいのにと思う。  昔はまず、医師は患者の目の前に座り、「変わったことはありませんか」と患者に問う。次ぎに「脈をとらせてください」と言って、おもむろに患者の手に触れ、脈をとる。「胸を開けてください」と言って、聴診器を胸にあて、打診もする。今では打診、聴診、触診はなく、問診はあると言っても既述のような状況である。これも忙しさのあらわれなのだろう。患者と真正面で向き合い、患者の訴えをゆっくりと聞くというゆとりもないのである。コンピューターシステムに乗せられて、ことはたんたんと進んでいく。 今は、診断は検診結果のデータが中心である。古い言葉だが「医は仁術なり」と言う言葉を、医業に携わる人たちはあらためて肝に銘じてほしいとも思う。
 

「巡礼」と「山歩き」(2007年 8月)

「巡礼」とは、その宗教に固有の聖地・霊場を巡拝することであり、昔は旅そのものが難行であったため、それは「修行」であって、宗教上の果たすべき「義務」でもあった。今では健康祈願やたんなる観光旅行というのが一般的であるから、本人は「修行」のつもりでいても、普通の服装で、毎日のように出かけていれば、「結構なご身分でございますね」と恨まれることであろう。恨まれないためにも、昔ながらの手甲、脚絆に白装束、菅笠をかぶり、金剛杖を持つ巡礼の正装で出かけることである。「私は宗教上の義務を果たすため、修行に出ている巡礼でございます」という顔をしていれば、「よくぞお参りくださいました」と、むしろねぎらいの言葉の一つでもかけていただけるであろう。  西国三十三カ所は修験場など山岳信仰で栄えた山中の古刹が多く、約三分の一が山上にある。昔から山は聖域であり、信仰の対象になってきたが、私には信仰心はない。だから、神社仏閣は山歩きのついでに「観光地」の一つとして訪れるにすぎない。信仰心がなくても山は私の心を癒してくれる。山の頂上を踏むことにより、この上ない達成感を味わわせてくれる。山を歩き、山に登ることは、私にとっては苦しい修行の「巡礼」とも言えるが、気楽な観光旅行という一面もあることは否定できない。だから、常に後ろめたい気持ちでいる。巡礼の正装で身を固め、「山歩きは私にとっての、肉体と心のリハビリなのです」「山歩きは私の『巡礼』です」と言えば、少しは後ろめたい気持ちがやわらぐだろうか。

あなたは何に心を癒されますか。(2007年 8月)

 私は自然(人間の手が加わっていないもの)に心を癒される。たとえば自然のままの山や海や川である。だから私は心の癒しのために山歩きをする。ほとんどの心の病は山歩きで治ると主張する人もいる。自然には本来、心を癒してくれる何かがある。  人間は時代を遡れば猿だった。そう、人間は森の中で住んでいたのだ。もっと遡れば、水の中に住む生物だった。だから水中にもぐると心が癒される(水中は母親の胎内にいたときの状況に似ているからともいわれる)。  丸太階段の山道はご免だ。心が癒されるのは、人間の手が加わっていない自然のガレ場、ザレ場を歩く時だ。コンクリートやアスファルトで整地された登山道はもってのほかだ。山の上に神社があって、登山道が同時に参詣道になっている場合、一般の参詣者(お年寄りや観光客)のためを思って、丸太階段や石の階段で歩きやすく手が加えられているのを見かける。一般の参詣者のことを考えてのことだから仕方がないとしても、そうでもない山道を、単に歩きやすくするために手を加えるのは邪道だ。  私は人間の手が加わっていないものを見たり、触ったりすることにより心が癒される。人間のにおいを感じさせるものに癒されることはない。  コンクリートでかためられた堤防が殺風景だというので、近くの学校の美術部の生徒が、壁画を描いている。私は反対である。堤防が、雨の滴の跡で黒ずんでいようが、あるがままの姿のほうが自然で気持ちがよい。人工的に美しく見せようとしても「人間の手が加わったもの」は、私には美しく見えない。自然のままがいい。自然に優る美はない。人間という生き物の存在、人間社会を忘れさせてくれるものを見たり、触れたりすることにより、私の心は癒されるのである。

いつまでも個性が尊重される生活を送りたい。(2007年 8月)

 老人ホームに入ると、みんなと一緒の、あらかじめ決められた日課で1日が過ぎる。自分はしたくない「お遊戯」のようなことだってさせられる。一人一人の個性を尊重していたら、施設の人員が足りなくなるからだろう。いつまでも個性が尊重される生活を送りたい。そのためにも老人施設にお世話にならないよう、健康の維持に日々努めよう。

人の手が加わった美しさでは、私の心は癒されない。(2007年 7月)

 阪急電鉄主催のハイキングに参加するつもりでいたが、天候不順のため中止になった。天候不順な日が続いて、最近歩いていない。体が歩くことを要求するので、長居公園を散策することにした。長居公園には関西屈指の陸上競技場があり、今年8月25日からは世界陸上選手権大阪大会が開催される。とはいえ、今日の目的は競技場を見学することではなく、同じ長居公園内にある大阪市立長居植物園を散策することである。少しでも自然に触れていたいという気持ちからではあったが、その美しさは人の手が加わった美しさであり、、「自然」の美しさを感じることができなかった。やはり、癒しを求めて「自然」に触れるためには、山歩きでなければだめだ。

緩慢な態度・無口は誤解を招く。(2007年 7月)

 ちょっとばかり昔の話であるが、ある駅の構内で、足の弱そうなおばさんから、「階段を使わずにどこそこへ行きたいのだが、どう行ったらいいか」と道を聞かれた。私は知り尽くした駅ではなかったので、一瞬とまどい体が固まってしまった。体は固まってしまったとはいえ、頭の中では懸命に考えていた。しばらく間があって、そのおばさんは「なんや知らんのか!」と捨てぜりふをはいて去っていった。私としては、このおばさんのために、丁寧に応対しているつもりでいた。だから、そのおばさんの態度がひどく私の心を傷つけた。  あとで冷静に振り返ってみたのだが、私の態度が、質問をしたのに、「ちょっと待ってくださいね」という一言もなく(私としては少なくとも、心の中では言っていた)、ただじっと黙って突っ立っているだけという風に見えたのだろう。私の頭脳はその時、おばさんの質問に対する答えを出すためにフル回転していたのだが、そんな状態が外部のおばさんの目からは見えるわけがなかったのだ。  口は災いのもととはいうが、無口や緩慢な態度は誤解を招く。人に先んじたり、生き馬の目を抜く(他人を出し抜いて素早く利を得る)ような行動がとれない、私のように無口で、ひ弱で、遠慮がちな、「聖人君主」や「貴公子」たちよ! 他人から誤解されないよう、緩慢な態度、無口、遠慮がちな言動には、十分注意しましょうね。

小学校同窓会の案内が届いたが・・・(2007年 5月)

 先日、小学校の同窓会の案内が郵便で届いた。場所は、ある中華レストランで、「会費 男性6,000円、女性 5,000円」とある。男性のほうが1,000円高いというべきか、女性のほうが1,000円安いというべきか。男女平等がやかましく叫ばれている時代にあって、どうして男女によって金額が異なるのだろう。その理由が知りたいのだが、聞くのも面倒だから、想像してみた。少しでも女性の方々に出席してほしいという意図か、女性に比べて男性のほうが飲み食いの量が多いからか。これ以外に理由が浮かんでこない。そこに私が納得できる理由があるのだろうか。その理由を聞くまでもなく、むかついてきたので、私は欠席することに決めた。

雑草・害虫・害獣(2007年 5月)

 昔、アパートの1階に住んでいた時の話である。玄関前には排水溝があって、春が来ると、その排水溝に沿って「雑草」が生えた。隣り近所の方々は、各々自分の玄関前に生えた「雑草」を、きれいに刈り取っておられた。私の玄関前の、幅一間半だけが刈り残されて、青々と茂っていた。見方によれば、ちょっと奇妙な風景に見えたであろう。  正直に言って、当時の私は「ずぼら」をしていた、と言ってもいいのだが、「雑草」だからといって、安易に刈り取ってしまうことに抵抗を感じていた、というのも偽らざる気持ちだった。植物だって生き物。「雑草」だって生き物。精一杯生きている。「雑草」だから汚いというものでもない。そもそも「雑草」という言い方も、人間の勝手な価値判断だけで言っているのである。小さいけれども、時期が来ればきれいな花も咲かせる。人間にとってさほど害がないのならば、自然のままにしておきたい。誰にでも、心の中にはそんな素朴で、優しい気持ちがあるのではないだろうか。そんな感情を大切にしたいものだ。  山道を歩いていると、たくさんの虫に出会う。うっかり踏みつけそうになるが、本能的に避ける。知らずに踏みつけている場合の方が、圧倒的に多いだろうが、気が付いたからには、避ける。人間には、ちっぽけな虫一匹の命でも「殺してはいけない」という気持ちが、本能的に備わっているのだろう。そう思いたい。  やっかいなことには、人間にとってその存在が「有害」とされた場合である。山道を歩いていて、たまに、サル、イノシシ、シカ、などの動物に出会う(クマにはまだ出会ったことがない)。彼らは人間に意図的に迷惑をかけようと行動しているわけではない。彼らも生きている。生きていくために必要な限度で行動しているのである。山道で、「害獣の駆除のためワナを仕掛けているので注意」という看板を見かけることがある。人間にとって「有害」だから「駆除」するという発想に抵抗があるが、きれい事ではすまされない事情もあろう。人間側の都合で一方的に、弱い立場にある動物たちを「駆除」するという発想ではなく、最近は人間との「共存共栄」「住み分け」などといわれるようになったのは良いことだ。  この4月から町会の班長になった。日常的には、回覧板を回すのが主な仕事の一つになっている。今、手元に「ごぎぶり駆除のお知らせ」という、町会長と町会女性部長名での文書がある。みんなで協力をして、ごぎぶり団子を作り、一斉にごぎぶりを「駆除」しようというのである。「ごぎぶり」は、その存在が人間にとって「有害」とされるから「駆除」の対象にされる。その姿が人間の価値判断からして、決して美しいとは見えない。玉虫のように輝き、病原菌を媒介しないという、人間側の価値判断で「清潔で、美しい」存在だったら、ごぎぶりの運命も変わっていたかもしれない。

最近、腹が立つこと多し。(2007年 5月)

 こんな人に腹が立つ。 @通勤・通学車内で食事をする人(あえて「人」を「女」とは言わない)  老若男女に限らず、飲料水の「ラッパ飲み」すら、そのしている姿を見せつけられるのは不快だ。だから私は、「通勤・通学車内」での食事はもちろんのこと、飲料水の「ラッパ飲み」もしない(ように努めている)。(座席の形態・座席の設備から、車内での飲食を前提にしている場合、例えば旅行中の「長距離列車内」は別)  そもそも、食べることは罪なことである。飲んだり食ったりする行為は、排泄行為と同じく汚いものと思っている私には、飲食中の行為を見ると、汚い排泄中の行為をイメージしてしまうのである。だから私は、人前で食事をしたり、他人が食事をしている姿を見るのが嫌いなのだ。私のこのホームページでも、これまで飲食の話はほとんどしてこなかったし、これからも原則としてしないつもりだ。 A通勤・通学車内で化粧をする人(あえて「人」を「女」とは言わない)  もともと化粧は他人をだますためにするもの。舞台裏を見せてどうする。車内は自分の個室ではない。理屈はどうあれ、調査によると不快に感じている人が多いのだから。催し物の予行演習がテレビで放送されることがあるが、これも見方によったら奇妙なことだ。舞台裏を見てみたい気もするが、舞台裏を見せつけられると興ざめする。 B通勤・通学車内で、大声で話したり、大声で笑ったり、奇声をあげる人(あえて「人」を「女高生」とは言わない)  車内放送が聞こえないので困る。その土地に詳しくない乗客(旅行者など)にとっては、車内放送の情報は重要なのである。携帯電話については、「車内での携帯電話のご利用はご遠慮ください。また、優先座席の近くでは携帯電話の電源をお切りください」などと、しきりに放送しているが、携帯電話に限らず、「車内での会話はご遠慮ください」とでも放送してほしいものだ。私が学生時代の頃の車内は、静かだったような気がする。「車内では静かにする」というのは「常識」ではないか。(「静かにする」というのは「車内」に限らず、公共の場所一般で言えることだ。)煙草や携帯電話の害については、しつこく言われるが、公共の場所での話し声の害も、注目してほしいものだ。  特に、若者のマナーの乱れに腹が立つ。昔はおばさんがうるさかったが(オバタリアンと言われた)、最近は女高生がうるさい。  若者の行為に腹が立つのは、わが人生が終末に近付いた証拠かもしれない。

「男性専用車両」を設けよ!(2007年 5月)

 女性専用車両は痴漢対策として設けられたのだろうが、ぜひ「男性専用車両」も設けてほしい。 @化粧中の女(あえて「女」と言う)の姿を見せつけられるのは不快だ。 A食い、「ラッパ飲み」をする女(あえて「女」と言う)の姿を見せつけられるのは不快だ。 B女(あえて「女」と言う)の強い香水の臭いをかがされるのは不快だ。 C女高生(あえて「女高生」と言う)の大声で話す声や、大声で笑う声や、奇声を聞かされるのは不快だ。

物言い(2007年 5月)

 写真を撮ったりメモをしながら山道を歩いていたら、森林を管理している人か、農家の人か、軽トラックに乗った若者が、窓から顔を出して、「・・・をされている方ですか?」と聞いてきた。私は「単なるハイカーです」と答えると、「単なるハイカーですか」と私の物言いを繰り返した。私はここでむかついた。私は自分をへりくだって、「単なるハイカーです」と言ったのである。この場合、若者は「単なる」の言葉を除いて、「ハイカーの方ですか」と答えるべきだった。小さなことかもしれないが、自分の発した言葉がどこで相手に不快感を与えているかわからないから、物言いには互いに注意しましょうね。

失いたくないもの(2007年 4月)

 誰でも失いたくないものがある。ということは誰でもすでに「失いたくないもの」を「持っている」ということである。「お前には何も失うものはない」というのは、相手の存在を無視し、その価値を軽く見た、侮辱であり、暴言である。  誰でも失いたくないものを持っている。私にもある。その一つに健康がある。特にこころの健康である。こころの健康は金では買えない。たとえ資産家であっても、金の力ではどうしょうもない。金で簡単に買えないがゆえに、なおさら失いたくない。またこころの病は他人の助けを求めるにもままならない。  こころの病は、多くの場合スポーツをすることで防げるといわれる。確かにそうだと思う。だから私はこころの健康のために山歩きをしている。まねをしろとは言わない。一人一人が自分にあった好みの健康法を見いだすことは、長い人生を乗り切るためには大切だ。今の私はこの方法で何とか難を逃れている。「のんきで気楽」に山歩きができる環境を与えてくださっている方々(兄弟姉妹、親や親戚縁者)に感謝しなければならない。  人がこころの病に陥るのはどんなときだろうか。他人から自分の信念を、軽々しく無視、否定されたとき、自分の信念を貫けない状況に立たされたとき、これもその一つであろう。信念というものは、たとえ他人からはくだらないものに見えても、その人にとっては一大事である。信念とは、毎日の生活において常に生きる指針としてきたことである。当然のこととして、そう考え生きてきたこと、それが生き甲斐であり、生きる目的であってきたもの。それが生きるための活力になってきたもののことである。だから、他人の信念を「くだらん!」といって、無視、否定することは、軽々にはできないはずである。  他人が自己の信念を無視し、軽蔑しようが、差別し、偏見と嫌悪の目で見られようが、強い意志を持って生きていければいいのだが、時には人を死に追いやることもあるということを、互いに認識しておくべきである。  意見の食い違いは話し合いによって解決できる余地がある。話し合うということは譲り合うこと、妥協点を見いだすことだ。だから双方で100%満足できる結果が得られなくても、やむを得ないことと承知しておくべきである。話し合いの結果、100%の希望が入れられなければ承知しないというのであれば、話し合いすらできないということと同じだ。だから、親子、兄弟姉妹、親戚縁者の縁を切ることだ。自分にも「失いたくないもの」がある。失いたくないもの、それは再度言うが「こころの健康」だ。「こころの健康」を失うことに比べれば、親子、兄弟姉妹、親戚縁者の関係を失うことはなんでもない。縁を切ることによって訪れる幸せもある。それほど「こころの健康を失う」ということは私にとっては重大で、脅威なのである。  話は変わるが、父母の所有物は、その所有者である父母の承諾なくして、実の息子や娘といえども、勝手に処分することはできない。父母が認知症で、正常な判断力に欠けるようになれば、仕方がないことではあるが。  同様のことは、こころの病にも言える。病気だからといっても、常に異常というわけではない。正常なときもある。正常なときは何ら通常人と変わらないのであるから、正常なときの本人の意志を無視するわけにはいかない。本人のいないところで、本人の意見を無視して、勝手にことを進め、結論を出すのは、状況によっては「人権侵害」といわれても仕方がない。人権侵害は犯罪である。犯罪を犯すことはできない。どうしても受け入れがたいことがあれば、受け入れがたくて我慢できないと思うほうが、本人が正常なときに、事前に本人と会い、本人と話し合い、本人を説得してでも(「人権侵害」にあたる内容のことを、説得してまで承伏させることは、好ましいことではないが)、本人の承諾を、事前に得ておくべきであろうと思う。

センサーライト(2007年 4月)

 帰宅が遅くなって、真っ暗になった夜の道を歩いているとき、突然明るいライトに照らされて、ギクリとさせられることがある。センサーの検知エリアに入ると、自動的にライトが点灯し、泥棒が侵入してくるのを威嚇するというもので、「センサーライト」というものらしい。防犯のためには大変便利なものではあろうが、いつも不快な思いにさせられる。  私は泥棒ではない。「天下の公道」を歩いているのである。いきなり照らすというのは失礼ではないのか。これは機械が自動的に反応しているのですと、機械のせいにされてしまいそうだが、そうではない。もしこれが機械の仕業ではなく人間だったら、公道を歩いている人に向かって、いきなりその人の顔や姿を懐中電灯で照らすなど、全く失礼千万なことであるに違いない。自分の敷地内に入ってはじめて作動するように調節すべきである。

歩道では歩行者優先!(2007年 4月)

 自動車公害はもちろんだが、最近では自転車の横暴(信号無視、二人乗り、禁止区域での駐輪など)がはなはだしい。「駐輪禁止」の看板がある真ん前で、堂々と駐輪がなされている。マナー無視どころか、明らかな法令違反が平然と行われているのである。  私は今は、車にも自転車にも乗らない。歩くことを基本にしている。立場が異なると、意見も異なってくるものだが、私はここで、歩行者の立場から、自転車の横暴の一事例として、自転車の利用者に警告しておきたい。  歩道では歩行者が優先するのだ! 自転車で行ける距離なら歩いても行けるはず。健康な足があるなら歩け! 時間に余裕がないから自転車を利用している? 余裕のない「生活習慣病」から早く脱却せよ! 余裕を持て! せわしない競争社会の時流に乗せられてはならない! ゆっくり歩けば見えてくるものもあるだろう。

自転車と法律(道路交通法)(2007年 4月)

 私は、車はもちろんのこと、自転車にも乗らないようにしている。  最近、自転車の横暴が気になるので、一言言及しておきたい。  自転車は道路交通法では、軽車両(車と同じ扱い)に該当するから、原則として歩道ではなく車道を通行しなければならない。自転車通行可とされている歩道でも、歩行者優先が原則である。自転車は歩道の中央から車道寄りの部分を徐行し、歩行者の通行を妨げないようにする必要がある。そこのけそこのけと、歩行者に対してベルを鳴らして走るのは違法である。ベルを鳴らさないと走行できないなど、、歩行者が多いところでは押して通行すべきである。(自転車を押して通行する場合は、歩行者と同じ扱いになる。)  要するに、歩行者は自転車に優先するから、自転車は歩行者に遠慮しながら通行せよ! ということだ。  健康な足があるなら、歩け! 歩け!

職務質問(2007年 2月)

 夜の7時頃だったと思う。陽は没していて、あたりは真っ暗。千種川の堤防を、JR播州赤穂駅に向け歩いていた。堤防を歩く人は私以外にいなかったろうが、車はひっきりなしに通っていた。そのうち、一台のパトカーが、赤灯を回転しながら近付いてきた。パトカーには4人ほどの警察官が乗っていて、そのうちの2人が降り、私に近付き質問した。いわゆる「職務質問」というやつだ。「どこから来られました?」「お名前を聞かせてください」と。私はまず、手にしていたマップを示し、大阪からハイキングで来た旨答えた。「お名前を聞かせてください」と再び問うてきた。私は職務質問をする理由を聞かせてくれと言った。一方的な職務質問には、答える義務はないと思ったからである。私からの問いに明確な答えがないため、私がしぶっていると「姓だけでもおしえてください」と言う。私はあまりに意固地になるのもどうかと思い姓のみ答えた。すると続いて「なにか証明になるようなものをお持ちですか」と問うてきた。「ご協力お願いします!」と二人の警官が、再々懇願する。私がザックから運転免許証を取り出し、警官の一人に手渡した。警官は懐中電灯で照らして私の名前を確認すると、「ご協力ありがとうございました」と言った。私が職務質問の理由を再度聞くと、「さきほど連絡が入ったところなんですが、お年寄りが病院からいなくなったんですよ」と答え、あわただしく、パトカーに戻っていった。おそらく認知症で徘徊癖のある人が、入院している病院から黙って外出した。私がその人ではないかと疑われたということだろう。それにしても、職務質問するには、問われたからには正当な理由を告げてからにしろと言いたい。二人の警官は若く、溌剌としていて、言葉使いもていねいだったから、特段の悪い印象を受けはしなかったが。

母の介護(雑感)(2007年 1月)

 パンに付けて食べるジャムが、小さなビニールの袋に入って出てくる。母は力がないうえ、袋が小さいので、この袋を破ることができない。牛乳パックの横に貼り付けられたストローも、容易にはがすことができない。普通の人には何でもないことができないのである。母は認知症がすすんでいるためか、自分から助けを求めようともしない。肉親が介護で付き添っている時はいいのだが、普段はビニールの袋だって、ストローだって、破ることも、はがすこともできないで、パンだけかじっているのではないかと心配する。  看護士(介護士?)さんが食事が終わった頃を見計らって、「お食事、終わりましたか?」と後片付けにやってくる。年寄りのことだから、食事に時間がかかる。「時間があれば、まだ食べられそうですから」といって、片付けるのを待っていただく。事実、時間をかければ食べられるのである。肉親の介護人が付き添っていない日は、「もういいですか?」「食欲がなさそうですね?」とかなんとか、適当なことばをなげかけられたあと、さっさと片付けられてしまうだろう。介添えしながら、時間をかければ、全部食べられるとしても、一人の患者に肉親のように、べったりと関わっていられないのが実情だろう。施設で預かってもらえるのは助かるのだが、このような心配もしているのである。心配なら、施設などに預けずに、自分の家で介護しろということだ。

老いることは悲しいこと。(2007年 1月)

 私の父が死んだのは1995年5月28日のことである。1995年といえば、あの阪神淡路大震災があった年である。あれから12年の歳月が流れた。父は震災で死んだわけではないが、震災により実家は半壊し、結局建て替えることになった。もともと長屋であったから、間口が狭い。この際、転居を考えてはみたのだが、母が「誰も知った人のいない、新しい土地へ行くのは嫌だ」といった。私は、これも「親孝行」の一つだと思って、親の意向に従うことにした。新しい建物ができあがったとき、父は他界していた。母はしばらくは新居で同居していたが、今は施設に預けている。新しい建物に、父の姿も、母の姿もない。  父は87歳で死んだ。長生きした方である。父が死んだとき、母が「もう2、3年も生きられたら十分や」と悲しげな表情で、つぶやいた。母も病気がちだった。早く父のところに行きたかったのだろうか。そのときの母の年齢は、77歳であった。あれから12年。母は今、88歳である。父が死んだ年齢を超えた。  母が入院中、何度も小便の介助をした。小便のあと、お尻を拭いてやる。これまで、これほどまでに母の肌に触れたことはなかった。母のお尻は象のお尻のようである。お尻はもちろん、ももも、ふくらはぎも、体全体が骨と皮のみである。よくぞこんな状態で歩いていられるものだ(母は介助をすれば少しは歩くことができる)と思う。  母は、おしめの中で用を足そうとはしない。まだ、おしめの中でしろというのはかわいそうだ。自分でトイレへ行こうとする。しかし、介助なくしてはトイレに行けない日が間近である。本人は自分ひとりでトイレに行けると思っている。だから、夜中にもぞもぞしだしたとき、「小便がしたいんか?」と聞いても、なかなか返事が返ってこない。黙ったまま、トイレに行こうとする。だが、自分の思い通りに体が動いてくれない。本人自身もはがゆく思っているだろう。何度も聞いてから、ようやく「そうや」という。  なんとか自分ひとりでトイレに行こうとしている母の姿を見ているのはつらくて悲しい。

ウォシュレット(2007年 1月)

 母の小便の介添えをする。洋式の便座に座らせ、「もう出たか?」「うん、出た」「みんな出たか?」「うん」という会話が終わると、母が自分の股間を覗き込みながら立ち上がる。トイレットペーパーをちぎって前を拭くようにと手渡す。母がそれを手にとって拭こうとすると、母の股間から、再び小便がこぼれ落ちてくる。まだ残っていたらしい。ちょろちょろとこぼれ落ちる小便の音を聞きながら、母が自分の股間を覗き込んでいる。しばらくしてから再び「もう出たか?」「うん、出た」「みんな出たか?」「うん」という会話があって、母が股間を覗き込みながら立ち上がる。すると、みんな出たはずの小便が、再び出だす。今度は、勢いよく出だす。「まだ出るわ!」といって、母があわてて腰を下ろす。「ぎょうさん出るな!」母自身も少し驚いた様子である。「まだ出るわ!」と再び母。私もこんなにたまっていたのかと驚く。それにしても、いつまでも止まることがない。余りにも量が多すぎる。母の体に並々ならぬ異変が起こっている。私は一瞬不安になった。私は母の股間からその奥あたりを覗き込んだ。そこで初めて合点がいった。そう、便座からノズルが延びて、その先から水が噴き出していたのである。「ウォシュレット」というお尻を洗う機能が付いた便器だったのだ。「ウォシュレット」の存在は知ってはいたが、一度も使ったことがない私には、気がつくのに時間がかかったという、お粗末なお話であった。

刑事犯と行政犯(取締法規違反)、法と道徳、破廉恥犯と非破廉恥犯(2006年12月)

■いじめの問題について・・・いじめるほうが悪いのです。一部に、「いじめられるほうも悪い」という意見があります。「いじめるほうが悪い」という基本的な観点を見失ってはいけません。「いじめられるほうも悪い」と言うと、いじめを助長することにもなりかねません。「真に悪い人間は誰なのか」、この観点を見失ってしまうと、「いじめられるほうも悪い」ということにもなり、被害者が二重の被害にあうという悲劇が起こります。(現実の問題としては、どちらがいじめているほうで、どちらがいじめられているほうかが判然としないというケースもあるでしょうが)
■ゴミ問題について・・・ゴミを平気で捨てる人がいます。ゴミが落ちているのを知りながら、拾おうとしない人がいます。「落ちているゴミを拾おうとしない人も悪い。」という見方も出てくることでしょう。この時、「捨てるほうが悪いのだ」という基本的観点を決して見失ってはいけません。「ゴミを平気で捨てる人」が悪いのです。「落ちているゴミを拾おうとしない人も悪い」のではありません。自分が捨てたゴミではないのに(善意で拾うことがあっても)、拾う義務はありません。非難は「ゴミを平気で捨てる人」に向けられるものであり、「落ちているゴミを拾おうとしない人」に向けられるものではありません。 「捨てる者がいれば、拾う者もいるんだ。だから捨ててもいいんだ」ととらえられかねません。「いじめられる方も悪い」のではなく、「いじめるほうが悪い」のです。「本質的に誰が悪いのか」という観点を決して見失ってはいけません。
■服装について・・・どんな服装で歩こうが自由です。他人からとやかくいわれる筋合いはありません。服装は好みの問題です。ただ、全裸体で町中を歩けば警察に捕まるでしょう。それはその行為が「本質的に悪い」からではなく、「正常な社会秩序を乱す」とかなんとかの理由で、「取締法規」に違反するからです。「本質的に悪い」というわけではありません。その行為が「本質的に悪いこと」なのか、「本質的には悪いことではない」のか。この見極めがとても重要なことなのです。
 私は、最近の女高生の短いスカート姿は好きではありません。「好き」「嫌い」は個人の勝手です。勝手ですから言います。私は女高生の短いスカート姿を不快に感じています。だからといって、長くすべきだとまで主張することができません。それはどうしてでしょうか。そのこと(短いスカートをはくこと)だけをとらえてみれば、「本質的に悪い」ことではないからです。自分が「好きだから正しい」とか、「嫌いだから悪い」とか、そんな判断は間違っています。だから私は「嫌い」と、はっきり言えても「悪い」「間違っている」とまでは言えないのです。
■殺人、傷害、暴行、脅迫、詐欺、窃盗はすべて「本質的に」悪い犯罪です。一方、未成年者の飲酒・喫煙行為、その他いわゆる「取締法規違反」の行為は、その行為そのものが、「本質的に悪い」というわけではありません。誤解を恐れずに端的に言えば、社会政策的観点等から、いわゆる「取締法規」ができ、その「取締法規」に反するがゆえに、その罪が問われるというだけです。「本質的に見て悪い行為」なのか、それとも「本質的には悪くはないが、いわゆる取締法規に違反するために悪いとされる行為」なのかをはっきり区別することは重要なことです。
(本質的には悪い行為ではないからといっても、違反を奨励しているわけではありません。法規を守るのは国民の義務ですから。ただ、日常「犯罪」といわれるものの中には、「本質的に悪いこと」と、「本質的には悪くはないこと」の二つがあることを、はっきり意識しておくことが大切だということです。)
■シートベルトを締めずに運転すると違反です。「取締法規」の違反です。シートベルトを締めずに運転することは「本質的に悪いこと」ではありません。ちょっと前まではこのような規定はありませんでしたから。「運転する時にはシートベルトを締めなければならない義務」が「取締法規」に定められたために、その「取締法規」に違反するために「悪いこと」となったのです。「本質的に悪いこと」ではないのです。酒を飲むこと、煙草を吸うこと、これらは「本質的に悪いこと」ではないのです。未成年者は煙草を吸ってはいけない。未成年者は酒を飲んではいけない。成人であっても酒を飲んで運転してはいけないという「取締法規」があって、その法規に反するために「罪」とされるにすぎないのです。これも誤解を恐れずに言えば、酒を飲んで運転することは「本質的に悪いこと」ではないのです。酒を飲んで運転すると事故を起こす確率が高くなる。そんな研究調査結果を踏まえて、酒を飲んで運転することを禁止し、「取締法規」として規定したのです。殺人、傷害、暴行、脅迫、詐欺、窃盗などといった罪とは本質的に違うのです。
(だからといって、未成年者の喫煙・飲酒、酒酔い運転を奨励しているわけではありません。世間で「犯罪」とみられている中にも、「本質的に悪いこと」と、「本質的には悪くはないこと」の二つがあるということを、日常はっきり認識しておく必要があるということです。)
■信号機が「赤」なのに、横断歩道を渡ってしまったことがあるでしょう。特に深夜で交通量が少ない時など。世の中には「時と場合によっては許される」ことがたくさんあります。臨機応変(この言葉は私が最も嫌いな言葉の一つですが)に振る舞えということでしょう。 そこには、交通の危険がなければ渡っても良いという判断があるのです。(危険があっても渡る人もいるでしょうが)。もちろんのこと道路を渡る行為そのものは「本質的に悪い」という行為ではありません。「取締法規」に反する行為が悪いとされるのです。
※これらの問題は、法律と道徳の違い、刑事犯と行政犯の違い、破廉恥犯と非破廉恥犯の違い、などを研究すればよくわかるのではないかと思います。一般社会人でも法律の基礎的学習の必要性を感じています。
※社会や世間の「常識」は疑ってみることです。疑ってみることに解決の糸口があると思っています。
※常識的判断が正しいと決まったものではありません。あいさつができない子は良くない子と限ったわけではありません。子供はすべて「明るい子」でなければならないわけではありません。暗い子もいるのです。「明るい子」でなければいけないという重圧に悩んでいる子もいるのです。
※道徳やマナーに確固たる基準はありません。時代の変化、社会の風潮によって、いかようにも変化しうるものです。だから、絶えず「本質的には何が悪いのか。誰が悪いのか」を模索し続けることが必要なのです。
※できるだけ分かりやすく書こうとしたため、「非常識だ」と誤解される点が多々あることと思います。こんな私も実社会では、一般的に「常識」「マナー」と言われているところに従い行動しています。心の中ではいつも「本質的にはどこに問題があるのか」「誰が悪いのか」などを考えています。その結果の一つがこのような「非常識」な見解になりました。

靖国神社参拝問題(2006年 7月21日)

 昨日のニュースによると、「昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示し、靖国神社参拝を中止したとする当時の宮内庁長官のメモ」が見つかったそうだ。大方の意見では、このことは分祀の運動や首相の靖国神社参拝問題に大きな影響を与えるだろうというが、私はそうあってはならないと思う。当時の宮内庁長官のメモから、当時の天皇の意見が明確に知れたからといって、現憲法下においては、天皇は日本国の象徴であり、何らの政治的権限を有していないのであるから、その意見に左右されることはない。あくまでも我々国民が判断すべきことである。主権は我々国民にあるのであるから。

葬儀(2006年 7月10日)

 最近は、簡略にすまそうとする「家族葬」や、宗教にこだわらない形の「音楽葬」など、自由な発想の葬式が増えている。お葬式そのものをしなくてよいと考える人も現れた。私も葬儀はいわゆる「家族葬」で、近い親戚だけですまそうと考えている。「香典返し」も面倒だから香典も辞退しようか。
 以下は「香典辞退」についてインターネットで調べた記事から抜粋したもの。
「香典辞退が/流行の兆しがありますが、「香典をもらわなくても葬儀は出せる」という見栄のようなものを感じます。/香典は、実際的には相互扶助の意味はあったにせよ、本来は弔意の表明です。遺族は弔問者の気持ちを汲んで、まずはありがたくいただく、というのが本来的であると考えます。「香典返しが面倒だから」といった理由での香典辞退は、香典のもつ意味を誤解したものだと考えます。香典を辞退されると弔意を拒絶されたように思い、とまどう弔問者も少なくないのです。香典、供花は贈る側の意思、弔意の表明ですから受け取る側の事情によるものではないのです。したがって受け取るのが原則となっています。 近年、お葬式を質素に簡素にということが流行しています。それは本人や遺族の意思の問題です。しかし長くお付き合いした友人・知人の弔意も考えて、その気持ちを踏みにじることにならないよう配慮すべきではなかろうか、というのが私の考えです。」
「故人の遺志などにより、香典の受け取りを辞退されることがあります。その場合、無理にお香典をわたしてはかえって失礼にあたることがあります。香典にかわるものとしては、供花や供物がありますのでそれらの品物をお渡しするのも方法です。」
「『香典、供物の儀、固くお断りいたします。』と知らされていたら、それに従い、何も 持たずにお通夜や葬儀 に参列するのがマナーです。」


ありがた迷惑(2006年 7月 5日)

 おばがなくなった。高齢の方で「大往生」だ。とは言っても死は悲しい。葬儀に出席するため、車で総勢5人が、越前大野に向かった。越前大野は私の母の郷里でもある。3日の朝4時過ぎに出発。北陸自動車道を通り、葬儀開始時刻である10時の1時間前に着いた。葬儀、告別式が終わり、斎場まで同行した。相手の都合も考え、骨あげを待たず、昼の食事前に退去する予定であった。迷惑になってはいけない気持ちから、その旨を伝えたのだが、「もう食事の準備ができています。遠慮なさらずに、食事をすませてから帰ってください」「いえいえ、こんなに大勢で押し掛けて、かえってご迷惑をおかけすることになってはいけませんので」と、この場でのなかば慣習になっているようなやりとりがあって、結局、食事をいただいてから退去することになった。
 食事の準備の都合から、出席者の人数がどれほどになるかは、喪主としては悩ましいことである。結婚式の場合は、あらかじめ明確であるが、葬儀の場合、その出席者の人数を把握するのは容易でない。死亡通知をする際に、出席いただける人数を聞けばいいのだが、聞き難いことである。こちらとしては、食事の準備のためにのみ知りたいだけであっても、言い方によっては、出席を強要しているかのようにとられかねない。何かと気を遣うことの一つである。それで、大目に準備しておくのがおおかたのやりかただろうが、慣習というものには不合理なものが多く、どうにかならないものだろうか。
 喪主としては、出席していただける人が多いのはうれしいことだと思う。ただ、親戚といっても、日頃の関係が疎遠で、遠方でもあり、来てくれるとしても、代表して一人だけだろうと思っていたところ、5人も来たとなっては、本心では「ありがた迷惑」と思っているかもしれない。
 告別式が終わったあとでも、告別式に参列できなかったので、お線香の一本でもあげさせてくださいと訪ねてこられる人がいる。厚意を受ける側は、いつでもありがたいことだと思っているわけではない。本心は迷惑に感じていることだってありうる。
「ありがた迷惑」という言葉は、言い得て妙である。恩着せがましい親切はよくない。「ほっておいてくれ!」といいたくなる。本当に困っているときの親切は身にしみるが、あとで「あんなに親切にしてあげたのに」と言われるのは「ありがた迷惑」というものである。

山のマナー(2006年 6月29日)

 山で人に出会ったら、「こんにちは」とあいさつを交わすのがマナーです。「あいさつは積極的に自分からしましょう」というような小学生向けの標語も街で見かけます。
 私は「あいさつ」を交わすことを煩わしく思っていますが、相手が「こんにちは」と声をかけてくる限り、「こんにちは」の言葉を返すことにしています。そんなこと、あたりまえのことじゃないかとしかられそうですが、山ではまれに、こちらが「こんにちは」と声をかけても、返事が返ってこない人に出会うことがあります。そんな時は、一瞬不快な気分にさせられますが、決して腹を立てないように努めています。その理由は次を読めば理解していただけることと思います。
 人はどうして山に行くのでしょう。自動車の排気ガスから逃れて、新鮮な空気を吸いたいからという人もいるでしょう。山頂から美しい景色を眺めたいからという人もいるでしょう。私は、人間社会の喧噪から逃れ、静けさを求めて山に行きます。
 ラジオを鳴らしながら歩いている人に出会うことがあります。熊よけのためというのならば、命に関わることなので許されますが、ラジオ番組やラジオから流れる音楽そのものを聴きたいということであれば、イヤホーンで聴いてほしいと思っています。
 私は熊よけのためにと、お守りをかねた鈴を買いましたが、山歩きをする人のホームページを見ているうち、このような鈴の音でさえやかましいと感じている人がいることを知って、持ち歩くのを躊躇しています。
 静かな自然の中を、誰にも出会わず、ただ一人で歩いていると、煩わしい人間社会の存在を忘れて、別の世界に浸ることができます。そんな清々しい気分で歩いている時に人に出会うと、一瞬にして現実の世界に戻されてしまうのは残念なことです。
「山では、人に出会っても、あいさつの言葉を交わさなくてもよい。互いに静かに通り過ぎること」。突飛なことを言うようですが、こんなことが山のマナーとして定着すれば私としてはとてもうれしいことです。
 再び突飛なことを言うようですが、マナーとは世の中を「要領よく(悪い意味で)」渡っていくための一つの技術にすぎないと思っています。礼儀正しくあいさつができる子が良い子で、あいさつができない子は悪い子だとは決して思っていません。私は、あいさつがきっちりできる子よりも、あいさつのできないぎこちない子の方を好みます。
 一日中歩いていても、誰一人出会わない日があります。そんな時はとても清々しい気分になります。私は静けさを求めて山に行くのです。静けさを求めて山に行く人がいることを忘れないでほしいのです。

歩行者用信号機(2006年 3月13日)

 ほんの数歩、時間にして1秒前後で渡ることができる小さな道路にも、歩行者用信号機が設置されています。ほとんどの人(すべての人と言っても言い過ぎではありません)は信号を無視して渡っています。私は法規を守るほうだと自負していますが、そんな私でも、「臨機応変に行動できない馬鹿正直者」に見られたくない気持ちもあって、無視することがあります。時間にすれば数秒の出来事ですが、とても心苦しい思いにさせられます。
 法規は守るべきでしょうが、一律に適用するのではなく、法規の中に現実として守られない不合理な部分があるとすれば、事情によって異なった扱い、それこそ「臨機応変」な施策が望まれます。
 必ず守らなければならない大切な法規でも、「時には守らなくてもいいのだ」という悪い考えが蔓延し、健全な遵法精神がむしばまれるのではないかと危惧しています。
〔警察庁ホームページから下記の意見を投稿する。〕
 小さな道路は、「いつ渡ってもいいが、注意して渡ってください」という意味の「黄点滅」か「赤点滅」の信号システムにしていただきたく存じます。夜間の自動車用信号機にはあるように思いますが。
 上記、ご検討いただければ幸いです。

本当に明るい子が良いのだろうか?(2005年11月19日)

 ベストセラー「五体不満足」で知られる乙武さん。気になるのは、教室正面の額縁の中にある言葉という。「明るい子、考える子、丈夫な子がベストスリー。でも本当に明るい子が良いのだろうか?」。暗い性格も立派な個性。それを認めず、「明るい子」を押しつけることが子供たちを苦しめると懸念する。
          ―2005年10月26日、日本経済新聞(夕刊)記事から抜粋―

心に残る言葉(2005年 3月 4日)

●砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ。(サン・テグジュペリ「星の王子さま」より)
●野に咲く花は駆け引きがないから美しい 花になれない人間の私(金剛登山道石地蔵にて)
●人生後半が面白い 味が出るのはこれからこれから(金剛登山道石地蔵にて)
●回りを見るからきついんです 自分は自分 マイペース マイペース(金剛登山道石地蔵にて)
●また来ると 詫びながらの 墓参り(京都大原三千院にて)
●人は見えても 自分は見えない(京都大原三千院にて)

「診察申込書」の記入事項(2004年 6月25日)

 近くの総合病院で診察を受けようとしたとき、窓口に「診察申込書」というものがあった。これに必要事項を記入し、保険証と一緒に窓口に提出するのである。「必ず全項目を正確にご記入下さい。」とある。項目として、氏名、生年月日、男女の別、住所、電話番号、職業、アレルギー体質の有無、薬剤過敏の有無がある。ここまではいいのだが、突如として「未婚・既婚」の別を記入するところが出てくる。科によっては参考になる項目かもしれないが、診察申込の段階で、受診する科の区別なく、すべての人に対して、必須の記入項目としてあげているのには驚いた。特に「眼科」を受診するのに既婚・未婚の別を事前に告げなければいけないという理由がわからない。必要に応じて答えればいいことである。
 プライバシー保護の観点からは、デリカシーに欠けるというものである。医者の方からも聞き難いことなので、事前に本人から申告してもらおうという意図があってのことなのか。それとも何か別に理由があるのか。
下記は当該病院へ送ったメールのコピーである。

お忙しいところ申し訳ございません。
窓口にある「診察申込書」についてですが、
「未婚・既婚」の別を記入するところがあります。
科によっては参考になる項目かもしれませんが、
診察申込の段階で、受診する科の区別なく、
必須の記入項目としてあげているのには疑問を感じます。
特に「耳鼻科」「眼科」などを受診するのに
既婚・未婚の別を事前に告げなければいけない理由がわかりません。
必要に応じて答えればいいことではないでしょうか。
必要以上にプライバシーを公開することは苦痛です。
支障がある人は書かなくてもいいということであれば、
その旨を明記すべきだと思います。
他の病院の事情はわかりません。
理由があってのことなら、その理由をお聞かせくだされば幸いです。


「診察申込書」の記入事項(2004年 7月 5日)

 先日(6月25日)の日記に書いたことだが、某病院に出した質問に対する回答があったので記録しておく。
*質問のメールを送る際、住所・氏名・電話番号が必須の記入事項になっていた。プライバシーを開示しなければ質問を受け付けてもらえないのも問題だ。
□□□□□□さま
質問メールをいただきありがとうございます。また、お返事が大変遅くなり申し訳ございません。
当院の診察申込み書にある「未婚・既婚」の欄は主として産婦人科を受診される時に参考にさせていただいております。しかし、ご指摘の通り診療科によっては不要な項目ですので、7月1日から受付で全ての患者さまにお聞きすることは廃止し、必要に応じて各診療科でお聞きしております。今後も患者さまのお気持ちに沿った対応に努力してまいりますのでご支援の程よろしくお願い致します。
□□□病院


紫金山古墳(2003年8月)

 私は中学三年生の時、約一年間療養生活を送ったことがある。その療養所が大阪第二警察病院だった。当時は大阪警察病院茨木分院と言っていた。建物は改築され、様変わりしているであろうことは承知していたが、私にとっては懐かしいところだ。四十年ぶりに訪ねることにした。
 当時は木造で、「青松寮(せいしょうりょう)」「紫竹寮(しちくりょう)」「白梅寮(はくばいりょう)」という名の三つの病棟があった。「青い松」「紫の竹」「白い梅」という意味だが、「松竹梅(しょうちくばい)」という言葉に関連付けて、うまく名付けたものだと、感心したものである。私は「紫竹寮」に入っていた。 最寄りのバス停から病院の正面玄関までは、数百メートルの真っ直ぐな道で、道そのものは砂利が敷かれた幅の広い畦道のようなものだった。その道の両脇には一面に、緑の田んぼや畑が広がっていた。と私はこのように記憶していたのだが、そのような畦道は見当たらなかった。正面玄関がバス停のすぐ近くに迫っている。敷地の外周を巡ってみた。建物はすべてコンクリートの建物に変わっていた。木造のものは見当たらなかった。昔の面影がどこかに残っていないかと、記憶を呼び起こしながら歩いたが、一つとして見つからなかった。これほどまでに変わってしまっては昔を懐かしむということもできない。私は落胆した。外は暑い。広い病院の敷地を外周したため、私は汗だくになっていた。疲れも出てきたので、あきらめて帰ることに決めた。体を冷やしてからと思って、とりあえず正面玄関から病院の中へ入った。気落ちしながら、ぼんやりと待合席のベンチに腰掛けていると、若い白衣の看護婦(今は看護師という)さんが、何人もしきりに前を通り過ぎていった。私が入院していたころにも、二十歳前後の若い看護婦さんが沢山いた。今になっても、名前も顔もはっきりと浮かんでくる人もいる。もしかしたら、その時の看護婦さんが、まだここで勤めておられるかもしれない。いや、そんなはずはない。四十年も前のことだ。人事異動もあるだろうし、結婚のため退職してしまった人だっているだろう。不幸にも亡くなられている方もおられるかもしれない。当時二十歳としたら、今は六十歳になっている。早い人なら孫も出来ていることだろう。悲しいけれど、それほど歳月が過ぎてしまったということだ。色々なことが脳裏を駆け巡った。
 冷房がよく効いているので気持ちがよくなり、眠くなってきた。しばらくうとうとしていたが、突然、私は四十年前の記憶の中から、重大な記憶があることを発見した。私が療養生活を送っていた「紫竹寮」の背後に小山があったこと。その小山に幾度となく登ったという記憶を。その小山というのは古墳のことである。古墳なら壊すはずはない。移設するということも考えられない。その小山が古墳なら、四十年後の今だって、きっと同じ場所に残されているはずだ。その小山の位置は見当がついていた。私は勇んで正面玄関の前に立った。その小山のある場所は、正面玄関から見ると右の方だ。そう思って右手を見ると、確かにあった。樹木がこんもりと茂っているのが見える。あれに間違いはない。早速、そこにつながっているであろうなだらかな坂道を登り始めた。一分ほど歩くと、私はもう暗くうっそうと木々が茂った、山の中腹にいた。右手には険しい山肌が迫っている。私はもう少し歩みを進めた。道は所々ぬかるんでいる。落ち葉が重なって落ちている。踏みしめるたびに、そのふわふわとした感触が足から伝わってくる。この感触、このぬかるみの色。当時経験したものと全く同じだ。四十年前の記憶が鮮明に蘇ってきた。もう少し進むと、右手に頂上に至る坂道があるはずだ。その道は簡単に見つかった。ここからは一気に道が険しくなる。険しい傾斜も昔と少しも変わっていない。ほどなく頂上が見えてきた。頂上とは大きな直方体の石のことである。頂上まであと数歩というところは、特別急な勾配になっていて、道が二手に分かれている。その分かれ具合といい、角度といい、全く当時と変わっていない。よくも四十年という歳月、風雨に曝されながらも、崩れずにおれたものだ。自然であっても、変わるものは変わるが、いつになっても変わらないものもあるのだ。私は退職してから、昔を懐かしんで、色々なところを訪ね歩いたが、最後の一歩を踏みしめ頂上に至った瞬間、これまでにない感動を覚えた。時刻は15時22分25秒であった。
 頂上には当時にはなかった看板があった。平成2年3月に大阪府教育委員会と茨木市教育委員会が設置したものだ。この看板によると、この小山は紫金山(しきんざん)古墳といい、所在地は茨木市室山1丁目、標高は約70メートル、規模は全長約102m、後円部径76m、前方部幅40mであることが分かる。

蝉の声(2003年8月 6日)

 クーラーがジジジー、ジジジーと、まるで蝉の鳴き声のような音を立て始めました。電源を切るとおさまり、入れると音がします。このクーラーは買ってからもう7年を超しています。ついに故障かと思いつつも、あまりにもその音が、蝉の鳴き声に似ていましたので、気になり窓を空け外を見てみました。室外機からは水が帯状に流れ落ちていて、その水の溜まり場で一匹の蝉が、裏返ったまま羽根をばたつかせ、くるくると回っていました。回るたびにジジジー、ジジジーと音を出しています。音の正体は蝉だったのです。納得し窓を閉め、あらためて電源を入れると、また同じようにジジジー、ジジジーと音がします。電源を入れると音がし、切ると消えます。不思議なことがあるものです。これは偶然の出来事だったのか。それとも蝉は室外機から流れ出た水の中にいたので、電源を入れると、何らかの電気的作用が蝉にまで伝わったのか。私は電気のことには詳しくないのでよく分かりません。

セクシュアル・ハラスメント(2003年6月13日)

 部落差別だけが差別であるかのように騒がれた時代がありました。今は「セクシュアル・ハラスメント」が問題になっています。セクシュアル・ハラスメントも部落差別と同様に人権侵害の一種であるにすぎません。セクシュアル・ハラスメントの例として「性差別的な意味合いを持つ言動により相手の人格を傷つけること」と説明されていますが、言動により相手の人格を傷つけたり、相手のいやがる(であろう)ことはしないということは、セクシュアル・ハラスメントに限ったことではありません。部落の人や女性が歴史的に差別されてきた事実から「被害者」「弱者」として保護しようとか、当面緊急を要するものからということでしょうが、逆差別の問題を避けるためにも、根本的解決のためにも、問題をより一般化すべきだと思います。セクシュアル・ハラスメントに関しては、「男女ともにセクシュアル・ハラスメントの被害者にも加害者にもなる」ということを肝に銘じるべきでしょう。
「一般的にセクシュアル・ハラスメントと見なされる言動」の一例として、女性に対して「職場の花」「女らしくしろ」「女のくせに」と言うことがあげられています。男女ともにセクシュアル・ハラスメントの被害者にも加害者にもなるという観点から言えば、男性に対して「女の腐ったような」「男らしくしろ」「男のくせに」と言うことも、「一般的にセクシュアル・ハラスメントと見なされる言動」の具体例として加えるべきでしょう。
*「女の腐ったような」という表現は男性に対して言われますが、「もともと劣った女より、さらに劣った」という意味ですから、女性に対する差別表現にもなります。

改正男女雇用機会均等法(平成11年4月1日施行)は、職場におけるセクシュアル・ハラスメントを防止するために事業主に対して下記のような配慮義務を課しました。
第21条
 事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する女性労働者の対応により当該女性労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該女性労働者の就業環境が害されることのないよう雇用管理上必要な配慮をしなければならない。

 この均等法では、男性の女性に対するもののみが対象になっているようです。国家公務員を対象にした人事院規則では、女性の男性に対するものも対象にしています。大学が真理を追究する場であるならば、客観的立場に立って「女性の男性に対するセクシュアル・ハラスメント」も、同時に問題としてとりあげないと、一方にかたより過ぎということになるのではないでしょうか。大学は時勢に流され、世の中は力関係で動いているような気がします。

-------------------------------------------------------------

 学校における「いじめ」や「からかい」が問題になったことがあります。「いじめ」や「からかい」はいじめたり、からかったりしているほうは、さほど意識をしていないのでしょうが、いじめられ、からかわれているほうは、精神的に強い衝撃を受けています。それによって自殺した子どもも沢山います。職場でも「からかい」の言葉は勿論ですが、「冗談」として言われたことでも、それを冗談だと受け止められずに、立腹し、また落ち込んでいる人がおられるのではないかと想像しています。「からかい」は「言葉の暴力」になります。冗談も、それを言う人は、「これは冗談で言ってるんです」という逃げ口を作って、言いたいことを言っている場合があります。一般的に暴力は、男性から女性に向けられるものを指しているのでしょうが、言葉の暴力はそれに限ったことではありません。言葉の暴力は、それによって相手に打撃を与えることが目的ですし、それによって自分の不満を解消し、自分の精神状態を安寧に保つ手段です。人間は感情の動物ですから、聖人でない限り、悪いことだという自覚があっても止めることはむつかしいでしょう。
 私もつい「冗談」のつもりで言った言葉で他人を傷つけていたことがあったことと思います。言っているほうでは気づいていない場合がありますので、注意しなければいけないことだと反省しています。

大阪湾突堤(2003年5月27日)

 今日は大阪湾の突堤まで歩いて行くことにした。コースはおおよそ次の通り。
  自宅(13時30分出発)→千北橋→出来島大橋→川北小学校→大阪リバーサイドゴルフ場→西淀ゴルフプラザ→中島新橋→大阪湾広域臨海環境整備センター(フェニックス大阪)
 どうしてそんなところまで行く気になったのかというと、そこは小学生の頃、父に連れられて魚釣りによく行ったところだからだ。兄や弟も一緒だったし、母も同伴することもあった。その突堤で母が作ったおにぎりを食べたことを記憶している。岸壁には大きな岩があって、下を覗くと、フナムシが気持の悪いほど沢山いて、這いまわっていた。私たちキョウダイははぜを釣っていたが、父は主としてぼらを釣るのが目的だった。母は釣りをすることはなく、平らな岩を選んでそこに座り、編物のようなことをしていた。
 堤防へ出るまでの道を歩いていると、緑の草が生えているのが見える。その場所は道の端っこの狭い側溝沿いだが、ずっと続いている。その緑と草の匂いを鼻腔に感じながらゆっくり歩いていると、幼い頃のことを思い出す。大人になってからは、ゆっくりと花をめでたり、土や草の匂いを嗅いだりする機会がなかった。幼い頃は草の中に分け入り、キリギリスやカマキリを捕まえたり、トカゲや蛇を見つけた時は敵のように石を投げつけたりして遊んでいた。草の匂いを嗅いで子供の頃を思い出すのは、その頃に嗅いだ土や草の匂いが記憶として残っているからだろう。
 歩くのは良い。一人で歩くのはなお良い。いにしえを思い、感慨に耽ることが出来るからだ。今になってはどうしようもないことだが、あの頃に戻って、もう一度人生をやりなおしたいという気持も起こってくる。
 この西淀川区は中小の町工場が沢山あったが、今では場所によっては、注意してみないと見つからない。近代的な団地、マンションが沢山建って、住宅地に変わって来ている。緑もあちこちに見られるようになった。行政も行き届いて町並みが綺麗だ。「住宅・都市整備公団」「都市基盤整備公団」と看板のある団地に入った。人影がないので、誰も住んでいないのかと思って、裏へ回ると洗濯物が干してあった。自転車に子どもを乗せたお母さん方が集まって立ち話をしている。
 最近は一般の道路も堤防も、車道と歩道がはっきり分かれているから、ゆったりとした気分で歩くことが出来る。堤防は5mほどの高い壁だから、川面を見ながら歩けないのが残念だが、堤防が途切れる橋のあるところまで行くと、そこからは川面を見渡すことが出来る。ボートや工事船が浮かんでいるのを見ることも出来るし、さわやかな風にあたることも出来る。川の水はまだまだ汚いけれども、水鳥の姿もあちこちに見かけるので、魚も住めるほどに綺麗になっているのだろう。
 最初に出くわした「千北橋」の近くの堤防の壁面に、畳1枚ほどの大きさの写真(ビニールのような材質に印刷されている)が4枚、並べて貼り付けてあった。残念だが、写真を載せることができないので、そこに書かれていた文字の部分だけを記しておく。

   水辺の風景 神崎川(矢倉緑地付近)の野鳥
    ホシハジロ<冬> 守りましょう 水辺に遊ぶ鳥たちを
   水辺の風景 神崎川(矢倉緑地付近)の野鳥 チュウシャクシギ<秋>
   水辺の風景。神崎川(矢倉緑地付近)の鴨
   水辺の風景。神崎川(矢倉緑地付近)の葦


「なにわ自転車道」という標識があって、それを見ると、この千北橋から次の出来島大橋、あの西淀川公害訴訟で悪名高い国道43号線までは600mあることが分かる。
 堤防を歩いている途中、「乗合船・渡船 出来島渡船部 ミタス商事株式会社」「出来島渡船 のりば」という看板のある階段があった。堤防に登ってその乗り場の跡を見てみたかったが、階段は錆びたままで、金網の柵もしてあり「あぶない のぼらないこと 大阪府」という警告文もあった。渡船はなくなっても、このように、いつまでも看板が放置されている。こういうのを見ると、昔のことが偲ばれていいのだが、世の無常を感じて悲しくなる。
 出来島大橋に突き当たるすぐ手前に「なにわ自転車道終点」という大きな縦長の赤い看板がある。

      自転車道利用のみなさまへ
   この道路は、自転車歩行者専用道路です。
   バイクや自動車は通行できません。
   1.河川の増水時や夜間の利用は危険です。
   2.ゴミや廃棄物を捨てないでください。
   3.自転車利用者は歩行者に気をつけて走行してください。

      文字は白。続いてこの下に英文で同じ内容が書かれている。
      この看板の隣には地図の看板もある。

「出来島大橋」は堤防から見上げるような高い位置にあって、そこからこの下の堤防に下りる坂道がある。歩いて行くにも危険なほど急な坂道だ。「自転車はおりてとおって下さい」という掲示があるにもかかわらず、若いお母さんが、子どもを自転車の前に乗せたまま、私の目の前を、猛スピードで、落ちていくように下っていった。
 ここはあの悪名高い国道43号線が走っている。車の騒音、排気ガスがひどくて、「西淀川公害訴訟」で全国的に有名になったところだ。大型のトラックがひっきりなしに通る。高架下に有料駐車場があって、その前で靴の紐を緩めた。靴擦れがしてきたからだ。頭上の道路を走り去るトラックの音が地鳴りのように響いてくる。
「川北小学校」がある近辺は堤防から離れた位置にある。下町風情の民家が密集している。ここが川に囲まれた島だということを一時忘れさせるところだ。
 再び堤防沿いに歩く。堤防に平行して大きな車道がある。そこには大型の車がひっきりなしに通るが、堤防を歩いているのは私だけだ。やがて左手にはゴルフの練習場が見えてくる。このあたりに来ると、足下にゴミが捨てられているのが目立ってくる。ここから先は決して推薦出来るコースではない。捨てられているものの種類といい、量といい、範囲といい、これほどのものを見たことがない。ものの見事というのはこのような情景を言うのだろう。社会の汚い面、人間の恥部といったものも見ておきたいという方には取って置きの場所だ。
 自動車、冷蔵庫、家具、マットレス、布団、各種の電化製品、タイヤ、新聞紙、雑誌、茶碗、お皿、人形、ぼろぎれ、シャツ、パンツ、上着、空き缶、空き瓶、煙草の吸殻、ビニールの袋、その他ありとあらゆる生活廃棄物が捨てられている。捨てられていないものと言えば「棺桶」「お骨」ぐらいと言ってもいい。そんなゴミが、この堤防沿いに延々と続いているのだ。この堤防に平行して大きな車道が走っている。その車道と堤防までの間には草木が茂っているので、このような情景は車道からは見えない。こうして私のように歩いてみないと気付くことはない。
 左手には産業廃棄物処理場という建物がある。大阪湾広域臨海環境整備センター(フェニックス大阪)があって、産業廃棄物の処理などを扱っている。もともとこのあたりはゴミ捨て場だと思えば悲観することもないが、この堤防沿いが公共のゴミ捨て場になっているわけではなかろう。事実「空缶・空瓶・ゴミ等をすてないで下さい。大阪工業団地協会」という看板もあった。大阪湾の突堤近くだし、こんなところだから、真昼間でもここを歩いているのは私一人だけだ。不気味なところで、夜になると尚更人の目に触れないので、車でこのようなゴミを捨てに来る輩がいるらしい。
 魚釣りに来ていたのはこんなところではなかったはずだ。40年以上も前のことだから、記憶が確かでない。一つ道を間違えるとこんな汚いところもある。それが西淀川だ。魚釣りに来ていたのは向かいの岸だったのかもしれない。
 二度と足を運びたくないところだが、途中に外島保養院記念碑があったのでご紹介しておく。
外島保養院記念碑

 帰りも歩きたかったが、運動靴が私の足のサイズに合わなかったとみえ、靴擦れがひどくなってきたのでバスを利用した。(17時30分帰宅)。バスに乗っていた時間は20分もなかったと思うので、今日は3時間以上歩いたことになる。
 堤防沿いに尽きることなく捨てられていたゴミの印象が強烈で、不快な気分が残った一日だった。

母回復(2003年5月25日)

 前に見舞った時は眉間に皺を寄せ、酸素マスクもし、苦しそうな顔をして眠っていた。今日は明らかに安らかな寝顔だったので、腕を触って起こした。耳もよく聞こえ、「来てくれたんか」と一言いった。入院前の頃よりももっとよくなっている感じだ。点滴をしていたが今は自分で食事もとれるようになっている。「家へ帰ってからゆっくり食べたい。ここでは食べられない。」とも言う。ここにいれば食べたいものがあっても自由に食べさせてもらえない。不満、ストレスが溜まっていたのであろう。点滴のチューブをはずし、看護婦さんを困らせていた。「点滴のチューブをはずすので治療が出来ない。ここの病院は治療をするところなので、引き取っていただきたい」というようなことを言われた時もある。小便もチューブを入れていたが、私の介添えでベットのそばのポータブルトイレですることも出来た。足もしっかりしていて歩くことも出来るという。2時間いて、特別の異常も感じられず、安心して帰った。この先こんなことが何回も繰り返されて、そのうちどうしょうもない状況がやってくるのであろうけれど、ひとまずは安心した。

栄枯盛衰、世は無常(2003年5月24日)

 今日は母が以前に勤めていた「□□屋」へ行った。私の自宅からは徒歩30分ほどかかる。国道2号線沿いの「野里交差点」のすぐ近くにある。3階建てのこじんまりとしたビルで、その2階か3階で、母は昭和32年から10年間、和裁やお花を教えていた。私が小・中・高校生の頃で、母はまだ45歳前後の歳だった。私がここを訪れるのは40年ぶりということになる。その建物の2階部分の端に「カネボウ化粧品 □□屋」という小さな看板が道路側に突き出ていたので私が記憶していたところに間違いはなかった。
 錆びたシャッターが閉まったままだ。2階、3階の表の窓は透明のガラス張りになっているから、中までその一部が見える。電灯は消されていて、人が居るという気配は全くなかった。コンクリートの壁はあちらこちらに亀裂が走り、黒く汚れたままだ。明らかに廃屋で、朽ちるに任せて放置してあるという状況だ。このビルは両隣の建物よりも小さいので、なおさらみすぼらしく、惨めな姿に見える。取り壊してもいいようなものだが、売りに出されているという風でもない。取り壊すにしても費用のいることだ。ここの主人はどうなったのか。母はここで40年前、溌剌と働いていた。今の母の容体と重ねて思うと、栄枯盛衰、世の無常を感じて、心の中が寂しくなった。
 「野里交差点」を渡って「喫茶とお呑み処」という看板のある店に入って食事をした。席はカウンターに6人、一般席に10人ほどしか座れない小さな店だ。私はおばさんに焼肉定職とオレンジジュースを注文した。私の座っている席のすぐ隣には調理場があって、おばさんが早速何かを刻んでいる。やがて、ジュウジュウと肉の焼ける音も聞こえてきた。料理が出来上がるまで15分以上も待たされた。取り立てて急ぐ用事もなかったので、不満はなかった。本来、料理というものは、お客様の注文を聞いてから取りかかるもので、この程度の時間がかかってあたりまえだ。現代人は急ぎすぎる。何かに煽られている。何か大切なものを失っている。
 腹ごしらえが済んだので、すぐ先の「淀川大橋」を渡ることにした。子どもの頃はこの橋で魚釣りをしたことがある。この橋を渡り切るには10分以上の時間がかかる。橋の途中で立ち止まって見渡すと、遠くを平行して走っている阪神電車の車両がおもちゃのように見えた。下をサルベージ船や小型のボートが通り過ぎる。左遠方には「梅田スカイビル」も見える。「梅田スカイビル」は親孝行のため、弟の誘いで、腰の曲がった母を連れて食事をしたことのあるところだ。橋を渡ってすぐの信号を左折し、堤防沿いを歩くと眼下に「淀川河川公園」が見える。土曜日の昼下がりとあって、小・中学生がサッカーをしていた。堤防の高いところから眺めると、彼らを含めて100人ほどの人がいた。 振り返って見ると、木造の「小屋」があった。小屋の正面には「鷺洲水防用具庫 淀川左岸水防事務組合」とある。小屋の左の方には土嚢が積み上げてあり、近くには下記のような立札があった。「鷺洲水防分団屯所」という小屋もあった。

           お願い
   此土嚢は非常時の災害防止用の物なので、
   関係者以外は持出したり使用したりしてはいけません。
             大阪府福島警察署
             淀川左岸水防事務組合
             鷺洲水防分団

           注 意
   この堤防は大阪市を守る大切な堤防です。
   皆さんにも無論大切な堤防です。
   この用具庫は非常の時の水防に必要な用具を入れてあります。
   個人のもの、又他の団体のものは一切入れておりません。
   この用具庫の入口の扉を破損したり、又無理に中へ這入りますと罰せられます。
             大阪府福島警察署
             淀川左岸水防事務組合
             鷺洲水防分団


 淀川大橋には下記のようなプレートもあったので記録しておく。

   淀川大橋南詰
              淀川陸閘左岸ゲート
         形  式   シェル構造180゜回転式ゲート
         純径間×扉高 24.00m×2.50m
         門  数   1門
         開閉方式   油圧シリンダ式
         扉体自重   31.9ton
         製作年月   平成4年7月
         製   作  日立造船株式会社


   淀川大橋北詰
              朝日 Morning grow
         この壁面は -つよくて、やさしい淀川-
         というテーマに託された”生命”の象徴として
         [太陽と水]をモチーフにデザインしました。
         左岸には夕映えを見ることができます。
                 平成5年3月
                   近畿地方建設局
                   淀川工事事務所


 帰りは先日の日記で紹介した大野川緑陰道路に寄ったので、今日は都合3時間は歩いたことになる。

延命治療(2003年5月20日)

 母が肺炎をおこして入院したのは今月の3日。憲法記念日の日だった。祝日が続いて、主治医が決まったのは連休明けの6日。肺炎はかなり進行していた。祝日のため主治医が決まらなかった3日間、どのような治療が行なわれていたのか疑わしい。主治医は、「今日からはきつい薬にします」と言った。だから「大丈夫でしょう」とまでは言わなかった。「なにせお歳ですから」としきりに言う。歳が歳だけに、医者の方でもはっきりと治るという保証が出来ないらしい。「延命治療について家族で相談しておいてください」とまで言われた。一度付けた延命装置は植物状態になったからと言って、途中で外すことは出来ない。たとえ家族から懇願されようと、途中で外せば死期を早めることになる。今の日本の法律では殺人罪に問われることにもなる。だからどうするかを今のうちに決めておいてほしいらしい。
 姪は「おばあちゃんには長生きしてほしいけれど、おばあちゃん生きていても苦しんでるかもしれんから、おばあちゃんに苦しいかどうか聞いてから決めてほしい」と言う。聞いてから決めてほしいと言っても、母は痴呆状態にある。真意を得るのが難しい。姉は「たとえ植物人間の状態でもいいから、生きていてほしい」と言う。今はそういう気持でも、今の医療の技術では、植物状態でも、10年、20年と生き続けることだってありうる。植物状態が数カ月続いただけでも、介護に疲れて「お願いだから、お母さん、もう死んでください」という気持になるだろう。そうなっても、延命装置を外すことができないとすれば、きっとその時後悔するだろう。植物状態でも生きていたいというのが母の真の意志なら、自分の母だから、最後の親孝行として、この先どれだけ費用がかかろうと、母の希望通りにしてあげたい。だが、子どもには迷惑をかけたくないと、常日頃から言っていた母だから、母はそんなことまで望んではいないだろう。植物人間の状態でも生きていてほしいと言うのは、本人のためというよりも、家族のたんなる気休めのためだと思う。
 母は85歳という高齢だ。もっと若ければ、植物状態でも一縷の望みをかけてということも考えられるが、今までの経過を見たら、たとえ回復したところで、総体としては、今以上によくなるということは期待できない。僅かでも会話ができ、意志の疎通ができる状態なら、どんなに費用がかかろうと、いつまでもいつまでも生き続けて欲しいが、母が既に植物状態になっていて、「延命治療をしますか」と問われれば、「もう結構です。自然に死なせてください」というのが家族で話し合った結論だ。

火災予防作文「特選」(2003年5月19日)

 全国火災予防運動に出品した私の作文が、「特選」に選ばれた時の表彰状と原稿が出てきたので記録しておく。

           表彰状
     特選
        大阪市立佃小学校六年一組
                    □□□□
      あなたが全国火災予防
      運動にあたって出品された
      作文は火災予防に最も
      効果があったのでここに
      賞品を贈り表彰します
        昭和三十三年十二月二日
       大阪市西淀川消防署長
             消防司令長 □□□□


(お断り)下記がその時に書いた原稿だが、下書きのため文法上の間違い等、不備な点が多々ある。

           防火の心構え
                  六年一組
                       □□□□
 ぼくのおじいさんは、昔は「火消し」といって、今の消防団員で、良く働き町の功労者として今も福井県坂井郡丸岡町霞ケ城のふもとに、石碑が建っています。夏休みに帰るたびにぼくは山へ登って石碑のおじいさんを見ます。ぼくの知らないおじいさんですが、石碑を見ているとぼくのからだのうちに勇気が湧くような気がします。
 昔は火が見えたら鐘をならしていたそうです。そのたたき方で遠い近いを知り、又受持区域だったら一番早くかけつける責任があったとのことです。玄関にはいつも火事の時着ていく法被という上の服と、ズボン、くつ、足にまくきゃはん、帽子、提灯、バケツ等をつるして平素から備えてあって、くらやみでも手早く身につけて走られる用意がしてあったそうです。ぼくはまといを持ったおじいさんの姿をいつも思いうかべます。
 大阪のぼくの家では、台所の水道の下にあるバケツの水をぼくや弟が外から帰って手や足をあらうのにくみだして水を少しにしておくのを、お父さんやお母さんに見つかると「いっぱいにしておきなさい」と、注意されます。ぼくは今では大きくなったので弟が使いっぱなしにしておくと気をつけていっぱいにしておきます。庭には、水そうをおいてフナや金魚を入れてあります。口やかましく火を大切にといって見たりくんれんして見ても、いざというときの水や砂を、手近な所に用意してなかったら火はだんだん大きくなり手におえなくなって消すことができません。小さい火の間に消すよう、一秒間でも大切な時間です。留守でないときに火を出して大きくなり消防署のおじさんにお手伝いしてもらうのは火を早く見つけなかったか、手近に防火の用意がしてなかったのだと思います。大きい会社や自動車等に、消火器が用意してあるのは大変よいことだと思います。燃えやすいぼくらの家に防火の用意のしてある所は、ほとんどないといってもよい。戦争のときは家々に大きなおけに水を入れて防火用水と書いて置いたそうですが、今でも、それぐらいの準備はした方が火災の被害を少なくする上で必要なことだと思います。

諸行無常(2003年5月18日)

 私の住むマンションの最上階から眺める景色は爽快だ。目が休まる。この地は、佃島 の丁度突端、三角州に当る。川はここで両脇に分岐して、左の尼崎側を左門殿川、右側を神崎川という。川べりは護岸工事が施されていて、緑道も整備されている。
 昔はこの西淀川区とすぐ隣の尼崎一帯は、公害の町と言われ、空気汚染に加えて、川の汚染もひどかった。紫色の油が浮かんでいて、日本一汚い川だと言われたこともある。とても生き物の住める環境ではなかった。今では川べりで水鳥が二、三羽、羽根を休めている姿さえ見ることができる。
 このマンションが建つずっと以前は遠浅になっていた。川べりまで行くことができ、子供の頃、土左衛門(水死体のこと)が時々岸に打ち上げられていて、ムシロをかけられてはいるが手足の見えるそれを、近くまで寄って恐る恐る眺めていた記憶がある。今では歩いていても、コンクリート造りの高い堤防が邪魔をして川面を見ることは出来ない。
 兵庫県と大阪府の境に当るこの左門殿川を渡って5〜10分歩くと「杭瀬市場」がある。一部はスーパー形式の店になっているが、いまだに「市場」の風情が残っている。市場独特のお客さんを呼び込む活気のある声が、あちらからもこちらからも聞こえてくる。お昼時に行くと、店の奥さんが店頭で座って昼食をしている姿を見かけることもある。そんな気さくな下町情緒あふれた町だ。最近は「市場」というものが珍しくなったせいか、年の瀬風景として大晦日の日など、テレビで紹介されたりする。昔は近くにコンビニやスーパーというものはなかったから、この市場に買物に行くのが母の日課だった。
 国道2号線沿いにあるこの市場の出入口の前で、私たちキョウダイは「乳母車」(当時の乳母車は竹で作られていて、四角い形をしていて小さい子ども二人ぐらいなら十分入る大きなものだった)の中で、母が買物を終えて戻ってくるのを不安な気持で待っていた。
 この市場を抜けて西の方へ進むと、映画館があった。映画館というところへ入ったのはこの館が初めてのことだ。当時は姉が高校を卒業し就職した年で、姉が初めてもらった給料で、私たちキョウダイを楽しませてあげようと思って連れて行ってくれたところだ。映画館に入る前にはチューインガムを買ってくれた。さらに太鼓焼きも買ってくれた。私は太鼓焼きを食べるために、口に入っているチューインガムを捨てようとしたが、捨てる適当な場所がなかった。チューインガムを噛んでいる同じ口の中に太鼓焼きをほおばって、チューインガムもろとも食べてしまったという記憶がある。チューインガムと太鼓焼きが口の中で交じり合った気持の悪い感触をいまだによく覚えている。当時はまだ幼かったので、ハンカチやティッシュといった気の利いたものを持っていなかったせいか、幼心にも、道端に吐き捨てるということは良くないことと思っていたのか、どうしてそんなことをしたのかはよくわからない。この時に見た映画の題名は石原裕次郎主演の「錆びたナイフ」「明日は明日の風が吹く」「風速40米」のどれかだったと思うが記憶が定かではない。後日談だが、姉が家に帰ると父から「このでべすけが!」と言ってなじられたそうだ。(「でべすけ」とは福井地方の方便では「出(外出)たがり屋さん」という意味。「うちのおっかあ、ほんとにでべすけで、今日もえんわ」というふうに使う。)父は日頃から何かと厳しく、子どもが外へ出かけるのを殊更嫌っていた。事故にあうことを恐れていたと思われるのだが、姉はいまだに自分の気持を理解してくれなかった父に恨みを持っているようだ。何かあるとその時のことを持ち出してくる。
 杭瀬市場の西側には、南北に走る大きな通りがある。この通りにある「小鳥屋」も懐かしいところだ。私が小学生で、兄が中学生のころ、兄が主体だったが、兄弟で伝書鳩を買っていた。多い時には二十羽ほどもいた。その時の一羽が猫に襲われた。首のところの毛がそっくりなくなってしまっていた。その鳩自身は痛くも苦しくもないのか、きょとんとした目つきで突っ立っていたが、兄は小鳥屋へ連れて行った。この小鳥屋は開店して間もない頃だったせいか、あるいは相手が子どもだったせいか、サービスだといって、無料で治療をしてくれた。治療の甲斐もなく、翌日鳩は死んでしまった。
 兄は動物を飼うのが好きだった。十姉妹、セキセイ、キンカチョウ、ウグイス、メジロ、カナリヤ、文鳥、それにモルモットまで飼っていた時がある。ある日「鳩を飼うぐらいなら、鶏でも飼え」と父は言った。鶏なら卵を産んでくれるので、少しは実益があると思って、冗談半分に言ったのではないかと思われる。だが、我家は長屋で、前栽という畳二、三畳ほどの庭があるだけなのに、兄は本当に白色レグホンと名古屋コーチンという名の鶏を数羽買ってきた。この時の父の心境はどのようなものだったかは分からない。最後はあきらめたのか、餌をやったり面倒を見ていた。その甲斐もあってか、鶏も卵を順調に産んでいてくれていたようだ。
 左門殿川を渡ってすぐ右側には、堤防に沿った道が続いている。この道も、私が幼い頃、母と連れ立って歩いたことのある道だ。確か母が仕立物を届けに行く用事だったと思う。懐かしい道だが、記憶も薄れ、堤防自身も新しく護岸工事が施されていて、当時の面影がない。諸行無常を感じた。

母のこと(2003年5月17日)

「観光土産品専門店 まるべに」「GINSO」「阪神百貨店」「清酒日本盛」「総本家駿河屋」「留袖・訪問着・其他高級呉服一式 杉山呉服店」「御菓子司 福寿堂秀信」「資生堂」「御菓子司 おかめ堂」「御昆布司 小倉屋山本」「松江銘菓 松江藩」
 これは何かというと、包装紙だ。色が豊富で、デザインも様々で、金文字のものや、美しい絵巻物が印刷されているものもある。これらの包装紙は、手芸の材料になるのだ。ある包装紙の裏には、「トウフ 140、セロリ 88、みかん 350、白菜 166、焼肉 740、天プラ 150、ツクリ 350、ハモ 350」と母の書いたメモがある。母は一家の主婦としての任務も果たしながら、家事の合間をぬって手芸をするのを趣味にしていた。衣装箱に入った包装紙は、あの阪神・淡路大震災と、家の建て替えの混乱の中で、とりあえず詰め込んだものだ。年月も経って、ホコリも被って汚くなっている。母の個性とは関係のないものだから捨てた。
 同じ衣装箱から、和裁に関して、ノート1冊と多数のメモが出てきた。そのノートやメモには、詳細な図と説明が書かれている。母自身が書いたもので、母が今日まで生きてきた証だ。これは捨てるわけにはいかない。今日も母の健康が回復することを願いながら、そこに出てくる語を気ままに抜書きしておく。
■道行き■角衿■みやこ衿■変りヘチマ衿■木ボタンは衿によって数が違います■女物コートの寸法■裁ち方■袖口■小袖、■堅衿■身頃■肩山■衿明■ヘラの仕方■小衿■縫い方順序■身頃に衿をはさんで四ツ縫をします■衿は0.6 1分5厘の深さで縫います■ぬれタオルを当てアイロンをかけて縮めます■衿芯は巾1.5 四分に切ります■図の通りヘラを切ります■ハッピ■アツシ■モヂリ袖■アイヌ人は今でも衣服として着ています■千代田袴■和洋両用のねんねこ半てん■四つ身袷羽織■ボタンホールの作り方■穴の大きさはボタンの直径の〇・二、三センチ加えたものにします■五布鏡仕立掛布団■四布鏡仕立掛布団■敷布団■綿の入れ方■綿は十八枚から二十五枚位迄入れます■縫い上がった布団は裏返して縫目を外に出し引返し口を下側にして平らに据えます■袖の色々=小振袖、小紋、中振袖、成人式、大振袖、打掛■筒袖、平袖、長袖■おどり針、流れ針■二重縫、つまみ縫、半返し、伏せ縫、耳ぐけ、三つ折りぐけ、本ぐけ、まつりぐけ、千鳥がけ、一目落し、二目落し、三目落し、重ねつぎ、結びつぎ■和服の色々=1.襦袢 肌・長 2.着物 うちかけ・振り袖・とめ袖・訪問着・一重の着物・袷着物・綿入 3.羽織 袷・一重・茶羽織・バテ・甚平 4.コート 一重・袷 5.帯 丸帯・半巾帯・中屋帯・名古屋・文化 6.ねんねこ・オンブバテ・亀の甲 7.袴 女・男 8.夜具 敷布団・上布団■ジャバラ留、カンヌキ留■兵児帯■基礎縫い 玉どめ=手の先に巻いて引く、糸こき=縫い合わせた所の糸をよくしごく事、半返し縫い=一針すくってその一針の1/2を後にもどし前に進む方法・・・■女袴、材料、あや、セル、モス■裁ち方、五布裁、四布半裁、四布裁■女袴仕上り標準寸法■後布 標付け、前布 標付け■縫い方の順序■行燈袴・・・

大野川緑陰道路(2003年5月16日)

 朝、書留郵便物が届いているので本局まで取りに行った。本局は自宅から徒歩20〜30分の、国道2号線沿いにある。国道2号線は、車がひっきりなしに通り、騒音が途絶えることがない。帰り道、この国道2号線からすぐ左に折れると、区民の憩いの場として親しまれている「大野川緑陰道路」に出くわす。ここに入れば車の騒音は聞こえてこない。
 この「大野川緑陰道路」は、約3.8Kmで、幅員は19〜47mある。端から端まで、途切れることもない並木が、多いところでは4列になって続いている。中央の部分は自転車専用道路で青い色、両端が歩行者専用道路で茶色というように、はっきりと色分けされているから、茶色の歩行者専用道路を歩いている限り、車や自転車のことを気にしなくていい。途中、ちょっと外れたところには公園もあって、4、50代の女性6人がキャッチボールをしていた。どこかのソフトボールの同好会にでも入っていて、試合のための練習でもしていたのだろう。大野川緑陰道路はこの地域の広域避難場所ともなっている。
 この道路はもとは川だった。西淀川区の中心部を横断していて、古くから舟運、利水、治水などで欠かせない存在だったが、地下水のくみ上げ等で地盤が沈下し、河川としての機能も低下、汚濁による悪臭も激しくなって、昭和45年度〜昭和47年度にかけて埋め立てられた。その跡地利用としてできたものだ。
 退職してから、自転車を買って遠乗りでもしようかと思っていたが、自転車や車だと、ついつい見逃したり、通り過ぎるだけになってしまう。ゆっくりと歩くのがいい。その都度立ち止まって、間近に自然に接することが出来る。高木約1万本、低木約12万本の100種類にも及ぶ樹木があって、葉が生い茂っている。木々の匂いが新鮮だ。ゆっくり歩いていると、清々しい気分になる。わざわざ遠いところへ行かなくても、近いところにも心休まる場所があるのだ。私の横を、四十代から六十代のおじさん、おばさんたちがランニング姿で、早足に駆けていく。手ぶらの人もいれば、リュックを背負っている人もいる。大野川緑陰道路は、健康づくりの場としても親しまれている。
 少し歩いては立ち止まり、木の幹に付けられた名札に書かれた木の名前をメモする。メモを取っていると、鳩が二十数羽と、雀もちらほら、餌をくれるのではと思って、私の足下まで集まってきた。
 下に、その時に取ったメモを記しておく。右側はあとで私が調べて書いたものだ。
■あきにれ(ニレ科)・・・秋楡。落葉高木。葉は楕円形。
■かんつばき・・・寒椿。ツバキの園芸品種の一。低木で枝と葉に毛がある。11〜1月頃開花。
■くすのき(クスノキ科)・・・楠。常緑高木。葉は卵形。全体に芳香があり、樟脳を採る。材は器具材とする。
■けやき(ニレ科)・・・欅。落葉大高木。防風林や庭木として栽植する。材は堅く、木目が美しいので、建材・家具材などに用いる。
■しらかし(ブナ科)・・・白樫。常緑高木。
■そめいよしの・・・染井吉野。サクラの一種。幕末の頃、江戸染井の植木屋から売り出されたのでこの名がある。
■とうかえで(カエデ科)・・・唐楓。落葉小高木。中国原産。
■なんきんはぜ(トウダイグサ科)・・・南京櫨。落葉高木。中国原産。種子から蝋、葉から染料をとり、材は家具・器具とする。漢方では利尿剤に用いる。
■にしきぎ(ニシキギ科)・・・錦木。落葉低木。
■はりえんじゅ(マメ科)・・・針槐。落葉高木。
■ひいらぎ(モクセイ科)・・・柊。常緑小高木。枝葉は節分行事に用いる。
■まてばしい(ブナ科)・・・まてば椎。常緑高木。街路樹や防風林とする。材は器具・建築用。
■もくせい(モクセイ科)・・・木犀。常緑小高木。
■やえざくら・・・八重桜。栽培園芸品種の一。
■やぶつばき・・・薮椿。
■やまもも(ヤマモモ科)・・・山桃。常緑高木。樹皮は茶褐色系の染料に用いる。

ぼけ封じ観音霊場(2003年5月14日)

 阪神百貨店の仏具売り場で「打敷(うちしき)」を買った。打敷とは仏壇の前卓を飾る三角形の刺繍のある布で、もともとは、お釈迦様がお説教をなさる時、地面にじかにお座りになっているのを見た弟子が、あまりにもったいないことだと言って、お釈迦様のお座りになる所に美しい布や花を敷き、飾り付けたのがいわれだ。お釈迦様(御本尊)の座布団のようなものだ。お香、お花、お灯明をのせる台の下に敷いて飾るので、一種のテーブルクロスと言ってもいい。 打敷を買うのは、母にもしもののことが起こった時を考えてのことだが、前の日記に書いたように、準備万端整えておけば、かえって母は長生きしてくれるのではないかという、私なりの祈願を込めての行動だ。母にもしものことがあれば、私は生きる目的の一つを失うことになる。
 帰りに、母の健康の回復の祈願と、母のぼけ封じのために、大阪市北区にある「太融寺」に参詣した。太融寺は弘仁12年(821年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建された寺で、ぼけ封じ観音霊場第七番にあたる。
 少子化時代にあって、特にぼけ老人の問題が深刻になってきた。このような時代背景のもとに「ぼけ封じ観音霊場」が各地で発足している。ぼけ封じ観音さまをお祀りするお寺が、近畿では下記の通り十ある。これを「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」という。
  ぼけ封じ近畿十楽観音霊場
   @京都、観音寺「今熊野観音」
   A京都、千本釈迦堂 大報恩寺
   B宇治、慈尊院
   C大津、正法寺
   D信楽、玉桂寺
   E茨木、総持寺
   F大阪、太融寺
   G神戸、大龍寺
   H但馬、七寶寺
   I丹波、常瀧寺

太融寺内名所(一部)
■淀の方墓・・・元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃した淀の方の遺骨が祀られている。淀の方は豊臣秀吉の側室で、浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。浅井氏の滅後、秀吉に養われ、天正17年淀城に入る。大坂夏の陣により、子の秀頼と共に自刃した。
■近代日本政党政治発祥の地・・・明治11年板垣退助をはじめ、全国の有志が大阪に集り民権運動を起こした。この運動は愛国社(後の自由党)となり、明治13年3月17日第4回愛国社大会、明治17年10月29日自由党解党大会がこの寺で開かれた。この寺は、近代日本政党政治発祥の地でもある。

大和田住吉神社、母親のこと(2003年5月13日)

 朝10時に歯医者に行き、歯型をとった。歯医者通いはもう1、2回で終わるだろう。次は目医者に行く予定だ。目も在職中から異常があったのだが、仕事にかまけて行く機会を逸していた。今は医者にかかるだけの時間が十分ある。もう若くはないのだから、健康には注意しなければならない。
 歯医者を出ると近くの食堂で早めの昼食(=遅めの朝食)をし、この間頼んでおいた写真が出来上がっているはずなので駅前まで出た。最寄の駅は阪神電車の「千船」だが、この駅から歩いて5〜10分ほどのところに大和田住吉神社がある。今日はそこまで足を運んだ。神社に入ってすぐ右側に万葉の歌碑がある。
  浜清よく 浦なつかしき 神代より 千船の泊る 大和田の浦(万葉集 詠み人しらず)
 この歌碑から大和田の地は、万葉の時代にすでに文人の間に知られていたことが分かる。「千船」という地名はこの歌にちなんでつけられたものと言われている。他に義経の判官松の碑があった。
 神社や寺には必ずと言っていいほど、土があり、木があり、草があり、大木が茂っている。真夏でも木陰に入れば涼しくて、いつも静かで、心が休まる。じっと佇んでいるだけで、人生の煩わしいことのすべてを忘れさせてくれる。
 夜は実家の掃除、片付けごとをした。
 母は昔の人間で、物の不足した時代に育ったせいか、ものを捨てようとしない。不要と思われるものが家の中のあっちこっちに詰め込まれている。どこに何があるか分かるように、整然と整理してあればいいのだが、「捨てるのはもったいない」と言って雑然としまい込んだものだ。「ごみ」と思われるものも沢山ある。
 1年ほど前の母は、多少の痴呆状態にあったとはいえ、私よりもしっかりした面もあった。私が仕事から帰るといつも家の中は真っ暗で、布団の中で寝ていた。お昼はテレビのお笑い番組をよく見て楽しんでいたようだ。自由な時間があれば、家の中の整理でもすればいいと思われるのだが、当時はしきりに足が痛い、引きつる、腰が痛いとか言っていた。母の腰はずっと以前から折れ曲がっていたし、医者にもかかっていた。頭の方はしっかりしていても、本当に家の中の掃除や片付けごとをする体力も、気力もなかったのだと思う。
 母は痴呆状態にあった父を、子どもには迷惑をかけたくないと言って、最後の最後まで面倒を見てきた。夫の面倒を見るのは妻の責務であると信じていたようだ。父が死んでからの母の楽しみといえば、テレビのお笑い番組を見ることだった。そんな母が今、痴呆状態で、肺炎をおこし、入院している。今度は子どもの私たちが、母の面倒を見るのが道理だというのに。もう1年早く退職していれば、自由な時間があって、母のそばにいながら、片付けごとを共にし、親孝行の一つも出来たのにと思うと、悔やまれてならない。
 押入れの中は母の和裁道具や布切れ、華道の道具、母が作った手芸品で一杯だ。立体的な紙細工は、ガラスのビンに入っていたり、ダンボールの中に無造作に詰め込まれていたり、ビニールの袋で包んだりしたものもある。ホコリも被って、始末に負えない。御殿まりは無数にある。未完成のものも沢山ある。作り方の説明のメモも所々にはさまれている。狭い家だから捨てないと片付かない。
 母の今の病状から、もう二度と母自身が見るということはないと思われるが、これらは母の生きてきた証だ。母が生きている間は捨てるわけにはいかない。絶対に捨てることはできない。絶対に捨ててはならないのである。先日買ってきた「ハンディワイパー」でホコリをとるだけにとどめた。
 最後に、これまでの母の愛に感謝し、その愛に報いることが出来なかった自分を反省し、母の健康の回復を願いながら、下に大和田住吉神社の掲示板にあった句を記しておく。
  ことばの鏡  親を忘るるは易く 親をして 我を忘れしむるは難し 大阪府神社庁

母のこと(2003年5月12日)

 腕と肩、首筋の痛みが治まらない。私には薬の効き目はないようだ。今日も実家の掃除、書類の整理をした。母が保管していた紙箱がある。その中には、母自身が書いたメモ、母の写った写真、その他母に関する資料が入っている。
■母のメモ(主として和裁・華道の教師としての履歴が書いてある。)
昭和12年・・・・・・・上阪
昭和32年・・・・・・・西淀川区野里中村綜合センターにて10年間
昭和33年・・・・・・・千船病院にて10年間
昭和35年7月 4日・・「現代生花」指導教授の免許取得(三種生三級教授)
             学校法人池坊学園短期大学・華道文化研究所
昭和36年・・・・・・・青年会 寺にて3年間奉仕
昭和37年・・・・・・・西淀川佃五丁目大阪ゴムにて
昭和37年7月 4日・・「現代生花」指導教授の免許取得(三種生二級教授)
            「現代立華」指導教授の免許取得(二級助教授)
             学校法人池坊学園短期大学・華道文化研究所
昭和37年7月・・・・・「総華監正教授職二級」免許取得
             華道家元 池坊 専永
昭和40年・・・・・・・野田文化服装学園
昭和43年1月 1日・・学校法人野田文化服装学院和裁科教師に採用される。
             勤務時間及び日数
              毎週 昼間部 3日 月・水・金(10:00〜16:00)
                 夜間部 6日 月〜土(18:00〜21:00)
昭和43年3月24日・・「和裁科三級」教員免許取得
             大阪府学校法人洋裁学校協会
             和裁科教員検定委員会
昭和47年・・・・・・・河野プラスチックにて 和裁
            佃小学校にて 和裁・手芸
昭和48年・・・・・・・秋の交通安全デーに「御殿まりづくり」の講師
(注1)この件については、母の名前が出ている新聞記事の切抜きがあった。母が55歳の時のものである。朝日新聞か毎日新聞の市内版、昭和48年9月中旬頃の記事と思われる。下に抜粋しておく。

運転手におくる御殿まりづくり 安全へ母親の願いこめて -佃小のPTA-

 赤、白、黄、緑の色あざやかな糸で花模様を仕上げた小さな”御殿まり”。それにぶらさげた「交通安全」と書いた札-。西淀川区佃一丁目、佃小学校PTAのお母さんたちがいま、学校近くの国道2号を通る自動車の運転手さんにプレゼントして交通安全を訴えようと、運転席に飾るきれいな御殿まりのマスコットをせっせとつくっている。
 同校では、校下を通る国道2号や第二阪神国道を越えて通学しなければならない子どもが多く、子どもを事故から守るのが最大の課題。PTAに交通安全委員会を置き、横断歩道橋設置運動をしたり、五年前からは秋の交通安全運動期間に国道の車へ児童の書いた「運転手さんへ」の手紙を渡して安全運転を訴えてきた。おかげで登下校中の事故はこの五年間、ゼロ。今年は児童の手紙といっしょに御殿まりのマスコットを贈ることにした。
 手芸の得意な同区佃□丁目、□□□□□さん(五五)が先生になって九月上旬、お母さんたちに二回の講習をした。ボロ布をまるめて直径三〜五センチの玉をつくり白糸をきつくぐるぐる巻きにして固いまりをつくる。その上に色とりどりの糸で花模様を仕上げる。初心者だと一個に一日もかかったが、七十人のお母さんが参加して約二百個つくる。二十一日も同校に集まっ・・・」


(注2)阪神・淡路大震災時の実体験を題材にして作った私の短編小説『御殿毬』をお読みいただければ幸いです。

昭和52年9月・・・・・区民ホールで華道教室の講師 53年3月まで
(注3)この件については「大阪市政だより NO.349 昭和52年7月」に掲載されているのを記しておく。

区民ホールで茶・華道教室


 炭は湯の沸くように置き、花はその花のように活け、夏は涼しく、冬は暖かに・・・。
 コミュニティ協会が初心者向けのお茶とお花の教室を企画しました。
 この機会に新しいお友達を増やし温かい人間関係を深めつつ、とかく忘れがちな”心”をゆっくり見つめなおしてみませんか。

<華道>
・期間・・・52年9月〜53年3月、月3回(第1,2,3の水曜日)、18回で終了。
・組分けと講師
  A組 午前10時〜正午 池坊 □□□□(←私の母の雅号)先生
  B組 午後2時〜4時  遠州流 □□□□□先生>
  C組 午後5時30分〜7時30分 未生流(庵家) □□□□□先生
・定員・・・各組25名
・会費・・・月1500円(別に花材代月額1500円)
・申し込みと問合せ
  西淀川区民ホール茶華道教室係


昭和52年9月・・・・・区民ホール 花・手芸 56年3月まで
昭和55年・・・・・・・佃会館にて
昭和56年・・・・・・・交通安全
■母の名刺 大阪府学校法人和裁科教員 池坊流 総華監 □□□□□(照月)

 母は変形性腰椎症、骨粗しょう症、狭心症で、痴呆も日増しに進行している。先日は肺炎にかかり、現在入院中である。この日記は母のメモ、母に関する資料から、母の健康の回復を願いながら、その一部を書き留めたものである。

葬儀の準備?(2003年5月11日)

 我家伝来の宗教は浄土真宗だが、私自身は無宗教で、なんの信仰心もない。とはいえ、肉親に不幸があれば、お世話にならなければならない。「テレビ・家具はもちろん、ふきにくかったスキマや、こまごました所のホコリも簡単にキレイにでき」る「ハンディワイパー」なるものを買ってきて、仏壇、仏具の掃除をした。灯籠、位牌、おりん、マッチ消、線香差、高月、花立、火立、香炉など、一つ一つ丁寧にホコリをとってから、仏壇の前で正座した。
 この仏壇は、いつかの日記で書いたように、あの阪神・淡路大震災で家を建て替えることになった時、約100万円をかけて「洗い」に出したものだ。薄暗い仏壇の中が金色に輝いている。父が死んでから8年目の日が、もうすぐやってくる。マッチを擦って線香に火を点した。父やご先祖さまに申し訳なく、恥ずかしいことだが、こうして仏壇の前で正座し、線香に火を点すのは8年ぶりのことだ。線香の匂いを嗅いで、厳粛で、神々しい気分になってきた。なんの信仰心もないとは言ったが、この仏壇は、私の命のある限り、父のため、母のため、ご先祖さまのため、ひいては自分自身の心の拠り所として、私が守っていかなければならないものであることを肝に銘じた。

自由な時間(2003年5月7日)

 朝10時、歯医者に行く。救いようもない歯1本を抜く。何の抵抗もなく抜け、血も出なかった。次回は入れ歯の歯型をとる予定だ。  昼からは写真屋に行った。父が死んだのは8年前の5月28日。葬儀の時に使った父の顔写真が部屋にかかっているが、ぼやけてしまった。写真の背景を消したりで6〜7千円かかるという。こんなことに目が届いたり、歯医者に行くのが面倒と思わないのも、自由な時間があってのことだ。

病院へ(2003年5月6日)

 10日ほど前から左の腕、肩、首筋が痛んで、他のことが手につかない。痛みの原因ははっきりしている。パソコンの使いすぎだ。在職中も一度経験したことがある。あの時は右腕だった。治るのに1ヵ月ほどかかった。医者には行かなかった。
 普段から、風邪を引いたぐらいでは医者には行かない。風邪薬なども飲んだことはない。薬の効果に期待していないからだ。日常ささいな病気や怪我程度なら、時が経てば自然と治るものと信じている。事実今までそうだった。
 今回もそう信じていたが、在職中と違って、医者にかかるだけの時間的ゆとりもあったし、その方面の状況も知りたかったので、病院へ行った。こんな程度のことで医者にかかるのは初めてのことだ。
 連休明けのせいで、院内は異常に混雑していた。急ぐ用事もないので、見物でもするつもりで、のんびりとした気分で、順番の来るのを待っていた。こんな程度のことでも、腕、肩、首あたりのレントゲンを10枚以上も撮って問診。薬局で3種類の飲み薬と湿布薬をもらって帰った(各々2週間分)。これまでも自然治癒能力は信じても、薬の効果は信じていない。薬というものを飲んではみたが、どれほどの効果があるものかは、しばらく続けてみないと分からない。ただ、湿布をすると患部が冷やされて、一時的には痛みが軽くなった。
 医療費の高騰がいわれている。自然治癒能力も信じて、安易に医者や薬に頼ることのないように心掛けることが大切だと反省した。
 薬局で「お薬手帳」というものを初めてもらった。お薬手帳は、「あなたの病気に合わせて処方されたお薬について記録しておくための手帳」で、「手帳を病院や薬局に見せることで、お薬の重複や相互作用を避けることができます。」「利用方法」「医療機関のみなさまへ」「お薬の飲み方」「薬の副作用歴」「食べ物アレルギー歴」「常用の大衆薬・健康食品」などの注意書きや記入欄、今回もらった薬の名前と量の記載がある。ちょっと前までは「お薬手帳」というものはなかった。医者任せにせず、自分が今飲んでいる薬がどんなものかがはっきり分かっていいことだと思う。
 今回薬局からもらった薬の名前とその効能・効果を記しておく。(「お薬について」のプリントより)
■ロキソニン錠・・・炎症による痛みや腫れを和らげたり、熱をさげたりする薬。
■ムコスタ錠・・・胃の粘膜を修復する薬。
■ミオナール錠・・・筋肉の緊張をやわらげる薬。
■アドフィード・・・炎症による痛みや腫れを和らげ、各種の関節痛、筋肉痛を治療する薬。

母入院(2003年5月3日)

 母が肺炎をおこして、緊急入院した。直前まで食欲もあり元気だったのに、85歳の高齢だから心配だ。いざという時のための、色々な準備をし、親類縁者がいつ訪れても、恥ずかしくないようにと、実家の掃除もした。縁起でもないことだけれど、準備万端整えておけば、かえって長生きしてくれるのではないかという気持からだ。

すがすがしい気分(2003年4月30日)

 今まで携わってきた仕事が、本当に自分に向いた仕事だったのか、本当に自分がしたい仕事だったのか。
 退職してから職安へ二、三度足を運んだ。先日は直接職員とも面談した。私ぐらいの歳になるとまず仕事はないという。自分に向いた仕事なら賃金は安くてもいいといっても、「今はご存知の通り就職難で、特別の技能でもあれば別だが、採用する側は若い人を希望するので無理だ」といわれた。その日はとりあえず各種セミナーの案内パンフレットを持ち帰った。パンフレットには「定員になり次第締め切る」とあったので、今朝早速下記の三つのセミナーの申し込みをした。
〇職業訓練セミナー 職業訓練の概要 キャリアアップの方法等
〇再就職準備セミナー 再就職に役立つノウハウ
〇健康管理セミナー 高齢期の健康づくり
 自分に向いた仕事で他人のために直接役に立っていると感じる仕事なら、賃金の多寡にこだわらない。とはいえ自分を犠牲にしてまで働くには、体力的に自信がなくなってきた。ボランティア的仕事でもいいが、私ぐらいの歳になるとかえって足手まといになるのではと躊躇する。体力も記憶力も衰えてきたことは実感するが、何かを勉強をしたいという意欲だけはある。これから、どのような道を歩むかは分からない。今すぐにしなければならないということはないのだろうけれど、気が急いてくる。気が急くのはサラリーマン時代の悲しい習性だ。
 セミナーの申し込みの電話をしてから、慌てて歯医者に行った。予約をしてあったからだ。「歯茎に張りが出てきましたね。せめて3までにしたいですね」歯と歯茎の間の透き間(深さ)の度合いを測る簡単な器具があって、一週間前に測った数値と比べながら医者が言った。この数値は小さいほど良い。5から4、6から5へと、かなりの箇所で数値が下がっている。歯を磨く回数は、相変わらず1日1回だけれども、5倍も10倍も時間をかけて丁寧に磨いてきたからだ。「11」というところの歯は、もう救いようのない歯だから抜くことにした。当分歯医者通いは続くが、歯の調子はいたってよい。すがすがしい気分だ。
歯は大切に。
歯ブラシの届かないところまで丁寧に磨きましょう。


 帰りの道すがら、お寺の塀の掲示板に書かれた句が気になったので書き留めておく。
   死なぬつもりで 佛法を いくら 聞いても 水の泡
                          稲垣瑞劔
                             究竟山 正行寺

■稲垣瑞劔について■
 明治18年に生まれ、97歳で亡くなられている。関西学院高等部卒、主に本願寺関係学校成徳学園校長、理事長として教職に就かれた。幼少の頃から学問にはげまれ漢籍、英文学、仏教学、東西の哲学のほか、とくに教行信証を中心とした真宗学や安心(あんじん)について、その深奥をきわめ、著述に伝道にその生涯を捧げられた。

歯の健康にも十分注意しましょうね。(2003年4月28日)

 外食をするのは好きではないが、外に出たついでに近くのレストランで朝食と昼食を兼ねた食事をした。その後、お金を引き出し振り込む用事があったので、銀行へ行った。明日は休日だし、連休も控えているためか、キャッシュコーナーは人であふれていた。振り込みの窓口も混雑していた。受付カードを引き、待ち時間を見ると40分と表示されていた。実際はそれほど待たされずにすんだが。
 最近は銀行の窓口での「本人確認」なども厳しくなっているようだ。窓口の女行員が登録印が押された書類を持ってきた。今回提出した引出票の印影の真ん中の部分を折って、付き合わせている。私としてはハンコに間違いはないと確信しているのだが、何度も同じ事を繰り返してから「少し大きさが小さいようですが、もうしばらくお待ちください」とかいって、しばらく待たされた。最後は「目をかえて、別の人に見てもらいますので」と、男の行員のいる窓口に行かされた。ハンコは長年つかっているもので、ちびっている。そのためかと思って「新しいのにかえた方がいいでしょうか」と聞くと「いや、その必要はありません」と答えた。ただ、印影を再度とられた。結果としては40分以上もかかってしまった。
 週1回のペースで歯医者に通っている。歯周病だ。在職中は、時間的に余裕もなかったので、歯医者にかかるのが延び延びになっていた。「もう少し早ければ、こんなことにはならなかったのに」と言われた。歯間ブラシというものを紹介された。歯周病の原因となるのは歯垢だ。歯ブラシが届きにくい歯と歯の間の歯垢を除去し、虫歯や歯周病の予防に効果がある。「5種類ほどありますが、一番大きいのを使って下さい」とも言われた。それほど私の場合は歯と歯の間の透き間が大きくなってしまったということだ。丁寧に磨き方を教えてもらって、今その通りに磨いている。丁寧に磨けばうずきもおさまってきた。いつもは2、3分ですませていたが、今は10分以上はかけている。
歯は大切です。
磨いたつもりではいけません。
丁寧に磨きましょう。
皆さん、歯の健康にも十分注意しましょうね。

田蓑神社(2003年4月25日)

 散髪をした後、ファミリーレストランで昼食をした。その後、家に戻り、ノートとボールペンを携えて外に出た。天気が余りに良かったので、近くを散策したかったからである。
 私の家のすぐ近くには由緒ある「田蓑神社」がある。窓を開ければ、社が四つ並んでいるのが見えるほどに近い。神社でお祭りがある夜は、遅くまで神楽の音楽が聞こえてきたりする。「田蓑神社」は大相撲の大阪場所がある頃は玉ノ井部屋(有名な力士では栃東がいる)の宿舎になる。私はこの町で産声を上げた。小学校、中学校、高等学校、大学、そして就職してからも、雨の日も風の日も、毎日この神社の境内を通り抜けて、通学・通勤した。この田蓑神社には多くの思い出がある。子供の頃は遊び場だった。伊勢湾台風の時には、近くの小学校に避難することになったが、この神社の境内を通って行った。途中、雨や突風が余りにも激しくなって、一時境内の蔵の軒下で、母と兄弟が肩を寄せあい、一休みした。その時、目の前の四つの社の手前の一つが、積木細工のように、いとも簡単に倒壊した。あの時、蔵の方が倒壊していたら、今こうして生きていなかったかもしれない。父は仕事柄、いつも台風の時は家におれないので、玄関を畳一枚ほどもある大きなベニヤ板で貼り付けてから出勤した。近所の家ではガラス窓の部分だけだったので、私は恥ずかしい思いをした。頑固で厳しい父だったけれど、今では、留守家族のことを心配しての父の「愛」だったと感じて、涙が出てくるのである。台風はこれまでに経験したこともない激しいもので、避難先の校舎の窓から外を眺めると、トタン板が紙のようにひらひらと舞いながら飛んでいた。そんな情景を今でも鮮明に憶えている。
 田蓑神社には一時間ほどいた。その時に筆写したものを記しておく。

立札(神社入口)
「おはようございます。境内を通り抜けの方へ 神前では一礼をして 通りましょう」
境内の掲示板
「ことばの鏡  凡そ神は 正直を以って 先をなし 正直は 清浄を以って 本となす 大阪府神社庁」
立札
「平成七年一月十七日未明に震度六とも七ともいう大地震がおこりました。震源地は淡路島の一宮。よって阪神淡路大震災と名づけられました。この佃の町も一丁目、二丁目を中心に町全体に多大の被害を受け、当神社も社務所の全壊を始め拝殿の傾き、標柱の倒壊、石鳥居・灯籠の傾き、参道の歪みと被害を受けました。町の復興を願いつつ、氏子崇敬者が再建に努められ同年秋の例大祭には参道を残し復興出来ました。諸祭祀の為おくれましたが、二十一世紀を目前に参道復興工事に入り、無事夏祭り前に修復出来ました。ここにこれらを永く伝える為に二百年程前に従一位、日野資枝がよまれた和歌と、左の標柱を建立しました。 平成十二年七月吉日 田蓑神社十八代宮司 平岡公仲」
(注)以前から「田蓑神社」と刻まれた、2メートルほどの縦長の碑があったが、阪神淡路大震災で、「神」の文字の所で真っ二つに割れてしまった。その碑が、この立札の左に、金属製の枠で囲まれ立っている。文中「左の標柱」というのはこのことである。恐らく今回の大震災のすさまじさを後代に残すためにわざと割れ目を接着せずにおいたものではないかと思われる。
石碑(上記立札の文中にある「日野資枝がよまれた和歌」)
「宮つくる 田蓑の嶋の 神垣を いのればやがて まもりますらし 日野資枝御詠 阪神淡路大震災復興記念 平成十二年七月吉日」
石碑
「佃漁民ゆかりの地」
 左側面に「昭和三十九年三月 大阪市建立」とあり、右側面には「佃島は古来漁業において名があり、・・・」などの由来が刻まれている。詳細
石碑
「雨による田蓑の 島をけふゆけば なにはかくれぬ ものにぞありける  紀貫之」詳細
立札
「  謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ 奉公に出て、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちに、はからずも路上で巡り合いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。妻は夫婦の縁は貧富などによって遮ぎられるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。 淀川支流の佃は川岸に沿って昔芦が群生していた所で、謡曲「芦刈」の舞台とした面影はないが、田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。  謡曲史跡保存会  」

石碑
「謡曲 芦刈ゆかりの地  平成二年吉日」詳細
立札
「 田蓑神社由緒
御祭神 表筒之男命 底筒之男命
    中筒之男命 神功皇后
貞観十一年(八六九年)九月十五日鎮座 田蓑神社という
寛保元年(一七四一年)九月住吉神社と改名し 明治元年(一八六八年)に田蓑神社となる
  住吉の四柱
住吉大神は昔日向の橘の小門の憶原というところにお出ましになりました大神で伊邪那岐大神のお子様が表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命の三柱でございます 伊勢神宮の天照皇大神の御兄神に当れる神様です 神功皇后が三韓征討の時皇后みずから住吉三神を守り神と奉り進まれ遂に三韓の王等を降伏国におもどりに成る途中この田蓑嶋に立ちよられ勝ち戦を祝われ三神を奉られ 後に神功皇后も加わり四柱となる これを住吉四柱の大神という 時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀されている
 境内社 御祭神
   徳川家康公 金毘羅宮(大物主大神)
   天照皇大神猿田彦命事代王大神 大国主大神
   応神天皇、少彦名大神、菅原道真公(七重之社)
   宇賀御魂神(稲生社)
  昭和六十二年十月吉日  」


まだまだあるある古いもの[続々編](2003年4月22日)

 朝は郵便貯金の口座開設に行った。電話やインターネットで現在高の照会などさまざまなサービスを利用できる「郵便貯金ホームサービス」を利用したかったからだ。午後からは仏壇の中を整理した。
[仏壇の中にあったもの]
■脇差・・・刃渡り約15センチ(脇差というものは誰でも持っていたものだろうか。父方の祖母から伝わってきたものかも知れない。)
■臍(へそ)の緒(お)・・・私の名前と午前2時誕生と書かれた祝い袋の中に入っていた。白い綿で包まれ、中央部が白いタコ糸で縛られている。臍の緒そのものは真っ黒に変色していて、硬くなっている。
■オジ(私の父の兄)の写真・・・厩舎のすぐ前で馬にまたがり、背筋を伸ばした凛々しい姿で写っている。騎兵の時に撮った写真だ。あごが張った顔で写っているが、あごが張っているのは我が家系の特徴だ。馬の腰のあたりからはサーベルが下がっている。この写真は黒い厚紙で包まれているが、そこに同じ黒い字で何かが書かれている。蛍光灯の下で、何度も角度を変えたりしながら見直すと、やっとのことで「愛馬熊野」と読み取れた。続いて漢数字らしきものが見える。おそらく、この馬の年齢か、この写真を撮った年月日だろう。この写真が収められているファイルの表には「豊橋清水町コガイ写真館」とある。
■オジ(私の父の弟)の顔写真・・・19歳で死亡した。
■祖父の兄弟の写真・・・一人は襟のところに「車力組合」と入ったハッピを着ている。二人とも素足で、みすぼらしい服装をしているが、体つきはたくましい。農作業の途中にでも撮ったもののように思われる。
■私の父、私の祖母、私のオジ3人、合計5人が一緒に撮った写真。
■日本銭(硬貨)・・・寛永通寶13枚(大きさはまちまち、1枚は緑色の錆が付いている)。寛永通寶は江戸時代の通貨。寛永年号は1624年〜1644年。一文銭は1636年〜1862年に、四文銭は1768年〜1868年に各々鋳造されている。他に一銭5枚(一番古いもので大正7年)、五銭1枚(昭和18年)、十銭1枚(昭和19年、丸い穴が空いている)、十銭1枚(昭和21年、穴なし、前記のものよりも大きい)、五十銭1枚(昭和23年)、札幌オリンピック記念(昭和47年 1972)、御在位五十年記念(二重橋と菊の紋)、御在位六十年記念、EXPO’70記念(昭和45年)など。小判の形をした「□□通寶」というものがあったのだが、見つからない。一部を額に入れて飾っていた時があったので、別のところから出てくるだろう。
■日本銭(紙幣)・・・五銭、十銭、五十銭、一円、十円(国会議事堂)、百円(板垣退助)、百円(聖徳太子)など。
■中国銭(清代)の硬貨・・・「順治通寶」1枚。順治帝は中国、清の第3代皇帝で在位1643年〜1661年。「乾隆通寶」1枚。乾隆帝は中国、清の第6代皇帝で在位1735年〜1795年。
■安南(ベトナム)銭(硬貨)・・・「景統通寶」1枚(擦り減っている)。1490年前後のものと思われる。
■父のメガネ
■父の仏教に関する図書からの抜書きノート3冊・・・(びっしりと文字で埋まっている)
■父の時計・・・ねじを巻くと動き出した。裏に「昭和36年優良一般職員表彰 □□庁長官」と刻まれている。
「仏壇の外にあったもの」
■文鎮・・・「勲章受賞記念 □□□□□本部長 造幣局製」と刻まれた銅製の丸い文鎮。父のものである。龍、鶴、鳳凰などの模様がある。直径6.8センチ。
■金杯・・・口の回りに「坂井郡東部消防羲會」と書いてある。祖父のもの。当初は金色に輝いていたのだろうが、黒くくすんでいる。
■漆塗りの杯・・・入っていた桐の箱には「□□宇三吉爲十二ケ年間勤續功勞大正四年七月贈之 功勞杯 丸岡町消防組」とある。
■銀色の煙草ケース・・・「大阪 心斎橋 HOLLY WOOD」とある。父のもの。何かの記念品だろう。
■缶入り煙草・・・父が勲章受賞記念に天皇陛下(昭和天皇)から賜ったものだ。缶には中央に「賜」と書かれていて、上部は薄黄色、中央は白色、下部は金色の彩色が施されている。親戚などに配った時の本数まで書かれた父のメモが一緒に入っていた。これによると全部で50本あって、残り12本ということになる。確かに12本残っていた。どんな味がするものかと、1本だけ吸ってみた。20年以上も前に作られたものだけど、まずいというほどのことでもなかった。天皇陛下(昭和天皇)が吸っておられる煙草だということだが、違うところと言えば、その一本一本に菊の紋が入っていることだけだ。
■「Cupit Stock Book」・・・これは切手帳である。エイトマンのシールが貼ってある。このシールは私が貼ったものだ。当時は弾丸よりも速く走れる「8(エイト)マン」というテレビ漫画があった。小中学生の頃、切手ブームがあり、その頃から収集していた切手がかなりの枚数残っている。今はそんな趣味はないが、この中で一番高価なものは、切手趣味週間の記念切手で、菱川師宣画「見返り美人」であろうか。サイズはヨコ30×タテ67ミリ。当時数百円で切手商から買ったものが、1万円で売られている。売価は1万円でも切手商に買ってもらう時は二束三文だろうけど。
*他にも色々あったのだが、私も疲れてきたので、今日はこの位にしておこう。

仮題『望郷』第1篇 母(とり)第1章(2003年4月21日)

 あの阪神・淡路大震災で実家を建て替えることになった時、多くの古いものを捨てた。けれど、どうしても捨てることができずに残してきたものがある。父の遺稿である。他人にとっては何の価値もないかもしれないが、父が私たち子供のために残してくれたものだ。無下に扱うわけにはいかない。そこで、少しずつでも紐解きながら、この日記帳に仮題『望郷』として書き留めていきたいと思う。仮題『望郷』は父の遺稿より私が適宜加筆・修正しながら抜粋したものである。誤字・脱字その他不備な点が多々あると思われるが、今は「下書き」と理解していただきたい。
仮題『望郷』第1編 母(とり)第1章

大福帳も出てきた!(まだまだあるある古いもの[続編])(2003年4月20日)

 『大辞林』によると、大福帳とは「商家で、売買の金額を書き入れる元帳」のことである。大きさはおおよそ、縦31.5センチ、横11.5センチ、厚さ1センチある。表には大きく墨で「大福帳」と書かれていて、右の方にやや小さな字で「大正七年」、左の方には「五月十一日」とある。大正七年といえば、私の母が生まれた年である。裏表紙には「モラツタ日 大正八年四月三日」「書イタ日 大正九年七月十四日」とか「大正九年九月四日午後八時二十五分 □□□□書」とか書かれている。ここに出てくる「□□□□」とは私の父のことであるが、その父がまだ12歳の頃のものということになる。私の祖父やオジにあたる人は、色々なことを手がけていたので、父が祖父かオジからもらったものであろう。父自身も若い頃、丁稚奉公に出て、その奉公先が閉鎖になると自ら商いを始めたと聞いている。この大福帳の内容についてはよく分からない。前半は「平地」「サクサン」といった布地が出てくるのだが、後半には「玉石」「土砂」のほか、「酒一升」「二升酒」「茶菓子」「トウフ」「アゲ」「ダシシャコ」「カレ」「タコ」「黒サト」「割橋」「タネアブラ」「カマボコ」「ノリ」といった食料品が出てくる。「天守行」「入営酒買覚」「小原店行」「高瀬屋現金払」という表記もある。後日、父の「遺稿」を紐解けばその詳細が分かるだろう。

我家の家系図(抄)(2003年4月19日)

                我家の家系図(抄)
□□半兵衛 福井県丸岡町にて桶屋を営む。文献なく、本人、妻の生死年月日不詳。
 ↓
□□秋太(私の祖々父) 半兵衛の次男。嘉永6年8月26日分家後、桶屋を開業。文政10年8月1日〜明治36年11月4日(享年77歳)。人情厚く子供好きな人柄であったが、一面邪道に対しては徹底的に戦うという信念の持主でもあった。妻:イキ 色白の背の高い綺麗な人だった。
 ↓
□□宇三吉(私の祖父) 秋太の三男。慶應3年1月9日〜昭和18年1月7日(享年77歳)。5尺を僅かに5分越える短躯であったが、肉づきのよい、如何にも健康そうであり、事実これという病気をしたこともなかった。無口で何事にも几帳面であり、器用でもあった。一見して温和な様ではあったが、内心は常にある厳しさを秘めていた。好物は酒、嫌いなものは川魚類。17歳の頃、北海道で放牧と開拓をしていた二人の兄を頼って単身北海道に渡り、30歳を越す歳頃まで滞在し、その10数年の間、何を志し、また何をしていたのかは知らないが、兎に角相当な極道者であったらしい。小樽、札幌、釧路方面にも何年か住んでいたようで、多分叔父達の放牧に関しての出張のような仕事であったように想像している。30歳を過ぎてから実家に戻って来た。32歳で結婚。結婚後は伝来の家業である桶屋の手伝い傍ら若干の農作をして暇な季節には、現金収入の途を求めて、土地の開拓、酒、醤油製造屋の仕込人として働いていたらしく、その頃の家計は決して楽な方ではなかったと想像される。その頃、町の消防団員になったらしい。60歳に近い頃まで、25年という永い間、無報酬の消防手を務めたのである。霞ケ城(丸岡城)天守閣下にある記念塔の裏面に名が刻まれているのは□□家のこよなき記念として永代語り伝えられることであろう。妻:とり 士族甲斐泰助の三女。背、鼻ともに高く、立派な風格の人であった。甲斐家は足軽で、泰助は霞ケ城(丸岡城)に入る東門の門番役を務めた。
 ↓
□□□□(私の父) 宇三吉の三男。明治41年2月15日〜平成7年5月28日(享年87歳)。妻:□□□
 ↓
□□□□(私)

戦国時代?のものが出てきた!(まだまだあるある古いもの[続編])(2003年4月18日)

 和綴じ(形式は「四つ目綴じ」)の本が出てきた。いかにも古い。こういうのが博物館でガラス張りのケースに入っているのをよく見かける。外装は表も裏も真っ黒で灰色の蓮の図柄がある。サシで測ってみると、およそ縦25センチ5ミリ、横20センチ5ミリ、厚さ1センチ5ミリ。洋式の数え方でいえば約100ページ。筆で大きな字で書かれているので、1ページは7行。白地の和紙は変色しているが、文字は墨で書かれているのでいまだ鮮明である。中身は大きく四つに分かれていて、各々の最後には下記のような年月日が記されている。
  「アナカシコ 文明六年二月十七日 書之」
  「アナカシコ 明應七年二月廿五日 書之」
  「アナカシコ 明應七年十一月廿一日ヨリハシメテコレヲヨミテ人々ニ信ヲトラスヘキモノナリ 」
  「アナカシコ 文明十七年十一月二十三日」
 筆跡は力強く、男が書いたものと思われるが、「アナカシコ」という言葉が各節の終わりに必ず出てくる。この「アナカシコ」という言葉は手紙の最後に女性が用いる言葉だ。どういう意味かといえば、昨日の日記で書いた『浄土真宗聖典-勤行集-』での注釈では「尊敬と感謝をあらわすことば」とある。手許にある『大辞林』を引くと、「恐れ多いことですがの意で、書状の終わりにおく挨拶の語。女性が用いる」とある。続いて「古くは男女ともに用いた」とあったので納得した。
 同じく『大辞林』でその年代を調べてみると、次の通りである。
  「文明」・・・年号(1469.4.28 - 1487.7.20)。応仁の後、長享の前。後土御門天皇の代。
  「明應」・・・年号(1492.7.19 - 1501.2.29)。延徳の後、文亀の前。後土御門・後柏原天皇の代。
 これによると、500年以上も前に書かれたものということになる。応仁の乱があったり、群雄割拠の戦国の時代だ。文明17年(1485年)といえば、山城で国一揆が起こっている。長享2年(1488年)には加賀一向一揆が守護を滅ぼしている。「一向一揆」とは『大辞林』によれば「室町・戦国時代、北陸・近畿・東海などの各地に起こった宗教一揆。真宗本願寺派の一向宗の僧侶や門徒の農民たちが連合して守護大名・戦国大名などの領国支配に反抗した。特に約90年間一国を支配した加賀の一向一揆が有名」とある。我家は北陸越前の出身で、寺の宗派は、ここで出てくる「真宗本願寺派」だけれど、そんなに古いものが我家に伝わっているとは考えにくい。先祖代々仏壇と一緒に引き継がれてきたものだから、古いものであることに間違いはないのだが、いわゆる「写経」というものではないか。今の私には、その方面の知識が全くないのでこれ以上のことは分からない。

浄土真宗聖典-勤行集-(2003年4月17日)

 我家の仏壇の引き出しの中に『浄土真宗聖典-勤行集-』というものがある。奥付というものが見当たらないので、一般に販売されているものではないだろう。「凡例」に「当用漢字、現代かなづかいを原則としたが」とあるので、極めて新しいものである。その中に「まことのことば」という標題のもとに、人間について「仏説無量寿経」からの引用文がある。これを読んでみると、今も昔も人間というものは少しも変わっていないことが知れる。以下はその引用文の一部である。

一、人間ほど浅薄なものはない。いずれも急がなくてもよいことを急ぎ、争わなくてもよいことを争っている。このはげしい悪と苦の渦のなかに、あくせくとして勤めはたらき、それによってやっと生計を保っているのである。
ニ、田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。・・・また、田がなければ田をほしいと悩み、家がなければ家をほしいと悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、なければないにつけて、またそれらをほしいと思い悩む。たまたま、ひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう。」

母のこと(2003年4月16日)

 今までは父のことに言及しすぎたので、今日は母のことについて書く。
 私の母は「池坊 総華監 正教授」の免許状を持っている。これがどれほどの位のものなのかは「華道資格検定禮録」という資料を見れば分かる。この資料もまた、今回整理しているうちに出てきたものだ。「昭和34年3月15日改正実施」とあり、「華道家元池坊総務所・池坊学園本部・池坊華道会本部」が発行したもので、薄い一枚ものの紙である。折り畳んでいた折り目が切れかかっている。ここに下記のような順序でその資格が記されている。
 入門(入門)、初等科(初伝)、中等科(中伝)、高等科(皆伝)、師範科(華掌)、助教授三級(准華匡)、助教授二級(准華監)、助教授一級(准華綱)、准教授三級(華匡)、准教授二級(華監)、准教授一級(華綱)、正教授三級(総華匡)、正教授二級(総華監)、正教授一級(総華綱)、准華督、華督、副総華督、総華督と続いていて、さらにこの上に二つ階級があるように思われる。今はゆっくりと調べる気がないので、よく分からない。幅が10数センチの「華道免許席札」というものもあって、これは展示品の前に、その作者の肩書きと名前を書いて、置いておくものらしい。母のその札には「華道総華監、正教授二級、三種生二級教授 □□ 照月」と書いてある。
 若い頃は文化服装学院や家政専門学校で教えていた。歳を取ってからは、区民ホールで催される「華道教室」の講師として招かれたこともある。
「和裁教授」の肩書きが付いた名刺も見つかった。幼い頃、母が狭い家の中で、嫁入り前の娘さんに和裁やお花を教えていた頃がよみがえってくる。母は「袴(はかま)」も縫うこともできるし、着付けもできる。最近は着物を着る機会がほとんどないから、「着付け教室」というものが流行っているが、その存在を不思議がっていた。「不思議がっていた」と過去形で書いたが、母はまだ健在だ。

水仙娘(2003年4月15日)

 私の父母は福井県の出身である。「日本一短い○○への手紙」で有名になった丸岡町には、先祖代々の墓があり、小学生のころは毎年、家族そろって墓参した。
 福井では、越前岬一帯に咲く「越前水仙」を全国の人に知ってもらうために、越前水仙の開花時期にあわせて「水仙まつり」が催される。県内から3人の「水仙娘」が選ばれるのだが、この「水仙娘」に親戚の子供が選ばれた。その時のことを父が俳句に詠んでいる。
  水仙のミスに選ばれ従妹の孫
 「平成元年2月10日朝日新聞でみる。」という注意書きがある。 私には俳句の良し悪しは分からないが、父の詠んだ俳句が約700首残っている。私もこれからゆっくりと挑んでみようかと思っている。

偉大な父と妙齢の美女(2003年4月14日)

 昨夜は夜更かしをしてしまったので、目覚めた時は10時を過ぎていた。悪い習慣が身につかないよう気をつけなければならない。
 今日は曇り空であったが、雨になりそうでもなかったので、近くの銀行へ出掛けた。歩いて15分程かかる。この銀行の支店は姉が以前に勤めていたところだ。5年と6カ月勤めて、結婚のため昭和38年9月30日に退職している。どうしてそんな詳細なことが、すぐに分かるのかというと、以前にこの日記で書いたように、父が「我家の記録」として、その詳細を残してくれたからだ。我が父は偉大だ!
 銀行はいつも忙しいところらしい。姉は今では文字通り「おばあさん」になってしまったけれど、当時の姉は結婚前の「妙齢の美女」だったから、帰宅途上で良からぬことが起こるといけないので、帰宅が遅くなる時は、店の前まで出迎えにいったことがある。店の前の、寒い暗闇の中で、姉が仕事を終えて出てくるのを、父と一緒に、今か今かと待ち続けていた記憶がある。昔はお父さん方が我が娘の帰宅途上を心配して駅まで出迎えに来ている姿を、よく見かけたものである。親が子のことを思う心が偲ばれて、ほほえましく思うのだが、今では若い女性も真夜中の暗闇でも一人で平気に歩いている。女性もそれだけ強くなった証かもしれない。
 銀行で受付カードを引くと「114」番だった。今日は「4月14日」だ。「4」という縁起の悪い数字が沢山あるけれど、「114」は「いいよ」、「4月14日」は「よいよ」と読める。カードには「番号順にお呼びいたしますが、ご用件により順番が前後する場合もありますのでご了承ください。」とある。後から来た人が先に呼ばれて文句を言う人があるから、こんな断り書きがしてあるのだろう。今までは何かと心の中が忙しくて、考えもしなかったことだけど、これも「心の余裕」だ。心に余裕があれば、見えなかったものが見えてくる。

弟のこと、父のこと(2003年4月13日)

 私は本年3月末日をもって退職したのだが、私の弟も、偶然にも同日に退職した。警察官だった。危険な仕事である事を承知で、親に相談することもなく、自分自身が選んだ道だったが、体を壊し、もう続けられないという。警察というところは休暇を取らない慣習がある。犯人を生真面目に追いかけて、命を失いかけたことがあることも聞いている。色々無理がたたったのだろう。「もう警察は嫌だ。これから先、再就職の機会があっても、警察に関わる仕事は一切嫌だ」とまでいっている。相当大変な目にあってきたものと思われる。弟も父の影響を受けて育っているから「やんちゃ」な人間ではなかった。兄の私から見ても、おとなしい性格だった。警察という世界で生きていくことを、当初から危惧していたのだが、ようこそここまで頑張って勤めてきたものだ。今度あった時、ねぎらいの言葉をかけてやりたいと思う。弟の健康が回復したら、二人で旅行にでも行こうかと考えている。

 弟が大阪府警察学校に入校して間もないころの、父が弟に宛てた返信の手紙がある。日付が昭和43年6月となっているから、もう35年も前の手紙だ。
「はがき十五日朝の便で入手した。割に内容要領よく書いてあったので万一を心配していたが、大阪府巡査、同見習生として辞令を受けて目出度く入校式に参加出来一応希望の輝かしい第一歩を踏み出せたことは嘸かし満足の事と思い、両親も兄達も安心している。
 日毎に学課、その他訓練も厳しさを増すことは必至である。時期的にも十五日から梅雨に入ったので、一層体調に十分留意して励むよう祈っている。
 一度学校見学に行くつもりはしているが梅雨期でもあり当分行かないことにする。まだ入校して一週間だから見習巡査として板についたころ面会旁見学に行こうと考えている。
 十六日朝日新聞朝刊に、大阪府警察巡査八〇〇名増員、大阪在住の者で来春高卒見込のものは九月十日に受験出来る、との記事があった。今更何の関係もないと思わず善良な模範的先倅になるよう専念してほしい。
 小鳥も毎日面倒を見ている。十七日朝折角生んだ卵が水溜の中に落ちて割れていて残念。どうも子を育てる資格がないようだ。
 それでは健在で頑張ることを祈る。
      昭和四十三年六月十七日午後    父かく」
 手紙には「小鳥も毎日面倒を見ている」という言葉がある。小鳥というのは、十姉妹だったと記憶している。弟が飼っていたものである。弟が警察学校に入校することになったので、父が世話することを引き受けたのである。当時の私や弟は、犬や猫を飼いたかったが、父が許さなかった。犬は吠える。猫はうろついて、色々と他人に迷惑を及ぼすからだ。父は他人に迷惑がかかることをことさら恐れていた。小鳥を飼うことだけは許してくれた。「小鳥も毎日面倒を見ている」と、わざわざ小鳥のことに言及している。子供に対して厳しい父ではあったけれど、心の底では子供に優しい気持があったことがうかがえる。

福井烈震(2003年4月12日)

 今日は用事があって梅田まで出た。電車に乗って出掛けるのは、退職してから初めてのことである。どんな用事かは秘密だ。日頃から用事はまとめて済ますように心掛けていたが、今では時間も自由だし、健康のためもあって、わざと外に出掛ける用事を作っている。今日の用事もそんな用事だ。とはいえ、相手と約束したことだから、遅刻するわけにはいかない。それで前夜、目覚まし時計を8時にセットして寝たが、鳴るまでに目が覚めた。出掛ける時はいつも電池を抜いていたのだが、今日はそれをするのを忘れた。夜の8時になると、けたたましい音を立てて鳴り続けるだろう。
 出たついでに地下街のコンビニでコピーをした。原稿を忘れてしまったので、慌てて戻ろうとしたが、行き当たりばったりに寄った店だから、どこだか分からなくなっていた。ようやく見つけて中に入ると、二人の若い女店員が、私が忘れた書類を見ながら互いに顔を見合わせ、思案顔だった。私にとっては重要な書類だ。どんな書類かは、これも秘密だ。手許に無事戻ってきて胸をなで下ろした。
 時計のことが気になって、用事を済ますと早めに帰宅した。
 明日は地方選挙の投票日だ。
      --------------------------------------------------
 私の父母は大地震を二度経験している。福井地震と阪神・淡路大震災である。
 今手許に「臨時建築等制限規則による許可(及び資材割当)申請書」という、変色し四隅がぼろぼろになった書類がある。この書類には「北陸烈震のため本籍地の家屋が全壊したので財政的に苦しかったが再建を敢えて考えた」という父のメモが付されている。
「受付第99号、受付年月日昭和24年5月6日 丸岡町役場」と「第1509号、昭和24年5月16日 福井県三国土木出張所」の丸い印が二つ押されている。「着工予定期日 昭和24年6月1日 竣工予定期日 昭和24年6月30日」本申請書を必要とする詳細な理由という欄には「震災の折倒れましたので私も建築□□せうと思ひつ、勤めの身と大工様の都合に依り今日迄のびてしまひましたので何事もよろしくお願ひします」と記されていて、左の隅に「右消防上支障なき事を同意す」とあり、福井県丸岡町消防長の氏名と印が押されている。
 この頃父は郷里(福井県丸岡)に母(私の祖母)を残して、大阪に勤めに出ていた。昭和23年6月28日に、北陸地方に大地震があり、父の郷里の家屋が全壊した。父はさぞ郷里に残した母のことが気になって、気が急いていたであろうと思うのだが、母の無事であることを祈りながら仕事を続け、すぐには帰らなかったという生真面目さだったと母から聞いている。
 私も阪神・淡路大震災で親の家が半壊し、建て替えることになり、その費用の全額を負担したのだけれど、日頃から親孝行をしなければと思いながらも、何らそれらしきことができていなかったので、むしろ親孝行ができる機会をいただいたと思って感謝している。
 私は父の性格を引き継ぎ、父も私も共に胸を患い、長期の療養生活を経験している。全く父と同じような運命を辿っているような気がする。
 大阪から郷里の福井まで帰省する途上の大変な模様が、父の遺稿に詳細かつ生々しく記述されているので、おいおい紐解いていきたいと思っている。

オジ伊三郎のこと(父の遺稿より)(2003年4月11日)

 先の日記で、私のオジの軍隊手帳が出てきたことを記したが、父の遺稿に、このオジ伊三郎のことについて書かれた部分があるので、その一部を抜粋しておく。
「大正十一年適齢検査(兵隊)の結果、甲種合格(丈五尺三寸四分、足袋十文七分、骨格太く、色白の好男子)。然も当時兵隊の中でも一般の羨望であった騎兵というので、鳶が鷹を生んだ様だと両親の自慢でもあった。血統が良く好男子で比較的裕福な家庭の子でなければ騎兵にとらないという世評もあったので、私達も嬉しかった。吾家では最初の現役入隊である。入隊前には表に竹と杉葉等でアーチが造られ、貧弱な家の玄関を飾っていた。大正十二年一月十日、第十五師団(豊橋)騎兵第二十六連隊第四中隊に入隊した。このとき父と重太兄が豊橋まで見送ったと思う。兎に角この入隊は□□家の名誉と存在を高揚した。その功績は大である」
 我家にはこの当時に撮られたと思われる9枚の写真がある。軍帽をかぶり、髭を生やし、胸のところには勲章を装着し、手にはサーベルを携えている9名の、上半身を撮った写真である。一人だけは髭を生やしていない。写真は白黒で、古いとはいえいまだ鮮明である。欄外には写真の説明が書かれていた形跡があるのだが、消されていて判読できない。父が消したのか。もっと以前に、既に消されていたのか。父が消したのなら、どういう理由で消したのか。この写真の1枚が私のオジなのか。父はもう死んでいないので、確かめようがないのが残念だ。もしかしたら母が知っているかも知れない。今度会う機会があったら聞いてみようと思っている。

母から父への手紙(2003年4月10日)

 退職してまだ10日だというのに、退職したことが、遠い遠い昔の出来事のように思われてくる。遠い遠い昔の、小さい小さい子供の頃が偲ばれてくる。何故だろうか。
 4月13日には府議会議員と市議会議員の選挙がある。朝早くから、「○○さんをよろしく」という電話が1件あった。他に「お墓」の勧誘もあった。
 私の父は在職中に胸を患い、昭和39年2月4日から昭和41年9月30日まで、2年と8か月、療養生活を送っている。父は丁度今の私の年齢の年に病気になり、入院したことになる。健康には十分注意しなければと思う。当時母が療養先の父へ出した手紙が100通ほど残っている。今日は、それを読みながら整理しているところだ。封筒は白かったのも色あせて、黄色く変色している。今は封書の代金は80円だけど、10円の切手が貼ってある。私にとっては貴重な手紙だけれど、下にその一部を抜粋して記録に留め、他は捨てることにした。紙は弱くなっているから、破るのには苦労しない。
「人間は自分の都合の良い時は気持の良い顔をするけれど、世間には人情も何もないのよ。世の中はあまい物ではないよ。裏切られて行く善行の持主が傷つけられていくのが悲しい」・・・「裏切られて行く善行の持主」とは私の父のことである。人情深く、頼まれれば断ることの出来ない父の「お人好しさ」を母が嘆いている。
「何の心配もなく暮らす事の出来る安心感、嬉しく感謝して居ります。」・・・日頃は厳しく、頑固で意固地な父だったけれど、病気になっても、こうして家族みんなが安心して暮らしていけることを、母は父に感謝している。
「ではお体ご自愛の上、又会える日を楽しみに待ちましょうね」・・・「又会える日を楽しみに待ちましょうね」とは、まるで若い恋人同士のラブレターのようである。当時の父と母の関係からは想像もできない文章だ。
「オーバー着て帰って下さいね 持って行こうと思って見ましたらありません。そちらですね。では19日(土)お待ち致して居ります。さようなら。3月15日」・・・療養生活をしていても、病気が回復してくると外泊することができる。父が外泊で自宅に帰ってくることになった時の手紙である。もうオーバーはいらない季節になっていたが、時たま寒い日もあって、妻の夫に対する優しい気遣いを偲ばせる。
「よく雨が降り寒かったり気候不順ですから御体に気を付けて下さいね。皆元気で居ります故御安心下さい。何にも変わった事ありませんのでこれで失礼します」・・・特に用件もなく、たったこれだけの内容の手紙もあった。
「○子(私の姉)の出産予定日は25日。雨降りだったので、別に変わった事もないので26日、診察に私ついて行きました。今日、明日には出来ません。痛み出すのを待ちましょうと云う事でした。誰でも自然を待つ内一週間位たってしまい、赤ちゃんが大きくなり過ぎるとか色々の事にて注射で出産する結果ですので、多分末か9月初頃になるかと思います」「針と糸、気になりますが暫く待って下さい。私何時もハンドバッグに持っていますのに、言って下さったら良かったのに。○子のことも気になり、とにかく入院する直前が大切ですから、入院すれば後は医師にまかせて安心ですから、入院して目鼻ついたら寄せて頂きます。ではそれまで、さようなら。御元気でね。お父さま」・・・もうすぐ初孫が生まれるという、楽しいけれど不安な頃の手紙である。
 手紙には、電話で話せば済むことを、長々と書かれているものもあった。ふと、我家に電話がいつ付いたのだろうかと思って調べてみたら、「電話架設のご通知」というものがあって、昭和44年5月7日の日付がある。父が療養生活を送っていた頃は、まだ我家に電話がなかったのだ。

まだまだあるある古いもの(2003年4月9日)

 午前中に、退職ご挨拶の葉書168通の点検を済ませ、ようやくポストに投函することができた。昼からは再び家の中の片付けごとに精を出す。仏壇の上に置いたままになっていた、埃の被った箱を開けると、まだまだ古いものが出てきた。
■「一年中役にたつ家庭向西洋中華料理独習書」・・・330ページ。『婦人生活』昭和二十九年五月号の附録である。写真やイラストが豊富。「私の僕のとっておきの料理」というコラムが随所にあって、有名人が寄稿している。映画俳優の菅原謙二、森繁久弥、映画女優の岡田茉莉子、北原三枝、月丘夢路、「流行歌手」の近江俊郎、淡谷のり子、「ラジオスター」の中村メイコなどが、顔写真とともに登場している。こんなに古い本が、どうして今まで捨てられずに残っていたのだろう。これからの自分の生活に、きっと役に立つとお考えになった神様のお計らいかもしれないから、しばらく捨てずに置いておくことにした。
■「軍隊手牒」・・・白地に「勅諭」「勅語」が赤い文字で、振り仮名付きで、長々と書かれている。「讀法」は黒字で「兵隊ハ 皇威ヲ發揚シ國家ヲ保護スル爲メニ設ケ置カルルモノナレハ・・・第一條 誠心ヲ本トシ忠節ヲ盡シ不信不忠ノ所爲アルヘカラサル事・・・」とあり、続いて「國民一般ニ賜ハリシ詔書」「軍隊手牒ニ係ル心得」が記載されている。最後の方には、所管「第十五師団」、「部隊號 騎兵第二十六聯隊第四中隊」、兵科「騎兵一等卒」、本貫族籍「福井縣」、氏名、誕生、身長、戦時著装被服大小区分とあって、帽子、衣袴、外套、靴の大きさ、兵役の記録、出身前履歴、給与通知事項が続く。我家には私の父が作った家系図があって、四代遡ることができる。その家系図によると、この手帳は私の父の兄(私のオジ)のものであることが分かる。
■「奉公袋」・・・表の名前のところには、父の名前が書かれた布が貼ってあるのだが、この布は比較的新しい。この袋の本来の持ち主は、上記に記した私のオジであろう。裏には「收容品」とあり、「一、軍隊手牒、勲章、記章 二、適任證書、軍隊ニ於ケル特業教育ニ關スル證書 三、召集及点呼ノ令状 四、其他貯金通帳等應召準備及應召ノ爲メ必要ト認ムルモノ」と書いてある。かろうじて読み取れるほどに古びているので、引用文に間違いがあるかもしれない。

(注意):上記「 」書きしたところで、一部新漢字になっているところがあるが、勿論、現物は旧漢字で書かれている。カタカナに濁点がないのは、「勅諭」「勅語」は天皇の「おことば」だから、濁りがあってはならないとされ、濁点はつけないことになっているからである。
*こんなことを書いていると一向に片付けが進まないので、この続きはまたの機会にする。

朝から雨が降っている。(2003年4月8日)

 朝から雨が降っている。時々突風が吹いて、家の前の公園の、満開の桜が散ってしまった。退職の時にいただいた花束は、いつもいい匂いを部屋中に放っていたのだけれど、ちょっと触っただけで花びらや葉っぱがぱらぱらと落ちるようになってしまった。悲しいことだけど、捨てることにした。花束をいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
 今日は朝から退職の挨拶状の作成に追われた。途中、お昼過ぎになって、170通にもなることが分かって、足らなくなった葉書と切手を買いに、またまた郵便局まで出掛けた。ついでにスーパーに寄って、惣菜を買った。在職中は、仕事が終わってから寄っていたから、惣菜には「20%引き」や「半額」のラベルが貼ってあった。けれど、お昼の今日は、そんなラベルの貼られた惣菜は一つも見かけなかった。今までは決まった収入があったので、値段のことは気にせず買っていたのだけれど、定価通りに買うのが馬鹿らしくなった。これからは出来るだけ夕方遅くに買いに行こう。
 スーパーからの帰途、酒屋に寄った。缶ビールを1ケース(25缶入り)を買うためである。奥さんに「1ケースください」と言うと、今は半端の9缶しかないと言う。「9缶では縁起が悪いので10缶にしておきます」といって、1缶を陳列棚から持ってきた。この酒屋のご夫婦は、テレビ番組の「蝶々・雄二の夫婦善哉」(当初はラジオ放送だった。桂三枝が司会の「新婚さんいらっしゃい」の元祖といえる)に出場したことがある。蝶々はミヤコ蝶々さんのことで、雄二とは南都雄二さんのことである。お二方とも、今は亡き方だ。
 退職の挨拶葉書は明日中に点検して投函する予定である。

退職して一週間が過ぎようとしている。(2003年4月7日)

 退職して一週間が過ぎようとしている。もう遠い昔のような気がする。選挙の時期で、私の家の近くにも、宣伝カーがしばしば回ってきて、朝も昼も騒々しい。家の中に居ても住宅関連の会社の方が訪問してきたり、近所の方が転居のご挨拶に来られたり、生命保険の勧誘の電話が鳴ったり、回覧板が回ってきたり、退職しても、結構しなければならないこともあって、暇で困るということはない。そのうち落ち着いたら暇になるとは思うが。朝は8時までには起きるようにしているが、今日は8時を過ぎてしまった。規則正しい生活を維持しなければと、肝に銘じた。今日は午前中は家の掃除をして、昼からは退職のお礼用の葉書を買いに郵便局まで行った。これから印刷するところだ。100通ほどになる。プリンターは使い慣れていないので、大変だ。整理しておきたいことや、片付けておきたいことが、細々とあって、当分は落ち着かない生活が続きそうだ。

歯医者、郵便局、買物(2003年4月4日)

 もう勤め人ではなくなったのだから、普段着で出掛ければいいのだけれど、まだ身辺の整理がついていないから、普段着といってもどこにあるやら分からない。仕方なく、送別の会用に買った真新しい背広に、ネクタイをきっちりと締めて出掛けた。小雨の中を、歯医者に行き、固定資産税を支払うため郵便局に寄り、食事の買物をして帰った。仕事から解放されたとはいえ、結構すべきことがあるものである。

退職者感謝礼拝時の記念写真(2003年4月3日)

 チャペル内で撮った「退職者感謝礼拝」の記念写真が、はがきで送られてきた。人生の良き思い出として私のアルバムに加えさせていただくことにした。メールで係の方にお礼の言葉を送る。ところで、チャプレンといわれる方は、いつも温厚なお顔、態度をされている。どうすればそんな風になれるのだろう。修養が足りない自分を反省する。
 夕方は、延び延びになっていた歯の治療をするために、近所の歯医者に予約を入れた。在職中は仕事の事が気になって、日を選んで治療の時間はいつも仕事を終わってからの時間帯にしていたけれど、一日中自由の身だから、時間にこだわらず、明朝10時30分に伺うことにした。

相手の立場に立って考えるということ(2003年4月2日)

 今日は区役所に行く用事ができたので、9時に家を出た。区役所までは歩いて30分かかる。バスが走っているが、私は歩くことが好きだから、歩くことにした。途中、足の不自由な老人に出会った。「区役所はどちらですか」と聞かれた。私は指さしながら「この先もうすぐそこですよ。私も行くところです」と答えた。老人は私に従って歩きだしたが、すぐに立ち止まって、遠くに目をやると、「バスで行きます」と言った。私にとっては何でもない距離だったけれど、この足の不自由なご老人にとっては、途方もない距離だったのだ。私は自分の感覚だけで「もうすぐそこですよ」と言った自分を恥じた。
 私の母は、私の足で歩けば10分の距離の駅前まで、毎日買物に出掛けていた。それを何でもないことだと思っていたが、母は駅前までたどり着くのに30分かかるといっていた。途中で腰や足が痛くなって、休み休み進むからである。歩いて10分の距離は、母のような老人にとっては、30分の距離なのだ。日頃から相手の立場に立って考えることを戒めにしているつもりでも、本当に相手の立場に立って考えるということがいかに困難なことであるかを思い知らされた。
 区役所では職員が溌剌と働いていた。人間が働いている姿は美しい。自分の今の立場からは羨ましく思える。今しばらくはその気はないのだけれど、自分にあった仕事で、自由な時間で、気楽に働ける職場が見つかれば、再就職することがあるかもしれない。

新しい人生の始まり(2003年4月1日)

 今日はいつもより少しばかり遅く起きて、のんびりと家の中の掃除をした。仕事から解放されて、晴々とした気分でいるけれど、仕事に関係した書類を、もういらないと破り捨てていると、寂しい気分も起こってくる。だからといって、職を辞したことに後悔の気持ちはほとんどない。
 在職中は朝6時に起きて、NHKのラジオ体操(6時30分から10分間)を聞き終わるまでに家を出た。ラジオ体操をしていたわけでなく、その時間はネクタイを締め、いざ出陣という、せわしない時間だった。普段は寝る時間が惜しく、12時を過ぎてから寝ていた。何かをしていると、つい没頭してしまって、正味の就寝時間が4時間という日が続く時もあった。記憶力が衰えたのは歳のせいだと思っていたが、必ずしもそのせいだけではなさそうだ。きっと睡眠時間が不足していたのだ。出勤途上の車内でのうたた寝が気持ちよかった。今ではすべてがなつかしい思い出になってしまった。
 在職中は休みが続くとついつい夜型人間になっていた。夜中は電話や訪問者もなく、邪魔が入らないので、何かを創作するなど、考え事をする時はいいのだけれど、夜型は肉体的にも精神的にも危険だ。これからは早寝早起き。毎朝、遅くとも8時までには起きること。2日に1回は外に出ること。買物でもいい。近所を散策することでもいい。月1回の町内会の清掃に参加すること。
 今日は家の掃除を一気に済まそうと思っていたが、ほんの一部しかできなかった。しばらくは家の中の掃除、身辺の片付けごとに時間を費やすことになろう。第二の人生の真の始まりはまだまだ先だ。

最後の日(2003年3月31日)

 30年間お世話になった職場を去る日が来ました。明日から始まる新しい生活を思うと、喜びと悲しみ、寂しさと不安が入り混じった複雑な気分です。このような気分は過去の入学式や卒業式で味わったものに似ています。敷地が広いので、あいさつ回りも大変です。階段を上ったり下りたり、まだまだひんやりとした季節なのに、汗が滲んできました。忙しい頃なのに、みんな仕事の手を休めて応対していただいたことがうれしい。最後は職員証を忘れずに返しました。長年勤めた職場を去るのは、やはり悲しくて、寂しいことです。

15:00 辞令交付
              辞令
                     書記 □□ □□
   辞職を承認する
   退職金手当(□□,□□□,□□□円)
   退職手当附加金(□□,□□□,□□□円)
   計(□□,□□□,□□□円)を給する
       2003年3月31日
               □□□□ □□□□
                     理事長 □□ □□

   退職記念品(ガラス製花瓶)と感謝状をいただきました。

16:00 退職者感謝礼拝(チャペルにて)
 わたしたちは今、本日をもって□□□□□□を退職される□□・□□の方々を憶え、今までのお働きに対して感謝をささげ、またおひとりお一人の健康が守られ、その歩まれる新しい道が実り豊かなものとなられることを祈るため、ここに集まっております。・・・

   有志より御餞別をいただきました。
   臨時職員一同から花束をいただきました。
   記念写真を撮りました。

草履袋(2003年3月24日)

 小学校の入学を記念して、家の中で撮った写真があります。ランドセルを背負い、右腕は力なく下がっていて、その腕の先には、指一本だけで草履袋を下げている手があります。顔は浮かぬ顔をしています。どうして浮かぬ顔をしていたかというと、私はこの草履袋が気に入らなかったからです。
 みんなは学校が斡旋する業者から買った茶色の草履袋を持っていました。私の草履袋は、真っ黒の色をしていて、白い鶴の刺繍がありました。端切れを利用したとはいえ、母の手作りの立派なものです。みんなの前ではその違いが目立ちました。大人になってからは、母の愛を感じるのですが、みんなと同じものを持っていないと不安なものです。仲間はずれにされたような、自分は他人とは違うという意識が生まれてよくありません。子供の心がゆがむのではないかと思います。若いお母さん方に、このような子供の心理もよく理解されるようお願いします。

計算尺(2003年3月23日)

 中学一年生になって間もない頃に、授業で計算尺を使うことになりました。小学校から中学校に進学して間もない頃だったから、みんなは新しく買ってもらったものを持ってきました。私は姉が使っていたもので、古いとはいえ十分使えるものがあったので、それを不平も言わず持っていきました。教師が私の古びた計算尺を手にとって、みんなに聞こえる声で「新しいのを買ってもらえよ」と言いました。私が古びた計算尺を持っていったのは、父や母が新しいものを買ってくれなかったからではありません。父や母に、新しいのを買ってくれと、ねだりもしなかったからです。私は父や母が気の毒に思った記憶があります。最近はそんなことで、自分の父や母が軽蔑されたと思うデリケートな子供はいないかもしれませんが、教師はもっと子供の心理に配慮すべきだと思います。

心の余裕(2003年3月22日)

 退職記念パーティーや送別会でいただいた花束。赤、ピンク、紫、黄色。色鮮やかです。何が目的で生きているかは分からないけれど、草花だって精一杯生きています。じっと眺めていると、落ち着いた気分にさせてくれます。先輩、後輩、同僚たちの優しい気持ちが伝わってきます。過去三十年間のことが思い起こされて、悲しく寂しい気分にもなりますが、どんな悲しいこと、どんな苦しいことがあっても、これからも生き続けなければならないという義務感も起こってきます。今日まで、青い空を仰ぎ見たり、道端で咲く草花をゆっくり眺めるという心の余裕がありませんでした。仕事のことばかり考えていました。他人に対する優しさを忘れていました。これからの人生は、心の余裕を持って生きていきたいと思います。

退職記念写真(2003年3月21日)

 退職者記念パーティーでのスナップ写真ができあがり、いただきました。最近は自分の顔や姿を写真に撮るという機会がありませんでした。久しぶりに写真で見る自分の顔は、後頭部から額まで禿げ上がり、揉み上げ部分は白髪になっています。いつまでも若いと思っていても、年齢相当の顔になっています。やはり、歳をとったという感慨と、よくもここまで生きてこれたものだとも思いました。
 大した仕事もできなかったけれど、記念パーティーや送別の会では、過去において職場が同じだった同僚、先輩、後輩の人たちからは、決まりきった言葉とはいえ、「長い間のお勤め、おつかれさまでした」というねぎらいの言葉をいただけたことは大変うれしかったです。

人前で初めて涙を流した日(2003年3月20日)

 今日は私の送別会をかねたような飲み会に招かれました。総勢八人。後輩の女性も加わって、華やいだ雰囲気でした。人付き合いが下手で苦手な私だから、一人寂しく去りたかったけれど、こうして声を掛けてくれる人がいます。素直に感謝しなければなりません。ありがたいことです。私ごとき人間の退職でも、それを祝ってくれる友人、後輩、同僚を持って、私は幸せだったと思います。後輩にとっては、頼れる良き指導者ではなかったことが悔やまれます。今日は人前で初めて涙を流しました。一生、この日のことは忘れることはないでしょう。K.K.さん、S.T.さん、H.S.さん、T.S.嬢、Y.S.嬢、Y.M.嬢、T.S.嬢、どうもありがとうございました。

蛙の解剖(2003年3月19日)

 高校の理科の授業で蛙を解剖することになり、担当教員が各人蛙を一匹捕まえて持ってくるように言いました。当時はまだ田んぼや畑があって、自然の中に蛙は沢山いました。私の家の裏からも、鳴き声がやかましいほどに聞こえて来るという時代でした。けれど、いざ捕まえるとなると、容易な技ではありません。弟もまきこんで四苦八苦。夜暗くなって、懐中電灯を照らしながら、ようやく一匹を捕まえました。それは授業のある日の前日でした。一安心して持参したのだけれど、みんなが持ってきた蛙はみな、私の倍はあるであろうりっぱに太った蛙でした。よく聞いてみると、デパートで買ってきたといいます。自然の中で生きている蛙を捕ってこなければならないとばかり思っていた私にとっては、思いもつかないことでした。金さえ出せば、苦労せずとも、立派に太った蛙を買うことができたのです。当時は自分で自由に使える金がなかったせいもあるけれど、金で買うという知恵が浮かびもしなかった自分の愚鈍さを呪いました。自分が捕まえた、みんなとは比較にならないほどの小さな蛙を見ながら、恥ずかしい、惨めな気持ちを味わいました。要領よく、機転をきかさないと、出世できない世の中。こんな愚鈍な私だけれど、私は世の中、正直にぎこちなく生きている人間が好きです。

こころの健康(2003年3月16日)

 「ひきこもりかな?」と思ったら〜ご家族・ご本人のためのパンフレット〜「厚生労働省ホームページ」へのリンク

送別の会(2003年3月15日)

 馴染みの同僚、先輩、後輩らが集まって送別の会を開いてくれました。総勢私を含めて五人で、少し寂しいけれど、心置きなく話せる友人は財産です。楽しいひと時を過ごすことができました。最後は「長い間、おつかれさまでした」という言葉とともに、立派な花束をいただきました。大した仕事もできなかったけれど、勤務年数三十年。「おつかれさま」というねぎらいの言葉が大変うれしく、ありがたく、心を打たれました。いただいた花束。折角の好意を無にするわけにはいきません。さりとて、我家には花瓶といった気のきいたものはありません。とりあえずは水を張ったポリバケツに突っ込んでいますが、まだ蕾のままのものもあります。この蕾が花開き、葉が枯れ落ちるのを見届けるまでは、決して捨てずにこのまま置いておこうと思います。

自分史(16)我家の記録(2)(2003年3月13日)

 父は勲七等瑞宝章を受けました。お役所で長年勤めていれば誰でももらえるものだという親戚もいましたが、父は素直に喜んでいました。普段は気恥ずかしい気持ちからか、喜びを外に表すということがなかった父ですが、勲章を背広のポケットに装着した写真が、今部屋にかかっています。父の葬儀の時に使った写真です。父の正義に対する頑固さは人並みではありませんでした。私は小さい頃から父を尊敬していました。父の信条や生活態度は、今の時代では軽蔑されこそすれ、尊敬されることはないでしょうが、父の影響を受けて今の自分があります。父が書き残した「我家の記録」は、原稿用紙で200〜300枚。「右手指不自由、横臥の日続く。恐らく今後の諸記録望みなし」で空しくも途切れていることが悲しいです。

-----------------------------------------
日本国天皇は□□□□を
勲七等に叙し瑞宝章を授与する
昭和五十四年十一月三日皇居において
璽をおさせる
大日本
國 璽
昭和五十四年十一月三日
内閣総理大臣  大平正芳
総理府賞勲局長 亀谷禮次

第□□□□□□□号
------------------------------------------
勲記は菊の紋のすかし入り。菊の紋の入った生菓子3個(箱入り)。菊の紋の入った煙草50本(缶入り)。勲章は金、銀。地模様が竹色、朱色の線2本。ボタンは薄竹色に朱色の線。

父の遺稿ほか(2003年3月12日)

 あの阪神・淡路大震災で実家は取り壊すことになり、金で買えるものは、惜しげもなく捨てました。なかには、金では買えない骨とう品的価値あるものも捨てました。振り子の付いた柱時計、足ふみミシン、真空管式ラジオ、行水用の大きなたらい・・・。それでも捨てずに残していたものがあります。父の何年にもわたる手帳と遺稿、手紙の類です。そろそろそれを紐解く時が来たようです。

退職の辞(2003年3月11日)

 このたび、□□の選択定年制で、退職させていただくことになりました、□□□□と申します。今、こうして健康な状態で退職の日を迎えることができましたことは、皆様方のお陰だと感謝しております。
 私は□□□□年に、□□□□に採用していただき、30年間。色々なことがございました。仕事の上では、一人で悩むこともありましたが、その都度、周囲の皆様方の直接、あるいは間接のあたたかいご助言、ご教示をいただきまして、何とか無事、今日という日を迎えることができました。時には厳しいお言葉をいただいた時もありましたが、今ここで振り返ってみました時、それらのことはすべて、未熟な自分の成長のための糧になっていたと思っています。
 退職するにはまだ早い、生意気だ、というお声が聞こえてきそうになるのですが、自分の仕事に対する能力と、自分自身の健康のためも考えまして、勤務年数30年。私なりの一つの区切りとして、このたび退職させていただきます。私ごとき人間が退職しても、何らご迷惑をおかけするようなことはないとは思いますが、結果として業務半ばで退職することとなり、特に□□□の皆様方には、ご迷惑をおかけするところがあるかもしれませんが、どうかお許しください。
 最後に、月並みな言葉で申し訳ございませんが、皆様方、健康には十分留意され、ご精進していただきたいと思います。健康が第一です。健康第一。月並みで、よく言われる言葉には真理があります。私も、今一番の心配事は何かといえば、やはり自分の健康のことです。健康といった場合、肉体の健康と、心の健康とがあります。仕事も大変複雑になってきました。自己研鑽も必要ですが、分からないことがあれば、互いに気楽に、教えたり、教えられたりする良好な人間関係を大切にされ、肉体的な健康は勿論のこと、それ以上に、心の健康にも十分留意され、ご精進していただきたいと思います。
 私は、これからは、義務としての仕事からは解放され、楽しい気分がある一方で、これからは、皆様方と一緒に仕事をできないという悲しい気分、寂しい気分と、将来に対する不安とが交錯しています。
 今月末で皆様方とお別れすることになりますが、またどこかで、私を見かけられました時は、気軽にお声をお掛けていただければ、大変うれしく思います。
 どうも皆様方、長い間お世話になり、ありがとうございました。

女性専用車両(2003年3月3日)

 快適な車内、主として痴漢防止のために女性専用車両なるものがお目見えしました。女性には好評だと言います。ところで、車内で食事をしたり化粧をする女性、車内での携帯電話の使用や、周囲の迷惑も考えずに大きな声で会話をしている乗客に不快を感じている私には「食事専用車両」「化粧専用車両」「携帯電話その他談話専用車両」といったものを走らせていただきたいと思います。

人生は遠き道程(2003年3月2日)

 精神的には暗い半生を送ってきました。今、出来れば過去を振り返りたくはありません。
 禍福はあざなえる縄のごとし。喜びの後には悲しみが、苦しみの後には楽しみが、必ずやってきます。今はそれを信じて、過去を捨て、もっと先へ進もうと思います。
 昨日、暗闇の中にも、その先に小さな明かりが見えました。今日、一歩、歩みを進めたとき、その小さな明かりが僅かに大きくなって見えました。その小さな明かりが何かは分かりません。分からないから、分かるまで、明日、もう一歩、歩みを進めてみようと思います。
 人生は遠き道程を歩むがごとし。遠き道程は「とおきみちのり」と読みます。私のペンネームです。

自分史(15)我家の記録(1)(2003年3月1日)

 今は亡き父が「我家の記録」と題して書き残したものの中から、その序言を記しておきたいと思います。

                 序言
 小学生の頃に学んだ歴史によると、日本国の紀元に神代という時代があった。現在も置物や神話に現れてくる七福神(戎、大黒、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋和尚)などもその神々であったといわれている。さらにこれら神々の末孫の一人が、九州高千穂の峰に降臨された。これが日本国初代の神武天皇であり、その即位が日本国の紀元であるといわれ、今上天皇で百二十三代になると称されている。果たして二千六百数十年前にこうした事実があったのか、学識ある人ならずとも実に疑わしいことである。
 しかし大東亜戦争に因り敗者となるまでは国民挙って毎年二月十一日を紀元の佳節と信じ、当日は全国津々浦々まで祝福の日の丸の旗がひるがえり、神風の吹く日本であると信じてきたのである。大東亜戦争下、国土の全域に敵機の襲来をうけ、神域伊勢神宮の一角さえ焼失するに及び、広島、長崎には実に非人道的な原子爆弾により一瞬にして二十数万の同胞が消え失す等、こと此処に至り神風も神国も人々の心から離散するようになった。
 昭和二十年八月十四日、遂に終戦となり神国日本も敗者の烙印が押された。以来神代の説も架空のものとされ、二月十一日の紀元節も国民の祝祭日から消されてしまった。戦後の復興により亜細亜の先進国になると共に、紀元節の復古論或は反対論が台頭した結果、昭和四十二年、二月十一日を建国の日と改め現在に至っている。
 国に紀元や建国の日がある如く、私の家にも何千年もの以前からの命脈がある筈である。だが今それを探究することは不可能なことである。私が子供の頃から抱き続けた夢は空しいけれども、たとえ一端でも掴みたいと資料を集めてみたが、祖父の一代記さえ書くことができない。せめてもの私の古に記憶をたどり、その他若干の資料を基に最大限の記録を書き残したいと考えている。しかし私自身の貴重な記録も大東亜戦争下に整理焼却して手許に残っていないのが残念である。後年子供がまた孫が私と同様に祖先の事を求めるとき、僅か数代のこの記録がせめてもの参考と慰めになればと思っている。
                昭和四十三年改訂 記 [署名]

日記の効用について(2002年12月)

 日記をつけていると、メモ程度のことでも、当時のことが鮮明に思い起こされます。今日はその一つを記しておきます。
 今から数えれば三十年も前のことになります。当時の私は公務員をしておりました。採用されて間がない頃でした。当時は年末年始の休日でも、課長以下の職員には当直というものがありました。ある課長が、十二月三十一日の夕方から、新年の元旦までの当直に当たりました。その課長から私に「代わってくれ」という依頼がありました。課長は当直に当たっても部下に頼んで、自分ではやらないという慣習があって、頼まれた私は断ることができませんでした。当直といっても、私以外に守衛さんが一人いましたので、特に仕事というものはなく、守衛室に座って退屈しのぎに、置いてあるテレビを見ていればいい程度のことでした。
 当時はまだNHKの『紅白歌合戦』を見なければ、年を越せないという時代でした。私は特別の興味はなく、その時間には、別のチャンネルで映画を見ていました。ヒッチコックの『鳥』でした。ストーリイは忘れてしまいましたが、たくさんのカラスが出てくる映画でした。テレビは守衛室に一台しかありませんでした。私がどうしてその時間に『紅白歌合戦』ではなく『鳥』を見ることができたのか。今になっても気にかかることです。守衛さんこそ、子供さんがたくさんいて、この年末年始は家族団らんで過ごしたかったでしょう。家族一緒に見られなくても、『紅白歌合戦』を見たかったのではないでしょうか。私の寂しそうな気持ちを思い図って、私のわがままな希望を聞き入れ、気前よく許していただいたのではないか。未だに忘れられない出来事です。
 過去のことが気になったり、過去のことがすぐに思い浮かんでくるということは、それだけ歳をとったということでしょうか。特に日記をつけていると、内容がメモ程度のことでも、その短い文章や単語の一つからでも、その日のことが連想されてきます。日記をつけている時間は、自分を忘れて没頭していることがあります。没頭できることがあるということは、健康のためにはいいことです。特に心の健康のためには。嫌なこと、仕事のことも忘れています。心が落ち着いてきます。
 今日は本年最後の日です。この一年を振り返って、特別の感慨はありません。テレビも最近は見たことがありません。今年も『紅白歌合戦』の時間がやってきました。『紅白歌合戦』はここ十年、見たことがありません。ただ今年は、この日記をつけながら、ラジオで聞いています。

お化粧直し(2002年9月)

 つい二、三日前の、仕事帰りの車内での出来事である。一人の若い女性が乗車してきて、私の座っているすぐ前の席に座った。車内は空いていて、よりによって私の席の真正面に座らなければならない必然性はなかったと思われるのだが。
 それはそれは、美しい女性であった。しばらくはじっと座っていたが、やがてそわそわとしだし、ハンドバックの中をまさぐりはじめ、何かを取り出した。それは手鏡を始めとするお化粧道具であった。早速お化粧直しが始まったのである。
 車内は空いていたとはいえ、同一車内には、私以外にも、ちらほら四、五人の乗客があった。彼女は、私はもちろんのこと、他の乗客の目を気にするということもなく、お化粧直しに夢中であった。若い彼女から見れば、私はただの「おっちゃん」であろうけれど、私の目の前で、これほどまでに無防備に裏舞台を見せ付けられると興ざめする。そのような無頓着さがかわいく見えなくもないが、身繕いは隠れてするものであると「おっちゃん」の私はそう思うのである。
 このような光景は、最近珍しくもないことだが、私の理想とする美しい女性に、久しぶりに出くわした胸のたかまりも、急速にさめていったことは、いうまでもない。美しい女性であったがために「お前もか」と、残念でしかたがなかった。

古武士のように(2002年7月)

 しばらく留守にするからといって、犬の世話を頼まれた。柴犬である。とてもスリムである。その立ち姿は、凛としていて、古武士を思わせる。
 これから散歩に出掛ける。私の姿を認めると、力任せに飛び付いてくる。そばにあった毛布を口にくわえて振り回す。うれしいのである。喜びを全身で素直に表してくれる。
 残念なことに、この犬は善人と悪人との区別ができない。誰にでもなついている。だから番犬としての価値はまったくない。
 そもそも人間を善人と悪人とに区別しようとする人間の方に問題があるのであろう。人間は本来、みな善人である。悪人なんていやしない。人間は、社会にほうり込まれることによって悪人となる。悪人とならざるをえないのである。他人を疑ったり、不信な目でみたり、これは現代に生きる社会人の悪癖である。
 ぐいぐい綱を引っ張る。ただひたすら前へ前へと突き進む。小柄な体に秘めた、その意外な力の強さに驚かされる。散歩はこの犬にとっては数少ない楽しみの一つである。その喜びが、綱を握る私の手に、腕に、びんびん伝わってくる。この犬は今、生きている。たくましく生きている。この世に生を受けたからには、いかなる困難に遭遇しようとも、生きて、生きて、生き抜かなければならないという義務感と、生きるための新鮮な意欲を呼び起こしてくれる。
 散歩から帰ると餌をやる。食べることは罪なことである。この犬は今、食べている。生きるために食べている。ただ無心に、食べている。これほどまでに真摯に、一途に、けなげに、静かに食べている姿を眺めていると、決して食べることは罪なことではないと思えてくる。
 犬の立ち居振舞いを冷静な目で眺めていると、人間が生み出したどんな高邁な思想も、みな傲慢で、人間の得手勝手な屁理屈で、「人間社会は進歩しなければならない」ということが迷信ではないかという気がしてくる。
 柴犬は日本犬である。日本犬は古武士のような風貌、品格を備えているという。この犬は、喜びを全身で素直に表現する。自分を飾ろうとしない。自然な行為として食べている。その行動には他意がない。自然体で生きている。
 何事も原点に立ち返って考えるとき、見えなかったものが見えてくるという。自然のままに生きることは大変大切なことである。現代の人間社会において、そうすることがいかに困難なことであるかはよく分かっているが、この犬のように、古武士のような品格をもって、質朴に生きていきたいものである。


 過去の随筆(以下は10年以上前に書いたものである)

書くことは心の健康法

 私は最近、同人誌に寄稿した小説をまとめて一冊の本にし、自費出版した。私がそもそも小説を書こうと思い立った理由は、自分の頭の中でもやもやしている考え、他人とは少し違った自分独自の思想といったものを、第三者に理解してもらえる形で残しておきたいという気持ちがあったからである。
 人間には自分の考えを他人に伝え、自分を理解してほしいという欲求がある。仲間同士が集まって、同人誌や文集を作って印刷物として公表するということも、自分以外の人に自分の考えを知ってほしいという欲求があってのことであろう。自分の言いたいこと、訴えたいことを他人に伝えるためには色々な方法があるが、小説という形もその一つである。
 自分の思想を書こうとペンを執っても、うまい言葉がなかなか浮かんでこないものである。「自分の考えを文章で表現できないのは、その考えが曖昧であるからである。頭の中だけで考えているうちは思想とは言えない。思想は必ず文章で表現されねばならない。文章で表現されてこそ思想と言える」といったことを何かの時に聞いたことがある。
「自分の頭の中でもやもやしている考え」は、文章化していく過程で明確になってくる。自分の考えを文章にすると、自分の考えを客観的にみることができる。客観化された自分の文章を読み返してみると、自分の思想の矛盾や幼稚さに気づく。
  満足のいく文章が書けた時は実に楽しい気分を味わうことができる。さらに、自分が書いた文章を印刷物として出版できれば、どんなにすばらしいことであろうか。自分が書いた小説が、どこで、どんな人に読まれているかはわからないにしても、どこかで、だれかに、大きな感動を与えているのではないか。そんなことを夢想し、自分の書いた本をことあるごとに読み返している。
 自分の書いた小説の中で、言いたいこと、訴えたいことが思う存分表現できている箇所に出会うと、爽快な気分になる。気に入った箇所は何度も繰り返して読む。自分で自分の書いた文章に酔いしれたりもする。自己満足に過ぎないにしても、爽快な気分を何度も味わうことができる。
 他人に自分の考えを理解してほしい。どう表現すれば理解してもらえるのか。何としてでも文章の形に仕上げたい。そんな欲求を抱きながら、新たな題材を求めて散策、思考する過程もまた楽しいものである。私にとって文章を書くこと、小説を書くことは、極めて安あがりな心の健康法になっている。


初めての自費出版(1992年12月)

 私は最近、文芸同人誌に投稿し掲載された小説を、一冊の本にまとめて自費出版した。自費出版とはいえ、書店の販売ルートに乗せられて、全国の書店に配本される。部数は一千部。全国に書店は二万点以上あると聞いているから、どこの書店に行っても私の本にお目にかかれるというものではない。
 私は事前に出版社を通して配本リストを取り寄せていた。これを見ると、自分の本がどの都市のどの書店に何冊配本されているかが、一目でわかるのである。北は札幌・釧路から、南は熊本・鹿児島まで。有名な書店から初めて耳にする書店もある。私はそのリストから最寄りの駅前の書店に私の本が一冊、配本されていることを知った。「自分の本が店頭に並んでいる」そう思っただけで胸がときめいてくる。こんなときめきは人生に二度も三度もあるものではない。
 文芸書の棚に目を走らす。著者名の五十音順に並べられている。私の目は著者の名を順々に追った。「あ」「い」・・・。伊集院静「受け月」。直木賞受賞作とある。そうそうたる作家の作品が並んでいる。「う」「え」「お」・・・。小川洋子「妊娠カレンダー」。本の背の「芥川賞受賞」という赤い文字が誇らしげだ。私の目は棚の最下段に至った。私はそのとき、とうに「い」を通り過ぎていることに気がついた。
 ない、ない。私の本がない。
「書店に配本されても、店頭に並ぶとは限らない。梱包も解かれずに返本される場合もある」そんなことを聞いていた私だが、あきらめることができなかった。私の本には青い色をした帯がついている。棚の最上段に戻って、今度はその色を目処にして、もう一度丹念に目を走らせた。それでも私の本は見つからなかった。あきらめることを知らない私の目は、執拗にも隣の「実用書」の棚にまで向かっていた。
 あった! あった! 私の本があったのだ。感動とともに心臓の鼓動が耳に聞こえてきた。それとともに、自分の裸体を衆目にさらしているような恥ずかしい気持ちがした。そんな気持ちとは裏腹に、これは私が書いた本なんですよと、周囲の人にだれかれかまわず吹聴してまわりたいような気分だった。
 感動に浸っているうち、私はしだいに冷静さを取り戻した。私の本は小説である。決して「実用書」に分類されるものではない。書名からしても文芸書であることは明らかだ。だのにどうして、こんなところに並べられているのだ。そう思うと、この書店の私の本に対する扱いに憤りを感じた。
 よく見ると、文芸書の棚は上から下まで、びっしりと詰まっている。一冊の本も入り込む余地はない。私のような無名の著者の本が、文芸書の棚からはみだし、こんなところに置かれているのも無理もないことだった。
 小説を読みたいという人は、多くの場合、著者の名前を求めてやってくる。私は名も知れていない。名前だけで買ってくれる人なんていやしない。私のように無名の著者の作品でも、中味さえよければ読んでみようかと思う人も出てくることだろう。目次だけでも一目でいいから見てほしい。著者の名にかかわらず、小説を読みたいという人の目に触れなくては困るのだ。文芸書の棚に私の本を並べてほしい。
 ことは簡単だ。びっしり詰まった文芸書の棚から、どれか一冊を取り出して「実用書」の棚に移し、かわりに私の本を滑り込ませればいいのである。けれど私には、そんなあさましいことができなかった。私は、伊集院静の「受け月」を買うことにした。一冊分の空きができたので、そこに私の本を移した。そこが私の本の置かれるべき位置だったからである。
 私は、いつか買って読んでくれる人が現れることを期待しながら、時々その書店を覗いている。

被差別部落和泉地区現地研修に参加して(1985年11月)

 連日の雷雨もあけ、夏の日差に汗ばむ季節。近代的な団地が建ち並ぶ。脇道を入ると、荒れるがままに放置された木造家屋が密集。未だに着手されず、残されている地域。一雨降れば、湿気の逃げ場もないであろう環境が容易に想像される。庭というほどの空き地もない。忘れていた土の匂いを感じる。足元に気を配る。軒下をくぐり抜け、大通りに出る。アスファルトがきれい。再び、視界に団地の姿。コンクリートの壁が何かを拒否している。土の香りがない。草の匂いがない。自然のやすらぎがない。
 劣悪・不衛生な住宅環境の改善は、差別されてきた人たちにとって、緊急を要する問題であったろう。しかし、健康で文化的な最低限度の生活が、国の責任において果たせたとしても、コンクリートの建物を建て、そこに人間を「収容する」ということで、差別の意識がなくなるものではない。
 団地・老人センター等の近代的諸施設は、一般地区住民にも開放されているのであろうか。お互いの交流が大切である。その交流の中から、同じ人間であるという意識も生まれ、差別がいわれなきものであることを、お互いに認識するようになる、と思うのだが。物的環境の整備が、差別されてきた人たちの孤立化を、逆に助長するものであってはならない。
 老齢・障害・傷病の状態にある生活困窮者に対して、国がその責任において、援助することは当然である。しかし、働く能力を有する者は、その自助努力によって、自己の生活水準の向上を目指すことも必要である。その自助努力を阻むもの、それが「就職における差別」である。条件が劣悪な日雇労働・家内労働に従事する人たちが、一般に比して高率であることを考えるならば、安定した職業に就ける機会が保障されねばならない。自助努力によって、生活水準の向上が、国や自治体から「勝ちとった」というものではなく、自分たちの力で「築きあげた」ものとなり、今日の「逆差別」という批難に対抗しうるものともなる。
 差別は無知から生まれる。身体障害者・精神障害者に対する差別意識もしかり。その人の、障害に至った経過、その人の歴史を知らないからである。その人の苦しみを知らないからである。目に見える姿だけで判断するからである。部落差別もまた、差別が生まれた社会的・歴史的経過を知らないからである。差別される側の苦しみを知らないからである。その苦しみを知ろうともしないからである。
 人間は差別意識を持って生まれてくるものではない。幼児の世界に、大人の言う差別意識など存在しない。だから、差別問題に関心がないからといって、差別意識のある人だとは思いたくない。しかし、幼児が成長し、社会の一員であることを自覚しだした頃から、社会からの影響を受けて、知らず知らずのうちに身に付けるものである。差別問題に無関心でいると、部落出身者・障害者のゆえをもって、なんとなく、無意識的に、差別をしてしまう場合がある。やはり、我々は、部落問題に無関心・無知であってはならない。また我々の住む社会において、部落差別だけが差別ではないことをも、よく認識すべきであろう。特に、日常生活における「無意識的な差別」は、強く反省しなければならない。意識的差別は、差別する側が自覚していることであるから、その変革は容易かも知れない。しかし、この「無意識的な差別」は、抽象的・一般的な教育の手段で解消されるものではない。
 差別は、差別される側にとっては、現実の問題であり、具体的なものである。「部落問題」「身体障害者問題」「精神障害者問題」、今日的なものとして「指紋押捺問題」等々、極めて具体的な問題として把えられるべきものである。特に、その「意識」というものは、抽象的な理論や国の一般的福祉政策で解消されるものでは決してない。
 差別が身近に存在してきたこと、無関心が差別観を温存させること、これらを教えてくれたことに、今回の現地研修の大きな意義があったと思う。

「抜群」ということ

「数字のことに関しては○○君が抜群だな!」
 上司の同僚に対する褒め言葉に、私は若い頃、口惜しい思いをしたことがある。「君の才能は抜群だ」とか「抜群の成績」とかいって、世間では何の気もなしに使われていることば「抜群」。「抜群」という言葉は私の嫌いな言葉の一つである。
 辞書によると「抜群」とは「多くの中で殊にすぐれぬきんでていること」とある。他との比較で、相対的に評価するときに用いられる言葉である。自分という個性ある一人の人間を、その人間性を考慮することなく、他人との比較のみで一面的に評価されてはたまらない。
 今日の受験戦争の中にあっては、自分の能力は常に他人と比較され、順序付けられる。最大の関心事は、全体の中での自分の序列である。このような偏差値教育が今なお続けられているのが実情である。
 最近になって、このような相対的評価に反省の機運がみられ、文部省でも通信簿につき絶対的評価を取り入れるよう指導するという。他人との比較で一人の人間の能力を順序付けるのではなく、一人一人の個性を尊重し、個人の努力を評価しようとするものである。
 私も中年となり、多くの後輩を持つ身となったが、彼らの優れた仕事振りを見ても、決して「抜群」という言葉で褒めたことはない。

わがふるさと「佃島」

 大阪の中心地から、国道二号線を西へ二十分ほど車を走らせると、隣りの県、兵庫県に至る。そのちょっと手前に、欄干の古びた神崎大橋がある。この橋を渡ってすぐ右に折れると、ゆるやかに左にカーブした狭い道が数百メートル続く。初めて来た人は「道がどうしてこんなに曲がっているのか」と不思議がる。ここまで入ると玄関に盆栽や植木鉢をたくさん並べた家が目立ってくる。下町情緒がたっぷりの町。大都会の西の外れに位置する佃。その一丁目が私のふるさとである。
 佃は島である。神崎川と左門殿川という二つの川に挟まれていて、さつま芋のような形をしている。一丁目はこの島の先端にあたるので、道が先細りに曲がっているのである。島の周辺は高いコンクリートの堤防に囲まれているので、川面を見ることはできない。ここが島であることは上空から眺めるか、地図で見ないと分からない。
 佃は佃煮の発祥地として有名である。また佃の地名には歴史がある。今から四百年ほど前、徳川家康が北摂の多田神社に参拝した折り、佃の漁民が神崎川に舟を出し、家康を渡したといわれる。感動した家康は、当時田蓑島と呼ばれていたこの島を佃島と改めさせた。佃とは荘園領主が直接経営する田を意味する。つまり佃は、家康直属の島、直属の民となり、多くの特権を与えられたのである。
 そんな佃も時代の波には逆らえない。最近では、下町情緒の漂う狭い道にも、自動車がひっきりなしに通り過ぎて行く。そのせいで、道路で遊ぶ子供らの姿を見かけない。子供らは一体どこへいってしまったんだろう。昔のことを思うと、ちょっと寂しい思いがする。

人生を語る「顔」

 ふと思い立って、アルバムを開いてみた。小学校入学を記念して撮った一枚の写真。体に不釣合いなほど大きなランドセルを背負っている。顔はといえば、これから始まる未知の生活に対する不安で硬直している。そのときの私の心境を、この写真は隠すことなく写し出している。
 中学三年。高校受験用に撮った写真は、頭は丸刈りである。顔の色は白く、覇気がない。それもそのはず、このとき私は、既に重い病におかされていたのだ。一年近い療養生活の後に撮った写真は、頬がふっくらとしていて、おだやかな表情をしている。笑みさえ見える。この写真を受験願書に貼って、私はこの年めでたく高校合格を果たしたのだ。
 高校時代。若者らしいはつらつさに欠け、人一倍、青春の悩みをかかえていた頃。眉間に皺を寄せ、口はへの字に曲げて、人生を素直に謳歌できなかった暗い顔が見える。
 大学に入学して一念発起。各種の資格試験に挑戦し、勉強に没頭していた頃の写真が続く。黒ぶちの眼鏡の奥に、揺るぎない信念に裏打ちされた鋭い目が光る。りりしく締めたネクタイに白いワイシャツが映えている。私はこの頃の写真が一番好きだ。
 そして今、毎朝出勤時間に追われて、鏡を前に髭を剃る。鏡に映る顔に変化はない。いや、変化がないと思っているだけかも知れない。写真を撮ろう。どんな顔に映るだろうか、楽しみだ。 

ゆとりと文化

「生きる目的は?」と問われたとき、人は何と答えるのだろう。「経済的に豊かな生活を送ること」と答える人もあろう。だが、心の豊かさ、精神的にゆとりのある生活を送ることが大切だ。
 毎朝時間に追われて家を出る。綺麗に舗装されたアスファルトが駅まで続いている。満員電車に揺られて一時間。職場に着くと、待っているのはコンピュータ。あくせく働いて帰途につく。テレビのスィッチをひねると、瞬時に最新の情報が飛び込んでくる。便利になったのは確かなのだが、何かが欠けている。
 ときにはテレビを消して、読書に耽ってみたい。車を捨てて、砂塵の舞う田舎道を裸足で歩いてみたい。大海を前にして、打ち寄せる波のうねりを、いつまでも眺めていたい。ふっとそんな衝動にかられたりもする。タクアンにお茶漬け、焦げ付いた御飯もおいしいものだ。
 人間は限りなき可能性を求めて、今日の高度な文化を築き上げてきた。しかし、公害に代表される環境破壊は、何を意味するのであろうか。人間は進歩であると思っているが、実は破滅への道を辿っているのではないだろうか。文化とは何か。今一度ゆっくりと問い直してみる心のゆとりが必要だ。

プログラミングの楽しみ

 ポケットコンピュータを買ってきた。価格は五万円。拡張モジュール、プリンター、インターフェイスを加えて約十万円を費やした。
 はやる心を抑え、包装を解く。コンピュータを前にして、さて何をさせようかと、しばし黙考。コンピュータは電子計算機といわれる。何か計算をさせてみよう。プログラム言語は初心者にもやさしく使える「ベーシック」である。とはいえ、、一度でうまく動くものではない。思い通りの結果が出力されないと、リストを打ち出し点検する。プログラム上のミスを発見し、丁寧に修正後、再度実行する。プログラムは試行錯誤を経て完成へと近づいていく。その修正の過程が実に楽しい。
 プログラムは理屈通りに組まないと予期した結果が得られない。ピリオドやコンマの一つを欠いただけでもエラーメッセージを表示して実行を停止する。ここをこうすればうまくいくはずだと修正をするのだが、うまくいきそうでうまくいかない。だからといって全く動かないわけでもない。少しずつでも思い通りになってくれる。時としていらいらさせるが、これがまたいい刺激だ。
 一つのプログラムが完成すると新たな意欲が湧いて出る。もっと簡潔に組めないものかと見直したりして、プログラミングは私の無限の向上心を満たしてくれる。