仮題『望郷』第1編 母(とり) 第1章
私の母の実家は現在どうなっているかということから書いていきたいと思う。□□家の西へ、ほんの道路一つ隔てた通称鉄砲町への入口の角に、他よりも少々高台になっている屋敷と小さいが頑丈な表戸がある。瓦葺でこじんまりとした家があった。霞ケ城主、有馬藩の足軽として城の東大門を守る大役を負っていた。甲斐泰助の屋敷跡としては、一抹の寂しさが残っていた。町の人達は甲斐と呼ぶ人はほとんどなく、御門の○○さん、と話し掛けるのが通例であった。私が母に連れられて歩いている時、「御門のお孫さんですか」と愛想を言われたことがあったのを覚えている。
甲斐泰助とその妻たみには一男三女があり、母はその三女として明治10年10月18日に生まれた。若くして兄や両親とも死別したらしく、今唯一の戸籍書類を見ると、福井県坂井郡丸岡町霞区二十一号七十三番地、甲斐いな、妹、との記載があり、どこかに苦悶の青春時代が推察される。私が叔母(いな)の家で遊んだりしていたのは小学校に入る頃で、奥の鴨居の上に長槍が二、三本掛けてあったり、定紋入りの四角い箱が吊るしてあったりした。子供心に、母と叔母の仲が常に険悪なので、年の経つにつれ行かないようになり、遂には言葉さえ交わさない状態にまでなっていた。
惣七という叔父は石川県山中町の出身らしく、私の目に映じたところでは、常に黙々として叔母に追い立てられるように仕事一途に生きる真面目な人のように思われた。大雨の降った後、雑魚取りに出かけ、取れた魚を素焼きにして串に刺し、乾かしていることがあった。子供たちが蝮を見かけて知らせると、何の雑作もなく蛇の頭を押さえつけ即座に皮を剥いで、キモとかいうものを食べてしまうという野性味もある人だった。
惣七叔父は田畑作り、叔母も野良仕事の暇に、雇われ婆さんのように、室町の山本饅頭店や、その他店の忙しい頃に雇われて現金収入の途を開いていたらしい。家も屋敷も自分のものであり、夫婦が食べて余る位の資産があったはずであるが、叔母は惣七叔父の死後も相変わらずまめまめしく働いていた。
昭和23年の北陸烈震の時には家も全壊した。私が実家の後片付けに帰り、倒壊した屋根の上から、めずらしく、又ほほえましい情景を見ることができた。私が急造したバラックの中で、いな叔母と母が仲良く塩入のぼた餅を握ってくれていたのである。遠来の息子のため、甥のために。炎天とほこりで痛めた目ではあったが、間違いはなかった。こうした大事の時はやはり肉親の情というものが、たとえ一時的なものにしろ自然に生まれ出るものであることを知りうれしかった。そして今度こそ、永遠に離れることのないよう、願ったのである。
叔母が着るものがないので一枚欲しいと言っている。「これを一枚やろうと思うがお前はどう思うか」と母の質問を受けたが、無論依存がない旨を答えた。母もうれしそうに「そうかやってくれるか」と礼を言われたのには恐縮し当惑もした。折角血肉を分けた姉妹が日常目と鼻の先の所に住みながら、意見の相違からとはいえ、無言の態度を続けてきた。その絆が解けたことは余程うれしかったものと思われる。
母が幼少の頃の甲斐家は資産も相当あったらしい。家屋敷以外にも土地が相当あって、その土地の上には蔵が八つほどあったらしい。家計は楽で、足軽出身の家とはいえ、一応士族的厳格な躾けに徹し、蝶よ花よの頃があったらしい。長男と妹三人にはそれぞれ財産分けもしてあり、母も土地と蔵2つをもらっていたそうである。しかし折角の幸福も両親の死により一変し、長兄は福井市内新地の女郎と仲良くなり、果ては身請けの相談とお決まりの道を盲信し、結果は警察沙汰にまで及びそうになった。母は姉いねに相談したが、相手になってくれない。自業自得の結果とはいえ、兄を見殺しにできない。どうせ女は他に嫁ぐ身、折角親から頂いた遺産ではあるが、兄を救うために手放してしまえ、と決意の上処分した金で兄を救うことができたという。しかし、折角貢いでやった兄もロウガイ(現在の肺結核)のため若くしてこの世を去っていったそうである。