私の日記です
2002年12月31日(火) |
日記の効用について
こうしてパソコンで日記をつけていると、忘れていた遠い過去の出来事が、ふと思い起こされることがあります。今日はその一つを記しておきます。
今から数えれば三十年も前のことになります。当時の私は公務員をしておりました。採用されて間がない頃でした。当時は年末年始の休日でも、課長以下の職員には当直というものがありました。ある課長が、十二月三十一日の夕方から、新年の元旦までの当直に当たりました。その課長から私に「代わってくれ」という依頼がありました。課長は当直に当たっても部下に頼んで、自分ではやらないという慣習があって、頼まれた私は断ることができませんでした。当直といっても、私以外に守衛さんが一人いましたので、特に仕事というものはなく、守衛室に座って退屈しのぎに、置いてあるテレビを見ていればいい程度のことでした。
当時はまだNHKの『紅白歌合戦』を見なければ、年を越せないという時代でした。私は特別の興味はなく、その時間には、別のチャンネルで映画を見ていました。ヒッチコックの『鳥』でした。ストーリイは忘れてしまいましたが、たくさんのカラスが出てくる映画でした。テレビは守衛室に一台しかありませんでした。私がどうしてその時間に『紅白歌合戦』ではなく『鳥』を見ることができたのか。今になっても気にかかることです。守衛さんこそ、子供さんがたくさんいて、この年末年始は家族団らんで過ごしたかったでしょう。家族一緒に見られなくても、『紅白歌合戦』を見たかったのではないでしょうか。私の寂しそうな気持ちを思い図って、私のわがままな希望を聞き入れ、気前よく許していただいたのではないか。未だに忘れられない出来事です。
過去のことが気になったり、過去のことがすぐに思い浮かんでくるということは、それだけ歳をとったということでしょうか。特に日記をつけていると、内容がメモ程度のことでも、その短い文章や単語の一つからでも、その日のことが連想されてきます。日記をつけている時間は、自分を忘れて没頭していることがあります。没頭できることがあるということは、健康のためにはいいことです。特に心の健康のためには。嫌なこと、仕事のことも忘れています。心が落ち着いてきます。
今日は本年最後の日です。この一年を振り返って、特別の感慨はありません。テレビも最近は見たことがありません。今年も『紅白歌合戦』の時間がやってきました。『紅白歌合戦』はここ十年、見たことがありません。ただ今年は、この日記をつけながら、ラジオで聞いています。
2002年12月30日(月) |
自分史(11)阪神・淡路大震災その後-父母
震災後、取り壊さないと危険だと判定された長屋、余震のたびに天井から煤のような埃が舞い落ちてくるような家に、父と母は住み続けました。近くには私のマンションがあったのですが、父が私の世話になることを拒否したのです。夫唱婦随の家庭でしたから、母は父の意向に反対することはありませんでした。そのころ、すでに父は痴呆状態でした。母は妻として、夫の面倒を見るのが当然と考えていましたから、自分の夫だけを置いて、母だけが私のいる家に世話になるということは考えられませんでした。日頃から父は、子供の世話になることを嫌っていました。これは親子の断絶ということがあったということではありません。子供には、面倒を掛けたくない。息子の世話になることを日頃から嫌う意固地な性格が父にはあったということです。
母は当時まだ元気でしたから、日頃は母が父の面倒を見ていたのですが、色々手助けをしようと思っても拒否されると、母はいつもぼやいていました。ある夜、父が暗い部屋の隅っこで母から目を避けるように、髭を剃っていました。その電気剃刀の音がいつまでも止まないので、私は気になって、父の傍にいってみました。髭は伸びすぎていて、剃刀の歯がうまく髭にかからない様子でした。よく見ると髭剃りの網歯があちらこちらに大きな穴が開いていて、よう怪我もしなかったものだと思われるぐらい危険な状態でした。そんな剃刀で父は髭を剃っていたのです。目も悪くなって、分からなかったのでしょう。私は自分の電気剃刀を持ってきて父の髭を剃りました。父は「うんうん」とうなずくような満足そうな声を出して答えてくれました。自分の妻である私の母の手助けは、気恥ずかしい気持ちからか、やせ我慢からか、弱みを見せたくないという気持ちからか、拒否しても、息子には素直に応じてくれました。父のあの目を細めた満足そうな顔が浮かんできます。
母は、いつも父の行動を見かねて手助けしようとするのですが、父はこれを拒みました。父は壁をつたいながら、最後は這ってまで自分の力でトイレへ行こうとしました。父は最後はおしめをしなければならない状況になったのですが、決しておしめをさせることはありませんでした。面倒を見切れなくなって、ついに入院させることになりました。入院してからも父は家へ帰ろうとしました。意識は朦朧としているようでしたが、ベッドの柵を乗り越えて、家へ帰ろうとします。たとえあばら屋でも我家がいいのです。病院は完全看護で付き添いはいらないのですが、姉弟交代して泊り込み、看病しました。この父の看病ができたことで、父の死後、後悔を感じることはありませんでした。震災後の四ヵ月後、入院して約一ヵ月後の五月に、父は永眠しました。享年八十七歳でした。震災後、跡地に新しく家を建てましたが、父はこの家に住むことなく、他界してしまったのです。
2002年12月29日(日) |
自分史(10)阪神・淡路大震災その後-仏壇
震災で取り壊すことになった長屋の我家には、家の大きさにそぐわない程立派な仏壇がありました。畳一枚程の大きさで、都会では珍しいでしょう。父が郷里からこの地に運んできたものです。箪笥はめぼしいものだけを私のマンションに運び入れ、他は捨てることにしました。けれど、仏壇を箪笥のように扱うわけにはいきません。かといって、私のマンションには、もうこれ以上、入れることはできません。かりに入れようとしても、ばらさなければなりません。色々思案した末、父は「洗い」に出そうと決めました。その費用は百万円になります。一回り小さなものなら、このお金で新しいものをまるごと買うことができる値段です。日頃は倹約家の父です。私は父の意志を疑いました。そのころ、父は既にボケ状態にあったからです。父は昔の人間ですから、仏壇に金をかける気持ちもよくわかります。もともとが立派な仏壇です。これだけの費用をかけても、惜しくはないのかもしれません。これが真の父の意志であったのかどうか、父はもうこの世にはいないので、確かめようがありません。仏壇は「洗い」が終わってからも、新しい家が完成するまで仏壇屋で預かってもらうことにしました。
2002年12月28日(土) |
自分史(9)阪神・淡路大震災
この季節になると、あの時のことが思い起こされます。阪神・淡路大震災です。私の住むマンションも少なからぬ被害を受けました。アスファルトの通路は、全面に渡って大きくめくれ上がり、液状化現象で灰色のどろどろとした水が至るところから噴き出していました。ガス漏れの臭いも感じました。境界の柵は波うっていました。あの揺れは今までの地震では感じたことのないものでした。死というものを意識しました。自分の命の終わりを感じました。死に直面したとき、人は意外と冷静な気持ちになれるものだということも知りました。これはあきらめの境地に立たされるからかもしれません。
水道の水は出ませんでした。浴槽の水で顔を洗いました。水は生きていくためには大切なものです。私は小さい頃から、水は常に貯め置いておくことを親から躾けられていました。主として火災のためでしたが、このことが今になって役に立ちました。近くには親の家があります。九十歳近くになる父と八十歳近くの母が住んでいます。父は痴呆状態で、日頃は母が面倒を見ていました。老朽の長屋です。私は心配で駆けつけました。家は無事でした。父母も怪我一つしていませんでした。不幸中の幸いとはこのことを言うのでしょう。私は父と母のことを気遣いながら出勤しました。「どんなことがあっても仕事は休むな」父の子に対する戒めの言葉です。私の父は、郷里にいる自分の母の危篤の知らせを受けても、すぐには帰らず、仕事をかたずけてから帰ったといいます。
親の家は無事だったとはいえ、玄関の壁のタイルは根こそぎ落ちてしまって、廃屋同然のみじめな姿でした。家全体がいびつになって、戸の開け閉めもままならない。余震のたびに、天井からは煤状の埃が落ちてくる。危険な状態だと判定され、壊すことになりました。壊すまでの経緯は涙なしでは語れません。長屋とはいえ、持家です。最近、建て増しをした家もあります。ここを終のすみかと決め、虎の子の貯金をはたいて模様替えをした老夫婦もいます。長屋は壁一枚で隣家につながっています。全員の意見が一致しないと取り壊すことができないのです。役所の話では、一定の時期までなら取り壊しの費用を負担すると言ってくれています。その期限が刻々と迫ってきました。老夫婦が最後まで抵抗しました。みんなで説得にあたりました。「どうせこの長屋は取り壊さなければならない。時期を過ぎると、取り壊すだけでも一戸当たり百万円近い費用がかかる」と。老夫婦は最後はあきらめて、どこか親戚の家に世話になることになりました。取り壊しの当日は、ここから避難していた人たちが戻ってきて、シャベルで無残にも取り壊されていく我家を見ながら、みな涙を流しました。私もここで生まれ育ちました。悲しかったこと、嬉しかったこと、たくさんの思い出が詰まっています。シャベルで取り壊されていく、住み慣れた我家を見るのは辛かったです。
震災があって四ヵ月後の五月に父がなくなりました。脳動脈硬化、直接の死因は肺炎でした。長屋は取り壊されました。母は話し相手のいない他の土地へは移りたくありませんでした。この地でいつまでも住みたいと言いました。私は母の希望を汲んで、跡地に家を建てることにしました。もともとは長屋だから、間口は一間半しかありません。新しく建てるとなると、隣家と一定の距離を置かなければなりません。幅はますます狭くなります。土地の面積は限られています。二階建てだったのを三階建てにすることにしました。それでも、一階部分は車庫にしたから、以前に比べて決して広くはなりませんでした。各階にはトイレを設けました。これは母が歳のせいで、小便が近くなったからです。家は真新しくなったために、あそこで父はいつも髭を剃っていた、というようなことで父のことを思い出すことはなくなりました。少し寂しい気持ちがします。父はもういません。もしこの日まで生きていたら、父は喜んでくれたでしょうか。倹約家の父だったから、昔の古い佇まいの方がよかったというかもしれません。
2002年12月27日(金) |
介護用品
今日は母の介護用品が届く日なので、一日中家にいました。リハビリパンツ、尿取りパット、マジックテープ、尿ガード、清拭剤、手袋など、ダンボール箱で8箱。狭い我家の1階はもう満杯です。母は元気といえば元気なのですが、歳には勝てません。私よりしっかりしている面もあるのですが、ボケの症状が出てきています。本人は自覚していないようですが。健康な人でもいずれは通る道です。仕方がありません。
2002年12月25日(水) |
「癒しのクラシック」を聴きました。
先日買ったCD「癒しのクラシック」を聴きました。「運命」(ベートーヴェン、交響曲第五番ハ短調作品67)の第一楽章、有名な「ダダダダーン」で始まる部分が最も印象に残りました。気分転換のため、心のリフレッシュのために音楽を聴くことは大変いいことです。嫌なことも忘れさせてくれます。
2002年12月24日(火) |
フラメンコギター
私は大学在学中、フラメンコギターに魅せられて、ギター教室に通っていたことがあります。有名なギターリストにならなくても、将来は小さなギター教室でも開いて、細々でも生きていけたらいいなあとさえ思っていました。若い頃は何を考えるか分からないものですね。
フラメンコギターの魅力は何といっても、その独特の奏法にあります。その一つはラスゲヤードです。ラスゲヤードは小指、薬指、中指、人差指を同時に使って、弦上をかき回すように弾きます。弾くというよりも、叩くという感じです。親指も使う場合があります。小指は使わないという人もいます。もう一つがアポヤンドです。クラシックギターでは、弦を弾いた直後の指先は宙に浮いていて、隣の弦に触れませんが(これをアルアイレ奏法と言います)、アポヤンドでは、隣の弦上で停止します。フラメンコギター独特の力強い、叩きつけるような音は、このアポヤンド奏法によるためです。このほかには、ゴルペがあります。曲の要所要所でアクセントをつけるために、弦を「叩く」と同時に、ゴルペ板(ギターの胴部、丸い穴のすぐ下に張られています)を叩きます。演奏する時は、股を少し広げた状態で椅子に腰掛け、ギターは右の脇下だけで支えます。
2002年12月21日(土) |
人間の真実を追求したい人のために『ラ・ロシュフコー箴言集』より
●われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。
●われわれはしばしば自分より有力な人たちを愛していると思いこむ。がしかしその友情は利欲だけから出たものなのだ。われわれが彼らに尽くすのは、彼らによいことをしたいからではなく、彼らからよくしてもらいたいためなのである。
●人間は、もしお互いに騙され合っていなければ、とうてい長い間社会をつくって生き続けられないであろう。
●世間の付き合いでは、われわれは長所よりも短所によって人の気に入られることが多い。
●女を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる。
●よい結婚はあるが楽しい結婚はない。
●人はよく、罰を受けずに悪いことができるようになりたいと思って善いことをする。
●われわれが他人の美点を誉めそやすのは、その人の偉さに対する敬意よりも、むしろ自分自身の見識に対する得意からである。だから他人に賛辞を呈しているように見える時でも、実は自分が賛辞を浴びたいと思っているのである。
●人はふつう誉められるためにしか誉めない。
2002年12月20日(金) |
人間の真実を追求したい人のために『悪魔の辞典』より
●雄弁・・・聞く人の理解を狂わす言葉と身ぶりの間で行う陰謀。速記録で調節される言論の暴力。
●平和・・・国際関係で、戦争と戦争との間のだましあいの期間。
●和解・・・敵対意識の中断。戦死者を掘り出すあいだの軍事的停戦。
●幸福・・・他人の不幸を見ているうちに沸き起こる快い気分。
●憎しみ・・・他人が自分より卓越している場合にふさわしい感情。
●法律家・・・法律の抜け穴に長じた者。
●博識・・・学問に励む者に特有な一種の無知。
●礼儀正しさ・・・もっともわれわれの意にかなう偽善。
2002年12月19日(木) |
「健康」なあなたに申し上げます。
正常で生きていられること、それは大変幸せなことですが、不正欺瞞に満ちた今の社会に、何の心の病にもかからずに生きていられる人間こそ、どれほど罪深く、不誠実極まりない人間かしれたものではありません。私たちの生きている社会は、不正と欺瞞に満ちています。よほど要領よく生きて行かないと、正直ものは押し潰されてしまいます。今の社会にあって、正義とは何なんでしょう。「健康」と言われる人々は、社会の不正や矛盾に気付きながらも、適当に妥協しながら、要領よく生きています。
「健康」なあなたに申し上げます。あなたは精神に異常を来すほど、真剣に、真面目に、物事の本質について、正義について、平等ということについて、考えたことがありますか。世間の彼女に対する「真面目」という言葉が、どれだけあの子の心を傷つけていたことか。今では「真面目」という言葉は、他人を軽蔑する言葉として使われているような気がします。真面目であることが軽蔑される世の中。そんな社会が悪いのではないでしょうか。わが娘こそ正常ではないのでしょうか。精神障害者にもならずに、ずうずうしく生きている人間こそ、異常ではないのでしょうか。真理子のような病気になる人には、現代社会の中で、健康に生きている人々が失ったものを持っているのです。正義に対する正常な感覚と、繊細で優しい心を。
「精神障害者こそ正常な人間である!」
私は高らかにこう叫びたいのです。
私の短編小説『同情の涙はいらない』より
2002年12月18日(水) |
種を明かせば-『今昔物語』について-
私の童話に『百獣の王』というのがあります。『今昔物語』巻29第31話「新羅の国で虎と鰐とが闘う話」にヒントを得て作ったものです。『今昔物語』が作られたのは、平安朝も末期に近い12世紀の前半、『源氏物語』や『枕草子』が成立してから百数十年後のことです。『今昔物語』は31巻からなり、当時の庶民の喜びと悲しみを今に伝える約千の短い話が収められています。強盗、殺人など、当時の世相を示す血なまぐさい話もたくさん出てきます。
2002年12月12日(木) |
リフレッシュCD『癒しのクラシック』を買いました。
(英国ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)
1.気分転換の為のクラシック●ツアラトウストラはかく語りき/ボレロ/舞踏への勧誘/他
2.リフレッシュする為のクラシック●パリのアメリカ人/イタリア/運命/他
3.やる気が出るクラシック●ワルキューレの騎行/威風堂々第四番/剣の舞/他
まだ聴いていません。楽しみです。
2002年12月 8日(日) |
やっこちゃんの童話サイトにリンク
私のホームページ(Geo Cities版)に、やっこちゃん(小野靖子さん)の童話サイト「よっていかれぇ」をリンクさせていただきました。この方は2002年第18回ニッサン童話と絵本のグランプリ・童話の部で大賞をとられました。
2002年12月 1日(日) |
自分史(8)メモ
■1958昭和33年/月光仮面■1959昭和34年/拳銃無宿■1960昭和35年/ダッコちゃん人形■1961昭和36年/ララミー牧場■1962昭和37年/てなもんや三度笠■1966昭和41年/文部省認定ペン習字教育講座受講開始■1967昭和42年/ギター・マンドリン音楽教室定期演奏会出演(尼崎市労働福祉会館)/12月6日ペン習字講座修了■1968昭和43年/硬筆書写技能検定試験合格■1969昭和44年/国家公務員採用試験合格■1970昭和45年/某大学本部事務局経理部就職(文部事務官行政職)/12月23日普通自動車運転免許取得■1971昭和46年/某大学初任職員研修課程終了■1972昭和47年/校正実務講座終了/4月1日某大学法学部(第2部)聴講生登録(民法・商法・刑法)/6月30日某大学依願退職/12月16日某民間会社回収管理課就職/12月26日東京法科大学校司法試験科入学■1973昭和48年1月18日東京法科大学校入学式(毎日ホール)/6月1日某大学図書館就職/9月21日穂高登山■1974昭和49年/司書講習終了/7月18日全国私立大学図書館協会総大会出席(駒沢大学)■1975昭和50年/大学図書館職員講習会受講(文部省主催)/12月13日愛媛県出張■1976昭和51年2月10日広島へ /5月福井県へ■1978昭和53年7月16日某大学通信教育部夏季スクーリング開講式出席/8月富士登山/8月22日パンジョスイミングクラブ入会■1979昭和54年(財)関西情報センター主催シニアプログラマー養成コース終了■1980昭和55年6月19日大学展高松出張/9月14日漢字能力検定試験合格/12月菊水スイミングスクール会員登録■1982昭和57年日商簿記合格/8月10日電話級アマチュア無線技士免許取得/12月1日宅地建物取引主任者資格試験合格■1985昭和60年11月6日社会保険労務士試験合格■1987昭和62年1月19日行政書士試験合格■1994平成6年6月オウム真理教・松本サリン事件
自己紹介のページへ