私の日記です
2003年3月31日(月) 最後の日 |
30年間お世話になった職場を去る日が来ました。明日から始まる新しい生活を思うと、喜びと悲しみ、寂しさと不安が入り混じった複雑な気分です。このような気分は過去の入学式や卒業式で味わったものに似ています。敷地が広いので、あいさつ回りも大変です。階段を上ったり下りたり、まだまだひんやりとした季節なのに、汗が滲んできました。忙しい頃なのに、みんな仕事の手を休めて応対していただいたことがうれしい。最後は職員証を忘れずに返しました。長年勤めた職場を去るのは、やはり悲しくて、寂しいことです。
15:00 辞令交付
辞令
書記 □□ □□
辞職を承認する
退職金手当(□□,□□□,□□□円)
退職手当附加金(□□,□□□,□□□円)
計(□□,□□□,□□□円)を給する
2003年3月31日
□□□□ □□□□
理事長 □□ □□
退職記念品(ガラス製花瓶)と感謝状をいただきました。
16:00 退職者感謝礼拝(チャペルにて)
わたしたちは今、本日をもって□□□□□□を退職される□□・□□の方々を憶え、今までのお働きに対して感謝をささげ、またおひとりお一人の健康が守られ、その歩まれる新しい道が実り豊かなものとなられることを祈るため、ここに集まっております。・・・
有志より御餞別をいただきました。
臨時職員一同から花束をいただきました。
記念写真を撮りました。
2003年3月24日(月) 草履袋 |
小学校の入学を記念して、家の中で撮った写真があります。ランドセルを背負い、右腕は力なく下がっていて、その腕の先には、指一本だけで草履袋を下げている手があります。顔は浮かぬ顔をしています。どうして浮かぬ顔をしていたかというと、私はこの草履袋が気に入らなかったからです。
みんなは学校が斡旋する業者から買った茶色の草履袋を持っていました。私の草履袋は、真っ黒の色をしていて、白い鶴の刺繍がありました。端切れを利用したとはいえ、母の手作りの立派なものです。みんなの前ではその違いが目立ちました。大人になってからは、母の愛を感じるのですが、みんなと同じものを持っていないと不安なものです。仲間はずれにされたような、自分は他人とは違うという意識が生まれてよくありません。子供の心がゆがむのではないかと思います。若いお母さん方に、このような子供の心理もよく理解されるようお願いします。
2003年3月23日(日) 計算尺 |
中学一年生になって間もない頃に、授業で計算尺を使うことになりました。小学校から中学校に進学して間もない頃だったから、みんなは新しく買ってもらったものを持ってきました。私は姉が使っていたもので、古いとはいえ十分使えるものがあったので、それを不平も言わず持っていきました。教師が私の古びた計算尺を手にとって、みんなに聞こえる声で「新しいのを買ってもらえよ」と言いました。私が古びた計算尺を持っていったのは、父や母が新しいものを買ってくれなかったからではありません。父や母に、新しいのを買ってくれと、ねだりもしなかったからです。私は父や母が気の毒に思った記憶があります。最近はそんなことで、自分の父や母が軽蔑されたと思うデリケートな子供はいないかもしれませんが、教師はもっと子供の心理に配慮すべきだと思います。
2003年3月22日(土) 心の余裕 |
退職記念パーティーや送別会でいただいた花束。赤、ピンク、紫、黄色。色鮮やかです。何が目的で生きているかは分からないけれど、草花だって精一杯生きています。じっと眺めていると、落ち着いた気分にさせてくれます。先輩、後輩、同僚たちの優しい気持ちが伝わってきます。過去三十年間のことが思い起こされて、悲しく寂しい気分にもなりますが、どんな悲しいこと、どんな苦しいことがあっても、これからも生き続けなければならないという義務感も起こってきます。今日まで、青い空を仰ぎ見たり、道端で咲く草花をゆっくり眺めるという心の余裕がありませんでした。仕事のことばかり考えていました。他人に対する優しさを忘れていました。これからの人生は、心の余裕を持って生きていきたいと思います。
2003年3月21日(金) 退職記念写真 |
退職者記念パーティーでのスナップ写真ができあがり、いただきました。最近は自分の顔や姿を写真に撮るという機会がありませんでした。久しぶりに写真で見る自分の顔は、後頭部から額まで禿げ上がり、揉み上げ部分は白髪になっています。いつまでも若いと思っていても、年齢相当の顔になっています。やはり、歳をとったという感慨と、よくもここまで生きてこれたものだとも思いました。
大した仕事もできなかったけれど、記念パーティーや送別の会では、過去において職場が同じだった同僚、先輩、後輩の人たちからは、決まりきった言葉とはいえ、「長い間のお勤め、おつかれさまでした」というねぎらいの言葉をいただけたことは大変うれしかったです。
2003年3月20日(木) 人前で初めて涙を流した日 |
今日は私の送別会をかねたような飲み会に招かれました。総勢八人。後輩の女性も加わって、華やいだ雰囲気でした。人付き合いが下手で苦手な私だから、一人寂しく去りたかったけれど、こうして声を掛けてくれる人がいます。素直に感謝しなければなりません。ありがたいことです。私ごとき人間の退職でも、それを祝ってくれる友人、後輩、同僚を持って、私は幸せだったと思います。後輩にとっては、頼れる良き指導者ではなかったことが悔やまれます。今日は人前で初めて涙を流しました。一生、この日のことは忘れることはないでしょう。K.K.さん、S.T.さん、H.S.さん、T.S.嬢、Y.S.嬢、Y.M.嬢、T.S.嬢、どうもありがとうございました。
2003年3月19日(水) 蛙の解剖 |
高校の理科の授業で蛙を解剖することになり、担当教員が各人蛙を一匹捕まえて持ってくるように言いました。当時はまだ田んぼや畑があって、自然の中に蛙は沢山いました。私の家の裏からも、鳴き声がやかましいほどに聞こえて来るという時代でした。けれど、いざ捕まえるとなると、容易な技ではありません。弟もまきこんで四苦八苦。夜暗くなって、懐中電灯を照らしながら、ようやく一匹を捕まえました。それは授業のある日の前日でした。一安心して持参したのだけれど、みんなが持ってきた蛙はみな、私の倍はあるであろうりっぱに太った蛙でした。よく聞いてみると、デパートで買ってきたといいます。自然の中で生きている蛙を捕ってこなければならないとばかり思っていた私にとっては、思いもつかないことでした。金さえ出せば、苦労せずとも、立派に太った蛙を買うことができたのです。当時は自分で自由に使える金がなかったせいもあるけれど、金で買うという知恵が浮かびもしなかった自分の愚鈍さを呪いました。自分が捕まえた、みんなとは比較にならないほどの小さな蛙を見ながら、恥ずかしい、惨めな気持ちを味わいました。要領よく、機転をきかさないと、出世できない世の中。こんな愚鈍な私だけれど、私は世の中、正直にぎこちなく生きている人間が好きです。
2003年3月16日(日) こころの健康 |
「ひきこもりかな?」と思ったら〜ご家族・ご本人のためのパンフレット〜「厚生労働省ホームページ」へのリンク
2003年3月15日(土) 送別の会 |
馴染みの同僚、先輩、後輩らが集まって送別の会を開いてくれました。総勢私を含めて五人で、少し寂しいけれど、心置きなく話せる友人は財産です。楽しいひと時を過ごすことができました。最後は「長い間、おつかれさまでした」という言葉とともに、立派な花束をいただきました。大した仕事もできなかったけれど、勤務年数三十年。「おつかれさま」というねぎらいの言葉が大変うれしく、ありがたく、心を打たれました。いただいた花束。折角の好意を無にするわけにはいきません。さりとて、我家には花瓶といった気のきいたものはありません。とりあえずは水を張ったポリバケツに突っ込んでいますが、まだ蕾のままのものもあります。この蕾が花開き、葉が枯れ落ちるのを見届けるまでは、決して捨てずにこのまま置いておこうと思います。
2003年3月13日(木) 自分史(16)我家の記録(2) |
父は勲七等瑞宝章を受けました。お役所で長年勤めていれば誰でももらえるものだという親戚もいましたが、父は素直に喜んでいました。普段は気恥ずかしい気持ちからか、喜びを外に表すということがなかった父ですが、勲章を背広のポケットに装着した写真が、今部屋にかかっています。父の葬儀の時に使った写真です。父の正義に対する頑固さは人並みではありませんでした。私は小さい頃から父を尊敬していました。父の信条や生活態度は、今の時代では軽蔑されこそすれ、尊敬されることはないでしょうが、父の影響を受けて今の自分があります。父が書き残した「我家の記録」は、原稿用紙で200〜300枚。「右手指不自由、横臥の日続く。恐らく今後の諸記録望みなし」で空しくも途切れていることが悲しいです。
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日本国天皇は□□□□を
勲七等に叙し瑞宝章を授与する
昭和五十四年十一月三日皇居において
璽をおさせる
大日本
國 璽
昭和五十四年十一月三日
内閣総理大臣 大平正芳
総理府賞勲局長 亀谷禮次
第□□□□□□□号
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勲記は菊の紋のすかし入り。菊の紋の入った生菓子3個(箱入り)。菊の紋の入った煙草50本(缶入り)。勲章は金、銀。地模様が竹色、朱色の線2本。ボタンは薄竹色に朱色の線。
2003年3月12日(水) 父の遺稿ほか |
あの阪神・淡路大震災で実家は取り壊すことになり、金で買えるものは、惜しげもなく捨てました。なかには、金では買えない骨とう品的価値あるものも捨てました。振り子の付いた柱時計、足ふみミシン、真空管式ラジオ、行水用の大きなたらい・・・。それでも捨てずに残していたものがあります。父の何年にもわたる手帳と遺稿、手紙の類です。そろそろそれを紐解く時が来たようです。
2003年3月11日(火) 退職の辞 |
このたび、□□の選択定年制で、退職させていただくことになりました、□□□□と申します。今、こうして健康な状態で退職の日を迎えることができましたことは、皆様方のお陰だと感謝しております。
私は□□□□年に、□□□□に採用していただき、30年間。色々なことがございました。仕事の上では、一人で悩むこともありましたが、その都度、周囲の皆様方の直接、あるいは間接のあたたかいご助言、ご教示をいただきまして、何とか無事、今日という日を迎えることができました。時には厳しいお言葉をいただいた時もありましたが、今ここで振り返ってみました時、それらのことはすべて、未熟な自分の成長のための糧になっていたと思っています。
退職するにはまだ早い、生意気だ、というお声が聞こえてきそうになるのですが、自分の仕事に対する能力と、自分自身の健康のためも考えまして、勤務年数30年。私なりの一つの区切りとして、このたび退職させていただきます。私ごとき人間が退職しても、何らご迷惑をおかけするようなことはないとは思いますが、結果として業務半ばで退職することとなり、特に□□□の皆様方には、ご迷惑をおかけするところがあるかもしれませんが、どうかお許しください。
最後に、月並みな言葉で申し訳ございませんが、皆様方、健康には十分留意され、ご精進していただきたいと思います。健康が第一です。健康第一。月並みで、よく言われる言葉には真理があります。私も、今一番の心配事は何かといえば、やはり自分の健康のことです。健康といった場合、肉体の健康と、心の健康とがあります。仕事も大変複雑になってきました。自己研鑽も必要ですが、分からないことがあれば、互いに気楽に、教えたり、教えられたりする良好な人間関係を大切にされ、肉体的な健康は勿論のこと、それ以上に、心の健康にも十分留意され、ご精進していただきたいと思います。
私は、これからは、義務としての仕事からは解放され、楽しい気分がある一方で、これからは、皆様方と一緒に仕事をできないという悲しい気分、寂しい気分と、将来に対する不安とが交錯しています。
今月末で皆様方とお別れすることになりますが、またどこかで、私を見かけられました時は、気軽にお声をお掛けていただければ、大変うれしく思います。
どうも皆様方、長い間お世話になり、ありがとうございました。
2003年3月3日(月) 女性専用車両 |
快適な車内、主として痴漢防止のために女性専用車両なるものがお目見えしました。女性には好評だと言います。ところで、車内で食事をしたり化粧をする女性、車内での携帯電話の使用や、周囲の迷惑も考えずに大きな声で会話をしている乗客に不快を感じている私には「食事専用車両」「化粧専用車両」「携帯電話その他談話専用車両」といったものを走らせていただきたいと思います。
2003年3月2日(日) 人生は遠き道程 |
精神的には暗い半生を送ってきました。今、出来れば過去を振り返りたくはありません。
禍福はあざなえる縄のごとし。喜びの後には悲しみが、苦しみの後には楽しみが、必ずやってきます。今はそれを信じて、過去を捨て、もっと先へ進もうと思います。
昨日、暗闇の中にも、その先に小さな明かりが見えました。今日、一歩、歩みを進めたとき、その小さな明かりが僅かに大きくなって見えました。その小さな明かりが何かは分かりません。分からないから、分かるまで、明日、もう一歩、歩みを進めてみようと思います。
人生は遠き道程を歩むがごとし。遠き道程は「とおきみちのり」と読みます。私のペンネームです。
2003年3月1日(土) 自分史(15)我家の記録(1) |
今は亡き父が「我家の記録」と題して書き残したものの中から、その序言を記しておきたいと思います。
序言
小学生の頃に学んだ歴史によると、日本国の紀元に神代という時代があった。現在も置物や神話に現れてくる七福神(戎、大黒、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋和尚)などもその神々であったといわれている。さらにこれら神々の末孫の一人が、九州高千穂の峰に降臨された。これが日本国初代の神武天皇であり、その即位が日本国の紀元であるといわれ、今上天皇で百二十三代になると称されている。果たして二千六百数十年前にこうした事実があったのか、学識ある人ならずとも実に疑わしいことである。
しかし大東亜戦争に因り敗者となるまでは国民挙って毎年二月十一日を紀元の佳節と信じ、当日は全国津々浦々まで祝福の日の丸の旗がひるがえり、神風の吹く日本であると信じてきたのである。大東亜戦争下、国土の全域に敵機の襲来をうけ、神域伊勢神宮の一角さえ焼失するに及び、広島、長崎には実に非人道的な原子爆弾により一瞬にして二十数万の同胞が消え失す等、こと此処に至り神風も神国も人々の心から離散するようになった。
昭和二十年八月十四日、遂に終戦となり神国日本も敗者の烙印が押された。以来神代の説も架空のものとされ、二月十一日の紀元節も国民の祝祭日から消されてしまった。戦後の復興により亜細亜の先進国になると共に、紀元節の復古論或は反対論が台頭した結果、昭和四十二年、二月十一日を建国の日と改め現在に至っている。
国に紀元や建国の日がある如く、私の家にも何千年もの以前からの命脈がある筈である。だが今それを探究することは不可能なことである。私が子供の頃から抱き続けた夢は空しいけれども、たとえ一端でも掴みたいと資料を集めてみたが、祖父の一代記さえ書くことができない。せめてもの私の古に記憶をたどり、その他若干の資料を基に最大限の記録を書き残したいと考えている。しかし私自身の貴重な記録も大東亜戦争下に整理焼却して手許に残っていないのが残念である。後年子供がまた孫が私と同様に祖先の事を求めるとき、僅か数代のこの記録がせめてもの参考と慰めになればと思っている。
昭和四十三年改訂 記 [署名]