(第36回コスモス文学新人賞)
[短編小説部門]


いつか咲くのように

1〜4 非公開

「お父さんやお母さんは、圭子が小学生になる少し前、雪国なんてもうこりごりと言って、この大都会大阪に引っ越してきた。でも圭子は雪国が好き。
 春になると一面のお花畑。蝶が舞い、小鳥がさえずり、近くの農家からは牛の鳴き声が聞こえてきた。夏になると、裏庭を流れる小川で水遊びをした。水はあくまでも清く、水面が熱い太陽の光を浴びて、ギラギラ輝いていた。秋になるとちょっぴり寂しい気分になったけど、圭子は雪国が好き」
 車の騒音の中、人々が黙々と通り過ぎていく。信号を待つ人々の群れ。青を待つその瞬間にも彼らの足音が間断なく圭子の耳を打つ。信号は赤。圭子はつかれたように歩き出した。車のブレーキの音。
「このど阿呆! どこ見て歩いとるんじゃ」
 オーバーの襟を立て、背を丸めて家路に急ぐ人。彼には温かい家庭が待っている。ふと、床に伏した母のことを思う。
 酒に酔いしれ横たわる人。暗闇の中で飛び交う夜の蝶。果てしなく広がるネオンの光。涙が滲んで、圭子の目のレンズを通して見たとき、ピントのずれた写真のように、ぽーっとかすれて揺れていた。
 ホームは、人々の熱気で満ちていた。リュックを背にしたスキー帰りの娘。圭子と同じ歳ぐらい。大きな荷物を傍らに、歓談する若者たち。学校は冬休み。子供連れで里帰りの良きパパ・ママたち。疲れたようすの中年男性。企業戦士か、一人寂しく煙草をくゆらせ、じっと夜空を見上げて息を吹く。
 ホームを行き交う人々の群れ。その一人一人の体には、厳しい人生の一コマ一コマが刻まれているのだろう。でも、圭子の目には、すべてのものがうらやましく映るだけだった。
 人々は去った。悪寒が圭子を襲う。ペンチに腰を下ろすと、寒風がホームを洗うように吹きすさんだ。見上げると、冷え冷えとした星空が広がっていた。
 やがて遠い暗闇の中から、二つの小さな光が現われて、それは段々大きくなって圭子に近づいた。いつの間にか、ホームは列車に乗り込もうとする客で喧噪となった。
 圭子は群集の流れに身を任せ、気がつくと車中にいた。けたたましく発車のベルが鳴る。圭子はドアのそばに体を寄せてたたずんだ。扉は圭子の顔のすぐ前で、ピシャッという音を立てて閉じた。ピシャッという音が圭子には聞き取れた。だれの耳にも聞こえなくても、圭子の耳には聞こえた。
 ドアのガラスが圭子の顔を映した。圭子の色白の顔を鮮明に映した。ガラス越しに目を落とすと、枕木が白い線を引くように走っていた。
 時が流れ、圭子はホームに降り立った。北陸本線福井駅。底冷えのする寒さだ。降りる客は少なかった。振り返ると、暗闇の中で駅舎が白く輝いていた。

 圭子はバスを待った。時の流れなど、気にもとめずに。
 バスが来た。暖かい車内。圭子はコートを脱いだ。
 バスが走る。
 越前海岸は今ごろ、日本海の黒い荒波に洗われているだろう。

「お母さん! 許してください。圭子は生きる自信をなくしてしまいました。この世で生きていることが不浄なことのように思えるのです。死こそ美しい。そんな気がするのです。人生は生きぬいてこそ美しい。人生を生きぬかずして、その死に美しさはない、とおっしゃるかもしれません。でも、生きる目的って何。ねえ、お母さん教えて。
 いつかお母さんは、親より先に死ぬ子は親不孝者だとおっしゃいましたね。圭子は親不孝者です。この世に生をうけたことを、恨むわけでもありません。でも、圭子はどうしても妥協できないのです。
 寒風にさらされて、手先がちぎれるように痛みます。雪は吹雪になりました。でも圭子の胸は、お母さんの編んでくれたセーターに包まれて、ホカホカしています。吐く息は白く、蒸気機関車のようです。
 蒸気機関車と言えば思い出します。毎年、夏休みになると、お父さんと一緒にお墓参りをしましたね。駅のホーム。小さな体で、お父さんは私たちのために席を取ろうと、群集の中に消えていった。あの後ろ姿が忘れられません。生意気と言われるかもしれませんが、あのお父さんの後ろ姿に、親の子を思う気持ちを垣間見ました。でも、他人を押しのけてまで、我が子のために席を取ろうだなんて、いけないことじゃないの。そんな矛盾を胸に抱きながらも、お父さんの温かい気持ちが伝わってきました。圭子は素直な良い娘ではなかったのね。
 お父さん、お父さんは今どこにいるの。お母さんはずっと前から床に伏してるの。帰って来て、お父さん。圭子のためでなく、お母さんのために。お母さんと一緒のときは、お父さんのことは話題にしなかったけど、こうして一人でいると、いつもお父さんのことが思い浮かんでくるの。
 機関車が吐き出すススにまみれて、五時間も六時間もかかってやっとたどり着いた故郷。蝉時雨の中。あの緑に満ちた山のふもとまでの長いみちのり。車などなかった。舗装もされず、赤土の砂ぼこりの舞う田舎道を、親子三人で手をつないで歩いた。空にはさんさんと太陽が輝き、お母さんは、汗でグッショリ濡れたハンカチで、圭子の顔を拭ってくれた。そんな温かいお父さん、お母さんだったから、今の圭子には、尚更大きな負担となっています。そんなお父さんやお母さんの心を容赦なく踏みにじろうとしているんですもの。
 吹雪はますます激しくなって、道を見失いそうです。圭子の靴は泥にまみれて、冷たい水が滲みてきました。でも、そんなことどうでもいいんです」
(あなたは蕾ね。若くて、美しくて、可愛くて、うらやましいわ。でもね、いつまでも蕾のままではいけないわ。早く花を咲かせて、大人にならなくっちゃ)
 多美子の声が海鳴りに混じって、耳の奥底から聞こえてくる。
(大人にならなくっちゃ)
多美子の声が離れない。
「大人になれってどういうことなの。世の中の矛盾や不正に目をつぶれっていうことなの。圭子にはできない」
(現実は厳しいわ。圭子は理想を追い過ぎるのよ)
「そう、圭子は理想を追い過ぎる。でも、理想が現実によって歪められていくとしたらおかしいわ。現実を振り返り、少しでも理想に近づけていくこと。それが正しい道ではないの。圭子はそう思う。圭子はこの世では決して大人になりたくない。こんな圭子をあなたはきっと嘲笑うでしょう」
 この世では咲かない蕾に終わった圭子。世間知らずの娘と言われても、圭子は蕾のままでいたかった。
「いつか別世界で、大きな花を咲かせて、お母さんを迎えにきます。きっと迎えに戻ってきます。それまで待っていてくださいね。きっとよ。お母さん、許して。圭子は荒れ狂う日本海に浮かぶ小さな蕾となります。さよなら、お母さーん! 」