ぼくにだってできるよ

 まもるくんのお父さんは近くの区役所に勤めています。近くといっても歩くと三十分もかかります。まもるくんのお家のすぐ前には大きな道路があってバスが走っているので、お父さんは毎日このバスに乗って通っています。
 ある朝、お母さんが、
「まあ大変!」
 と大騒ぎしています。
 お母さんが朝、「まあ大変!」と言えば、まもるくんには何が大変なのかは分かっています。せっかくお母さんが、お父さんのために心をこめて作ったお昼のお弁当を、お父さんが持って出るのを忘れたのです。「まあ大変!」と言うのはお母さんの口ぐせだから、まもるくんは少しも驚きません。でも今日のお母さんは本当に困ったという顔をして、
「お母さん、今から出かけなければならない用事があるのよ」
 とつぶやきながら、狭いキッチンの中を行きつ戻りつしています。そんなお母さんの姿をしばらくじっと見ていたまもるくんは、ついに勇気を出して言いました。
「ぼくが届けてあげるよ!」
 お母さんの顔は急にうれしい顔に変わりました。
「それじゃー、まもるくん届けてくれる?」
 そう言うと、お母さんの顔が今度は心配そうな顔に変わりました。本当はまもるくんだって、不安で不安で仕方がなかったのです。
 お母さんは「バスに乗って行きなさい」って言ってくれたけど、まもるくんは歩いたり走ったりすることが好きな元気な子だから、バスに乗らずに歩いて届けることにしました。
 区役所までの道は、お家のすぐ前の道路を真っ直ぐに進めばいいだけで、道に迷うことはありません。
 途中、区役所までの道のりの半分まで来たところで、杖をついたおじいさんに出会いました。
「区役所はどこでしょう」
 と聞かれました。
「区役所はね、もうすぐそこだよ」
 まもるくんは指さしながら、元気に答えました。
「ぼくのお父さんが勤めているんだ!」
 と自慢げです。
「今からお弁当を届けに行くところなんだ。ぼくについておいでよ」
 おじいさんはまもるくんの後ろについて歩き出しました。
 けれど、すぐに立ち止まって、遠くに目をやると、
「バスで行くよ」
 と言いました。まもるくんにとっては何でもない距離だったけれど、この足の不自由なおじいさんにとっては途方もない距離だったのです。
 まもるくんのおばあさんは、まもるくんの足で歩けば十分の距離の駅前まで、毎日買物に出掛けていました。まもるくんは、それを何でもないことだと思っていましたが、まもるくんのおばあさんは駅前までたどり着くのに三十分はかかるといっていました。途中で腰や足が痛くなって、休み休み進むからです。歩いて十分の距離は、足の不自由なおじいさんやおばあさんにとっては三十分以上もの距離を歩くのと同じなのです。
 運良く近くにバスの停留所があって、バスがやってきました。おじいさんはおぼつかない足取りで乗ると、まもるくんから見える窓際の席に座りました。おじいさんは、手を振って「さよなら」をしました。まもるくんも手を振って、
「さよなら」
 と言いました。
 バスはまもるくんをおいて、走り出しました。
 区役所に着くと、待合室の席で、あのおじいさんが、うたた寝をしながら順番が来るのを待っていました。 まもるくんはお父さんのいる二階まで、階段を一段飛びに駆け上がりました。お父さんは受付の仕事をしていて、忙しく、恥ずかしそうな顔をして、
「ありがとう」
 と言っただけでした。
 帰りも階段を一段飛びに駆け下りて、おじいさんのいた待合室をのぞきました。おじいさんはまだ気持ちよさそうにうたた寝をしていましたので、声を掛けずに帰りました。
 帰り道、道路から少し外れたところに公園がありました。まもるくんはしばらくそこでブランコに乗ったり、滑り台を滑ったりして遊んでいました。帰りが遅くなるとお母さんが心配するといけないので、急いでもとの大きな道路に戻ると、丁度バスが通り過ぎるところでした。あのおじいさんが乗っていました。おじいさんも気がついて手を振りました。まもるくんは手を振りながら、バスに追いつこうと走り出しました。まもるくんはこのおじいさんにお話したいことがあったのです。
 このおじいさんは、区役所の用事も一人で出かけていくのだから、きっとみんなに迷惑をかけたくないからといって、がんばって、一人で寂しく暮らしているに違いありません。
「区役所へ行く用事なら、ぼくだっていつだってできるよ。ほら、今日だってこうしてお父さんに忘れ物のお弁当を届けることができたんだから」
 まもるくんはそうおじいさんに言いたかったのです。けれど、いくらまもるくんが、走ることが好きで、得意だといってもバスにはかないません。バスはどんどん遠ざかって、小さく小さくなっていきました。バスの走っていく方向の先の先には、太陽がまぶしく輝いていました。