競走なんて大嫌い

競走なんて大嫌い!

「よーい!」
 朝田先生が、ピストルを大空に向かって差し上げた。僕は、左手を後ろに引き、右手をぐっと前に突き出した。
「パーン!」
 ピストルの音が、青空を突き抜けた。みんなは一斉に駆け出した。第一コーナーを曲がり、第二コーナーまでは、みんなは追いつ追われつだった。第三コーナーを曲がる頃、僕は走れなくなった。みんなは僕をどんどん追い抜いていった。僕は、みんなから取り残された。その時、大歓声の中から、
「がんばれ! がんばれ!」
 お母さんの声が、はっきりと僕の耳に届いた。僕は勇気を取り戻し、再び駆け出した。どんじりでゴールを突っ切ると、目の前で、青空と大地が引っ繰り返った。
 一着は健太君だった。中身は何か知らないけれど、大きな包み。一等の賞品だ。二着は将司君。賞品は健太君ほど大きくなかったけれど、将司君はにこにこしながら受け取った。三着の純平君は、ノートを三冊いただいた。みんな嬉しそうだった。どんじりの僕に賞品はなかった。僕は悔しかった。惨めだった。一年に一度の運動会。お父さんやお母さんは、きっと僕の活躍するのを楽しみにしていたことと思う。お父さんやお母さんの気持ちを思うと、僕は悲しくなった。
 運動会が終わって家に帰ると、お父さんは新聞を見ていた。お姉さんはテレビを見ていた。お母さんは夕飯の支度に忙しかった。みんなは、わざと僕と顔を合わすのを避けていた。食卓を囲んでの夜のお食事。いつもは賑やかなお食事だけど、みんなは僕の気持ちを思って、静かだった。新聞を見ながら食事をしていたお父さんが、急に大きな声を出して言った。
「台風五号発生か。今度は、すごいらしいぞ!」
 みんなは、今日のことを話題にしなかった。お父さんやお母さんは、顔には出さないけれど、きっと心の中では悲しんでいる。僕だって、いつかはお父さんやお母さんに、安心してもらえるような丈夫な体になってみせる。僕は口を大きく開け、御飯を押し込むと、
「おかわり!」と言った。

 僕は進級し、恒例の運動会の日がやってきた。僕は一年前の悔しい思いを忘れていなかった。今度こそ一着になって、お父さんやお母さんに喜んでもらおう。僕は必死に走った。それでもみんなは容赦なく僕を追い抜いていった。後ろを振り向くと、卓也君がいた。僕はまだ、どんじりではなかった。僕はどんじりになるのだけは嫌だった。卓也君は真っ赤な顔をして僕に追いつこうと迫ってきた。卓也君も必死だ。卓也君だって、どんじりになりたくはない。卓也君は第三コーナーを曲がったところで、僕に追いつき、追い越した。僕は、ついにどんじりになった。けれど、ゴールまで後わずかのところになって、卓也君のスピードが、みるみる落ちてきた。僕はしめたと思った。その時の僕には、ゴールまでに卓也君を追い抜くだけの力が残っていたのだ。けれど僕は卓也君を追い抜くことが出来なかった。追い抜くわけにはいかなかった。みんなは知らないけれど、僕だけは知っていた。卓也君は生まれつき足が悪いんだ。そんな卓也君が、どんじりにはなりたくないと、歯をくいしばって頑張っているんだ。僕がここで追い抜いて、卓也君がどんじりになったら、卓也君はどんな思いをするだろう。卓也君にだってお父さんやお母さんがいる。卓也君のお父さんやお母さんは、とても悲しい思いをするだろう。僕はどんじりになりたくなかったけれど、誰かが嬉しい思いをすれば、誰かが同じだけ悲しい思いをする。僕はどんじりでゴールした。僕は悔しくなかった。悲しくなんてなかった。僕のお父さんやお母さんは悲しむだろうけれど、僕はこれでいいと思った。僕は賞品なんていらない。僕は競走なんて大嫌いだ!