▼戻 る▼

2006年 7月21日(金) 靖国神社参拝問題

 昨日のニュースによると、「昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示し、靖国神社参拝を中止したとする当時の宮内庁長官のメモ」が見つかったそうだ。大方の意見では、このことは分祀の運動や首相の靖国神社参拝問題に大きな影響を与えるだろうというが、私はそうあってはならないと思う。当時の宮内庁長官のメモから、当時の天皇の意見が明確に知れたからといって、現憲法下においては、天皇は日本国の象徴であり、何らの政治的権限を有していないのであるから、その意見に左右されることはない。あくまでも我々国民が判断すべきことである。主権は我々国民にあるのであるから。

2006年 7月20日(木) 区図書館へ

 本日借りた本
『エッセイを書くたしなみ』木村治美
『童話作家はいかが』斉藤洋
『電磁波の正体と恐怖』小山寿
『写真報告 素顔の北朝鮮』高沢皓司
『マンガ金正日A北朝鮮将軍様の悪夢』李友情
『お笑い創価学会 信じる者は救われない』佐高信・テリー伊藤
『介護サービスの基礎知識』三浦文夫・竹内孝仁

2006年 7月13日(木) 区図書館へ

 本日借りた本
『人権相談ワークショップ』白井俊一
『人権学習を創る―偏見と差別の社会心理学』中川喜代子
『人権相談テキストブック』北口末広・村井茂 編

2006年 7月10日(月) 葬儀について

 最近は、簡略にすまそうとする「家族葬」や、宗教にこだわらない形の「音楽葬」など、自由な発想の葬式が増えている。お葬式そのものをしなくてよいと考える人も現れた。
 私も葬儀はいわゆる「家族葬」で、近い親戚だけですまそうと考えている。「香典返し」も面倒だから香典も辞退しようか。

 以下は「香典辞退」についてインターネットで調べた記事から抜粋したもの。
「香典辞退が/流行の兆しがありますが、「香典をもらわなくても葬儀は出せる」という見栄のようなものを感じます。/香典は、実際的には相互扶助の意味はあったにせよ、本来は弔意の表明です。遺族は弔問者の気持ちを汲んで、まずはありがたくいただく、というのが本来的であると考えます。「香典返しが面倒だから」といった理由での香典辞退は、香典のもつ意味を誤解したものだと考えます。香典を辞退されると弔意を拒絶されたように思い、とまどう弔問者も少なくないのです。香典、供花は贈る側の意思、弔意の表明ですから受け取る側の事情によるものではないのです。したがって受け取るのが原則となっています。 近年、お葬式を質素に簡素にということが流行しています。それは本人や遺族の意思の問題です。しかし長くお付き合いした友人・知人の弔意も考えて、その気持ちを踏みにじることにならないよう配慮すべきではなかろうか、というのが私の考えです。」

「故人の遺志などにより、香典の受け取りを辞退されることがあります。その場合、無理にお香典をわたしてはかえって失礼にあたることがあります。香典にかわるものとしては、供花や供物がありますのでそれらの品物をお渡しするのも方法です。」

「『香典、供物の儀、固くお断りいたします。』と知らされていたら、それに従い、何も 持たずにお通夜や葬儀 に参列するのがマナーです。」

2006年 7月 9日(日) 区図書館へ

 本日借りた本
『マンガ金正日入門―北朝鮮将軍様の真実』李有情
『宇宙ロケットの本』的川泰宣
『みんなの裁判』小林剛

2006年 7月 5日(水) ありがた迷惑

 おばがなくなった。高齢の方で「大往生」だ。とは言っても死は悲しい。葬儀に出席するため、車で総勢5人が、越前大野に向かった。越前大野は私の母の郷里でもある。3日の朝4時過ぎに出発。北陸自動車道を通り、葬儀開始時刻である10時の1時間前に着いた。葬儀、告別式が終わり、斎場まで同行した。相手の都合も考え、骨あげを待たず、昼の食事前に退去する予定であった。迷惑になってはいけない気持ちから、その旨を伝えたのだが、「もう食事の準備ができています。遠慮なさらずに、食事をすませてから帰ってください」「いえいえ、こんなに大勢で押し掛けて、かえってご迷惑をおかけすることになってはいけませんので」と、この場でのなかば慣習になっているようなやりとりがあって、結局、食事をいただいてから退去することになった。
 食事の準備の都合から、出席者の人数がどれほどになるかは、喪主としては悩ましいことである。結婚式の場合は、あらかじめ明確であるが、葬儀の場合、その出席者の人数を把握するのは容易でない。死亡通知をする際に、出席いただける人数を聞けばいいのだが、聞き難いことである。こちらとしては、食事の準備のためにのみ知りたいだけであっても、言い方によっては、出席を強要しているかのようにとられかねない。何かと気を遣うことの一つである。それで、大目に準備しておくのがおおかたのやりかただろうが、慣習というものには不合理なものが多く、どうにかならないものだろうか。
 喪主としては、出席していただける人が多いのはうれしいことだと思う。ただ、親戚といっても、日頃の関係が疎遠で、遠方でもあり、来てくれるとしても、代表して一人だけだろうと思っていたところ、5人も来たとなっては、本心では「ありがた迷惑」と思っているかもしれない。
 告別式が終わったあとでも、告別式に参列できなかったので、お線香の一本でもあげさせてくださいと訪ねてこられる人がいる。厚意を受ける側は、いつでもありがたいことだと思っているわけではない。本心は迷惑に感じていることだってありうる。
「ありがた迷惑」という言葉は、言い得て妙である。恩着せがましい親切はよくない。「ほっておいてくれ!」といいたくなる。本当に困っているときの親切は身にしみるが、あとで「あんなに親切にしてあげたのに」と言われるのは「ありがた迷惑」というものである。

2006年 7月 3日(月)〜 4日(火) 越前大野から越前丸岡へ

越前大野城

名水百選 御清水

越前丸岡城(霞ヶ城)
「現存する天守閣の中で最も古い建築で、屋根が全部石瓦(いしがわら)で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。」←霞ヶ城公園管理事務所のパンフレットより抜粋

「一筆啓上」書簡碑
「徳川家康譜代第一の功臣、本多作左衛門重次が陣中から妻にあて「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と書き送った話は有名である。」←同上パンフレットより抜粋
福井県丸岡町は「日本一短い手紙」で一躍、全国的に有名になりました。

歴史民俗資料館(丸岡城の手前にある)

さくら名所100選の地 霞ヶ城公園(同上)

東尋坊
国の天然記念物に指定されている北陸屈指の景勝地。柱状節理の巨大な岩柱が約1kmにわたって続き、深淵や奇岩などが壮大な景観を展開しています。

写真(7月3日〜4日)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 次からは、本ホームページに掲載されている記録から抜粋して再度掲載したものです。(私の親族の方は是非お読みください!)

@私の祖父(父方)がいただいた功労杯
 漆塗りの杯・・・桐の箱には「□□宇三吉君爲十二ケ年間勤續功勞大正四年七月贈之 功勞杯 丸岡町消防組」とある。福井県丸岡町の消防団員として60歳に近い頃まで、25年という永い間、無報酬の消防手を務めた。霞ケ城(丸岡城)天守閣下にある記念塔の裏面に名が刻まれている。私は小学生の頃、全国火災予防運動に出品した作文が特選に選ばれたことがある。この祖父のことを題材にしたものである。
写真

A 私の父母は福井県の出身である。「日本一短い○○への手紙」で有名になった丸岡町には、先祖代々の墓があり、小学生のころは毎年、家族そろって墓参した。
 福井では、越前岬一帯に咲く「越前水仙」を全国の人に知ってもらうために、越前水仙の開花時期にあわせて「水仙まつり」が催される。県内から3人の「水仙娘」が選ばれるのだが、この「水仙娘」に親戚の子供が選ばれた。その時のことを父が俳句に詠んでいる。

  水仙のミスに選ばれ従妹の孫

 「平成元年2月10日朝日新聞でみる。」という注意書きがある。 私には俳句の良し悪しは分からないが、父の詠んだ俳句が約700首残っている。私もこれからゆっくりと挑んでみようかと思っている。←2003年4月15日(火)の「水仙娘」と題する日記より。

B我家の家系図(抄)←2003年4月19日(土)の「我家の家系図(抄)」と題する日記より。

□□半兵衛 福井県丸岡町にて桶屋を営む。文献なく、本人、妻の生死年月日不詳。
 ↓
□□秋太(私の祖々父) 半兵衛の次男。嘉永6年8月26日分家後、桶屋を開業。文政10年8月1日〜明治36年11月4日(享年77歳)。人情厚く子供好きな人柄であったが、一面邪道に対しては徹底的に戦うという信念の持主でもあった。妻:イキ 色白の背の高い綺麗な人だった。
 ↓
□□宇三吉(私の祖父) 秋太の三男。慶應3年1月9日〜昭和18年1月7日(享年77歳)。5尺を僅かに5分越える短躯であったが、肉づきのよい、如何にも健康そうであり、事実これという病気をしたこともなかった。無口で何事にも几帳面であり、器用でもあった。一見して温和な様ではあったが、内心は常にある厳しさを秘めていた。好物は酒、嫌いなものは川魚類。17歳の頃、北海道で放牧と開拓をしていた二人の兄を頼って単身北海道に渡り、30歳を越す歳頃まで滞在し、その10数年の間、何を志し、また何をしていたのかは知らないが、兎に角相当な極道者であったらしい。小樽、札幌、釧路方面にも何年か住んでいたようで、多分叔父達の放牧に関しての出張のような仕事であったように想像している。30歳を過ぎてから実家に戻って来た。32歳で結婚。結婚後は伝来の家業である桶屋の手伝い傍ら若干の農作をして暇な季節には、現金収入の途を求めて、土地の開拓、酒、醤油製造屋の仕込人として働いていたらしく、その頃の家計は決して楽な方ではなかったと想像される。その頃、町の消防団員になったらしい。60歳に近い頃まで、25年という永い間、無報酬の消防手を務めたのである。霞ケ城(丸岡城)天守閣下にある記念塔の裏面に名が刻まれているのは□□家のこよなき記念として永代語り伝えられることであろう。妻:とり 士族甲斐泰助の三女。背、鼻ともに高く、立派な風格の人であった。甲斐家は足軽で、泰助は霞ケ城(丸岡城)に入る東門の門番役を務めた。
 ↓
□□□□(私の父) 宇三吉の三男。明治41年2月15日〜平成7年5月28日(享年87歳)。妻:□□□
 ↓
□□□□(私)

C仮題『望郷』第1編 母(とり) 第1章   あの阪神・淡路大震災で実家を建て替えることになった時、多くの古いものを捨てた。けれど、どうしても捨てることができずに残してきたものがある。父の遺稿である。他人にとっては何の価値もないかもしれないが、父が私たち子供のために残してくれたものだ。無下に扱うわけにはいかない。そこで、少しずつでも紐解きながら、この日記帳に仮題『望郷』として書き留めていきたいと思う。仮題『望郷』は父の遺稿より私が適宜加筆・修正しながら抜粋したものである。誤字・脱字その他不備な点が多々あると思われるが、今は「下書き」と理解していただきたい。


仮題『望郷』第1編 母(とり) 第1章
 私の母の実家は現在どうなっているかということから書いていきたいと思う。□□家の西へ、ほんの道路一つ隔てた通称鉄砲町への入口の角に、他よりも少々高台になっている屋敷と小さいが頑丈な表戸がある。瓦葺でこじんまりとした家があった。霞ケ城主、有馬藩の足軽として城の東大門を守る大役を負っていた。甲斐泰助の屋敷跡としては、一抹の寂しさが残っていた。町の人達は甲斐と呼ぶ人はほとんどなく、御門の○○さん、と話し掛けるのが通例であった。私が母に連れられて歩いている時、「御門のお孫さんですか」と愛想を言われたことがあったのを覚えている。
 甲斐泰助とその妻たみには一男三女があり、母はその三女として明治10年10月18日に生まれた。若くして兄や両親とも死別したらしく、今唯一の戸籍書類を見ると、福井県坂井郡丸岡町霞区二十一号七十三番地、甲斐いな、妹、との記載があり、どこかに苦悶の青春時代が推察される。私が叔母(いな)の家で遊んだりしていたのは小学校に入る頃で、奥の鴨居の上に長槍が二、三本掛けてあったり、定紋入りの四角い箱が吊るしてあったりした。子供心に、母と叔母の仲が常に険悪なので、年の経つにつれ行かないようになり、遂には言葉さえ交わさない状態にまでなっていた。
 惣七という叔父は石川県山中町の出身らしく、私の目に映じたところでは、常に黙々として叔母に追い立てられるように仕事一途に生きる真面目な人のように思われた。大雨の降った後、雑魚取りに出かけ、取れた魚を素焼きにして串に刺し、乾かしていることがあった。子供たちが蝮を見かけて知らせると、何の雑作もなく蛇の頭を押さえつけ即座に皮を剥いで、キモとかいうものを食べてしまうという野性味もある人だった。
 惣七叔父は田畑作り、叔母も野良仕事の暇に、雇われ婆さんのように、室町の山本饅頭店や、その他店の忙しい頃に雇われて現金収入の途を開いていたらしい。家も屋敷も自分のものであり、夫婦が食べて余る位の資産があったはずであるが、叔母は惣七叔父の死後も相変わらずまめまめしく働いていた。
 昭和23年の北陸烈震の時には家も全壊した。私が実家の後片付けに帰り、倒壊した屋根の上から、めずらしく、又ほほえましい情景を見ることができた。私が急造したバラックの中で、いな叔母と母が仲良く塩入のぼた餅を握ってくれていたのである。遠来の息子のため、甥のために。炎天とほこりで痛めた目ではあったが、間違いはなかった。こうした大事の時はやはり肉親の情というものが、たとえ一時的なものにしろ自然に生まれ出るものであることを知りうれしかった。そして今度こそ、永遠に離れることのないよう、願ったのである。
 叔母が着るものがないので一枚欲しいと言っている。「これを一枚やろうと思うがお前はどう思うか」と母の質問を受けたが、無論依存がない旨を答えた。母もうれしそうに「そうかやってくれるか」と礼を言われたのには恐縮し当惑もした。折角血肉を分けた姉妹が日常目と鼻の先の所に住みながら、意見の相違からとはいえ、無言の態度を続けてきた。その絆が解けたことは余程うれしかったものと思われる。
 母が幼少の頃の甲斐家は資産も相当あったらしい。家屋敷以外にも土地が相当あって、その土地の上には蔵が八つほどあったらしい。家計は楽で、足軽出身の家とはいえ、一応士族的厳格な躾けに徹し、蝶よ花よの頃があったらしい。長男と妹三人にはそれぞれ財産分けもしてあり、母も土地と蔵2つをもらっていたそうである。しかし折角の幸福も両親の死により一変し、長兄は福井市内新地の女郎と仲良くなり、果ては身請けの相談とお決まりの道を盲信し、結果は警察沙汰にまで及びそうになった。母は姉いねに相談したが、相手になってくれない。自業自得の結果とはいえ、兄を見殺しにできない。どうせ女は他に嫁ぐ身、折角親から頂いた遺産ではあるが、兄を救うために手放してしまえ、と決意の上処分した金で兄を救うことができたという。しかし、折角貢いでやった兄もロウガイ(現在の肺結核)のため若くしてこの世を去っていったそうである。


▼戻 る▼