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2014年 3月 7日(金) 社会は進歩しなければならないものなんでしょうかね〜。

 社会は日進月歩。「社会は進歩しなければならない」という迷心で突き進んでいるように見えます。現状では満足できないもののために、社会は進歩しなければならないのでしょうか。現状に満足して生きていることは、いけないことなんでしょうか。
 山中を歩いていると、感じるのです。人間の勝手な行動、気ままさを。こんなに自然を破壊していいものなんだろうかとか、自然は人間だけのものなんだろうかとか、力の強いものが世の中を制するのかとか、所詮、この世界には正義なんてありえないのだとか。
「一番でなければダメ」という人間社会に疑問を感じませんか。二番でも、三番でもいいではないですか。一番でなければ意味がないというならば、そんな社会がおかしいと思わないのでしょうか。
 静かに「自然」に接して、反省すべきではないでしょうか。反省する機会さえ与えられない、余裕なき社会は、常に矛盾をかかえているでしょうね。
私は山歩きをこの上ない趣味にしています。身近にある「自然」を大切にし、「自然」をそのままの状態で利用させていただいています。それで大いに満足しています。 現状では満足できないもののために、社会は進歩しなければならないのでしょうか。現状に満足して生きていることは、いけないことなんでしょうか。

2014年 3月 6日(木) 現代社会では、小さな心遣いは迷惑になります。

 例えば乗車賃が490円の切符を買う時、あなたはどのような買い方をしますか。私なら、お釣りがないようにと、100円玉4枚、50円玉1枚、10円玉4枚を投入するでしょうね。お釣りがないようにというのは、受け取る側に手数をかけないという配慮の心が、どこか隅っこのところにあってのことなんですがね。
 ところが、このケースでは、500円玉一枚を投入すれば、いいんですね。10円のお釣りが出ますが、相手は機械ですので、お釣りを出すのに、特別な手間をかけさせているという心配はいらないのですね。要は相手の都合は考えなくてもいい。自分にとって便利な方法で行動すればいいのですね。
 切符を買う時は、財布の中から、小銭を鷲づかみにして、適当に投入したらいいのですね。足らなければ表示で分かりますので、追加投入すればいいのですね。投入しすぎても、お釣りはちゃんと計算されて出てくるから、心配する必要はないのですね。相手が機械だから余計な心遣いは必要ないのですね。余計な心遣いが、かえって迷惑になるのですね。それが便利な現代社会というものなんですね。相手の都合や、相手の気持ちなど、気にもせずに行動できる社会が、気楽で理想的な社会と言うことになるんでしょうかね〜。

2014年 3月 5日(水) 私はレイノー病です。

 寒冷な季節になると、指先がまるで死人のように青白く、しびれた状態になります。単なる体質によるものであろうと、深刻には考えていなかったのですが、かかりつけの医者に相談したら「膠原病の疑いがありますね。調べてみましょう。」ということになった。血液検査をしていただいた結果、「膠原病ではありません」ということで、一応は安心はしたのですが・・・。
 膠原病ではないといっても、日常の生活で困ることがあります。手先が凍えた状態になり、感覚がなくなるので、物をつまむという細かい動作が困難になるのです。特にバスの運賃を支払う時が困るのです。今では、運賃もカードで支払うのが普通になっているのかもしれませんが、私はカードが好きではないので、その都度現金で支払っています。電車の切符は乗車前に購入するので、特に支障はないのですが、バスは降車時に支払うので時間的余裕がありません。そのため、財布から500円玉1枚、100円玉4枚、50円玉1枚、10円玉4枚をあらかじめ出して、ポケットの中に準備し、どのような料金にも素早く対応できるようにしています。

2014年 3月 4日(火) 車内で化粧をしているあなたにお願い申し上げます!

 車内で化粧をしているあなたにお願い申し上げます。私はけつをまくって糞をしているあなたの姿を見たくはないのですよ。どれほどあなたが美しいお方だと言われていても、私はあなたが糞をしている姿を見たくはないのですよ。私は化粧と言うものは、隠れた所、人目に触れない所でするものだという固定観念があるのですよ。そんな姿を見たいと言う男もいるでしょうけど、私にそんな趣味はないのですよ。だからお願いです。せめて私の前では決して化粧はしないでくださいね。

2014年 3月 3日(月) 見えなかった駅名表示が、見えるようになっていた!

 今日、中山最高峰に登った。28回目である。JR中山寺駅で乗車し、帰途に着いたのであるが、そのJR中山寺駅でのこと。
 駅名表示が屋根に隠れて見えなかったのが、見えるようになっていた。
 この件については、その発端を
2012年12月6日の「一般の日記」に書いているのだが、あの日から、この駅を訪れるたびに確認したのだが、修復されることがなかった。
 あの日から1年以上も経っているから、修復したのは私の指摘に従順に従ってのことでもないだろう。同じような思いの利用者がたくさん出てきて、やむなくしたことかもしれないが、いずれにせよ、気分がすっきりした日であった。

2014年 3月 2日(日) 「いつも笑顔で!」なんていうけれど・・・

 「いつも笑顔で!」なんていうけれど、なんといったって「自然」が一番いい。悲しい時には悲しい顔をしてくれ。うれしい時には、うれしい顔をしてくれ。泣きたい時には泣けばいい。一番分かりやすいではないか。人間は技巧を凝らしすぎる。技巧を凝らすということは、嘘を吐くということだ。嘘を平気で吐いてはいけない。嘘は泥棒の始まりだ。
「自然な態度」と「自然であろうとする態度」は違う。「自然な態度」には、無駄な労力を必要としない。無駄な労力を必要としないのが「自然な態度」。かっこいいのは「自然な態度」でありたい。「自然」や「自然な態度」に悪はない。
 といっても、誤解してはいけない。あいつが憎いという「自然な気持ち」があるからといって、人を殺してはいけない。殺人は犯罪だ。殺人に限らず、犯罪は犯してはいけない。
「無闇に技巧を凝らそうとせず、自然であることの良さを見直そう!」といっているのだ。 なんといったって「自然」が一番いい。
だから私は、今日も山に行く!

2014年 3月 1日(土) マイカーの功罪について

 動物の子供は、餌の捕り方など、生きていくための手段や方法を、親の行動をそのまま「まねる」ことにより取得していく。人間もしかりである。だから、人間社会においても、親の役割は極めて重要で、親は重大な責任を担っているのである。
 ところで動物とは異なって、人間は明確な「話し言葉」と言うものを持っている。この「話し言葉」によって、「子供をしつける」のである。ところがマイカーの出現によって、この「子供をしつける」という機会が失われたのではないかというのが、今日の私の主張である。
 家族で旅行に行こうという場合、マイカーでというのが当り前になった。マイカーの車内は家庭の延長だ。お菓子をいつほうばろうが、大声をあげて話そうが、全く自由だ。他人に迷惑をかけているというわけでもないので、親も大目に見ている。これがいけない。
 子供は、社会の中でのマナーというものを学ぶ、その実践的機会の場を、マイカーの出現によって、失ってしまったのである。
 子供に社会でのマナーを教えることを、学校に押し付けてはいませんか。社会でのマナーは親が小さい子供の頃から「しつける」ものですよ。時にはマイカーに頼らず、電車やバスなどの公共交通機関を利用して、子供に実践的マナーを教えてくださいませんかね。