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乙 女 の 溜 息

 空が白むころ、小鳥がさえずり、そよ風が木々の葉を揺らす。それは一日の始まり。私の憂鬱な一日の始まり。
 私は今、生きている。生きているってどういうことなの。痛い、痒い、眩しい、冷たい、寒い、熱い。夥しい感覚の網が、私の全身を被い、私の行動を監視し、制御している。私の体には、真っ赤な血が流れている。皮膚を破れば、ほとばしり出るであろう真っ赤な血が。喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったり。そして今、私は悩み苦しんでいる。これが生きているっていうことなの。
 目の前には得体の知れない世界が広がっている。自由のように見えて、私には選択の余地のない世界。さあ生きろといわれても、何を目的に生きたらいいの。生きるってどうすることなの。いっそすべてを忘れて、勝手気ままに喜び、笑いたいけれど、私の心のどこかで、それを阻むものがある。
 私は自分自身が恐ろしい。優越意識を持ちながら、それでいて強い劣等意識を持っている。私は自分の意志を離れて、何をしでかすかわからない。限りなく情けないものに見えてくるかと思うと、ある日突然、異様な勇気が湧いてきて、それが自惚れとわかったとき、惨めな焦燥感に打ちのめされるのです。自分の愚かさ、不甲斐なさ、自分ほど愚鈍な人間はないと、自分自身を責めさいなむのです。
 親元を離れてもう二年。一人暮らしには慣れたけど、私は寂しい。郷里には父が母が、兄や妹がいるけれど、今の私は孤独で寂しい。孤独であることが恐ろしい。それでいて孤独でいたい。孤独であることを愛している。寂しいけれど、一人でいたい。自己を曲げてまでも、友を作ろうとは思わない。お隣の若奥さん、管理人のおばさん、会社の先輩、課長さんに部長さん、みな人間。人間なんて信じられない。褒めたかと思うと、けなす。愛したかと思うと、憎む。人間は悪魔だ。我がまま勝手で手におえない、恐ろしい悪魔だ。社会って人間の作り出したもの。得体の知れない人間集団。汚いもの。恥ずべきもの。忌避すべきもの。私は社会という怪物から遠ざかっていたい。
 目的のない命。私は、いっそ蟻になりたい。群れから外れた一匹の蟻になりたい。だれの目にも触れずに、寂しく一人で死んでいけたらどんなに幸せだろう。

 死ぬか生きるか。死ぬ気がないなら生きねばならない。生きるためには食べねばならない。生きることは食べること? 私は昨晩、何を食べたのかしら。昨日のことすら思い出せない。冷蔵庫の中には、お塩、お醤油、パックに入ったお惣菜、お肉の缶詰め、135ミリリットル入りの缶ビールが一つ。流しの下のおひつから、お米をカップに二杯ほどすくってボールに入れ、水道の水をちょろちょろ流す。この水は、さかのぼれば琵琶湖に通じている。琵琶湖は近畿の水瓶。琵琶湖から流れ出た水は、淀川の水となって大阪湾に注ぎ、瀬戸内海を経て、はるかかなたの日本海、朝鮮半島にまで及び、世界の大洋につながっている。そんな広大な自然に思いを馳せながら、お米をとぐ。おヤカンのお湯がチンチン沸いて、湯気がお台所に満ちてくると、心の中まで暖かくなって、おヤカンを下ろして、ポットに注ぐと、トクトクという音が、段々高くなって、お湯が口からこぼれてくるころには、もう悲しい気分になる。そのうちご飯も炊けて、ポットを左手に下げたまま、冷蔵庫の中に顔を突っ込み、お惣菜とお肉の缶詰めを取り出して、テーブルまで運んで、椅子に腰掛け、神の存在なんかは信じていないけれど、今日もお食事にありつけたことを神に感謝し、何やら胸の前で手を合わせるような仕種をして、朝のお食事が始まる。口の中では、お肉が砕けて、気味悪く、まあ何とまずいんでしょうといって、顔をしかめ、これも生きていくための義務の一つなんだと、祈るような気持ちで飲み下すと、喉もとがゴクリと鳴って、気持ちが悪くて、吐いたりする。今日のお肉は牛かしら、羊かしらと首を傾げ、人間って、何て浅ましい生き物なのと、恐れおののき、もう金輪際、お肉は食べまいと心に誓い、やっとの思いで、お食事を終えて、台所に戻ってお片付け。今日一日、どう過ごそうかしらと、鏡の前でお化粧をしながら考えて、お化粧をしている自分に嫌悪して、テレビのスイッチを入れると、今日の天気予報。朝のうちは晴れ間も見えるけれども、夕方からは雨になりそう。出掛けるのが億劫になって、ぐずぐずしていると、頭が痛くなってきて、もうどうでもいいわという気持ちになって、お化粧もほどほどにして、出掛けることにした。
 外に出ると眩しくて、私は今、生きているんだと叫びたくなって、すぐ生きている自分が嫌になって、お家に戻ろうかって気持ちになる。管理人のおばさんと出会って、「いってらっしゃい」と声を掛けられ、「今日はお天気がすぐれませんわね」とか、未熟なりにもひとかどの大人のご挨拶をして、足元がなぜかもつれたものだから、体を前かがみにして、小走りで、逃げるようにおばさんの前を駆け抜ける。はるかかなたに遠ざかってからも、おばさんの目が気になって、まだ私の後ろ姿を眺めているんじゃないか、振り返ってみようかしらと思っても、もしそれが本当だったら、おばさんも、第一この私が気まずい思いをしなければならないんだわと思い直して、気にもならない振りをして、どんどん歩いていったら、横断歩道に遮られ、何一つ急ぐ用事もないけれど、信号待ちにいらいらし、もうやっぱりお家に戻ろうかと思うと、信号が青になり、自然と足が前に出て、歯医者さん、電気屋さん、クリーニング屋さんの前を通り過ぎるころには、見上げる空も明るくなって、駅に着いたら9時丁度。
 行き先がしばらく決まらずに、切符の自動販売機の前でたたずんで、子供らのやかましく騒ぐ声を聞き、(ああ、何と騒々しいこと。お静かになさい!)と心の中で叫んで、やっぱり今日はこのままお家に帰りましょうと。そのうちすぐ気を取り直して、お財布を開け、切符を買う。チャラチャラと音がして、お釣りが出て、こんなものいらないわとつぶやきながらも、お財布にしまう。私は、素直でない娘。
 電車は意外と空いていて、空いた端の席に腰掛けて、顔を上げると、向いに座った、若い男の人と目が会って、なぜか胸がときめいて、足の乱れを直しつつ、ああ私はまだ生きている、死んでなるものかと思いつつ、浅はかな自分の心が恥ずかしく、バッグから文庫本を取り出して、顔を伏せたままで読みだした。電車は、駅に止まる度に客が増え、それでも私は、車内の騒音を気にもかけずに読み耽った。
 目的の駅は終着駅で、みんなが降りるまで、着いたことに気がつかず、慌てて本をバッグにしまい、顔を少しばかり赤らめて、ホームに降り、子供連れの集団の、最後尾につきながら、とろとろと歩いていると、幼きころを思い出し、郷里の父や母の姿が、目に浮かぶ。
 湿った落ち葉のかたまりを、踏み締め踏み締め歩きながら、今日はハイヒールを履いてこなくってよかったわと、胸をなで下ろし、池の辺まで出て、近くのベンチへ腰を下ろすと、急に足の疲れを覚えて、ああ私はまだ生きているんだと実感し、池の中を覗くと、大きな鯉が群れをなし、私のことなど気にもとめずに泳いでいた。
 池の辺を一回りして、枝垂柳の、池に映る姿の美しさに心をうたれ、ああ自然はすばらしい、自然はすばらしいと、心の中で感嘆し、ここまで出掛けてきたことに、悔いはないわと、自分を慰めているうちに、今生きていることが恥ずかしくなって、しばらくそこにいたい気もしたけれど、お空からどんより雲が下りてきて、私の心も暗くなり、何事もほどほどが肝心と思って駅へと急ぐ。
 駅前の繁華街を、ぶらぶら歩いているうちに、お腹が減ってきたので、ふいと近くの食堂に入ると、私と同じくらいの娘さんが出てきて、私は掛蕎麦を注文し、お腹も大きくなって、少し元気が出てきたので、また歩いた。
 あちらのお店も、こちらのお店も、絵葉書にキーホルダー、おもちゃにお人形。どこのお店も似たものばかりで、どうしてこんなに個性がないのとつぶやくうちに、香ばしい匂いがしてきて、振り向くとイカの姿焼き。「おばさん一つ頂戴」って言うと、おばさんいやにニコニコしていた。だって、私はお客さんだものね。媚び、へつらいとわかっていても、私も少しは素直な気持ちになって、笑顔を返す。このあいだも、お家の近くの八百屋さんで、お野菜を買ったとき、真っ黒に日焼けしたおじさんが、笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。お金を出せば、こんな私でさえ、笑顔で迎えてくれる。私はお魚も、お肉も嫌いだけれど、イカの姿焼きはとてもおいしくて、少しばかり罪の意識がしたけれど、子供のころに返って、歩きながら、みな食べた。生きることは食べること。生きるためには食べねばならない。
 どうしてこんなに人間ばっかりはびこるんでしょう。都会のターミナルは蛆虫がうごめいているようで、まっすぐ歩くこともままならず、あっちにふらり、こっちにふらりと、身をかわしながら、自分もその蛆虫の一匹であることを忘れて、殺虫剤でもまいてやりたいような、鉄砲を持ってきて、無差別に撃ち殺してやりたいような、そんなことをしたら、私は間違いなく犯罪者になるけれど、あながち悪いことでもないような、そんな危険な気持ちも起こってくるほど、いらいらしてくる。
 歩いているうちに、このまままっすぐお家に帰るのも、何だかもったいないような気もしてきて、地下街の通路の壁に張られた映画の広告の、美しい女性の顔に魅せられて、立ち止まって時計を見れば、まだ4時前。次の上映時間まで少し時間があったけど、足も疲れて、椅子に腰掛けたくなったので、中に入った。
「このときめきは一体何なんでしょう。一途に人を愛することって何とすばらしいことなんでしょう。生きるとは愛することだったんですね。人を信じて、愛することだったんですね。私は、これほどまで人を信じ、愛したことがあっただろうかと反省させられます。私だって、人を信じ愛するように努めよう。自惚れ、嫉妬、媚び、へつらい、高慢、傲慢その他、人間のあらゆる醜い感情や態度のすべてに目をつぶり、人を信じて、愛していこう。私にも、人を信じ愛することができるはず。私も人から愛される人間になりたい。生きるとは、人を信じ、人を愛し、そして感動することだったんですね。私は初めてそのことに気がつきました」
 映画を見ての感想は、と聞かれたら、きっとこのように答えるでしょうけど、ほんの二時間ばかりの間に、人生観、世界観が変わるはずもなく、映画館を出れば、夕暮れで、空には灰色の雲が流れ、現実の世界に戻されて、
「映画の中の出来事ってみんなありえないこと。現実ではありえないから映画になるんだわ。そうありたいという人間のはかない夢にすぎないんだわ。どう努めてみたところで、人間の心の中に、本能的に備わっている卑しい感情は、人間の意志では決して抑えることのできないもの。死なない限り、どうしょうもないことなんだわ」
 と、ますます憂鬱になってくる。
 帰りの電車の中での、人間どものくだらないおしゃべり。耳をつんざくばかりの、くだらないおしゃべり。そんなくだらないおしゃべりに、生き甲斐、喜びを感じている人だっているんですね。ああ人間って、くだらない。「人間はいかに生きるべきか」「生きるとはどういうことか」「生きる目的とは何か」ああ、そんなことを考え悩んでいる私は、何とくだらない人間なんでしょうね。
 閉店間近のスーパーに、息を切らして飛び込んで、生きるための食料を、ほんの少しばかり買い込んで、目にはうっすらと涙を浮かべてレジに走り、「397円のお買い上げになります」という、若い店員の明るい声と笑顔に、わずかばかり心を和ませて、たった3円の釣銭を、ありがたい気持ちなどして受け取ると、一人寂しく店を出る。雨がぱらぱらと降り出して、慌ててバッグから傘を取り出す手先ももどかしく、今買ったばかりのお買物の袋を落としなどして、ますます慌てて腰を曲げ、拾い上げ、ついでに空を見上げれば、雨も止み、あちらこちらに星の瞬きがして、そんな夜空をいつまでもぼーっと眺めている自分に気が付いて、孤独であることの寂しさが、ひしひしと胸を締め付けて、もうお家になんぞ帰らずに、このままどこか星のかなたに飛んで行きたい気持ちがして、ふと郷里のことが浮かんで、母のこと、妹のことを思うとそんなこともできないで、ああ、こんなことでは駄目だと自分に言い聞かせ、やっとお家に足が向かう。
 お家に入ると、どっと疲れが出て、明かりをつけると寂しさが少しばかり和らいで、箸の進まぬ食事をして、「たばこの煙でアトピー性皮膚炎、職場の禁煙求め提訴」などという夕刊の記事に、ああ、たばこはもう止めよう止めようと思いつつ、手がついつい伸びて、今日はこれで何本目だろうかと、疲れた頭の中で勘定し、ああこれではいけないいけないと、首を何度も振りなどしても、この誘惑には勝てず、おのれの不甲斐なさに、どうしょうもないあせりを感じて、おのれの意志の弱さに悲しくなるばかり。
 お床に入ってからもすぐには寝つかれず、彼のことを考える。私にとってはたった一人の男友達。恋人といってもいいかしら。だけど彼の方では私のことをどう思っていてくれるのか、わからない。優しくて、清潔な人。だったらどうして今日、彼を誘わなかったのだろうと後悔し、お床を出て、彼のためにと勇気をだして買ってきたネクタイを取り出し、彼には少し派手すぎたかしら、彼は喜んでくれるだろうかしらと、気をもんで、今にも彼のところへ飛んで行きたい気持ちがして、もしかしたら私は彼にだまされているのではないかという気もして、人を素直に信じられない自分が悲しくて、卑しい、淫乱な心を反省し、何かしら不安に怯えながら、窓を開け、首を出して、空を見上げても、ついさきほど眺めた空ゆえ、何の変化もなく、何かしら期待で仰ぎ見た自分が滑稽で寂しくて、ひんやりとしたそよ風が、私のほおをなでて通り過ぎると、何だかいっそう寂しくなって、窓をピシャッと音のするほど強く閉め、洗濯物を畳みながら、明日の自分のことを考えると、気が重たくなって、もうどうなってもいいと心に決めて、再びお床に入る。 
 お床の中で考えた。
「人間はみな自分の考えが正しいと思っている。だから、平気で人を傷つけ、殺すこともできるのだ。この世から戦争がなくなるはずはない。平和、自由、民主主義、平等。みんなはかないもの。いつ壊れるかもしれないガラス。真の平和なんてありえない。真の自由なんてありえない。真の民主主義、真の平等なんてありえない。人間はみな偽善者だ。利己主義者だ。神が人間をそのように創ったのだから。色々考えてみたところで仕方がないんだ。生きるとは、所詮妥協するということだ。妥協なくして、人間社会は生きていけない。妥協できない人間に残された道。それは敗北者への道。そこには苦悩と焦燥があるのみ。行き着くところは死。この世で生きたければ妥協すること。この世で楽しく生きていきたいなら、媚びへつらうこと。妥協できないのは、未熟だから。自分がだれよりも正しいなんていう考えは捨てること。そもそも人間である以上、完全無欠の人間っていやしないのだから、自分を卑下することもない。肩肘張ってみたところで、人間はちっぽけな存在。それに早く気付けば、気が楽になるというもの。本当に正しいことって、この世になんて、ありはしないのだから。この世で真実や正義を求めようなんて決して思わないこと」
 暗いお床の中で、こんな悟りを開いて、急に生きる意欲が湧いてきて、ひとりでに笑みが浮かんで、今まで悩んでいた自分が馬鹿のような気がして、やっと気も落ち着き、うとうとしだすと、いつまでこのような幸せな気分が続くのだろうかと不安になって、明日になるとまた、空が白み、小鳥のさえずりとともに、眠りから覚まされて、新しい一日が始まるのだと思うと死にたくなる。