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大人への離陸

 外はうだるような暑さだが、店内は鳥肌が立つほどに冷えていた。輪島は傘を片手に、無造作にページを繰っていた。視線は一人の学生服の男に向けられていた。その黒い服は主婦やOLたちの華やかな服装に混じって、異様な雰囲気を漂わせていた。学生はすぐ前の棚から一冊の雑誌を手にした。月刊誌『奥様』だ。学生はそれを小脇に抱えると、レジのほうにチラリと目をやり、何くわぬ顔で書店を出た。輪島にとっては幾度となく出くわした場面だが、いまだに心臓の鼓動が高まる瞬間であった。

「あ、ちょっと君!」
 正雄が振り返ると、ずっぐりむっくりした男が天気もいいのに長い傘を持って突っ立っていた。
「なんですか?」
 正雄が小脇に月刊誌『奥様』を抱えて書店を出た矢先のことである。男は正雄にすりより耳元で囁いた。
「君、その代金払ってないだろ?」
 その囁きは正雄に考える余裕すら与えないほどの威圧が感じられた。正雄は思わず事実を告げた。
「代金? 払ってないです。払わんといけないんでしたら今ここで払いますが」
 男は怒りの表情を顔に浮かべると、やにわに正雄の胸ぐらをつかんだ。正雄の華奢な体が宙に浮く。学生服のボタンが切れて落ちた。
「払ったらそれで済むと思っているのか」
 男はそのまま正雄を路地裏へ引きずり込もうとする。こんな所へ引きずり込まれたら大変だと思った正雄は必死に抵抗する。もみあううちに小脇に挟んだ雑誌が落ちた。恐れた正雄が、「警察へ行こう」と言うと、
「学校に知れてもいいんか」
 と男が言う。
「ああ、いいですよ」
 正雄はためらうこともなく答えた。かくして正雄はこの男に引きずられて派出所へ連行される身となった。

「ああ、輪島さんかえ、久しぶりだな。ご苦労さんなこった」
 風体のあがらないお巡りが、ずんぐりむっくりした男と会釈を交わすと、しばらく二人の会話が続いた。
「娘さんはもう大きくなっただろうに」
「ああ、今年から短大に通っているよ」
「え、もうそんな年かえ。早いもんだな。女子大生か。君も大変だな」
「ああ。女の子っていうのは金がかかって大変だ。でも、この夏休みはアルバイトをするって、どこかのデパートへ稼ぎに行ってるよ」
「自分の小遣銭ぐらい自分で稼がにゃーな。親もたまったもんじゃないわな」
「そうだ。だが、女の子っていうのはどうも心配でな。働きに出るのはいいんだが・・・」
「まあ、夏になると開放的になって、どうしても若者の犯罪が多くなるがね。社会勉強ってことも必要だからな」
 この二人の関係は何なんだろう。正雄は自分が何か不思議な罠のようなものにかけられているのではと奇妙な気分に襲われた。二人の会話が一段落つくとお巡りは振り返り正雄に言った。
「まあ座れや」
 輪島とかいう、あのずんぐりむっくりした男は、正雄が逃げ出しやしないかと、身構えるようにしてそばに突っ立っている。その目は体に似合わず鋭い。犯罪者を見る目つきだ。
「で、君。払ってないんだね」
 とお巡りが言う。
「ええ、払ってません」
 正雄は臆面もなく答えた。
「駄目じゃないか」
「駄目って言われても、払わなくてもいいとばかり思っていましたから・・・」
「払わなくってもいいってことはないだろ。そんなこと常識じゃないか。学生証は?」
 お巡りは学生証の提示を求めた。
「今の学生はどうもわからん。悪いことをしても悪いことをしたなんて意識がない。ゲームでもしている感覚でいやがるんだ」
 輪島がそうだそうだというように傍らでうなずいた。学生証を受け取るとお巡りは親指の腹でちょいとメガネを押し上げ、しげしげと眺めながら、
「えーと。昭和××年五月十五日生まれ。するとまだ十九歳か。だがな、未成年といったって万引きは立派な窃盗罪だからな」
 そう言って目を細め、再び学生証に目を落とすと、
「またF大学か」
 と眉をひそめて、つぶやいた。

  警告
 最近J書店において、本学学生による万引きが多発している。
 このような行為は学生としてあるまじき行為である。ここに厳重に警告する。
   昭和××年××月××日
    F大学 学生課

 正雄はいつか登校したおり、こんな警告文が大きく張り出されていたことを思い出した。これはまずい。鈍い正雄にも今、やっと合点がいった。こやつらは頭から俺を疑っているんだ。この輪島という男。てっきり奥様新聞社の社員だとばっかり思っていたがJ書店のガードマンだったのだ。奥様新聞社とはJ書店に立ち寄るちょっと前に、正雄が訪問してきた会社である。そうと知った正雄は慌てた。
「この本は先ほどもらってきたものですよ。ただで・・・」
「ただで?」
 お巡りは意外だといった表情を顔に浮かべて、
「どこから?」
 と矢継ぎ早に聞いてきた。
「奥様新聞社ですよ。僕はあの輪島さんを、その会社の方だとばっかり思ってたんです。J書店のガードマンの方だって、今の今まで考えもつかなかった。輪島さんは私服だったし、いきなり身分も名乗らず聞かれたもんだから・・・」
「俺はちゃんと言ったぞ!」
 輪島が大きな声で横槍を入れる。
「僕はアルバイトを探していたんです。今日の朝刊に、奥様新聞社っていう会社が募集していたんです。今日の二時から、仕事の内容について説明会があるというんで行ったんです。内容を少しばかり聞いて、この会社が編集発行している『奥様』という月刊誌の購読勧誘が仕事だとわかったんです。自分には向かないと思い、さっさと帰りかけたんです。そしたら、出口に受付の人がいて、そこでお車代と書かれた小さな封筒と、この『奥様』っていう雑誌をいただいて帰ったんです。だから、僕は輪島さんとJ書店は結びつかなかった。てっきり奥様新聞社の社員の方だとばかり思って、・・・。『奥様』の代金を払ってこなかったのは事実だし、僕も何かの思い違いをして、払うべきものを払わずにきたんだろうと、それなら言われるままに払いさえすれば事が済むと。素直に事実を言ったまでですよ。そしたら、いきなり胸ぐらをつかまれて・・・。一瞬、ヤクザな会社につかまったもんだと。とにかく僕は、やましいことはしていない。何かの誤解だろうと、キツネにつままれた思いで。とにかく警察へ行けば安心だと・・・。何せとっさのことだから。いま冷静になって考えてみると、輪島さんがJ書店のガードマンだってこと、すぐわかったんですけど。とにかく僕は輪島さんを・・・。万引きの疑いをかけられるなんて、自分では考えてもみなかったことだし・・・」
「ああ、わかったわかった」
 お巡りは面倒くさそうに言うと、
「とにかく調べればはっきりすることだ」
 と言って煙草に火をつけた。
「で、どこだね。場所は? 君がただでもらってきたという・・・」
「雑誌の裏に印刷されている所ですよ」
「北区××町二丁目十三 松村ビル五階 奥様新聞社か。電話が・・・」
 お巡りは、本を目に近づけたり遠ざけたりしながら、
「飯田君、ここに電話を入れて確認してくれんか?」
 新米とおぼしきお巡りは、雑誌を受け取り中にはいると、しばらくしてから首を傾げかしげ出てきた。
「どうも電話が話し中のようで、かからんです」
「すまんが、一走り行ってくれんか。××町なら自転車で五分とかからない距離だ」

「今の教育はどうなっているんかね。わしにはわからんよ」
「ああ、教師に問題があるんだろうよ」
 お巡りと輪島の会話が再び始まった。
「塾ってもんが大流行だからな。君の娘さん、短大へ行ってるそうだが、塾へは?」
「中学生まで通わせていたよ」
「実はわしの一番下の息子が中学二年生でな。やっぱり塾に通わせているよ」
「親馬鹿ちゃんりんってとこか、お互い・・・、アハハ」
「個性ある教師も少なくなったようだな。生徒におもねる人気とりの教師、サラリーマン教師が増えたからな。昔は信念を持って教育にあたる猛烈教師ってものがたくさんいたが、今じゃ、何かあるとヤレ暴力だ、子供の人権侵害だといって、親が騒ぎ立てるからな。これじゃ、個性ある教師も育たないわな」
「まったくだ。親が学校教育に口出ししすぎるところがあるからな」
「まあそれも、信頼のおける教師がおらんという証拠かもしれん・・・」
 正雄は二人の会話を聞くともなく聞きながら、窓ガラス越しに外を眺めていた。会社の退け時。サラリーマンやOLたちが、頻繁に行き交う。正雄に気づいた幾人かが、チラリと目をやり通り過ぎていく。正雄は嫌な気分だった。そうこうするうち、新米とおぼしきお巡りが自転車をよろつかせながら戻って来た。正雄には長い時間だった。疑いは晴れた。
「人から疑われるということは、疑われるほうにも責任がある」
 お巡りは、正雄の膝を時々ポンポンと叩きながら説教した。正雄の気持ちはおさまらなかった。輪島は軽率にも俺を疑った。疑われるほうにも責任があるだって? 疑われるほうにはこれっぽっちも責任などない。疑うほうが悪いんだ。だまされるほうが悪いんじゃない。だますほうが悪いんだ。基本を忘れてもらっちゃ困る。人を疑う人間がいるから、人は余計な神経を遣う。意地汚い弁解も用意しなければならなくなるんだ。人を疑うからには、慎重であれ。「どこそこのだれだが」と、輪島が最初に一言名乗っていれば、俺だってこんな誤解をしなくて済んだんだ。いきなり「払ってないだろ?」とは一体なんだ。質問するには段階を踏めっていうんだ。冤罪はこんなところから起こるんだ。逃げようとしたわけでもない俺の胸ぐらをつかんで振り回すなんて、暴行じゃないか。あの輪島っていう男。きっとあのお巡りの部下か同僚だったに違いない。不祥事でも起こして退職させられたんだ。輪島にも非があったのに、それをお巡りは一言も責めなかったじゃないか。俺はこれまで真面目を信条に生きてきた。俺を疑うなんて・・・。
 俺の顔を見ろ。時代遅れの黒ぶちメガネを掛けてはいるが、その奥で光る清らかな目。万引をするような男の顔に見えるか。
 この学生服を見ろ。俺はこの学生服に愛着を感じている。今じゃ、学生服姿の大学生なんて、海に落ちた針を捜すようなもんだろう。そんな希少価値に、俺は一つの誇りを感じている。
 この黒い色を見よ。謹厳実直、何色にも染まらないという主義主張の感じられる黒。俺は黒という色が好きなんだ。だから俺はこの学生服を、この暑いさなかでも愛用しているんだ。これが万引をするような男の姿に見えるか。
 学生証? そんなもの、そんな紙切れなんて、あってもなくてもいいじゃないか。この真面目な顔、この黒い学生服を見て、どんな人間だかすぐにわかってくれてもいいじゃないか。

 人間同士が、容易に信じ合えない社会。そんな社会に人間はしてしまった。何かあると証明書だ。証明できなくったって事実は事実なんだ。信じ合えば証明書なんて要らないんだ。これが本来の人間の自然な姿なんだ。基本を忘れてもらっちゃ困るってことだよ。人間どもよ、今それを忘れている。
(君の言うことはよくわかる。だがね、それは理想というもんだ)
 ああ理想だ。俺の言ってることは理想だ。ところで理想とは何だ。考えたことがあるか。理想は追求するためにあるんだ。理想だからこそ追求しなければならないんだ。理想だ、理想だといって、いつも逃げ回っている。それは卑怯ものというもんだ。実現しようとする気もない理想なら、理想、理想と気安く言うなってんだ。そんなものは理想でもない。空想でもない。妄想っていうんだ。俺の言う理想っていうのは、本当は容易に実現が可能なんだ。人間のエゴ、怠慢、狡猾、がそれを阻んでいるだけだ。理想を追い求めるのはしんどいから、理想だ、理想だと言って逃げ回っている。そんなやつらに、俺のこんな考えなどわかるまい。
 物質文明の驚異的進歩に比して、人間の心がすさんでいるのは、人間が賢くなりすぎたからだ。俺はそう思う。俺は知恵のない動物に戻りたいよ。俺は馬鹿と言われようが、単純で率直な人間なんだ。自分のことを説明するのに、いちいち証明書を添付しなければならない社会なんてごめんだね。
(今の世の中は君のように真面目な人間ばかりではないんだ。残念なことだがね)
 そんなこと、俺の知ったことじゃない。不真面目人間がいるからといって、真面目な人間が迷惑をこうむる道理ってないよ。真面目な人間を責める前に、不真面目人間を責めろっていうんだ。疑われるほうも悪いだなんて、筋違いだ。
 弁解、中傷、誹謗、陰口、侮辱、高慢、傲慢、嘲笑、揶揄、嘘、見せ掛け、お世辞、強要、詐欺、恐喝、暴行、傷害、殺人、戦争、そして、人を無実の罪に陥れる冤罪事件。ああ人間って耐えられない。なんと愚かな存在なんだ。この地球上の中で、最も賢い生き物だって、勝手に思っている。人間の思い上がりだよ。
(おまえは馬鹿だ)
 俺は馬鹿でいい。賢い人間より馬鹿がいい。人間はみな、馬鹿になればいいんだ。賢い人間がいるから、この世は駄目なんだ。だますなんて、賢い人間のすることだからな。馬鹿な人間には人をだますだけの知恵なんてありやしない。知恵があるから、人をだますんだ。知恵があるから、人を疑うんだ。人間どもよ、馬鹿になれ。みんな馬鹿になればいいんだ。みんなが馬鹿になれば、どんなに暮らしよい社会になることか。人間は賢くなりすぎた。俺は砂場で遊ぶ子供のように、純な心に戻りたいよ。みんなみんな馬鹿になれ。みんな馬鹿になればいいんだ。俺が呪文をとなえてやろう。
 みんなみんな馬鹿になれー!
 俺は冗談で言ってるんじゃない。俺は真剣なんだ。
(わかった、わかった)
 わかった? 俺の言うどこがわかったんだ。そんな簡単にわかってたまるか。所詮、心の中では、変わった奴だと笑い飛ばしているだけだろう。俺は悩み苦しんでいるんだ。

 人間が、知恵がないと勝手に見下している動物。そんな動物のほうが、神の意思に従い、無駄なく合理的に生きているんじゃないのか。
 人権、人権と騒ぎ立てるな。権利は人間だけにあるんじゃない。愚かな人間どものために、自然の中で生きる小動物たちが、どれだけ苦しめられてきたか、考えてみろ。

 ああ神よ。
 人間の傲慢を懲らしめたまえ。
 ああ神よ。
 人間から喜びや楽しみを取り去り、苦しむことを教えたまえ。
 あなたがこの世に存在するならば、私の願いを聞いてくれ。

(苦しい!)
 苦しい? ああ神よ。あなたはやはり存在するのだ。あなたは願いを聞いてくれた。苦しめ。もっと苦しめ。人間どもによって虐げられてきた物言わぬ小動物たち。彼らに謝罪する意味においても、人間どもよ、大いに苦しめ。
 苦しいか?
 ざまーみろってんだ。
(君はなんと幼稚なんだ)
 ああ、俺は幼稚だ。幼稚で満足しているよ。それどころか、幼稚であることに誇りすら感じている。さっきも言っただろう。子供の世界に戻りたいと。子供は人を疑ったり、だましたりしないもんだ。そうは言っても、このごろの子供は賢くなりすぎて、信用がおけないがね。そんな子供はもはや子供じゃない。その心は、知恵を持った意地汚い大人と同じだ。
(君は常識ってものを知らないのか)
 ああ知らないね。所詮、大人の創り出したものなんだろう。そんなもの知ろうとも思わないね。知りたくもない。糞くらえってんだ。

 あのとき、もし証明できなければ、俺は今ごろどうなっていただろう。真面目で、おとなしくて、いい子だと近所の人から褒められてきた。
「あまりに真面目ってよくないわ。礼儀正しく見えてもわからないものね。適当に羽目をはずす子が安心だわ」
 なんて、今ごろ不名誉な話の種にされていただろう。
 ちぎれて落ちたボタン。俺はあのとき、あんな状況下にあっても、忘れずに拾った。傷ついてへこんでもいる。新しいのを買えばいいじゃないかって? 馬鹿を言え。俺はこのてかてか光った学生服、この古びた学生服が好きなんだ。そして、禿げてへこんだこの金ボタンが好きなんだ。正雄は、とれたボタンを握りしめながら、心の中で叫んでいた。

 正雄は帰り際「お手数かけました」とお巡りと輪島に謝った。だのに輪島は知らぬ顔。正雄は輪島の態度、あの正雄を見る目つきが気に入らなかった。正雄は帰宅するなり、一通の手紙をしたためた。

 拝啓 貴店におかれましては益々ご繁盛のこととお喜び申し上げます。
 さて、私は今般、貴店にて万引の嫌疑をかけられた者でございます。疑いをかけられたことは、こちらにも落ち度があったと深く反省しております。
 貴店では万引防止のため、数人のガードマンを雇っておられます。どこかの国の軍服のような、きりりとした服装でいらっしゃいます。でも、お客さんを頭から疑ってかかる、あの目つき、高慢なその姿。その存在そのものが不愉快で仕方がありません。
 貴店は大層ご繁盛しているようにお見受け致します。混雑に紛れて、不心得者もいるでしょう。確かに最近、学生による万引事件が多いようです。貴店の万引による被害額がどれほどになるのかは想像するしかございませんが、ガードマンの人件費はいかほどのものなんでしょう。ガードマンを雇ってでも防止したいということでしょうから、大変な被害額であろうことは予想しています。だからといって、店の売り上げからみれば、微々たる額ではないのでしょうか。商魂たくましい時代ではありますが、正直なお客さんにとっては不愉快な存在です。
 私は、こんな目にあうまでは、ガードマンなんて自分には関係のない存在で、気にもとめませんでした。失礼ですが、単なるお人形さん、お店の飾り付けの一つ程度だとしか見ておりませんでした。でも、このように疑われた今、私の気持ちは穏やかではありません。
 あのような目障りなガードマンは、即刻廃止してください。貴店は日頃からよく利用させていただいております。貴店は私にとって憩いの場所でもあります。
 どうか私の意をおくみいただき、善処していただきますよう、お願い致します。
 貴店の益々のご隆盛を心からお祈り申し上げます。           敬具
  昭和××年××月××日
 J書店店長 殿

「疑われるほうにも責任がある」
 確かに言われてみれば、俺にも落ち度があったと反省するよ。俺が奥様新聞社からもらってきた雑誌。それと同じものが、この書店にも並べられている。何か不思議な感動がして、その場で立ちすくむ。つかれたように、しばらくたたずんでいて、身を翻す。輪島はこの瞬間を見間違った。書店の中にはベタベタと「包装のしていない本を持ち込まないでください」という張り紙があった。包装もされていない本を書店に持ち込めば、店の商品と区別がつかなくなる。店だって困るのだ。みんなが自由に出入りしているとはいっても、そこは他人の敷地内。一歩踏み込めばその店のきまりに従わなければいけなかったんだ。それが社会の約束事なんだ。仕方がない。意識していなかった俺が悪かった。疑われても当然かもしれない。
 輪島には自信があった。だから、身分も名乗らずいきなり問うてきた。「払ってないだろ?」と聞いたところが、臆面もなく「払ってません」なんて答えるもんだから、輪島だって頭にきたんだろう。
 俺は真面目一方、謹厳実直の人間だ。だから万が一、人から疑われるようなことがあっても、「俺は何も悪いことなどしてはいない」と頭から突っぱねればいい、とただそう思っていた。それだけで人は信じてくれるだろうと。俺の信念として、そう考えるのはいい。だが、それはわがまま勝手というもんだ。相手の気持ち、相手の立場になって考えればすぐわかることだった。
 率直に反省するか。俺は率直が売り物の人間だからな。俺は信念を持って生きているんだと、片意地を張ってみたところで、俺も人間。つまらぬ生き物の一つには違いない。学生だからといったって、一人で生きているわけでもない。色んなところで、社会とかかわっている。否が応でもな。社会には常識ってものがある。規則、きまり、約束事、そんな常識に立ち向かってみたところで、俺に勝ち目はないさ。謹言実直もいいけれど、度が過ぎれば笑い者。世間知らずも程々にしよう。いずれ俺だって大人の社会の仲間入り。
 ああ悲しいことだけど、俺はできることなら、独りぼっちで生きていきたいよ。

 午後五時。庁舎からはせきをきったように、ネクタイ姿の男たちが吐き出されてきた。その大勢の男たちに混じって、正雄の姿があった。あれから三年。学生服にさよならした正雄の背広姿だ。
 正雄はJ書店のことを思い出した。久しぶりに行ってみよう。

 店の構えは変わっていなかった。正雄は複雑な気持ちでいたが、懐かしかった。店内は相変わらず混雑していた。ゆっくりと見渡す。なにか違った雰囲気。BGMが流れている。正雄はそのせいかと思った。だが違う。歩きながら考えた。店内の隅々まで歩いてみた。あの軍服姿のガードマンが見当たらない。あのベタベタ張ってあった張り紙が見当たらない。
 正雄は寂しい思いがした。
 雑誌コーナーの前でしばしたたずむ。色とりどりの雑誌が、所狭しとひしめきあっている。月刊誌『奥様』も並んでいる。嫌な記憶がよみがえる。
 正雄には妻がいた。しばらくたたずんで、思い出したように『奥様』を手にする。心臓の鼓動が一瞬高まった。正雄は慌てて、レジへと走る。
「カバーをおつけいたしましょうか?」
 女店員が正雄に笑顔で問い掛けた。
「ああ」
 正雄はためらうこともなく答えた。女店員は、カバーを折り筋にそって丁寧に折ると、本にかぶせた。
「あなたも知的ライフを楽しみませんか 書籍 雑誌のことならJ書店へ」
 そんな印刷がカバーにしてあった。正雄は『奥様』を小脇に抱えると、足早に書店を出た。
 李下に冠を正さず。大人への離陸のために。