少女のような君だから



 列車が松林を抜けると車内が急に明るくなった。
 子供たちの歓声とともに紺碧の海が飛び込んできた。
 青い空、
 白い雲、
 輝く太陽。
 降り注ぐ素粒子が僕の体を突き刺した。

 夕子は改札口で待っていた。
「待った?」
「ううん」
 夕子は白いTシャツにショートパンツ姿だった。僕は吹き出す汗をハンカチで拭った。
「潮の香りっていいなあ。こんな所に住んでいる君がうらやましいよ」
「私は少しも感じないわ」
「さあ行こう」
 僕は夕子の華奢なお尻を叩いた。
「百円チョーダイ! 」
 夕子はジュースの販売機を指差して言った。
「喉が渇いちゃったの」
「僕は早く泳ぎたいんだがなあ。僕の今日の目的は海水浴だ。それを忘れないでほしいなあ」
「夕子はあなたの妹だっていう約束、忘れちゃー駄目よ」
 夕子は笑った。僕と夕子はジュースを飲みながら白い砂浜を歩いた。ビーチパラソルが花のように咲いていた。

 僕が夕子を知ったのは去年の春だった。子供のように明るい娘だった。そんな夕子の顔に暗い影がさし始めたとき、僕は夕子のことが気になった。
「こうして男の人と二人で歩くのって初めて。なんだか怖い」
 僕が初めて夕子を夜の食事に誘ったとき、彼女はそう言った。
「怖い? この僕がか」
「ううん、そうじゃない。私って変わってるの。お友達からそう言われるわ。お料理だって好きじゃーないし。男の人が怖いのよ。子供を産むのが怖い。想像しただけでも怖いわ。こんな私って、一生結婚できないんじゃないかって・・・」
「君は若い。これから色んな男に出くわして・・・」
「色んな男に出くわすって?  私、そんな淫らな女じゃないわ」
「色んな人と知り合いになって、素敵な男の人を愛するようになるっていうことだよ」
「私、男の人って好きになれない」
「好きになれない?  そりゃー大変だ。だけど、たとえ君が男を好きになれないからと言ったって、君のように可愛い子を、男のほうがほっとかないよ」
「そうよね。男のほうがほっとかないわよね。こんなに可愛いんだもん」
 夕子はコロコロと笑い、僕に身を寄せてきた。
「そして、君は純真だ」
「純真って?」
「人を疑いもしないということだよ。君のような年ごろになるとね、男に対する警戒心が起こるものなんだがなあ」
「私はあなたを男だなんて思っていないもん」
「男でない僕は、一体何なんだ」
「あなたは私のお兄さん。ずーっとずーっと、優しいお兄さんでいてほしい」
 その日、僕たちは約束を交わした。夕子は僕の妹、僕は夕子のお兄さん。僕と夕子の気楽な付き合いが始まった。

「僕は動物園へ行きたいなあ」
「動物園?」
「そう、動物園だよ」
「おウマさんや、キリンさんや、おサルさんのいるあの動物園のこと?」
 夕子は、ことさらに幼児の口調をまねて笑った。
「君は僕を笑ったね。僕を馬鹿にしてはいけないよ」
「だって、あなたはいつも私を見て子供だ子供だって言ってるくせに、動物園だなんておかしいわ」
「僕は動物が好きなんだ。君に馬鹿にされてもいいから話すけど、動物園には毎年数えきれないほど行くんだ。一人でね。そして、じーっと動物たちの行動を観察しているのさ。動物たちの仕草を眺めていると、飽きることがない。僕がまだ小さかったころ、子犬が一匹、家に迷い込んできたことがあったんだ。雨がしとしとと降る肌寒い晩だった。子犬は雨に濡れ、寒さで震えていたよ。お腹には泥がついていた。僕は飼いたかったけど、僕の父は大の動物嫌いでね。家が狭かったということもあったけど、許してもらえなかった。僕はそのとき、涙を流して頼んだんだけど駄目だった。僕は今でも動物が好きで、家に帰ると、セキセイが一つがいと、十姉妹が五羽いるんだ。みんな僕の可愛い友達さ」
「あなたは優しい子供だったんだ」
「子供はみな、優しい心の持ち主さ。僕は子供が好きで、小学校の先生になるのが夢だった」
「先生になりたいなら、今からでも遅くはないと思うけど・・・」
「もう遅い。駄目だね」
「どうして?」
「僕はもう、社会を知ってしまったからだ」

 僕は社会を知って、もう七年になる。お世辞の一つも言えないと勤まらないサラリーマン社会に、どっぷりつかって生きてきた。社会人なら、そうあらねばならない、そうあらねばならないという常識とやらに、ただひたすら従い流されてきた。大人になるって、僕には汚いことにしか思われない。だから僕は、子供のような夕子を見てると、仕事の悩みや煩わしい人間関係のすべてを忘れた。
 大人の世界は、どこか狂ってる。世渡りの技術に長けている連中ばかりだ。男も女も、自分をよく見せたいと必死になっている。上司を前に媚を売る。正面きっては褒めちぎる。褒められて、怒る人間はいないというけれど、僕は他人から褒められてもうれしくなんてない。みんな自分のことで精一杯だ。他人を褒めるのも、すべては自分のためなんだ。他人からよく見られたいっていう下心があってのことなのさ。僕はひねくれ人間だから、ついそんなことを考えてしまう。裏に回れば悪口雑言、他人の不幸を喜んでさえいる。人間って、みなそうなんだ。僕もいつの間にか、そんな人間になっていた。
 僕は、そんな自分と社会に嫌気がさして、月に一度は旅に出る。そして、偉大な自然に出会うのが楽しみなんだ。自然はすばらしい。都会にどっぷりつかって生きている人間は、自然の偉大さ、美しさを忘れている。自然の創り出した山や川の美しさは、どんな芸術品もたちうちできない。そんな自然を眺めていると純真だった幼いころを思い出す。自然は純粋だ。自然は僕を疑ったり、だましたりはしない。いつも期待どおりの姿でいてくれる。社会を知ってしまった今の僕は、何を言おうと偽善者だけど、こんな僕でも自然を前にすると謙虚な気持ちになる。

 夕子はいつも地味な服装で僕の前に現われた。ある日夕子は、チキンフライを頬ばりながら僕に聞いた。
「私って、まだ子供に見えて?」
 夕子は薄化粧をしていた。頬がほんのりと上気し、淡い紅色の唇が可愛い。
「子供だね。君も真っ赤な口紅つけて、短いスカートで、ハイヒールなどはいて、香水の匂いをぷんぷん振りまきながら歩くと、見違えるような女に変身するんじゃないか」
 僕は冗談混じりに言ってみた。
「でも、僕は今のままの君が好きだ」
「食べていい?」
 夕子は首を傾げ、最後に残ったチキンフライの一つを、箸の先で無邪気に転がした。
「ああ。僕は肉が嫌いだから・・・」
「どうして?」
 僕は夕子の問いには答えなかった。僕は、うまいうまいと言って、むさぼり食っている人間どもの、あの口の動きを見ていると、人間のあさましさ、人間の底知れない欲の深さを知らされる。人間の口から出るいかなる美辞麗句も、容易に信用できないって気がしてくる。でも、夕子を見てると、そんな感情が湧いてこない。夕子の唇は小さくて可愛い。僕は夕子を見てるとほっとした。

 僕と夕子の兄妹の付き合いはしばらく続いた。夜に会う夕子は明るかった。それに比べて昼の職場の夕子は、しだいに暗くなっていった。
 夕子はある日突然、僕にその理由を話すことなく退職していった。そんな夕子が気になりながらも一年の歳月が過ぎ、僕は夕子のことを忘れていた。
 夏の長期休暇が始まろうとするころ、夕子から思いがけない手紙が舞い込んだ。

 杉本孝男 様
  短い期間でしたがお世話になりました。私の漁師町にも夏がやってきました。普段は何の変哲もない所ですが、町中が活気づいています。海や山の好きな孝男さん。きっと満足していただけることと思います。

 手紙の内容は簡単だった。一枚の絵葉書と地図が同封されていた。

 夕子は濃紺の水着を着ていた。肢体は細く、その肌は白かった。胸のわずかな膨らみが、僕に夕子が女であることを感じさせた。
 僕と夕子は泳いだ。泳ぎ疲れた二人は浜辺で寝そべった。僕は天上でギラギラ輝く火の玉を仰ぎ見た。カモメの群れが青い空を切って飛んでいた。
「こうして大海原を眺めていると、人間ってつまらぬ存在って気がしてくるよ。社会に出たてのころの僕は純真だった。あのころが懐かしい。今では、世間の汚いことが見え過ぎて、生きていることが嫌になるんだ。生きるってどうしてこんなに苦しいもんかと・・・」
 白い小波が夕子のほっそりと伸びた足のつま先で寄せては引いていた。
「君は変わらないね」
「いつまでも子供のようだっていうのね」
「子供のような君も、もう幾つになったんだ」
「若い女性に年を聞くのは失礼っていうのが、社会の常識よ」
「社会の常識か。社会とか、常識とか、そんな言葉は嫌いだな」
「あなたも、少しも変わっていないのね」
「子供といったってこのごろの子供は気がおけないからな。もうお酒の味も覚えたんじゃないのか」
「私は飲まないわ。飲めないのよ。お酒って人を変えるのね。私のお父さんは大酒飲みで、酒癖が悪く、お母さんや私の前で、いつもわめきちらしているの。私はお酒が飲めないけど、お勤めをしていたころ、お付き合いでよく行ったわ。そこでお酒の入った先輩から、いつも言われたの。あなたは早く大人にならないと駄目よ、なんて。私ってそんなに子供なのかしら。そんなことを言われて、私は私なりに大人になろうと努力したわ。大人になるってどういうことかも知らないで」
 夕子は視線を落とし、砂浜の砂を手ですくった。夕子の軽く握った手の隙間から、乾いた砂が、砂時計のように、夕子の膝小僧の上でこぼれては、落ちた。
「それにしても、すごい人出だな」
「賑やかなのは今だけ。夏が終わると嘘のようにひっそりするわ。ここは漁師町だけど、最近はめっきりお魚も獲れなくなって、若い人はみな、申し合わせたように都会へ出て行くの」
「君もその一人だったってわけか」
「私も都会の生活にあこがれていたの」
「どうして辞めたんだ」
「会社のこと? 特に理由ってないわ。そんな話はよして・・・」
 夕子は眉をひそめ、砂浜の上に目を伏せた。僕は童心に返り、日暮れまで夕子と砂浜で戯れた。

 僕にはわかっている。夕子が会社を辞めた理由が。夕子は都会に住む人間じゃなかった。僕は夕子を見てると、人間の本来あるべき姿じゃないかって思うんだ。
 君は大人にならなくったっていい。今のままの君でいい。僕は恐れている。夕子が大人になり、社会人になるということを。夕子がそうなったとき、それは僕と夕子の別れのときだ。

 夕暮れの繁華街。ネオンの明かりがともり始めた。艶やかな服が行き交う猥雑な世界。橋のたもとで、地味な身なりでたたずむ夕子の姿が、その場に似つかわしくなかった。
 夕子は寄り添い、僕の腕に手を絡ませてきた。僕は彼女の髪に、少女の匂いを感じながら歩いた。
「毎日毎日、三度三度お食事して、お食事するとすぐ眠くなっちゃって、少し寝て、そして起きて、お風呂に入って、暗くなったらお布団に入って、本を読むの」
「気楽な生活してるんだなあ。そんな風にのんびりしていられる君がうらやましいよ」
「それほどのんびりしてるってわけでもないわ。私のお母さん、雑貨屋をしていて、だから毎日、お店のお手伝いをしてるの」
「君は可愛い看板娘ってわけか」
「そう」
 日焼けした夕子の顔から、白い歯がこぼれて落ちた。外は肌寒い。夏が終わろうとしていた。若い恋人たちが、手に手を取り合い通り過ぎていく。夕子はそんな情景を、うらやましげに眺めていた。
「恋人同士って、いいわね」
 夕子が突然言った。
「うらやましい?」
「うん、うらやましい。今日一日だけでいいから、私たち二人も・・・」
「君とじゃ、似合わないよ」
 僕はつっけんどんに答えた。
「私って、あなたにとってはいつまでも子供なのね。つまんない!」
 夕子がすねた。僕は、夕子の顔色をうかがいながら歩いた。夕子の寂しげな顔に、僕の心は動揺した。
「今日一日だけだよ」
 僕がそう言うと、夕子はしばらく考えた。
「でも、もういい」
「どうして」
「やっぱりお兄さんでいい。なんだか怖いもん」
 そんな夕子が、僕の知らないところで大人になっていた。

 僕は地下街で夕子を見かけた。近づく夕子に声をかけた。夕子は気づかなかった。 僕は振り返り、遠ざかる夕子の後ろ姿を眺めていた。夕子は、背の高い男に寄り添いながら歩いていた。夕子の唇は赤かった。真紅色のスカートが、夕子の細い体を締め付けていた。夕子と擦れ違ったときの、あの怪しげな香水の匂いが、いつまでも僕の鼻の奥に残った。
 僕は夕子にだまされていた。僕こそ世間知らずの大馬鹿者だった。僕は、夕子との関係を断ち切る決心をした。

 僕は喫茶店で、夕子と会った。
「今日は君に、重大な話があるんだ」
 夕子は、いつものあどけない笑顔でジュースをすすっていた。
「私に重大なお話? なんだか怖い」
「怖い?」
「あなたが私から離れて、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって・・・」
「そういうことになるかもしれない」
「嘘。それは嘘よね」
 夕子の瞳が、せわしなく動いた。
「僕は見合いをすることにしたんだ」
 僕は、きっぱりと言った。 夕子は一瞬戸惑い、グラスから手を離した。夕子の笑顔は消えていた。夕子は、ハンドバックからハンカチを取り出すと、おもむろに唇を拭った。ハンカチが、夕子の細い指先で、細かく畳まれていく。夕子は何かを思い巡らしていた。
 夕子は、体を僕の正面に向けて座り直すと、意を決したように言った。
「私も、あなたに重大なお話があるの」
「重大?」
「そう、重大なお話よ」
 夕子の口元は緊張し、細かく震えていた。
「実はね、私もお母さんから、お見合いを勧められている人がいるの」
 僕の理性は吹っ飛び、怒りに燃え上がった。
「それはまた偶然だなあ。結構なことじゃないか」
「ほんとうにそう思って」
「そうだよ。僕は、君の年が幾つか知らないけれど、お見合いの話があってもおかしくないからな。で、どんな人なんだい。写真は見たのかい」
 僕は苛立つ気持ちを必死に抑え、夕子を問い詰めた。
「いいえ・・・まだ、・・・その前に私・・・あなたにお聞きしたいことがあるの。・・・私をどう思ってくださって?」
 夕子はたじろぎながら、僕に聞いた。
「どおって。僕は君が好きだから、こうして会っているんじゃないか」
「好きって言ったって、色々あるわ」
「ああ、色々あるさ」
「あなたは私を・・・」
 夕子は時々言葉につまり、口ごもった。
「・・・結婚の相手として考えていてくださるのかってことよ」
「結婚の相手だって。いきなりだなあ。僕は君を結婚の相手として考えたことはない。君と僕との関係は、決して恋人同士の間柄ではなかったはずだ。それが君と付き合うときの約束だった。君もそれを望んでいたじゃないか。僕は今日まで、忠実に君との約束を守ってきたんだ」
「それはそうだけど・・・。それは、あなたと私が、お付き合いを始めたころのお話でしょ。今の私を見て、あなたは私をどう思っていてくださるのかってこと・・・。私が・・・本当に私が今、あなたに結婚の申し込みをしたら・・・。あくまでも仮のお話っていうことだけど・・・。あなたはどう答えてくださるのかってこと・・・」
「僕の気持ちは、以前と少しも変わりゃしないさ」
「いつまでも子供のような私だから、結婚の相手になんてならないってわけね」
「そういうことかもしれない」
 夕子はうなだれ、手にしたハンカチをもてあそんだ。やがて夕子は、おもむろに顔を上げると、僕に言った。
「・・・私はあなたが好き」
「好き?」
「そうよ」
「好きって言ったって、色々あるからな」
 僕は夕子の言葉をもてあそんだ。
「僕を男として好きっていうことじゃないんだ。僕のほうだって、君はあくまでも僕の妹だ。僕の可愛い妹だ。目に入れても痛くないほど可愛い妹だ」
 僕はふてくされ、飲めないビールを注文した。
「お願いだから、真面目に答えて」
「だから僕は君が好きだって、いつも言ってるじゃないか」
「あなたは私の気持ちなど、少しもわかっていてくださらないのね」
「君の気持ちはわかっているさ」
「それならはっきり答えて」
「だから言ってるじゃないか。君が好きだって」
「・・・私はあなたが好き。・・・お兄さんとしてでなく・・・」
「僕だって君が好きさ。妹としてね」
「妹じゃない!  私はあなたの妹じゃない!」
 夕子は、叫んだ。
「・・・私はあなたが好き。ずーっと前から、私はあなたが好きだった。あなたは私のお兄さんじゃない。ずーっとずーっと前から、あなたは私の恋人だった!」
「君は僕の妹。いつまでも僕の可愛い妹でいててくれれば、それでいいのさ。僕の望みはそれだけだ。僕は見合いをすることに決めたんだ。これは君も許してくれるはずだ。許すも許さないも、僕と君との付き合いは、兄と妹っていうのが約束だったもんな」
 僕は、興奮のあまり一気にしゃべると、沈黙し、行き交う人々の流れを、ウインドーのガラス越しに眺めていた。外は、夜の世界が始まろうとしていた。
 静謐が二人の間を引き裂いていく。夕子のハンカチが、テーブルの上を行きつ戻りつしていた。
 やがて夕子は言った。
「私はあなたが好き。でも・・・もういい。・・・もういいわ。・・・妹でもいい。それでいい。あなたがいつも私のそばにいてくださるなら、私にとってあなたはいつまでも、私のお兄さんでいい。私の優しいお兄さんでいい。でも・・・私は悲しい。とても悲しいわ・・・。私は怖かったのよ。怖かっただけ。男の人が・・・。男の人が何を考え、何を望んでいるのかってことが・・・」
 夕子は、手にしたハンカチを握り締めた。夕子の顔が歪み、一筋の涙が頬を伝って落ちた。夕子はいきなり席を立ち、ドアに向かって駆け出した。 僕は残ったビールを一気に飲み干すと、夕子のいた席の空間を、しばらくぼんやりと眺めていた。 僕はそのとき、夕子の座っていた椅子の足元に、キラリと光るものを見た。それは夕子の運転免許証だった。
 僕は、思い出した。
「ドライブに連れてって」
 と、夕子が僕に甘えた日のことを。
「僕は運転できないんだ」
 僕がそう言うと、夕子はがっかりした。
「私、習いに行く」
「よせ」
「どうして?」
 夕子は頬を膨らませ、僕に刃向かった。
「私、あなたと二人っきりでドライブしたいもん」
 免許の取得日は、新しかった。
「氏名 牧村 夕子」
「生年月日・・・」
 僕の目は、夕子の生年月日のところで、たじろいだ。僕はそのとき初めて夕子の年を知った。夕子は二十九歳。裏を返すと、写真が入っていた。夕子と一緒に、砂浜で撮った写真だった。白いTシャツにショートパンツ姿の夕子が、僕と肩を並べて写っていた。少女のような夕子の笑顔があどけない。
 僕は翻って、夕子の後を追った。夥しく人々が行き交う雑踏の中を、切り抜け切り抜け、僕は走った。僕の目は、はるかかなたの、暗闇に消えゆく夕子の姿をとらえた。
「夕子― !」
 僕は叫んだ。気づいた夕子は立ち止まり、振り返ると僕に手を振った。
「さよなら― !」
 それは、僕が聞いた夕子の最後の言葉だった。夕子は、再び闇に向かって駆け出した。僕は走った。夕子の後を追って、僕は走った。酒が僕の胸を締め付ける。夕子がどんどん遠ざかる。僕は、夕子の駆け行く闇の彼方に、おぼろげに光る物体を見た。
「夕子―、危ない!」
 悲鳴に似た金属音が、夜空を裂いた。夕子の体は宙に舞い、鈍い音が地を這った。

 青い空、
 白い雲、
 輝く太陽。
 すべてはあのときのままだった。僕は、改札口でたたずむ夕子の幻を見た。
 僕は、海岸線を一人で歩いた。絡みつく夕子のしなやかな腕の感触が、僕の右腕によみがえってきた。
 夕子の墓は、小高い丘の斜面にあった。
「夕子。僕はあれから見合いをした。美しい人だった。だけど、一度会ったきりで別れたよ。君はあのとき、僕に見合いの話があることを知って、動揺したね。しばらく考えた君は、私にもお見合いの話があるの、と言った。それは追い詰められた君の、可愛い嘘だったんだ。僕は君をなくして、恋人と妹を、一度に失った気がする。夕子。僕は、君のお母さんから話を聞いて、初めて知った。君は未熟児で生まれ、そして君は生まれて初めて恋をした。その相手が僕だったなんて・・・。
真紅のスカート、赤い唇の女。それは君ではなかったんだ。君は、身も心も、清らかなままで死んでしまったんだ」
 夕子の墓に、一匹のとんぼが止まった。