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通  夜

 シャワーを浴びて浴室を出ると電話が鳴った。
「おお、工藤か。久しぶりじゃないか。どうしてるんだ?」
「ああ、俺は元気にしてるよ。実はな、俺の家内が・・・」
 工藤は妻の死を告げた。電話での工藤は、心の動揺を隠そうと努めていたが、時々言葉が途切れた。吉崎は、こうして自分の妻の死を伝えてくる工藤の気持ちと、命のはかなさを思うと胸が痛んだ。
 工藤は柔道が好きだった。中学、高校、大学と、二人は共に柔道部に属し、好敵手だった。大学に入ってからの工藤は、吉崎にとって無二の親友となっていた。工藤は肩幅が広くがっしりとした体格で、いかつい顔に似合わず柔和な男だった。笑うと頬の肉が目尻の上まで盛り上がり、細い彼の目がますます細くなるのだった。
 吉崎は練習中に腰を痛め、それを契機に退部した。工藤は吉崎のいない柔道部に未練がなく、しばらくすると工藤も部を去った。柔道を離れても、吉崎と工藤は気の合う間柄だった。吉崎のそばには常に工藤がいた。工藤はシステム・エンジニアになるんだと言っていた。あの大きな体の彼が、コンピュータの小さなキーボードを叩いている姿を想像して、そのときはおかしくて笑った。そんな工藤も大学を出るとコンピュータの関連会社に無事就職した。旅行好きだった吉崎も希望がかなって、大手の旅行会社に決まった。大学を出て社会人となり、二人の間は自然と疎遠となっていった。あれから十数年。結婚したこと、子供もできたことを年賀状で知らされていたが、直接会う機会はなかった。半年ほど前の、早春のうららかな日、偶然にも出勤途上の地下街で工藤と出会った。工藤は元気な様子だったが、幾分やせて小さく見えた。妻と子供二人を連れていた。
「休暇をとって、家庭サービスだよ」
 工藤は明るく言った。

 吉崎は大学時代、怪我がもとで柔道部を去ってからは、歴史研究会に入っていた。遺跡を訪ねて歩くのを趣味としていた。旅行が好きだった吉崎は、たびたび工藤を誘った。工藤は乗り気でなかった。スポーツマンだった彼だが、なぜか旅を好まなかった。旅に出ると寂しくなるといった感傷的な、気の優しいところがあった。ついに吉崎は一度も工藤と共に旅することはなかった。
 そんな工藤がこうして旅に出ようとは。所帯を持つとこうも変わるものか。いや、変わらざるをえないのだ。俺の誘いは断われても、妻や子供にせがまれれば、仕方がない。妻に対する夫の、子供に対する父親としての、それが義務というものだ。妻のため、子供のため、一家の主人としてのそれが務めなんだ。結婚し、子供を育てるということは大変なことだ。吉崎はひとり身の自分に安堵するとともに、工藤をうらやましいとも思った。
 工藤の妻は工藤とは対照的に小柄な女だった。色白で、吉崎の手前、ニコニコと笑顔を絶やさなかったが、その笑顔の中に吉崎は病的なものを感じていた。
 工藤は無口な男だったが、あのときは、いやに多弁だった。
「君も早く嫁さんもらってお母さんを安心させてあげなければな。まあ、所帯を持つということはしんどいことには違いはないがね。それはそれで、楽しみもあるってもんだよ」
 工藤は笑っていたが、その声には暗い響きがあった。
 夫婦に子供二人。北海道旅行だと言っていた。次男坊は長男坊と同じ色をした大きなリュックを背負っていた。工藤とそっくりの顔をした長男坊の肩にはビデオカメラがかかっていた。
「色々と思い出にと、奮発して買ったんだ。子供にもせがまれてな」
「思い出作りか。楽しい土産話を聞かせてくれや」
 と、あのときは慌ただしく別れた。
 結婚し、子供をもうけ、そんな平々凡々な生活に抵抗し、今日までひとり身できた吉崎。ひとり身なるがゆえに、気ままな生活を送ってきたことは事実だが、年を重ね、白髪も目立ってくると、繰り返しのきかないこの人生に言い知れぬ寂しさを感じた。
 結婚を避け、好き勝手に気楽に生きてきたことを思うと、工藤に比べ俺はなんと無責任な男かと思ったりもした。

 吉崎は空気のいい郊外のマンションを借り受け、一人で住んでいた。
 親と離れて住んでいて、親のことなど普段は気にもとめないが、何か嫌なこと、人と争った後には、やっぱり親を思う。自分のことを本当に心配してくれるのは親以外にはないという思いを新たにする。そんなときは、いても立ってもいられない気持ちになって、里帰りするのだ。
 吉崎の実家は、中小企業の工場が建ち並ぶ公害の町。近くを流れる川は工場の廃液で、夏になると異様な臭いが漂っていた。それでも、そこは吉崎の生まれ育った懐かしい土地。そこに行けば、父と母がいる。吉崎が心の安らぎを感じるのはここ以外にはなかった。吉崎の親は、もういつ死んでもおかしくない年となっていた。

 地下鉄の改札を抜け、階段を駆け上ると、どんよりと雲が垂れ下がっていた。風がなく、額に汗が滲んできた。玄関は開け放たれていて、三足の靴が、靴先をそろえて置いてあった。インターホーンを鳴らすと、工藤が顔を出した。工藤は一言礼を言ってから、
「拝んでやってください」
 と、吉崎を招き入れた。部屋は冷えていて、気持がよかった。遺体の枕元には白布をかけた小机があり、ローソク、線香、しきみがのせられていた。茶碗に一膳飯、それに箸が突き立ててあり、遺体の顔には白い布がかぶせてあった。香をつまみ、額の高さまでおしいただいて、香炉の上に下ろす。香の匂いが鼻につく。厳粛な気分だ。目をつぶって合掌。焼香がすむと工藤は、傍らで深々と頭を下げ、
「ありがとうございました」
 と言った。黒々とした工藤の頭髪の中に、一筋光る白髪が印象的だった。吉崎は中腰になって席に戻った。先ほどからじっと座っていた工藤の長男坊が、代わって席を立った。香をつまみ、香炉に下ろし、手を合わせ、席に戻る。次男坊が長男坊に続いて同じ動作を繰り返す。次男坊が席に戻ると、長男坊が再び席を立つ。ひざまずいて遺体を前に手を合わせる。やがてすっくと立ち上がる。席に戻るかと思うと、戻らない。目を閉じ、手を合わせたままで、静かに拝んでいる。母の遺体を前にして、心の中でしきりに話しかけているようだった。もとより母は何も答えてくれない。彼の目には涙はなかった。涙はもう、涸れ果ててしまったのだろう。彼の母は、数時間前までは生きていた。子供たちと話をしていた。母は苦しい息の中からでも、声を出し、子供たちの話に答えてくれていた。母と子供たちとの間は、言葉という糸で結ばれていた。今はもう母はいない。話しかけても答えてくれる母がもういない。吉崎は、遺体に向かって幾度となく拝む子供たちの姿を静かに眺めていた。遺体は静かだった。それはもはや、冷えた一つの物体でしかなかった。人間の命のはかなさ。半年前に見た彼女の笑顔が浮かんできた。母の思い出が子供たちの脳裏を駆け巡る。

 お母さんが作ってくれた弁当を、大きな鞄に入れて通った幼稚園のころ。出がけに「いってらっしゃーい」と、お母さんは玄関で僕たちの姿が見えなくなるまで手を振っていた。お昼になって、小さな弁当箱を開けると、真っ白のご飯の上に胡麻塩がふってあった。黄色い卵焼き、赤い色をしたにんじん、緑色をした野菜がいっぱい入っていた。お母さんが作った弁当はいつも賑やかだった。小学校の入学式の朝、鏡の前で普段より丁寧に、化粧をしていたお母さん。何度も鏡を振り返り、ポーズをとっていたお母さん。家族で行った海。泳ぎ疲れて、お腹が減って、砂浜で、お母さんが朝早く起きて作ったおにぎりを、みんなで食べた。とても美味しかった。遊園地では、ジェット・コースターに乗ろうと言っても、お母さんはいつも恐がって一緒に乗ってくれなかった。僕も少し恐かったけど、お母さんは戻ってきた僕を優しく抱き上げてくれた。そんな優しいお母さんとの楽しかった思い出。いつも僕たちのそばにはお母さんがいた。もう一度、お母さんの声を聞きたい。もう一度、お母さんの温かい体に触れてみたい。もう一度でいいから、僕たちの願いを聞いてほしい。
 再び生きて返ることのない母。子供たちは、それを知りながらも、じっと静かに拝んでいた。

 翌朝、通夜の行なわれる良徳寺まで、吉崎は自分の老いた父母を思いながら歩いた。
「いずれ近いうちに、父や母との別れの日が訪れる。必ずそのときがやって来る。父が亡くなり母が亡くなったとき、俺は果たして耐えていけるのだろうか」
 親のありがたみは、いなくなって初めてわかるというが、吉崎は物心がついてからまだ肉親の死というものに出くわしたことがない。
「俺はこんな悲しい場面に耐えられるだろうか」

 喫茶店で軽い昼食をとり、寺の控え室に入った。控え室はクーラーが必要以上に冷えていて、汗が一瞬の間に引いた。すでに工藤の会社の同僚二人が駆けつけていた。座卓の上には弔問者記帳簿と香典帳が置かれてあった。弔電の整理、供花・しきみ、葬儀屋との打ち合わせもほぼ終わっていた。
 一息ついてから、外に出た。
 空を見上げると、雲が黒く立ちこめていた。一雨くるなら今のうちにと念じた甲斐があって、間もなく地面を叩きつけるように大粒の雨が降ってきた。さっと冷気が走った。
 時計を見ると、四時三十分。遺体は工藤の自宅に別れを告げて、運ばれてきた。

 通夜の受付は、葬儀屋の手でテントも張られ、机・イスも並べられて、手際よく済んでいた。受付のテントは畑に挟まれた細い道の片端に設けられてあって、パイプイスに腰かけながら後ろを振り向くと、畦道が走っていた。

 工藤の妻は小学校の教師をしていた。児童には慕われ、家庭では自分の子供たちのよき母であり、夫の工藤にとってはよき妻だった。通夜は七時からだったが、六時すぎにもなると、工藤の妻の死を知った母親たちが、子供を連れて続々と駆けつけた。
 工藤の子供たちの同級生の姿も見える。記帳簿を前になんて書いたらいいのと、小首を傾げて、母親にたずねている。母親はハンカチで目頭を抑えながら子供の背後に回ると、子供の小さな右手に自分の大きな右手をそえた。
 工藤の子供たちには、もう母と呼べる人がいない。なんという運命のいたずらなのか。なんというこの世の不平等。
 今、目の前にいる子供たち。彼らには優しい母がいる。この子供たちは、母の温かい愛情を一心に受けながら、青年へと成長していく。入学式や卒業式、いつも傍らには母がいる。
 工藤の子供たちにはもう母がいない。工藤の子供たちには母のいない入学式、母のいない卒業式が待っている。
 厳しい受験戦争を切り抜けて、晴れて大学合格。そして就職、結婚。人生で出くわす色々な喜びや悲しみを、母と共に共有できない子供たち。
「つつがなく育ってくれればいいんだが、寂しさは時が解決してくれるだろう。しばらくは姑との葛藤もあるだろう。俺は今からそれを心配してるんだ」
 工藤は昨晩、そんなことを言っていた。
 陰に陽に果たす母の役割。
 これからの工藤の肩には、父親としての工藤に加えて、母親としての工藤の役割が重くのしかかってくる。

 にわか雨があって涼しかったのも一瞬のこと。風はとまり、蒸し暑さがぶり返してきた。記帳する吉崎の手から滲み出る汗が香典帳を濡らした。
 暑さにたまりかねて礼服の上着を脱ぐ。それでもシャツの中では汗が、胸から腹から吹き出した。首筋から出た汗が、ツツツーっと背中を伝って、流れ落ちた。
 机を挟んだすぐ前で、工藤の職場の同僚二人が立っていた。香典を差し出す弔問客の一人一人に丁寧に頭を下げている。黒い名刺盆、記帳用の筆が見える。
 吉崎は香典帳の記帳に追われていた。蚊が吉崎の足を刺す。吉崎は用意されていた蚊取り線香に火をつけ、足元に置いた。それでもしばらくすると蚊はやって来た。寄り付く蚊を足で振り払った。
 暑い。蒸し暑い。汗がとめどもなく流れ落ちた。弔問客が途切れない。手から出た汗で香典帳が滲む。汗で腕にへばりつく。
 狭い道路が弔問客でいつの間にか膨れ上がっていた。
 戸外に設けられた通夜の受付。弔問客が、居場所を失い、受付前にも多くの人がひしめきあうように集まっていた。
 夜も九時。弔問客が別れを惜しんで離れようとしない。こんなに大勢の人がつめかけた通夜を吉崎が見るのは初めてだった。
 工藤の妻は小学校の教師だったということもあって、若い母親の姿が目につく。小さな子供たちの姿も多い。
 吉崎は幼いころを思い出した。夏祭り。狭い神社の境内、参道の両脇に店が並ぶ。裸電球が赤く光って、暗い夜空とひしめき歩く人たちの足元を照らしていた。真夏の夜。風もなく、ひといきれで蒸し返していた。赤い色や水色をした浴衣姿の人たちがたくさん集まっていた。花火の音が夜空にこだまし、子供らの歓声で賑やかだった。真夏の夜の蒸し返るような暑さの中で、吉崎はそんな祭りの光景を思い出していた。
 夏祭りと見間違うほどの弔問客の人出だった。だがここには、子供たちの歓声や花火の音はない。重苦しい空気、静かな世界が広がっていた。あちらからこちらからすすり泣く声が聞こえてくるだけだった。赤い色や水色の浴衣姿は黒い色の服に変わっていた。音のない世界で、大勢の人たちが、静かにうごめいていた。

 仮通夜のあった工藤の自宅。書棚には北海道旅行で撮ったビデオが置いてあった。子供が書いたのだろう。大きなたどたどしい字で、「北海道」とだけ書かれてあった。工藤が話題に困っていたとき、吉崎はそれを何気なく見つめていた。工藤は吉崎の視線に気がつき、それを棚から手に取った。工藤はまだ一度も見ていないと言っていた。
「子供たちは、旅行から帰ると早速、何度も見ては笑いころげていたよ。楽しく賑やかに騒ぐ子供たちを見て、妻は笑顔でいたが、涙をこらえていた。妻の気持ちを思うと、俺は一緒に見る気がしなかった。妻の命が幾許もないことを知っていたならば、子供たちも決して母と一緒に見ようとは思わなかったに違いない。見ると悲しみが増すだけだからな」
 工藤の妻はガンだった。吉崎が工藤に会ったあのときは、すでに手遅れだった。苦痛が彼女の肉体を襲っていた。
「妻の命があと数カ月と聞かされたとき、俺は慌てたよ。妻には悪性の貧血だと言ってごまかしてきたが、病状は医者の言う通りに進行していった。確実に妻は死へと向かっていたんだ。だが妻にガンであることを知られてはまずい。病気の原因はまだわからない。もう少し病状をみてみないと、はっきりしたことは言えない。そう医者が言っていると、だましだまし今日まできたんだ。苦しかったね。嘘を知られずに、嘘を通すというのはつらかった。避けることのできない死を前にした妻。俺はそのとき思ったんだ。ここで妻にできるだけの、最後の孝行をしてやろうとな」
 工藤の妻は旅することが好きだった。だが、工藤は旅を好まなかった。それゆえ、家族そろっての旅行はこれまで一度たりともなかった。
「妻はこんな俺に耐えていたんだ。子供たちにも寂しい思いをさせてきたと、今になって後悔したんだ。それで俺は、思い切って北海道旅行を決めたんだ。初めての、そしてこれが最後の旅行になるんだと思うと、それは悲しい旅だった。何も知らない子供たちは、ビデオカメラを母に向け、無邪気に騒いでいた。自分たちの母の命がもう数カ月しかないということも知らないで。知らないではしゃぐ子供たちの姿を見ていると、子供たちが哀れだった。俺は最初、こういう風に使うんだよと、ビデオカメラの説明を子供たちにしながら、妻の生きた姿をそれとなく撮り続けていた。最初は子供たちのためにと。そのうちに、妻の動く生きた姿が、間もなくこの世から見ることのできないものとして消えていくんだと思うと、この世から消えゆく妻の姿をこの今、俺が妻のために、いや俺自身のためにも、許す限り撮り続けなければならないんだと思うようになった。俺はあせっていた。気がつくと、必死になって撮り続けていた」
 工藤は手にしたビデオに目をやった。
「今になって考えてみると、妻は自分がガンであることを最初のころから知っていたんじゃないかって思うんだ。妻はあるときから急に明るくなった。そのとき俺は妻の病気が何万分の一、いや何億分の一かもしれない確率で治っていっているんだと思った。そう思いたかった。だが、それは淡い夢だったんだ。妻は明るさを、悲痛な思いで装っていたんだ。自分の病気がガンであるということを悟って、悟ったことを、俺や子供たちに知られまいと努めていたんだ。子供たちだけは無邪気で元気だった。子供たちのはしゃぐ姿を見ていて、妻はどんなにつらかったろう。何も知らずに明るく振る舞う子供たち。そんな子供たちが救いだったが、カメラを前にして、涙の零れ落ちるのを歯をくいしばって耐えていたんだと思うと、そんな妻がいじらしくてたまらなくなるんだ。妻は子供たちの前では笑顔を絶やさなかった。だが、俺は妻の笑顔の中に苦痛の表情を垣間みた。ときどき妻は歪んだような顔をした。一瞬涙をこらえているように見えたりもした。それはガンにおかされた肉体の痛みからだろうと思っていたが、そうではなかったんだ。妻は自分がガンであることを知っていた。余命幾許もないということも。知っているということを悟られまいとして、無理に笑顔を作っていたんだ。子供たちは何も知らないで、はしゃいでいるだけだった。そんな子供たちを見て、彼女は装った。子供たちの前では明るくと。あなたたちのお母さんは、もうすぐこの世からいなくなるけれど、お母さんがいなくなっても、お母さんと同じように明るく生きていくんだよと。あれは妻の子供たちに対する別れのメッセージだったんだ」
工藤は涙をこらえていた。
「俺が北海道へ行こうと言ったとき、妻はためらった。どうせ自分は死ぬんだ。そんな自分に無駄な金をつぎこませたくない。そんな気持ちが妻にあったのかもしれない。俺は一芝居うつことにした。ただ旅行に行こうと言っただけでは、俺が旅行嫌いであることを知っている妻は、おかしく思うだろう。俺は商店街のくじで当たったとだました。ペアで北海道へお誘いという抽選に当たったんだと。子供たちは、せっかく当たったんだからもったいないよ、行こう行こうと言い出す。妻はそれならと、やっと承知してくれた。いや、妻は知っていたんだ。俺の田舎芝居を。抽選で当たったんじゃないということを。妻は俺の魂胆を見抜いていたんだ。だが妻はこの際、素直に夫の愛を受け入れようと思っていた。子供たちも喜んでいる。ここで断り続けたら、互いに悔いが残るだろう。夫の最後の愛情を、素直に受け入れねばと思ったに違いない。
 子供たちは、行くと決まってはしゃいだが、妻の病状は良くはなかった。死へと向かっていることは確かだった。妻は子供のはしゃぐ姿を見るのが楽しかった。子供の存在が、ここまで妻の命を延ばしてきたんだろう。妻は死に際まで、しきりに子供のことを心配していた」
 吉崎には妻も子供もいない。妻や子供は、夫や親からみてどんな存在なのか。自分の命よりも子供の命の方が大切なものなのか。子供の可愛さは想像しえても、吉崎には子を持つ親の気持ちがどんなものであるかは、よくわからなかった。
「子供たちの姿を見て、妻は行く決心をしたようだ。妻は俺の気持ちを知って、素直にその気持ちを受け入れようとしたんだ。妻は子供のことを思い、俺は妻と子供のことを思った。病気になる前から、妻は明るい性格だったが、カメラを向けると、普段以上に明るく装った。それは妻の演技だったんだ」
 無口な工藤がしゃべり続けた。工藤は静寂が耐えられなかった。一瞬の静寂も怖かった。静寂が悲しみを誘う。時々深刻な表情を見せたが、工藤は努めて明るく装った。吉崎は、工藤の心を思うとつらかった。
「北海道から帰ってきて、しばらくは妻の容体に変化はなかったんだが・・・。覚悟をしていたこととはいえ、こんなに早く逝くとは思ってもいなかった。まだ若かった。若かったがゆえに病気の進行が早かったんだ」
 工藤はしゃべることによって悲しみを抑えていた。しゃべることによって悲しさを紛らわせていた。しゃべらずにはいられなかった。一瞬たりとも沈黙の時間が訪れると、涙が零れ落ちることを、工藤自身がわかっていた。
 工藤はこれから先の自分の運命、立場といったことをしゃべりだした。
 日頃は無口な工藤が絶え間なく話し続けた。
 とにかく彼は沈黙してはおれなかった。
 隣の部屋では、工藤の妻の母が、悲しみに打ちひしがれて泣きくずれていた。
「これから残された子供二人、どうして育てたものかと・・・。母のいない子供たち。母親もこれから色々と必要な年ごろになるというのに、本当に残念だ」
 工藤は疲れてきたのか、愚痴るような口調になってきた。
 工藤は静寂を恐れていた。話の種が尽きると、同じ話を繰り返した。
 席に座っていた長男坊が、再び立ち上がり、前に進み出て、手を合わせる。次男坊もつられて立ち上がり、遺体を前に拝む。香をくべ、手を合わす。香をくべ、膝を立てて、中腰になる。立ち上ろうとするかと思うと、振り返り、後戻りして正座。香をくべ、手を合わす。
 何度拝んでみたところで、奇跡が起こらない限り二度と帰らない母。奇跡という言葉がこの世にあるというならば、今ここで奇跡が起こってほしい。できることなら生き返らせてやりたい。この世に神がいるならば、神はこんなに惨い仕打ちはしないはず。ここで奇跡が起こらなければ、俺は神の存在など信じやしない。若くして妻に去られた工藤の落胆。やりきれない思い。できることなら俺と代わってやりたい。吉崎はそんな思いにかられた。
 吉崎は工藤の話を聞きながら、遺体を前にして手を合わせる子供たちの姿を眺めていた。遺体は子供たちの願いに答えて、一瞬動いたかのように見えたが、それは錯覚だった。
 遺体は静かだった。工藤の話し声が耳に入って騒がしかったが、遺体は静かだった。
 遺体をじっと見つめていると、時の流れが止まったような感覚に襲われた。
 すがりつくものを失ってしまった子供たち。すがりつきたい気持ちを内に秘め、遺体に向かって何度も手を合わせる子供たち。そんな子供たちの姿を、静かに見ていた吉崎の目に熱いものが込み上げてきた。吉崎は感情を抑えようと視線をそらし、まぶたを閉じた。暗闇が、まぶたの裏に映る残像が、尚更吉崎の心を揺さぶった。吉崎は抑えきれずに嗚咽した。
 今はまだ、子供たちの脳裏には母のイメージが焼き付いている。時が過ぎ、母の残像が薄れてきたころ、母を懐かしく思う日がやって来るだろう。ビデオの中で母は子供たちの前に現われ、子供たちのよき思い出としてよみがえってくる。果てしなく広がる原野、のどかな牧場の風景、神秘的な色をたたえた湖。広大な北海道の大地に花咲く自然の美しさと共に、母の笑顔が戻ってくる。そのときこそ、子供たちは母が生き返ったという瞬間を味わうんじゃないだろうか。動かぬ母を前にして、何度も手を合わせる子供たちを見ていて吉崎はそう思った。