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ちょっぴり悲しい僕の青春


 ブザーの音が鳴り響く。枕元の置き時計が、夜光塗料で光っている。空は薄暗く、紫色。間もなく夜明けだ。
 僕のお仕事は、ちょっと朝が早いけど、ちっとも苦にならない。六時三十分きっかりに起きて、起きてといっても目を覚ますだけ。八時になると朝のお食事。何をするということもなく、お腹が減ってきたなあと思ったころ、タイミングよく、お昼のお食事が運ばれてくる。そして食後のお昼寝。これがまた、僕の大切なお仕事。夜更かしだけは禁じられているから、ちょっぴりおもしろくないけれど、気楽なお仕事であることに変わりはない。こんな生活してても、だれからもお小言はない。
 そう、僕は病気でベッドの中。どんな病気だって?  僕にもよくわからない。自覚症状ってものが少しもないんだ。お医者さんがレントゲン写真を前にして何やら熱心に説明してくれるけど、これもお医者さんのお仕事なんだと思って聞いているだけ。黙って聞いているだけではいけないと、わかったようなふりをしてうなずいている。寝汗をかかないか、胸が痛まないか、とたびたび聞かれるけど、そう言われてみればそんなこともあったかなあーって考えてみる。でも、気のせいだと思っている。

 パタパタパタパタとシューズの音。二階建ての古びた建物。ギシギシときしむ音が伝わってくる。看護婦さんが体温計を配りに回っているんだ。僕のいる病室は一階の端。看護婦さんの詰所からは一番遠く離れている。
 パタパタパタパタ。音が段々大きくなって、もう僕のいる部屋の上。トントントントンと、階段を下りる音。胸がときめく。由香里が間もなく、この僕のいる病室にやって来るんだ。
 僕の恋人だから「由香里」と呼び捨てにするけど、僕の恋人と勝手に思っているだけ。その由香里が今、僕の目の前にいる。紛れもない僕の恋人、由香里。
「おはよう!」
 鈴の鳴るようなって、こんな声のことを言うんだろう。白くて、かぼそい腕。差し出された体温計を受け取るとき、かすかに由香里の指に触れる。 僕の胸の鼓動が高まる。 由香里は何事もなかったように、軽快な足取りで、隣の部屋へと去っていく。束の間の静寂。数分後に彼女が戻ってきた。
 僕の手首をつまんで脈をとる。ひんやりとした彼女の指先。三角形に突き出た胸の膨らみ。僕の目の前で息づいている。決して大きくないけれど、白衣に包まれ輝いている。
「異状ない? 一郎君」
 彼女は優しく問いかけてくれるけど、僕はいつも、「うん」と答えるだけ。 だって、いつも異状なんてないんだ。
「お大事にね」
 由香里はそっけなく、体温計を振り振り部屋を出て行く。僕は少しでも彼女に長くいてほしい気持ちなんだけど。次に彼女に会えるのはいつかな。明日も会えるのかな。看護婦さんの勤務って、どうなっているのかわからない。もしかしたら、今日が最後の日なのかもしれない。そう思うと不安がよぎって、由香里に対する思いが余計につのるんだ。

「よう、一郎! 久しぶりだね」
 男まさりの正江が、紀代美と多恵子を連れて見舞いに来てくれた。
「元気にしてるかい? ああ、元気なはずなかったわね。ここは病院だもの。一郎は病気で入院してたんだっけ」
 正江が一人で話して、うなずいている。
「空気がおいしいわ」
 紀代美は、窓のそばで深呼吸。
「私たち、これから映画を見に行くんだ。一郎も行こうよ」
 いたずら好きの多恵子が言う。
「多恵子ったら、よしなさいよ」
 正江が多恵子の言葉をさえぎる。
「一郎君がっかりするじゃない」
「どうしてよ。早く病気を治してっていうあたしの温かい気持ちがわからないの。元気になったら、こんなに自由に遊べるって、元気づけてるんよ」
 多恵子が屈託なく笑う。僕は病気だというのに、賑やかなこと。見舞いに来てくれたのか、ピクニックにでも来たのか、わけがわからない。でもやっぱりうれしいね、友達って。
「伸一と信夫はね、今日から旅行だって。そのうち見舞いに行くから、楽しみに待ってろって。それまで元気でいろって」
「元気でいろって? 僕は病気だけど、今にも死にそうな病人じゃないよ」
「そんな風に聞こえた。だって一郎、この三学期の中途から急にいなくなって、そのまま今日まで来たでしょ。命にかかわる病気にかかっているって、みんなそんな風に思ってたんだから」
 正江が口をとがらせて言う。 三人は、はしゃぐだけはしゃいで帰って行った。ベッドの足元には、たくさんの見舞いの菓子や果物が、無造作に置かれている。部屋の中が急に静かになると、僕は寂しくなった。

 お父さんは毎週日曜日、欠かさず見舞いに来てくれる。子供の面倒をみるのが、親のお仕事。でも、お父さんは、バスが超満員でここまで来るのに大汗かいたと言っていた。仕事で疲れて、日曜日は家でゆっくり休みたいだろうにと思うと、僕の心は痛むんだ。白髪が目立ってきたけど、僕のせいかな。
 小学六年生の優しい妹。気持ちはよくわかるんだけど、少女趣味の本ばかり。僕のために買ってきたなんて言ってるけど、おかしいよ。きっと自分が読みたいからなんだ。
 退屈だろうと、お父さんも、なんとかジャーナルっていう雑誌、毎週持って来てくれるけど、これもお父さんのお下がり。僕にはむつかしすぎるよ。
 どうも好みに合わないものばかり。僕はコミック漫画がいいんだけれど。

 今日は入院してから初めての清拭。僕はベッドの上で、正座して待っていた。上は丸裸。しばらくしてから、な、なんと、あの由香里。お湯であふれんばかりの大きなバケツを両の手に、よろりよろりと入ってきた。僕は由香里を前にすると胸がときめくけど、このときばかりは、いつもと違った。僕の心臓ははちきれんばかり。顔が真っ赤になっているのが自分でもよくわかったよ。
「さあ、準備ができましたよ。ここに掛けてね」
 まるで小さな子供をあやすよう。僕はもう子供じゃないんだ、と言いたい気持ち。由香里は僕をまだ子供だとしか見ていないんだと思うとがっかりする。
「下のパジャマも脱いだほうがいいわね」
 僕はこんなに恥ずかしい思いでいるのに、由香里は無頓着。いくら子供だって恥ずかしいよ。僕は恥ずかしい年ごろなんだ。
 ごしごしと肌が痛くなるほどこすると、垢が消しゴムの滓のように、よれて出てくる。
「わあ、すごい! 」
 由香里は、気にしないで言う。
「体重、計ってごらん。だいぶ減っているわよ」
 なんて、冗談言ってくれても、僕は少しもうれしくなかった。どこまで拭いてくれるんだろう。ちょっぴり不安な気持ちで、気が気でなかった。由香里はタオルを軽く絞って、僕に渡すと、
「はい、一郎君、ここまでよ。あとは自分でね」
 僕はほっとした。

 狭い個室。ベッドで寝たまま手を伸ばせば、もう窓の外。窓から小さな棚が突き出ている。そこにベゴニアの植木鉢が一つ。正江に紀代美に多恵子。仲良し三人組が、協力しあって届けてくれた。蜜蜂が、花の蜜を吸ってはどこかへ運んでいく。しばらくすると戻ってくる。そんなことの繰り返し。小さな命。生きるための小さな営み。僕はベッドの上から眺めていた。昼下がり。由香里に体を拭いてもらっていい気分。僕は陽気に、うとうとと寝入ってしまった。


 十五歳の僕は、中学三年生。三学期も中途。今ごろ、みんなは高校受験の準備に追われているだろうなあ。

 お母さんが今朝、卒業証書を持って見舞いに来てくれた。卒業証書の入った黒い筒。ふたをとるとポンと音がした。 広げて見てると、本当に卒業はできたんだっていう、うれしい気持ちが込み上げてくる。
「いつまでも若々しく、いつまでも明朗で」「前途を祝す」「前進」「希望」「友愛」
 卒業を記念しての、みんなの寄せ書き。
「卒業おめでとう。みんな巣立った。君も早くよくなって、元気な顔を見せてほしい」
 恩師の生田先生。
 通知票。出欠の記録が書かれている。一学期、二学期―欠席・遅刻・早退なし。三学期―授業日数五十七、出席日数二十。国語・社会・数学・理科・音楽、みんな五から四へと落ちている。この三学期は、欠席のほうが多かったんだから仕方がない。

 伸一に信夫、正江、紀代美、多恵子。みんな僕をおいて去っていったんだ。おいてけぼりをくったって感じ。

 一人で寂しいだろって、お母さんは言うけど、僕は過保護な子供に見られたくないから、もう来なくっていいよって、いつも言うんだ。本当はね、僕には由香里がいるから少しも寂しくなかったんだ。

 昼からレントゲン。こんなにエックス線を浴びても大丈夫なんかな。少し不安。

 看護婦さんの詰所で、胸に溜まった水をとる。看護婦さん、二人がかりで僕の腕をつかんでバンザイさせた。僕はまな板の鯉。強い力で、抵抗できなかった。脇腹から、肋骨の間をめがけて針を刺す。この医者、もしかして僕に恨みがあるんじゃないかと思ったよ。

 血沈。赤血球沈降速度っていうらしいけど、それを測るために血をとられる。注射なんてもう慣れてしまって痛くもない。

 入院してからはや一カ月。病状は入院当初と変わりなし。体を動かすこともなく、終日ベッドの中でじっとしているのに、お腹が空く。体重は四十八キロ。入院当初は四十四キロだったから、一週間に一キロずつも肥えた勘定。こんなに気楽な生活しててもいいのかな。

 入院してから初めての散髪。病院内の散髪屋さんが店を閉めて、僕の病室まで出張してくれるんだ。ベッドの上で腹ばいになったり、仰向けになったり。顔を剃ってくれたけど、少しも気持ちよくない。こんなベッドの上でするなんて、まいっちゃうよ。

 入院してから二カ月、あっという間に過ぎたけど、ここの生活に慣れてしまうと毎日が退屈で仕方がないんだ。ジュースの空き缶で首振り人形を作った。貯金箱になっているところがミソなんだ。由香里にプレゼントしたら、「一郎君って器用ね」って、喜んでくれた。僕は満足だった。空き缶の口で指をちょっぴり怪我したけど、目ざとく見つけた由香里。僕は大したことないからいいよと言うのに、詰所においでって。白い大きな包帯で、僕の指を大層に巻いてくれた。由香里は優しいんだ。

 夜、みんなが寝静まったころ、看護婦さんの詰所の前にあるトイレに行ったんだ。病院って眠りを知らない。蛍光灯が明々とともっていた。看護婦さんの姿は昼間と違って二人しか見かけなかった。何かカルテを整理しているみたい。由香里じゃなかった。 由香里は今ごろ、可愛い寝息をたてて眠っているんだろうな。看護婦さんのお仕事って大変だから、体に気をつけて由香里。

 伸一に信夫。必ず見舞いに来ると言ってたのに。ああ、僕は悲しくなる。病気で寝ている僕のことなんて、とうに忘れてしまったんだ。二人は高校へ進学し、きっとそこで新しい友達ができたんだ。冷たいよな。でも悲しくなんてない。僕には由香里がいるから。

 今日は院長先生の回診があった。由香里は院長先生と婦長さんに挟まれて、いつもと違って緊張してた。そんな由香里が可愛かった。
 病気の経過は良好だけど、透視をしなければ、肺内部のことまでははっきりしないとか。 試験のため少量の水をとられた。胸に痛みや、呼吸に苦痛がなければ、水をとらずに治療するのがよい。食事の制限はしていないが、刺激物は避けたほうがいいって。
 来月早々にレントゲンを撮る予定。

 僕の名前は「一郎」。だから多恵子は、見舞いに来たとき、「一郎は、一浪する運命になってたんだ」って、からかった。二郎や三郎でなくってよかったよ。これは冗談だけど、僕、本当は深刻なんだ。中学は滑り込みセーフでなんとか卒業できたけど、いつまでもこんな病院生活続けてられないんだ。来年春には高校受験が待っている。診断書では六カ月で治るってことになっているけど、治ってから勉強始めるんじゃ遅すぎる。 僕はお母さんに、教科書を持ってくるように頼んだけれど、お母さんは複雑な気持ちだっただろうな。お父さんやお母さんだって心の中では、来年の春には見事高校合格を果たしてほしいと思っているんだ。 婦長さんに見つかると少し怖いけど、婦長さんも僕の気持ちに理解があって、このごろは見て見ぬふりをしててくれる。

 この間撮ったレントゲン。当分治療が必要だって。中止していた注射も再開。 ああ、悲しいかな。やはり無理をしたのかな。でも、うれしいな。由香里とお別れするときが延びたんだ。

 特別室にいた重症の人。昨日の夕方に亡くなった。近くの煙突から、白い煙がうっすらと立ち昇っている。病院の近くに火葬場なんてあるわけないと思っているけど、僕にはその人が今そこで焼かれているって気がした。

 一家の大黒柱の人。入院費がかさむといって、治らないまま退院していった。 僕は、自分の病気は必ず治るって信じている。

 体重五十一キロ。体重だけは順調に増えていく。まるで飼い猫みたいな肥満児。こんなに肥っていいんだろうか。

 洗面所で顔を洗おうとして、少し前かがみになったとき、後ろからキリで刺されたような痛みが走り、思わず振り返った。だけどだれもいなかった。癒着現象といって、病気が治ってきた証拠なんだって。朝の検温のとき、ちょっと痛いと言ってみたら、少し年とった看護婦さん、大きな注射器持ってきた。痛み止めか何か知らないけれど、僕は馬じゃないんだ。由香里に言えばよかった。

 レントゲン結果聞く。血沈は普通人並みに戻って、水もない。順調に快方に向かっている。安静度四度になる。体重は五十二キロ。 病院の庭の花が満開。
 散髪は一人で行ってもいいって。 こうでなくっちゃ。頭がすうすうして、気持ちがいいよ。

 夕方、蚊帳の支給があった。自分で吊るんだって。安静度が二度や三度のときは看護婦さんがしてくれるらしいけど、病気が回復してくると、うれしいやら悲しいやら。病人なんだといって、いつまでも甘えておれないんだ。

 夏の甲子園。高校野球が花盛り。廊下を歩いていたら、部屋で野球賭博をやっている。ベランダでカーテン引いて、隠れるようにビールを飲んでいる。煙草の煙もたちこめている。病院内ではご法度。ちょっぴり反抗的な気分になったけど、お医者さんも大目にみているらしい。療養所。二年も三年もここで生活している人もいる。みんな退屈しているんだ。
 おじさんたちは退屈しのぎに、看護婦さんに無理な要求したり、若い看護婦さんを見つけては、からかったりするんだ。由香里もいつか卑猥な言葉でいじめられていたことがあったっけ。看護婦さんって、みな気が強いんだけど、由香里は真っ赤な顔をしてた。ひ弱な僕だけど、あのとき由香里がかわいそうで、僕の手でかばってやりたいなんて思ったけど、何もしてやれなかった。

 由香里は僕より年上だってこと、わかっている。「好きだ」なんて言うには早すぎる年ごろ。でもなんか変な気持ち。大人の恋ってどんなものか知らないけれど、これが初恋っていうんだろうな。

 病院の敷地内に、猫の額ほどのゴルフ場がある。僕が松かさをゴルフボール代わりに蹴って遊んでいると、いつもここでゴルフをしている患者のおじさんが、
「僕、ゴルフやるか? 道具貸してやるから」
 って言ってくれた。かわいそうだと思ったんだろうけど、僕はなんとなく恥ずかしかったんで、断った。ゴルフなんて興味なかったし、ちょっぴり遊んでみたかっただけなんだ。

 頭が禿げてツルツルのおじさん。誘われて部屋に入ると、ベッドの周りには、卵の殻で作った人形がいっぱい置いてあった。

 病院の廊下を、バンジョーを弾きながら通り過ぎていく人。僕は音楽に興味がなかったから、やかましかっただけ。だけど後で、大層上手な人なんだって知らされて、そう思って聞いていると、心が洗われるようだった。音楽っていいな、とそのとき初めて思った。

 安静度は五度。散歩もしてもいい。 小さい体に大きな帽子。小柄な体の由香里が、僕のすぐそばにしゃがんでいる。夕食に出た肉の塊。糸の先に結わえて、池の中へ吊す。調理場の排水溝があって、ザリガニがたくさん寄り集まっているんだ。しばらくしてからゆっくりと糸をたぐりよせると、大きな赤い色をしたザリガニが、えさの肉を挟んだままで浮いてくる。大概はすばしっこくて、赤い体が水面すれすれのところまで浮き上がってくると、危険を感じて逃げてしまう。素早く糸を引っ張るタイミングがむつかしいんだ。
「あっ! 一郎君。ヘビよ、あそこ」
 由香里の指さす向こう側に、一メートルもある青大将。
「青大将って、毒を持っていないんだ」
「でも、気持ち悪い」
 由香里は青い顔をしてた。僕はへっちゃらだった。 ヘビは何かをねらっている。周囲の色に紛れて見えなかったけど、よく見ると、ヘビのすぐ先五十センチほどのところに大きなカエル。ヘビはゆっくりと、目標に近づいていく。 由香里の体は硬直している。 僕はじっとヘビの動きを見ていた。 由香里は突然大きな声を上げると目を伏せた。 カエルは由香里の声に気づいて、池の中に飛び込んだ。 ジャボンという音がおさまってから、由香里はおもむろに顔を上げた。
「大丈夫だよ。カエルは逃げた」
「そう」
 由香里はほっとした表情を浮かべた。僕はこのとき、由香里は優しいんだなって思った。 ヘビは照れ臭そうにゆっくりと体をくねらせながら後戻りし、いつの間にか視界から消えていた。

 僕の健康は順調に回復。体のどこにも痛いところはない。注射もなくなった。 僕はもう病人じゃない。 いくらなんでもこれ以上、こんな生活続けてられないよ。家に帰りたいよーお。
 由香里にお願いしたら、主治医の佐々木先生にたずねてくれた。
「先生がね、外泊していいって」
 由香里が「外泊願」って用紙をくれたけど、理由っていう欄があって、僕はなんて書こうかと迷っていた。お母さんがそのように書けって言うから「家事都合」なんて書いたけど、しっくりしなかったなあ。

 久しぶりの外出に日の光がまぶしかった。白い建物が、夏の太陽の光を反射して、黄色い色に見えた。 今日のためにお母さんが買ってきてくれた革靴。革靴を履くのって初めてなんだ。少し大人になったって感じ。
 駅のトイレの鏡の前で、顔を映してみると、僕の顔色は真っ白だった。
 僕はバスに弱い。バスと聞いただけで気分が悪くなってくる。あのふわふわした揺れ方がいけないんだ。電車なら大丈夫。
 今日は電車だからと安心していたんだけれど、気分が悪くなって、途中で降りた。 天気はよかったし、少しばかり暑かったけど、歩くことにした。 僕は歩くことには自信があるんだ。 橋を渡り、大きな交差点を右に折れると並木道。道路の幅が一段と広くなる。 車が軽快な排気音を上げて、通り過ぎていく。排気ガスの臭いが鼻に残ったけど、なつかしい臭い。
 並木道は途切れることなく続いていた。僕の足になじんでいない革靴。くるぶしがこすれて痛くなってきた。 もう一時間は歩いただろうと思ったころ、目印の赤い看板が見えてきた。末広塗料店っていうんだけれど、そのすぐ手前の交差点を右に入ると、車が辛うじて擦れ違うことのできる狭い道。玄関には小さな植木鉢が幾つも並べてあって、下町情緒の漂う家並みが続く。もう数百メートルも歩くと我が家が見えてくるはずだ。
 元気になったと言っても、僕はまだ病人。こんなに歩いてよかったのかな。婦長さんにわかったらお目玉くらうだろうな。でも僕は気持ちがよかった。 自由っていいな。
 家に着いたのは、お昼ちょっと前。お母さんは、もう着くころだろうと、西瓜を冷やして待っていた。
「遅かったね」
 お母さんが心配してた。
「ちょっと買いたい本があって寄ってたんだ」
 僕は嘘をついてしまった。 西瓜はよく冷えていて、美味しかった。病院でも出たことあったけど、こんなに大きくなかった。 日が沈むころには、妹やお父さんも帰ってきて、久しぶりの家族団欒。 明日は日曜日。お父さんもお仕事はお休み。妹も僕のために友達の誘いを断って家にいてくれる。
 夕飯を終え、みんなでテレビを見て笑った。 僕は碁をしたくなった。お父さんから教わって、小学生のころから知ってるんだ。僕が頼むと、お父さんは、「よっしゃ」とにこにこしながら付き合ってくれた。きっとお父さんもしたかったんだ。 いつもは時間に厳しいお父さん。囲碁に夢中になって、時計を見ると十二時をとうに回っていた。 僕はちょっぴり親孝行をしたんだなって気持ちでいた。

 僕はもう一カ月もすると退院できるんだ。

 空気がひんやりとしていて、冷たい。 夏も終わろうとしている。土や草の匂いが、あたり一面に漂っている。新鮮な朝。いよいよ退院の日が来たのだ。
 長い間お世話になった、主治医の佐々木先生をはじめとして、看護婦さんたちが玄関前でずらっと並んで立っている。いつもは厳しい顔の婦長さん。今日はニコニコしている。
 由香里の姿も見える。 小柄な由香里だけれど、僕にはだれよりも目立って見える。 みんなが僕と握手をしてくれた。僕は由香里とも握手した。 由香里の手は、とても白くて冷たかった。 僕は車の後部座席に乗り込んだ。 車がゆっくりと走り出す。
「二度と戻って来るなよ! 」
 恒例の言葉。主治医の佐々木先生の大きな声だ。 車が少しばかり走って方向を変えると、みんなの姿が見えなくなった。僕は後部座席で体をよじって、ガラス越しに後ろを眺めた。 佐々木先生が音頭をとって、みんなバンザイしてくれている。僕の目に涙がちょっぴり込み上げてきた。 由香里が小さな体で、精一杯手を振っている。 由香里とはこれが本当の最後のお別れになるんだ。もう会えないんだと思うと胸が痛む。
 車が速度を速める。 病棟の裏の小山が見えてきた。緑の木々で生い茂っている。 真夏の夕暮れどき、由香里と一緒に登った記憶がよみがえる。
 真夏でも、頂上までの道は涼しかった。
「一郎君も体力つけとかなくっちゃ。一郎君の胸ってペッタンコなんだから」
 僕は由香里の後ろについて登る。由香里の白衣の裾がなびいて、僕の顔をくすぐった。 
 頂上では、由香里がハーハーと息をはずませながら、石に腰かけ待っていた。 僕はやっとの思いで、最後の一歩を勢いよく駆け登った。
「ああ、いい気持ち」
 由香里は何度も深呼吸した。そのたびに、白衣に包まれた由香里の胸の膨らみが揺らいで、僕の目はまぶしかった。 由香里の黒髪が汗に濡れて、その一筋が由香里の白い額にへばりついていた。 しばらく休んでいると、日がかげり、さわやかな風が吹いてきた。
「さあ、下りるぞ。今度は一郎君が先だ! 」
 由香里が僕の肩を叩く。 僕は元気な子リスのように、坂を駆け下りた。
「急な坂だから、下りるときのほうが危ないから気をつけて! 」
 澄んだ由香里の声が、林の中でこだました。
「そんなに走ったら体に悪いわ! 」
 由香里のそんな言葉を背に受けて、僕はうれしかった。由香里は僕の体のことをいたわってくれているんだ。そう思うとますます、由香里は僕の由香里なんだと、自分勝手に思ってしまう。
 今になって僕は、もっと由香里と話をしておけばよかったと、そんな悔いが残るんだ。 いつか由香里も、僕の知らないうちに、だれかのお嫁さんになるんだと思うと悲しくなってくる。
 車はますますスピードを上げ、由香里の姿が遠ざかっていく。由香里が小さく小さくなっていく。由香里と握手したときの感触が、僕の手の中に残っている。
 車が交差点を右に折れると、由香里の姿は視界になかった。