羽 ば た け 蝶 々
-自由と愛について-



 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」・・・ガラテヤ人への手紙5章13節。

人間は花の美しさを発見しました。人間は花を愛します。あなたが肉体の痛みに悶え、心の悲しみに沈んでいる時、ふと道端で可憐に咲く花を見て、痛みが和らぎ、心の和む思いをしたことがあるでしょう。それはどうしてでしょうか。その時のあなたの心が自由になったからです。刹那にも、あなたが人間のあらゆる悪徳から解放され、本来の優しい人間に戻ったからです。
 人間は身も心も自由になった時、花やそれに群れ集う可憐な蝶の美しさをたたえることができます。人間には本来、弱いものを助け、慈しむ心が隠されているのです。人間は自由になった時、素直に自然を愛することができます。自由があれば素直な心に戻れるのです。人間の素直な心、それは正義であり、憐れみであり、謙遜、誠実、寛容、親切です。
 神は人間を自由なものとして造られました。自由は神からの人間への最大の贈り物といわれています。自由からは、あらゆるものに対する愛が生まれてきます。人間が容易に隣人を愛することができないのは、人間がこの自由を失っているからです。
 人間の歴史は自由を勝ち取るための戦いでした。今なおこの戦いは続いています。万物の霊長と自負する人間の知恵をもってしても、人間同士の対立が後を絶ちません。現代社会にあっても、未だに人間のありとあらゆる悪徳が蔓延しています。人間の悪徳は、数え上げれば切りがありません。敵意、非寛容、利己心、嫉妬、恨み、軽蔑、尊大、嘘、中傷、からかい、いじめ、差別、偏見等々。これはすべて人間の不自由が生み出した悪徳です。
 自由と愛。それは人間にとって大いなる善です。しかし、その美しい言葉の背後に、悪魔が潜んでいることを見逃してはなりません。自由や愛の名の下に、どれだけ多くの罪が犯されてきたかは、歴史を振り返ればすぐに分かることです。自由は自分だけが勝手気ままに振る舞いたいためにあるのではありません。自由のための戦いは、自分の自由を勝ち取るための戦いであるとともに、自分以外のすべての他人の自由をも、同時に勝ち取るための戦いでなければいけなかったのです。

 自治会集会所の窓からは公園が一望できる。ブランコ、滑り台、砂場が見える。子供たちが、奇声をあげながら駆け回っている。公園の中央では、母親たちが輪になって、立ち話をしている。時々彼女たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。
 班長の村松さんが、窓際に立って遠くの方を指さした。
「あの子ですよ」
「あの子って?」
 自治会長の林田さんが、どれどれというふうに、窓から顔を突き出した。
「あそこのベンチに腰掛けている・・・」
「青い色の服を着た子かね」
「そうです」
「あまり見かけない子だが・・・」
「先月引っ越してきた、中西さんの息子さんですよ。ああ見えても、二十歳は過ぎているということです」
「おとなしそうな子に見えるがね」
「それが問題なんです」
 村松さんは眉間に皺を寄せた。
「どこかおかしいと思いませんか。何をするということもなく、ずっとベンチに腰掛けたままで・・・」
「そういえば何となく・・・」
「実は昨晩、あの子の隣の関口さんの奥さんが、私のところへ駆け込んで来たんですよ。えらい剣幕でしてね。辛抱できなかったんでしょう」
「辛抱できない?」
「そう。隣の中西さんから、喚き声と、物を叩くような大きな音が聞こえてくるっていうんです。どうもあの子が原因らしいんです。これで三度目なんですよ。昨晩は特にひどかったんでしょう。今のところ、苦情は関口さんからだけなんです。それで困っているんですよ。関口さんの奥さんは、何でもひどく大袈裟に騒ぐ人ですからね。それで私の方でも、適当にあしらってはきたんですが・・・」
「三度目となると、自治会としてもほっておくわけにはいかないだろう」
「そこでひとまず、会長さんにも関口さんの苦情とやらを聞いていただきたいと思いましてね」

 午後八時。林田さんと村松さん、それに関口の奥さんが、集会所に集まった。
「もうしばらく様子を見てからというわけには・・・」
 村松さんが、おどおどとした口調で言った。
「あなたは離れた所にいらっしゃるから、他人事でいられるんですわ。毎晩のことで、私はもう我慢できませんわ!」
「ご事情は分かりますけど、実はこの件で苦情が出ているのは、関口さん、あなただけなんですよ」
「私だけですって!」
「自治会としても、全体の問題として取り上げることが難しいんです。特に反対隣の立花さんからは、何の苦情も出ていないということですし・・・」
「立花さんは何もおっしゃっていないんですか」
 傍らで会長が、そうだというようにうなずいた。
「信じられませんわ。こんなに毎晩やかましいというのに。黙っているなんて無責任です。これはみんなの問題なんです。立花さんにもここへ来てもらっていただけません!」
 関口の奥さんは、昨晩の興奮がまだ冷めていない様子である。
「村松さん。この際ですから、立花さんを呼んできてくれませんか。立花さんからも事情を聞いてみないことには・・・」
 村松さんがおずおずと席を立った。

 村松さんが立花さんを連れて戻って来た。立花さんは会長に向かって会釈すると、静々と関口さんの前の席に腰を下ろした。
「立花さん。どういうことが起こっているか、あなたはご存じなんでしょ」
「・・・」
「私たちが一番の被害者だというのに、何もおっしゃらないの」
「・・・」
「ねえ、どうして黙っていらっしゃるの」
「・・・」
「ねえ、立花さん。自分の意見は遠慮なく、率直におっしゃった方がいいわよ。みんなのためなんだから・・・」
「ですから・・・、私は辛抱できないというほどではないと・・・」
「あなたは何とのんきなことをおっしゃってるんです! いいですか、立花さん。これは一人の問題ではないんです。みんなの問題なんです。被害を被っている当事者みんなが協力して、直接声をあげないといけないんです。会長さんだって、問題として取り上げられないって言ってるじゃないですか。ここは一致団結して、言うべきことは言わないとだめなんです。あなたがそんな態度では、私だけが悪者のように思われるじゃないですか。本当に気にならないんですか」
「・・・」
「全く気にならないんですか」
「少しは気にはなっていますが・・・」
「そうでしょ。気になるでしょ。耳障りでしょ。やかましいでしょ! うるさいでしょ!  だったら一緒になって抗議すべきです!」
「病気だとお聞きしていますし、病気だったら仕方がないと思ってるんです」
「病気だったら仕方がないですって! 自分一人で苦しんでいる病気なら、個人の勝手だけど、他人にまで迷惑をかけるような病気を、病気だから仕方がないって済まされてはたまりませんわ。病気になるからにはね、本人に責任があるんです。家族にもね。この際、中西さんにも来ていただきましょうよ。でないと、らちがあきませんわ」
 村松さんが会長の耳元でささやいた。会長がうなずくと、村松さんが疲れた様子で席を立ち、中西さんを呼びに行った。

 会長の林田さんが窓際に立って、ぼんやりと公園を眺めている。すでに日は落ちて、公園には誰もいない。中西さんは関口さんの真ん前で、被告人のように座らされている。村松さんはいつの間にか逃げるように、テーブルの端に席を移していた。
「私たち親子は、あなたの息子さん一人のために、大きな迷惑を被っているんです。私たち親子は、あなたに何か迷惑になるようなことをいたしまして・・・」
「いいえ・・・」
 中西さんが、申し訳なさそうに答えた。
「そうでしょう。だったら、どうして私たちだけが、一方的な迷惑に対して、一方的に忍従しなければならないんですか」
「私としては、できるだけのことはしてきたつもりなんですが・・・」
「迷惑をかけているということは、少しは分かっていらっしゃるんですね」
「それはもちろん・・・」
「だったらどうにかなりません?」
「あの子は病気なんです。あの子は病気で・・・」
「そんなこと私の知ったことじゃないわよ。それで、病気って、一体どういう病気なの?」
「それが・・・」
「言いにくければ言わなくったっていいわよ。あれなんでしょ。精神分裂病。何をしでかすか分からないって・・・。よく新聞に・・・」
「それは偏見です!」
 立花さんが、突然席を立って叫んだ。
「精神病だからといって、危険な人間だって考えるのは偏見なんです!」
「あら、立花さん、どうなさったの。急に元気が出てきたみたいね」
 関口さんが、からかうように言った。
「何となく普通の人と違うとか、そんな中途半端な知識が恐いんです。正しい知識が必要なんです!」
 立花さんの鋭い視線に、関口さんがたじろいでいる。
「あなた、私に説教されるんですか。私だって、病気だから仕方がないって、同情はいたしますわよ。でも、本人に責任がないとしても、親には責任があるんじゃないですか。親には他人に迷惑をかけないように、自分の子供を監督するという義務があるんじゃないですか」
「私としては、できるかぎりのことはしてきたつもりなんですが・・・」
 中西さんが、うつむいたままでつぶやいた。
「そんなこと、さきほどお聞きしましたわよ。そんな親の義務が果たせないって言うんだったら、入院させるべきじゃないんですか」
「私、あの子だけが生き甲斐なんです。あの子はあんな子だから、なおさら私の手元に置いておきたいんです」
 中西さんの声が、祈るように聞こえる。
「親としての義務を果たせないあなたに、そんな資格はありませんわ」
 関口さんが、吐き捨てるように言った。
 「こんな親子には、生きる権利がないとでもおっしゃるんですか! 障害者は、親子共々死ねとでもおっしゃるんですか!」
 中西さんの声が急に大きくなったものだから、関口さんが戸惑っている。
「何もそうまで言ってませんわよ。本人に責任がないとしても、家族には責任があります。親としての義務があります。あなたには、自分の子供を他人に迷惑をかけないように、監督するという義務があるんじゃないですか。そんな義務も果たせないとおっしゃるんなら、入院させるべきだと言ってるんです」
「・・・」
「入院もさせられないって言うんだったら、ここから出ていってもらうより仕方がありませんわね。親子共々・・・」
「それは人権侵害ですわ!」
 立花さんがすかさず叫んだ。
「あなたはどちらの味方なんです!」
「敵とか味方とか、そんな問題ではありませんわ」
「忍従するにも限度というものがありますわよ」
「本当に忍従の限度を超えているんでしょうか」
「私は超えていると言ってるんです。あの病気はね、家族に問題があるっていいますわよ。母親に第一の責任があるんです」
「いいえ、私は社会に責任があると思っています。病人や障害者を受け入れようとしない社会に責任があると思っています」
「まあ、あなたは何と突飛なことをおっしゃるんです。社会に責任があるだなんて。社会の誰に責任があるとおっしゃるんです。それは無責任ですわ。責任逃れですわ」
「騒音だって、身内であると思えば辛抱できるんじゃないですか。他人だから腹が立つんじゃないですか」
 立花さんと関口さんとのやりとりが、激しくなってきた。林田さんと村松さんが、厳しい顔つきで成り行きを見守っている。
「病気って、誰でもかかるんです。心の病気だって、誰でもかかるんです。精神分裂病だって、特殊な病気ではないんです。誰でもかかる病気なんです。あなただって、いつかかるかも知れない。だから、あなたも自分の問題として、病人や障害者を抱える家族の立場に立って、その苦しみを知っていただきたいんです。病人や障害者だからといって、邪魔者扱いしてほしくないんです。中西さんのお子さんは、何か悪いことをしたんでしょうか。何も悪いことなど、一つだってしてはいません」
「夜中に喚き声を出したり、大きな物音を立てたり、それは悪いことではないんですか。いいことだとでもおっしゃるんですか」
「一つのことだけで判断してほしくないんです。中西さんのお子さんだって、普段は真面目で、他人に迷惑をかけないようにと、人一倍気を遣いながら、控え目に生きてきたんじゃないかって思うんです。私はそんなお子さんだって、信じているんです。そうではないですか。ねえ、中西さん」
 立花さんはようやく席に腰を下ろした。変わって中西さんが、静かに話し始めた。
「あの子のことは、私にもよく分かりません。あの子は何も話してくれないんです。あの子は小さいときに、私の不注意で片足をなくして・・・。あの子は今、義足をはめているんです。そのことで学校ではいじめられていたようです。学校を出てすぐ就職したんですけど、職場での人間関係もうまくいかなくって、心を病むようになったんです。体の不自由と、心の病と。あの子は二重の障害に落ち込んでしまって。人を避け、母親の私をも避け、家に閉じこもる生活が始まったんです。学校で何があったのか。職場で何があったのか。あの子は未だに何も話してくれません。・・・あの子はきっと真面目過ぎたんです。正直過ぎたんです。優し過ぎたんです。生きるのが下手だったんですね、きっと。それで、体だけでなく、頭の中までずたずたになってしまって・・・」
 中西さんは、ハンカチを取り出して涙を拭いた。
 立花さんが再び席を立った。
「真面目で、優しくて、傷つきやすくて、嘘も吐けない。人からだまされても、人をだますことができない。心の病にかかる人って、みんなそんな人たちばっかりなんです。私は、そう信じているんです」
 関口さんが床を蹴って立ち上がった。
「あなたはどうしてそんなに中西さんばかりかばうんですか。中途半端な知識が恐いとか、正しい知識が必要だとか、まるで馬鹿なおばさんに言うように。それこそ私に対する差別じゃないですか。偏見じゃないですか。あなたは大学院に通っていらっしゃるってお聞きしていますけど、学問なんかしてると、みんなそんなふうに他人を見下ろすようになるんですね。あなたも、近い将来、学者や知識人とかいわれるような人たちの仲間入りをされるんですわね。教育者や文化人とかいわれる人たちはね、差別だ偏見だと、奇麗事や屁理屈ばかり並べ立てて、自分の差別性や偏見に気付きもしていないんです。優越意識に浸りながら、知的遊戯を楽しんでいるだけなんです。趣味で学問なんかしてほしくないですわね。下手に学問なんてするもんじゃない! あなたを見てると、つくづくそう思いますわ」
「私はどう思われたっていいですわ。でも、これだけは言いたいんです。誰でも人間として、平等に生きる権利がある。幸福を追求する権利があるはずだって・・・」
「権利権利とおっしゃいますけど、私にも権利がありますわ。誰からも邪魔をされずに、平穏な市民生活を送るという権利がありますわ。差別だ、偏見だと言う前に、他人の迷惑も考えてほしいですわね。私には大学受験を控えた息子がいるんです。あなたにはそんな子供もいない。一人でのんびりと暮らしていらっしゃる。だからお隣の騒音も気にもならない。あなたは所詮、当事者ではないから、そんな優しいことばかり言っていられるんですわ。世の中は優しさばかりでは生きていけないんです。奇麗事だけでは世の中は渡っていけないんです。人間なんて、そんなに立派なものではないんです。子供も産み育てたこともない、あなたのような半人前の人間に、世の中の何が分かるっていうんですか」
 関口さんは席に着くと、顔を横に向けてしまった。村松さんがお茶を注いで回っている。立花さんは席に腰を下ろすと、おもむろに話し始めた。
「私、人に理解してもらおうと思ったら、どんなことでも隠すのはよくないと思っています。隠そうとするのは、自分で自分を差別していることになるんじゃないかって。そう言いながらも私、今、迷ってるんです。でも、迷いながらも、正直にお話した方がいいんじゃないかって。お話することで、少しでも理解していただけるんだったら、多くの人々に知っていただいて、多くの人々に関心を持っていただいて、それが解決の糸口になるんだったら、今はそう信じて、勇気を奮ってお話しなければならないと思っています。実は私には精神分裂病の姉がいるんです。姉が発病したのは十五歳の時でした。最初は保護室に入れられていました。保護室ってどんなところか、みなさんご存じですか! 閉鎖病棟、開放病棟っていう言葉ご存じですか! 姉は幻覚、妄想に悩まされ、入院、退院を繰り返してきました。一時は、家族みんなが地獄の中で生活していました。姉には結婚の話もありましたが、病気のことを隠さないものですから、いつも先方から断られて。職場も転々としました。今いる職場は苦労して見つけた職場ですので、失いたくないと言っています。今でも薬だけは飲み続けています。職場では気付かれないようにと気を遣っているそうです。薬は一生のみ続けることになると言っています。私は小さい時から、姉のそんな姿を見てきたんです。身内に同じような病人や障害者がいるかいないかで、ものの見方が大きく違ってくるんじゃないかって思うんです。私も身内にそんな病人がいるから、当事者の悩みや苦しみがよく分かるんです。当事者でないものが、差別や偏見はよしましょうって言ったって、あなたのように、そんな奇麗事を言うなって、言い返されるだけかもしれません。だから、苦しいことだけれど、当事者が第一番に主張していかなければならないと思っています。本当の苦しみは、きっと、当事者にしか分からないことだと思っています。私は家族として、小さい時から病気の姉と暮らしてきたから、本人やその家族の苦しみがよく分かるんです。その苦しみが分かるから、お隣の騒音も辛抱できるんです。あなたには辛抱できない騒音でも、私には辛抱できるんです。病気は誰でもかかるんです。精神分裂病だって、誰でもかかる病気なんです。病気になったら、気軽にお医者さんにかかったらいいじゃないですか。精神分裂病だって一つの病気にすぎないのに、気軽にお医者さんにかかれないっていう社会の雰囲気がいけないんです。障害者だって、障害者を自然に受け入れる社会があれば、障害者ではなくなるんです。障害者に障害があるんじゃなくって、障害者を自然に受け入れることができない社会にこそ、障害があるんじゃないかって思っています」
 立花さんの話が終わると、集会所の中が急に静かになった。中西さんがおいおい泣き出した。林田さんと村松さんが駆け寄って、中西さんをなだめた。林田さんと村松さんの目にも涙が潤んでいる。
「私だって、何が何でも、辛抱できないってわけではないわよ」
 関口さんが、気まずい顔をしたまま出ていった。中西さんの泣き声が、いつまでも集会所に響いていた。

 立花 真由美 様
 早いもので、あなたとお別れして、もう一年の歳月が過ぎましたね。そちらでの生活はいかがですか。元気で頑張っていらっしゃるかしら。
 私はこれまで、自分に甘えて生きてきたことを反省しています。勇介は障害者だからと、他人の同情にばかり頼っていたような気がします。あの日以来、私は勇介のために、私自身何ができるのかを考え続けました。
 食事のとき、あの子はいつも箸で遊ぶんです。大声を出しながら、箸で机を叩いたりして。ある日、あの子が箸で壁を優しくなぞるような仕種をするもんですから、今から振り返ってみると、単なるひらめきだったとしか言えませんけど、あの子の手から箸をもぎとって、鉛筆を握らせたんです。そしたら、あの子、何かを描きだしたんです。
 最初は落書きで、わけの分からないものでした。そのうち何か形らしいものを描くようになりました。その頃には、大声で騒いだり、物を叩いたりすることもなくなっていました。幾日か経つうちに、絵らしいものが描けるようになったんです。あの子は一枚描いては、私に見せるのです。私はその都度、素直にほめてやりました。するとあの子は喜ぶんです。喜怒哀楽の感情を、ほとんど表さなかったあの子が。
 あの子の描いた絵が、もうダンボール箱一杯になりました。描くのはなぜか蝶ばかりなんですけど。あの子が描いた絵を一枚お送りします。最新作です。見てやってください。すばらしいと思いませんか。無数の蝶が、乱舞しているでしょう。下の方には、羽根を休めている蝶もいます。今まさに飛び立とうとする蝶もいます。小さな蝶。大きな蝶。弱々しい蝶。たくましい蝶。一匹一匹の蝶が、それぞれ個性があって、これだけたくさんの蝶がいてても、どれ一つとして同じ形のものはいないんですよ。
 私は、最初気付かなかったんですけど、左下のすみっこに、小さいけれど、羽根を大きく広げた蝶がいるでしょ。この蝶ね、よく見ると後ろの足が一本ないのよ。この蝶はきっと勇介なんです。あの子は今、絵を描くことしか知りません。絵を描くことで何かを訴えているような気がします。親馬鹿って言われるかもしれませんが、あの子には絵を描く才能があるんじゃないかって。何か明るい希望の光が見えてきました。今ではあの子の成長が楽しくてなりません。あの子の手となり、足となって、文字通り二人三脚で頑張って生きていきたいと思っています。きっとあの子の潜在能力を開花させてみせますわ。
 あなたも希望する学問の道に進まれて幸せですね。近況をお知らせいただければ、うれしいです。あなたのご活躍を、陰からお祈りしています。     中西 勝子

  中西 勝子 様
 お手紙拝見いたしました。しばらく知人の家で居候していましたが、最近になって、手頃なアパートを見つけ、やっと落ち着いたところです。
 自然界では、弱者が滅びていくのが厳しい摂理ですけど、人間社会では、決してそうあってはならないと思っています。弱者を切り捨てていったら、自然界で生きる動物と、なんら変わらないじゃないですか。人間が、他の動物より優れていると自負するんだったら、他の動物とは違った優れた点を示さなければならないと思っています。意識的に、差別をなくし、偏見をなくし、平等に、共に生きようとするところにこそ、他の動物にはない人間の英知があると思っています。人間は社会の中で生きているんだから、障害者の問題だって、一個人の問題だとして解消してしまってはいけないと思っています。
 人間社会は、奇麗事や優しさばかりでは生きていけないんですね。私もこの一年、色々な人と接してきて、嘘を吐いたこともあったし、自分の誤りを認めようとしなかったこともあったし、弁解したことも、他人に嫉妬したこともありました。結局人間って、自分自身が一番可愛いいんですね。自分自身を愛することはできても、隣人を愛することは、容易にはできないんです。でも、自己愛だけでは絶対悪徳しか生まれてこないから、人間にはどうしても隣人愛が必要なんです。単に「隣人を愛しなさい」と言われても、それは無理なことかもしれないけれど、人間は「自分自身を愛すること」はできるんです。自分自身を愛することはできるんだから、「自分自身を愛するように」なら、隣人を愛することもできるんじゃないか。今、私、そう思っています。奇麗事や、屁理屈ばかり並べ立てているって言われるかもしれないけれど・・・。
 私、ここまでお話して、今、まだ迷っていることがあるんです。それでもやっぱり当事者自身が、色んな時に、色んな場所を見つけて、主張していかなければ、社会の差別や偏見はなくならないんじゃないかって。人権だって守られないんじゃないかって。私の姉は精神分裂病だって言いましたけど、実は私、あなたとお会いするずーとずーと前から、精神科に通っています。私も姉のような病気になるんじゃないかって、いつもそんな不安を抱きながらも、私、今、生きています。頑張って生きています。そんな自分自身を愛しています。世の中は優しさばかりでは生きていけないけれど、「自分自身を愛するように」隣人をも愛さなければならないと思っています。私は趣味で学問の道を選んだんじゃないんです。私は自分自身が病気で、あんな姉もいるから、当事者の立場から、社会に対して主張すべきことがたくさんあるような気がします。私、そんなことをライフワークにしようと、研究室を往復し、図書館巡りをしている毎日です。
 勇介さんの絵、すばらしいですわね。こんな才能が隠されていたなんて感動しましたわ。今、勇介さんの心は自由なんです。きっと・・・。    立花 真由美

(ご注意:「精神分裂病」という呼称は、差別的で偏見を助長するとされ、日本精神神経学会は2002年8月26日、「統合失調症」への呼称変更を正式に決定しました。)