SEO対策 百獣の王

百 獣 の 王



空はにわかにかき曇り、黒雲が頭上で渦巻いた。
無数の稲妻が天空を切り裂き、
その轟音は闇に沈んだ大草原の隅々にまで響き渡った。
降り出した雨は豪雨となって、ライオンの全身を打った。



「ライオンさん、ライオンさん」
 夢かと思って目を覚ますと、大きなワニが顔を出した。
「そこでいったい何をしているのです」
 見ればまだうら若いワニ。眠りを覚まされたライオンは不機嫌に答えた。
「見てのとおりだ」
 ライオンは、長い舌で前足をなめた。
「まあそう気を悪くなさらないでください。私は、たまたまここを通りかかり、沼のほとりで、いつまでも眠り続けるあなたのことが気になって、行きつ戻りつしていました。あなたが自然と目覚めるのを、今か今かとお待ちしていましたが、いっこうにその気配がないものですから、私はあなたのことが心配で、しびれをきらして、こうしてあなたに声をかけたのです。どうなされたのです。お見受けすればご老体。こんなところで、じっとしていては、お体にさわります。私にできることなら、なんなりとおっしゃってください。喜んでお力になりましょう」
 ライオンは、ワニの親切な言葉に気を取り直したが、年は取っても百獣の王ライオン。若いワニを前にして、弱音を吐くわけにはいかない。
「おまえに助けてもらわねばならぬほどのことではないわ。はずかしながら獲物を取り逃がし、足を少しばかり怪我したまでだ」
「それはそれはお気の毒なこと。それにしても、こんなところでただじっとしているだけでは、らちがあかないというものです。足の傷は痛むのですか。私はあなたにいいことをお教えいたしましょう。この沼の水につけると、痛みが嘘のように和らぎますよ」
「辛抱できないと言うほどのことではないわ。少しばかりむずかゆいといったところだ」
「痛みだって、むずかゆさだって、この沼の水につけると、吹っ飛んじゃいますよ。私がこんなに元気でいるのも、私が若いからというだけではありません。この沼の水のおかげなのです。傷口の毒も、この沼の水が、きれいさっぱり洗い流してくれますよ」
 ライオンは、ワニの顔を見つめた。優しい目をしている。悪いやつでもなさそうだ。ライオンは、若いワニの言うことに従うことにした。傷口を少しばかり水に浸してみた。水はひんやりとしていて、気持ちがいい。しばらくつけていると、ワニの言うとおり、痛みが和らぎ、頭の中まですっきりしてきた。
「どうです。私の言うことに嘘はないでしょう。水は生命の源です。特にこの沼の水は格別です。私はこの沼で生まれ育ち、今日まで病気の一つもしたことがありません。この沼の水は、とても体にいいのです。冷たい水で頭を冷やせば、もっといい。生きるための知恵もわいて来るというものです。どうです。どっぷりこの沼の水に身を沈めて、向こうの岸までひと泳ぎされては」
 ライオンは、すっかり若いワニの言うことを信じて、泳ぎだした。
「そうそう、その調子。お年のわりにはけっこう上手に泳げるじゃないですか」
 沼の真ん中まで泳ぎ出たとき、ワニはライオンの傷ついた左足に食いついた。
「ヒェー、何をする!」
 ライオンは初めてだまされた自分に気がついた。ライオンは、ほうほうの体で岸にはい上がった。ライオンの左の前足は無惨にも食いちぎられていた。

 どれだけ時間がたったろう。気がつくと大草原を、あてどもなくさまよい歩いていた。灼熱の太陽が、ライオンの肌を、容赦なく照りつける。激しい痛みがライオンの思考を鈍らせた。もうろうとした意識の中から、ライオンの耳にささやく声が聞こえてきた。
「沼の水につければいいさ」
 あのいまいましいワニの声だ。ライオンは、今更ワニの言う意見に従う気は毛頭ない。だが、傷口の痛みはおさまるどころか、度を増してきた。やむなく、沼のほとりに立ち戻り、食いちぎられた足の傷口を水に浸した。痛みは和らぎ、空腹も手伝って、ライオンはその場でうとうとと寝入ってしまった。

「ライオンさん、ライオンさん」
 どこかで聞いた声がする。ライオンの鼻先すぐそこで、あの憎らしいワニが顔を出した。ライオンは足の痛みもかまわず飛び起きた。
「私はあなたを取り逃がして、とても残念です」
 ワニはライオンを前にして、平然として言った。ライオンは怒りにふるえた。
「残念だと。わしをだましたうえに、なんという言い草だ!」
「だました?」
「そう、おまえはこのわしをだましたのだ!」
「ああ、私はあなたをだましました。それは事実です。事実は素直にみとめましょう。ところで、それがどうしたというのです」
「どうしたもこうしたもないわ!」
「あなたは何を怒っているのです。私にはわからない。あなたが怒りにふるえる理由が、私にはわかりません」
「わしをだましておきながら、きさまというやつは・・・」
「あなたはもしかして、私があなたをだましたことに腹を立てているのではないですか」
「そうだ。そのとおりだ」
「おかしいですねえ。それはおかしい」
「なにがおかしい。わしはおまえにだまされたのだ!」
「相手をだまし、うまく自分の利益になるように利用すること。だますとは、生きていくための高等な技術なのですよ」
「きさまはわしをだましておきながら、だまされたこのわしのほうが悪いとでも言うのか!」
「そう、あなたのほうが悪いのです。自然界は弱肉強食の世の中です。あなたはそのことを百もご承知のはず。食うか食われるかのこの厳しい世界に、あなたともあろうお方が、私の甘い言葉を信じ、なかなか親切なやつだと、私を勝手に解釈し、あなたは私に気を許した。油断したあなたが悪かったのです。だました私が悪いのではありません。だまされたあなたのほうこそ悪いのです。自然界では、だますことは決して悪いことではないのです。私は、悪いことをしたなどとはこれっぽっちも思ってやいません。だまされて怒る道理はないのです。親切は、他人のためにするものではありません。自分のためにするのです。いずれは自分の利益になって返ってくるからこそ、人は他人に親切にするのです。軽々しく他人を信用してはいけません。自分以外はみな敵だと思いなさい。私は小さいときから、親からそう教えられてきたのです。だれが、自分を犠牲にしてまで他人を助けたりしましょうか」
「きさまは、この世に理性といったもののあることを知らないのか!」
「この世に理性という言葉のあることは知っています。でも、自然界には、理性などといったものはありません。見せかけの理性はあっても真実の理性などありゃしないのです。自然界では、いろいろな意味で、強い者が生き延び、弱い者は死に絶えていくのです。相手にだまされる前に、相手をだます。それが自然界の掟なのです。自然界の摂理には、素直に従うことが一番です。逆らうとろくなことはありません。生きていくためには情け容赦のない世界に、理性や情にほだされていては、自分自身の身が危ないのです。私は親から教わった自然界のその厳しい掟とやらに、忠実に従い、行動したまでです。この私は、若いとはいえ、どう猛と名をはせたワニ。よもやあなたは、私の素性を知らなかったとは言うまい。だまされた自分の非をも省みず、自分の無能さを棚に上げ、逆に責任を他人に押しつけてくる。そんな自分が、あなたは恥ずかしくないのですか。もはやあなたは、自然界では、生きる能力も資格もないのです。あなたは、みずから命を絶つべきです。あなたのようなお方が、この自然界で、未だに生きながらえているのは、幸運と言うべきでしょう。私の偽言を偽言とも気づかずに、あなたは自然界の掟を忘れるほどまでにもうろくし、・・・」
「黙れ! どこまでわしをさげすめば気が済むのだ! わしは、きさまのような若僧に、説教される筋合いはない。これ以上、この年寄りのこのわしを、馬鹿にすることは許さん!  見よ。あの大草原を。夕日が落ちていくわ。わしはこの光景を幾千回となくながめてきた。わしは、おまえの二倍も三倍も生きてきたのだ。わしから見れば、おまえは乳飲み子同然だ。食うか食われるかのこの世界だと。ああ、おまえに言われるまでもないことだ。たしかにおまえの言うとおりわしが馬鹿だったんだ。食うか食われるかの厳しい世界に、嘘を嘘とも気づかずに、自然界の厳しい掟を忘れ、おまえの言いなりになった。このわしが悪かったんだ。わしもこの老体だ。そう長くはない命。いずれ近い内に、あの夕日のように沈む日が来ることだろう。だが、おまえは若い。夕日は没しても、おまえの明日には、輝かしい朝日が昇ることだろう。わしはもう飽きた。生きることに飽きた。これ以上生き延びたとしても、この世に生き恥をさらすだけだ。これで百獣の王と言われるのは恥ずかしい。もはやこの世に未練はないわ。ただわしには、自ら命を絶つだけの勇気がないのだ。おまえはきっと今、腹を空かしていることだろう。いまいましいやつだと思っていたが、こうしてよく見ると、なかなかかわいい顔をしている。姿形は違えども、わしの息子のような気がしてきた。ここでこうしておまえに出会ったのも何かの縁だ。どうだ。わしはこの際、おまえの餌食になって、死のうと思う。わしが死んでも、わしの肉体の一部が、聡明なおまえの、若くてたくましい肉体の一部となって、いつまでも生き続けるのだと思うと、わしはおまえの餌食になっても、喜びこそすれ、悔いはない。これがわしの最後の願いだ。さあ食え。わしを食ってくれ。わしはおまえに食われて死にたい。この肉体を、おまえの餌食としてささげようではないか!」
 ライオンは天を仰いで隙を見せた。
「言われるまでもないことだ!」
 ワニはライオンに飛びついた。ライオンはひらりと体をかわすと、傷のない方の足の爪を立て、ワニの腹に突き刺した。
「この若僧めが!」
 ライオンはワニを満身の力で投げあげた。ワニの巨体は、岸辺の砂上にもんどりうった。ワニは仰向けになり、四肢を空に向かってばたつかせた。ライオンはすかさず詰め寄り、ワニののど元に食いついた。ワニはたまらない。四肢が、二、三度空をつかむと、ワニはそのまま息絶えた。
「わしは、年は取っても百獣の王ライオンだ。水の中では無力だが、陸の上では、きさまのような若僧に、まんまと食われるほど、老いぼれてはいないわ。おとなしく、自分の世界の中で生きていればいいものを、欲を出し、年取ったこのわしを、弱いやつだと見て取ると、陸の上のこのわしを、食ってやろうなどと思ったがために、おまえはあわれ、若い命を落とすことになったのだ。身の程知らずとはおまえのことだ。老いさらばえたこのわしでも、精神一到、事に当たれば、おまえのような巨体でも、食い殺すぐらいの力を秘めていたことを、おまえは知らず、おまえはわしを侮り、さげすんだ。わしの腹の中は煮えたぎり、わしは、自分の命をかけて、おまえを食い殺そうと決意したのだ。老いぼれても、命をかけて事に当たったこのわしと、こんな老いぼれに、よもや命までもとられることはなかろうと、たかをくくっていたおまえとは、もはやそのとき、歴然とした力の差があったのだ。おまえはわしを見くびり、自分の力を過信した。おまえも、もう少し謙虚であれば生きながらえたものを。わしは今、飢えている。生きるためには食わねばならぬ。だがわしは、たとえ野垂れ死にしょうと、おまえのような軟弱者の肉は食わぬわ。わしはおまえの体を八つ裂きにしてくれる!」
 ライオンはワニをくわえて放さず、数限りなくうち振った。ワニの四肢は四方に飛び散り、ライオンの牙が、ワニの内臓をえぐった。ライオンは不自由な足をものともせず、断崖を一気に駆け上った。頂上に至り、3本の足で踏ん張ると、天に向かって吠えた。空はにわかにかき曇り、黒雲が頭上で渦巻いた。無数の稲妻が天空を切り裂き、その轟音は、闇に沈んだ大草原の隅々にまで響き渡った。降り出した雨は豪雨となって、ライオンの全身を打った。
「わしは生きる。生き続けるぞ。そして待つ。命をかけてこのわしを、うち倒そうとするやつが立ち現れるまで。わしは待つ。待ち続けるぞ。わしはそんなやつと戦って死にたい」
 崖の下では、肉片が飛び散り、ワニの巨体から流れ出た血が、沼を真っ赤に染めていた。