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私の日記です

2003年4月22日(火) まだまだあるある古いもの[続々編]

 朝は郵便貯金の口座開設に行った。電話やインターネットで現在高の照会などさまざまなサービスを利用できる「郵便貯金ホームサービス」を利用したかったからだ。午後からは仏壇の中を整理した。
[仏壇の中にあったもの]
■脇差・・・刃渡り約15センチ(脇差というものは誰でも持っていたものだろうか。父方の祖母から伝わってきたものかも知れない。)
■臍(へそ)の緒(お)・・・私の名前と午前2時誕生と書かれた祝い袋の中に入っていた。白い綿で包まれ、中央部が白いタコ糸で縛られている。臍の緒そのものは真っ黒に変色していて、硬くなっている。
■オジ(私の父の兄)の写真・・・厩舎のすぐ前で馬にまたがり、背筋を伸ばした凛々しい姿で写っている。騎兵の時に撮った写真だ。あごが張った顔で写っているが、あごが張っているのは我が家系の特徴だ。馬の腰のあたりからはサーベルが下がっている。この写真は黒い厚紙で包まれているが、そこに同じ黒い字で何かが書かれている。蛍光灯の下で、何度も角度を変えたりしながら見直すと、やっとのことで「愛馬熊野」と読み取れた。続いて漢数字らしきものが見える。おそらく、この馬の年齢か、この写真を撮った年月日だろう。この写真が収められているファイルの表には「豊橋清水町コガイ写真館」とある。
■オジ(私の父の弟)の顔写真・・・19歳で死亡した。
■祖父の兄弟の写真・・・一人は襟のところに「車力組合」と入ったハッピを着ている。二人とも素足で、みすぼらしい服装をしているが、体つきはたくましい。農作業の途中にでも撮ったもののように思われる。
■私の父、私の祖母、私のオジ3人、合計5人が一緒に撮った写真。
■日本銭(硬貨)・・・寛永通寶13枚(大きさはまちまち、1枚は緑色の錆が付いている)。寛永通寶は江戸時代の通貨。寛永年号は1624年〜1644年。一文銭は1636年〜1862年に、四文銭は1768年〜1868年に各々鋳造されている。他に一銭5枚(一番古いもので大正7年)、五銭1枚(昭和18年)、十銭1枚(昭和19年、丸い穴が空いている)、十銭1枚(昭和21年、穴なし、前記のものよりも大きい)、五十銭1枚(昭和23年)、札幌オリンピック記念(昭和47年 1972)、御在位五十年記念(二重橋と菊の紋)、御在位六十年記念、EXPO’70記念(昭和45年)など。小判の形をした「□□通寶」というものがあったのだが、見つからない。一部を額に入れて飾っていた時があったので、別のところから出てくるだろう。
■日本銭(紙幣)・・・五銭、十銭、五十銭、一円、十円(国会議事堂)、百円(板垣退助)、百円(聖徳太子)など。
■中国銭(清代)の硬貨・・・「順治通寶」1枚。順治帝は中国、清の第3代皇帝で在位1643年〜1661年。「乾隆通寶」1枚。乾隆帝は中国、清の第6代皇帝で在位1735年〜1795年。
■安南(ベトナム)銭(硬貨)・・・「景統通寶」1枚(擦り減っている)。1490年前後のものと思われる。
■父のメガネ
■父の仏教に関する図書からの抜書きノート3冊・・・(びっしりと文字で埋まっている)
■父の時計・・・ねじを巻くと動き出した。裏に「昭和36年優良一般職員表彰 □□庁長官」と刻まれている。
「仏壇の外にあったもの」
■文鎮・・・「勲章受賞記念 □□□□□本部長 造幣局製」と刻まれた銅製の丸い文鎮。父のものである。龍、鶴、鳳凰などの模様がある。直径6.8センチ。
■金杯・・・口の回りに「坂井郡東部消防羲會」と書いてある。祖父のもの。当初は金色に輝いていたのだろうが、黒くくすんでいる。
■漆塗りの杯・・・入っていた桐の箱には「□□宇三吉爲十二ケ年間勤續功勞大正四年七月贈之 功勞杯 丸岡町消防組」とある。
■銀色の煙草ケース・・・「大阪 心斎橋 HOLLY WOOD」とある。父のもの。何かの記念品だろう。
■缶入り煙草・・・父が勲章受賞記念に天皇陛下(昭和天皇)から賜ったものだ。缶には中央に「賜」と書かれていて、上部は薄黄色、中央は白色、下部は金色の彩色が施されている。親戚などに配った時の本数まで書かれた父のメモが一緒に入っていた。これによると全部で50本あって、残り12本ということになる。確かに12本残っていた。どんな味がするものかと、1本だけ吸ってみた。20年以上も前に作られたものだけど、まずいというほどのことでもなかった。天皇陛下(昭和天皇)が吸っておられる煙草だということだが、違うところと言えば、その一本一本に菊の紋が入っていることだけだ。
■「Cupit Stock Book」・・・これは切手帳である。エイトマンのシールが貼ってある。このシールは私が貼ったものだ。当時は弾丸よりも速く走れる「8(エイト)マン」というテレビ漫画があった。小中学生の頃、切手ブームがあり、その頃から収集していた切手がかなりの枚数残っている。今はそんな趣味はないが、この中で一番高価なものは、切手趣味週間の記念切手で、菱川師宣画「見返り美人」であろうか。サイズはヨコ30×タテ67ミリ。当時数百円で切手商から買ったものが、1万円で売られている。売価は1万円でも切手商に買ってもらう時は二束三文だろうけど。
*他にも色々あったのだが、私も疲れてきたので、今日はこの位にしておこう。

2003年4月21日(月) 仮題『望郷』第1篇 母(とり)第1章

 あの阪神・淡路大震災で実家を建て替えることになった時、多くの古いものを捨てた。けれど、どうしても捨てることができずに残してきたものがある。父の遺稿である。他人にとっては何の価値もないかもしれないが、父が私たち子供のために残してくれたものだ。無下に扱うわけにはいかない。そこで、少しずつでも紐解きながら、この日記帳に仮題『望郷』として書き留めていきたいと思う。仮題『望郷』は父の遺稿より私が適宜加筆・修正しながら抜粋したものである。誤字・脱字その他不備な点が多々あると思われるが、今は「下書き」と理解していただきたい。
仮題『望郷』第1編 母(とり)第1章

2003年4月20日(日) 大福帳も出てきた!(まだまだあるある古いもの[続編])

 『大辞林』によると、大福帳とは「商家で、売買の金額を書き入れる元帳」のことである。大きさはおおよそ、縦31.5センチ、横11.5センチ、厚さ1センチある。表には大きく墨で「大福帳」と書かれていて、右の方にやや小さな字で「大正七年」、左の方には「五月十一日」とある。大正七年といえば、私の母が生まれた年である。裏表紙には「モラツタ日 大正八年四月三日」「書イタ日 大正九年七月十四日」とか「大正九年九月四日午後八時二十五分 □□□□書」とか書かれている。ここに出てくる「□□□□」とは私の父のことであるが、その父がまだ12歳の頃のものということになる。私の祖父やオジにあたる人は、色々なことを手がけていたので、父が祖父かオジからもらったものであろう。父自身も若い頃、丁稚奉公に出て、その奉公先が閉鎖になると自ら商いを始めたと聞いている。この大福帳の内容についてはよく分からない。前半は「平地」「サクサン」といった布地が出てくるのだが、後半には「玉石」「土砂」のほか、「酒一升」「二升酒」「茶菓子」「トウフ」「アゲ」「ダシシャコ」「カレ」「タコ」「黒サト」「割橋」「タネアブラ」「カマボコ」「ノリ」といった食料品が出てくる。「天守行」「入営酒買覚」「小原店行」「高瀬屋現金払」という表記もある。後日、父の「遺稿」を紐解けばその詳細が分かるだろう。

2003年4月19日(土) 我家の家系図(抄)

                我家の家系図(抄)
□□半兵衛 福井県丸岡町にて桶屋を営む。文献なく、本人、妻の生死年月日不詳。
 ↓
□□秋太(私の祖々父) 半兵衛の次男。嘉永6年8月26日分家後、桶屋を開業。文政10年8月1日〜明治36年11月4日(享年77歳)。人情厚く子供好きな人柄であったが、一面邪道に対しては徹底的に戦うという信念の持主でもあった。妻:イキ 色白の背の高い綺麗な人だった。
 ↓
□□宇三吉(私の祖父) 秋太の三男。慶應3年1月9日〜昭和18年1月7日(享年77歳)。5尺を僅かに5分越える短躯であったが、肉づきのよい、如何にも健康そうであり、事実これという病気をしたこともなかった。無口で何事にも几帳面であり、器用でもあった。一見して温和な様ではあったが、内心は常にある厳しさを秘めていた。好物は酒、嫌いなものは川魚類。17歳の頃、北海道で放牧と開拓をしていた二人の兄を頼って単身北海道に渡り、30歳を越す歳頃まで滞在し、その10数年の間、何を志し、また何をしていたのかは知らないが、兎に角相当な極道者であったらしい。小樽、札幌、釧路方面にも何年か住んでいたようで、多分叔父達の放牧に関しての出張のような仕事であったように想像している。30歳を過ぎてから実家に戻って来た。32歳で結婚。結婚後は伝来の家業である桶屋の手伝い傍ら若干の農作をして暇な季節には、現金収入の途を求めて、土地の開拓、酒、醤油製造屋の仕込人として働いていたらしく、その頃の家計は決して楽な方ではなかったと想像される。その頃、町の消防団員になったらしい。60歳に近い頃まで、25年という永い間、無報酬の消防手を務めたのである。霞ケ城(丸岡城)天守閣下にある記念塔の裏面に名が刻まれているのは□□家のこよなき記念として永代語り伝えられることであろう。妻:とり 士族甲斐泰助の三女。背、鼻ともに高く、立派な風格の人であった。甲斐家は足軽で、泰助は霞ケ城(丸岡城)に入る東門の門番役を務めた。
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□□□□(私の父) 宇三吉の三男。明治41年2月15日〜平成7年5月28日(享年87歳)。妻:□□□
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□□□□(私)

2003年4月18日(金) 戦国時代?のものが出てきた!(まだまだあるある古いもの[続編])

 和綴じ(形式は「四つ目綴じ」)の本が出てきた。いかにも古い。こういうのが博物館でガラス張りのケースに入っているのをよく見かける。外装は表も裏も真っ黒で灰色の蓮の図柄がある。サシで測ってみると、およそ縦25センチ5ミリ、横20センチ5ミリ、厚さ1センチ5ミリ。洋式の数え方でいえば約100ページ。筆で大きな字で書かれているので、1ページは7行。白地の和紙は変色しているが、文字は墨で書かれているのでいまだ鮮明である。中身は大きく四つに分かれていて、各々の最後には下記のような年月日が記されている。
  「アナカシコ 文明六年二月十七日 書之」
  「アナカシコ 明應七年二月廿五日 書之」
  「アナカシコ 明應七年十一月廿一日ヨリハシメテコレヲヨミテ人々ニ信ヲトラスヘキモノナリ 」
  「アナカシコ 文明十七年十一月二十三日」
 筆跡は力強く、男が書いたものと思われるが、「アナカシコ」という言葉が各節の終わりに必ず出てくる。この「アナカシコ」という言葉は手紙の最後に女性が用いる言葉だ。どういう意味かといえば、昨日の日記で書いた『浄土真宗聖典-勤行集-』での注釈では「尊敬と感謝をあらわすことば」とある。手許にある『大辞林』を引くと、「恐れ多いことですがの意で、書状の終わりにおく挨拶の語。女性が用いる」とある。続いて「古くは男女ともに用いた」とあったので納得した。
 同じく『大辞林』でその年代を調べてみると、次の通りである。
  「文明」・・・年号(1469.4.28 - 1487.7.20)。応仁の後、長享の前。後土御門天皇の代。
  「明應」・・・年号(1492.7.19 - 1501.2.29)。延徳の後、文亀の前。後土御門・後柏原天皇の代。
 これによると、500年以上も前に書かれたものということになる。応仁の乱があったり、群雄割拠の戦国の時代だ。文明17年(1485年)といえば、山城で国一揆が起こっている。長享2年(1488年)には加賀一向一揆が守護を滅ぼしている。「一向一揆」とは『大辞林』によれば「室町・戦国時代、北陸・近畿・東海などの各地に起こった宗教一揆。真宗本願寺派の一向宗の僧侶や門徒の農民たちが連合して守護大名・戦国大名などの領国支配に反抗した。特に約90年間一国を支配した加賀の一向一揆が有名」とある。我家は北陸越前の出身で、寺の宗派は、ここで出てくる「真宗本願寺派」だけれど、そんなに古いものが我家に伝わっているとは考えにくい。先祖代々仏壇と一緒に引き継がれてきたものだから、古いものであることに間違いはないのだが、いわゆる「写経」というものではないか。今の私には、その方面の知識が全くないのでこれ以上のことは分からない。

2003年4月17日(木) 浄土真宗聖典-勤行集-

 我家の仏壇の引き出しの中に『浄土真宗聖典-勤行集-』というものがある。奥付というものが見当たらないので、一般に販売されているものではないだろう。「凡例」に「当用漢字、現代かなづかいを原則としたが」とあるので、極めて新しいものである。その中に「まことのことば」という標題のもとに、人間について「仏説無量寿経」からの引用文がある。これを読んでみると、今も昔も人間というものは少しも変わっていないことが知れる。以下はその引用文の一部である。

一、人間ほど浅薄なものはない。いずれも急がなくてもよいことを急ぎ、争わなくてもよいことを争っている。このはげしい悪と苦の渦のなかに、あくせくとして勤めはたらき、それによってやっと生計を保っているのである。
ニ、田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。・・・また、田がなければ田をほしいと悩み、家がなければ家をほしいと悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、なければないにつけて、またそれらをほしいと思い悩む。たまたま、ひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう。」

2003年4月16日(水)母のこと

 今までは父のことに言及しすぎたので、今日は母のことについて書く。
 私の母は「池坊 総華監 正教授」の免許状を持っている。これがどれほどの位のものなのかは「華道資格検定禮録」という資料を見れば分かる。この資料もまた、今回整理しているうちに出てきたものだ。「昭和34年3月15日改正実施」とあり、「華道家元池坊総務所・池坊学園本部・池坊華道会本部」が発行したもので、薄い一枚ものの紙である。折り畳んでいた折り目が切れかかっている。ここに下記のような順序でその資格が記されている。
 入門(入門)、初等科(初伝)、中等科(中伝)、高等科(皆伝)、師範科(華掌)、助教授三級(准華匡)、助教授二級(准華監)、助教授一級(准華綱)、准教授三級(華匡)、准教授二級(華監)、准教授一級(華綱)、正教授三級(総華匡)、正教授二級(総華監)、正教授一級(総華綱)、准華督、華督、副総華督、総華督と続いていて、さらにこの上に二つ階級があるように思われる。今はゆっくりと調べる気がないので、よく分からない。幅が10数センチの「華道免許席札」というものもあって、これは展示品の前に、その作者の肩書きと名前を書いて、置いておくものらしい。母のその札には「華道総華監、正教授二級、三種生二級教授 □□ 照月」と書いてある。
 若い頃は文化服装学院や家政専門学校で教えていた。歳を取ってからは、区民ホールで催される「華道教室」の講師として招かれたこともある。
「和裁教授」の肩書きが付いた名刺も見つかった。幼い頃、母が狭い家の中で、嫁入り前の娘さんに和裁やお花を教えていた頃がよみがえってくる。母は「袴(はかま)」も縫うこともできるし、着付けもできる。最近は着物を着る機会がほとんどないから、「着付け教室」というものが流行っているが、その存在を不思議がっていた。「不思議がっていた」と過去形で書いたが、母はまだ健在だ。

2003年4月15日(火) 水仙娘

 私の父母は福井県の出身である。「日本一短い○○への手紙」で有名になった丸岡町には、先祖代々の墓があり、小学生のころは毎年、家族そろって墓参した。
 福井では、越前岬一帯に咲く「越前水仙」を全国の人に知ってもらうために、越前水仙の開花時期にあわせて「水仙まつり」が催される。県内から3人の「水仙娘」が選ばれるのだが、この「水仙娘」に親戚の子供が選ばれた。その時のことを父が俳句に詠んでいる。
  水仙のミスに選ばれ従妹の孫
 「平成元年2月10日朝日新聞でみる。」という注意書きがある。 私には俳句の良し悪しは分からないが、父の詠んだ俳句が約700首残っている。私もこれからゆっくりと挑んでみようかと思っている。

2003年4月14日(月) 偉大な父と妙齢の美女

 昨夜は夜更かしをしてしまったので、目覚めた時は10時を過ぎていた。悪い習慣が身につかないよう気をつけなければならない。
 今日は曇り空であったが、雨になりそうでもなかったので、近くの銀行へ出掛けた。歩いて15分程かかる。この銀行の支店は姉が以前に勤めていたところだ。5年と6カ月勤めて、結婚のため昭和38年9月30日に退職している。どうしてそんな詳細なことが、すぐに分かるのかというと、以前にこの日記で書いたように、父が「我家の記録」として、その詳細を残してくれたからだ。我が父は偉大だ!
 銀行はいつも忙しいところらしい。姉は今では文字通り「おばあさん」になってしまったけれど、当時の姉は結婚前の「妙齢の美女」だったから、帰宅途上で良からぬことが起こるといけないので、帰宅が遅くなる時は、店の前まで出迎えにいったことがある。店の前の、寒い暗闇の中で、姉が仕事を終えて出てくるのを、父と一緒に、今か今かと待ち続けていた記憶がある。昔はお父さん方が我が娘の帰宅途上を心配して駅まで出迎えに来ている姿を、よく見かけたものである。親が子のことを思う心が偲ばれて、ほほえましく思うのだが、今では若い女性も真夜中の暗闇でも一人で平気に歩いている。女性もそれだけ強くなった証かもしれない。
 銀行で受付カードを引くと「114」番だった。今日は「4月14日」だ。「4」という縁起の悪い数字が沢山あるけれど、「114」は「いいよ」、「4月14日」は「よいよ」と読める。カードには「番号順にお呼びいたしますが、ご用件により順番が前後する場合もありますのでご了承ください。」とある。後から来た人が先に呼ばれて文句を言う人があるから、こんな断り書きがしてあるのだろう。今までは何かと心の中が忙しくて、考えもしなかったことだけど、これも「心の余裕」だ。心に余裕があれば、見えなかったものが見えてくる。

2003年4月13日(日) 弟のこと、父のこと

 私は本年3月末日をもって退職したのだが、私の弟も、偶然にも同日に退職した。警察官だった。危険な仕事である事を承知で、親に相談することもなく、自分自身が選んだ道だったが、体を壊し、もう続けられないという。警察というところは休暇を取らない慣習がある。犯人を生真面目に追いかけて、命を失いかけたことがあることも聞いている。色々無理がたたったのだろう。「もう警察は嫌だ。これから先、再就職の機会があっても、警察に関わる仕事は一切嫌だ」とまでいっている。相当大変な目にあってきたものと思われる。弟も父の影響を受けて育っているから「やんちゃ」な人間ではなかった。兄の私から見ても、おとなしい性格だった。警察という世界で生きていくことを、当初から危惧していたのだが、ようこそここまで頑張って勤めてきたものだ。今度あった時、ねぎらいの言葉をかけてやりたいと思う。弟の健康が回復したら、二人で旅行にでも行こうかと考えている。

 弟が大阪府警察学校に入校して間もないころの、父が弟に宛てた返信の手紙がある。日付が昭和43年6月となっているから、もう35年も前の手紙だ。
「はがき十五日朝の便で入手した。割に内容要領よく書いてあったので万一を心配していたが、大阪府巡査、同見習生として辞令を受けて目出度く入校式に参加出来一応希望の輝かしい第一歩を踏み出せたことは嘸かし満足の事と思い、両親も兄達も安心している。
 日毎に学課、その他訓練も厳しさを増すことは必至である。時期的にも十五日から梅雨に入ったので、一層体調に十分留意して励むよう祈っている。
 一度学校見学に行くつもりはしているが梅雨期でもあり当分行かないことにする。まだ入校して一週間だから見習巡査として板についたころ面会旁見学に行こうと考えている。
 十六日朝日新聞朝刊に、大阪府警察巡査八〇〇名増員、大阪在住の者で来春高卒見込のものは九月十日に受験出来る、との記事があった。今更何の関係もないと思わず善良な模範的先倅になるよう専念してほしい。
 小鳥も毎日面倒を見ている。十七日朝折角生んだ卵が水溜の中に落ちて割れていて残念。どうも子を育てる資格がないようだ。
 それでは健在で頑張ることを祈る。
      昭和四十三年六月十七日午後    父かく」
 手紙には「小鳥も毎日面倒を見ている」という言葉がある。小鳥というのは、十姉妹だったと記憶している。弟が飼っていたものである。弟が警察学校に入校することになったので、父が世話することを引き受けたのである。当時の私や弟は、犬や猫を飼いたかったが、父が許さなかった。犬は吠える。猫はうろついて、色々と他人に迷惑を及ぼすからだ。父は他人に迷惑がかかることをことさら恐れていた。小鳥を飼うことだけは許してくれた。「小鳥も毎日面倒を見ている」と、わざわざ小鳥のことに言及している。子供に対して厳しい父ではあったけれど、心の底では子供に優しい気持があったことがうかがえる。

2003年4月12日(土) 福井烈震

 今日は用事があって梅田まで出た。電車に乗って出掛けるのは、退職してから初めてのことである。どんな用事かは秘密だ。日頃から用事はまとめて済ますように心掛けていたが、今では時間も自由だし、健康のためもあって、わざと外に出掛ける用事を作っている。今日の用事もそんな用事だ。とはいえ、相手と約束したことだから、遅刻するわけにはいかない。それで前夜、目覚まし時計を8時にセットして寝たが、鳴るまでに目が覚めた。出掛ける時はいつも電池を抜いていたのだが、今日はそれをするのを忘れた。夜の8時になると、けたたましい音を立てて鳴り続けるだろう。
 出たついでに地下街のコンビニでコピーをした。原稿を忘れてしまったので、慌てて戻ろうとしたが、行き当たりばったりに寄った店だから、どこだか分からなくなっていた。ようやく見つけて中に入ると、二人の若い女店員が、私が忘れた書類を見ながら互いに顔を見合わせ、思案顔だった。私にとっては重要な書類だ。どんな書類かは、これも秘密だ。手許に無事戻ってきて胸をなで下ろした。
 時計のことが気になって、用事を済ますと早めに帰宅した。
 明日は地方選挙の投票日だ。
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 私の父母は大地震を二度経験している。福井地震と阪神・淡路大震災である。
 今手許に「臨時建築等制限規則による許可(及び資材割当)申請書」という、変色し四隅がぼろぼろになった書類がある。この書類には「北陸烈震のため本籍地の家屋が全壊したので財政的に苦しかったが再建を敢えて考えた」という父のメモが付されている。
「受付第99号、受付年月日昭和24年5月6日 丸岡町役場」と「第1509号、昭和24年5月16日 福井県三国土木出張所」の丸い印が二つ押されている。「着工予定期日 昭和24年6月1日 竣工予定期日 昭和24年6月30日」本申請書を必要とする詳細な理由という欄には「震災の折倒れましたので私も建築□□せうと思ひつ、勤めの身と大工様の都合に依り今日迄のびてしまひましたので何事もよろしくお願ひします」と記されていて、左の隅に「右消防上支障なき事を同意す」とあり、福井県丸岡町消防長の氏名と印が押されている。
 この頃父は郷里(福井県丸岡)に母(私の祖母)を残して、大阪に勤めに出ていた。昭和23年6月28日に、北陸地方に大地震があり、父の郷里の家屋が全壊した。父はさぞ郷里に残した母のことが気になって、気が急いていたであろうと思うのだが、母の無事であることを祈りながら仕事を続け、すぐには帰らなかったという生真面目さだったと母から聞いている。
 私も阪神・淡路大震災で親の家が半壊し、建て替えることになり、その費用の全額を負担したのだけれど、日頃から親孝行をしなければと思いながらも、何らそれらしきことができていなかったので、むしろ親孝行ができる機会をいただいたと思って感謝している。
 私は父の性格を引き継ぎ、父も私も共に胸を患い、長期の療養生活を経験している。全く父と同じような運命を辿っているような気がする。
 大阪から郷里の福井まで帰省する途上の大変な模様が、父の遺稿に詳細かつ生々しく記述されているので、おいおい紐解いていきたいと思っている。

2003年4月11日(金) オジ伊三郎のこと(父の遺稿より)

 先の日記で、私のオジの軍隊手帳が出てきたことを記したが、父の遺稿に、このオジ伊三郎のことについて書かれた部分があるので、その一部を抜粋しておく。
「大正十一年適齢検査(兵隊)の結果、甲種合格(丈五尺三寸四分、足袋十文七分、骨格太く、色白の好男子)。然も当時兵隊の中でも一般の羨望であった騎兵というので、鳶が鷹を生んだ様だと両親の自慢でもあった。血統が良く好男子で比較的裕福な家庭の子でなければ騎兵にとらないという世評もあったので、私達も嬉しかった。吾家では最初の現役入隊である。入隊前には表に竹と杉葉等でアーチが造られ、貧弱な家の玄関を飾っていた。大正十二年一月十日、第十五師団(豊橋)騎兵第二十六連隊第四中隊に入隊した。このとき父と重太兄が豊橋まで見送ったと思う。兎に角この入隊は□□家の名誉と存在を高揚した。その功績は大である」
 我家にはこの当時に撮られたと思われる9枚の写真がある。軍帽をかぶり、髭を生やし、胸のところには勲章を装着し、手にはサーベルを携えている9名の、上半身を撮った写真である。一人だけは髭を生やしていない。写真は白黒で、古いとはいえいまだ鮮明である。欄外には写真の説明が書かれていた形跡があるのだが、消されていて判読できない。父が消したのか。もっと以前に、既に消されていたのか。父が消したのなら、どういう理由で消したのか。この写真の1枚が私のオジなのか。父はもう死んでいないので、確かめようがないのが残念だ。もしかしたら母が知っているかも知れない。今度会う機会があったら聞いてみようと思っている。

2003年4月10日(木) 母から父への手紙

 退職してまだ10日だというのに、退職したことが、遠い遠い昔の出来事のように思われてくる。遠い遠い昔の、小さい小さい子供の頃が偲ばれてくる。何故だろうか。
 4月13日には府議会議員と市議会議員の選挙がある。朝早くから、「○○さんをよろしく」という電話が1件あった。他に「お墓」の勧誘もあった。
 私の父は在職中に胸を患い、昭和39年2月4日から昭和41年9月30日まで、2年と8か月、療養生活を送っている。父は丁度今の私の年齢の年に病気になり、入院したことになる。健康には十分注意しなければと思う。当時母が療養先の父へ出した手紙が100通ほど残っている。今日は、それを読みながら整理しているところだ。封筒は白かったのも色あせて、黄色く変色している。今は封書の代金は80円だけど、10円の切手が貼ってある。私にとっては貴重な手紙だけれど、下にその一部を抜粋して記録に留め、他は捨てることにした。紙は弱くなっているから、破るのには苦労しない。
「人間は自分の都合の良い時は気持の良い顔をするけれど、世間には人情も何もないのよ。世の中はあまい物ではないよ。裏切られて行く善行の持主が傷つけられていくのが悲しい」・・・「裏切られて行く善行の持主」とは私の父のことである。人情深く、頼まれれば断ることの出来ない父の「お人好しさ」を母が嘆いている。
「何の心配もなく暮らす事の出来る安心感、嬉しく感謝して居ります。」・・・日頃は厳しく、頑固で意固地な父だったけれど、病気になっても、こうして家族みんなが安心して暮らしていけることを、母は父に感謝している。
「ではお体ご自愛の上、又会える日を楽しみに待ちましょうね」・・・「又会える日を楽しみに待ちましょうね」とは、まるで若い恋人同士のラブレターのようである。当時の父と母の関係からは想像もできない文章だ。
「オーバー着て帰って下さいね 持って行こうと思って見ましたらありません。そちらですね。では19日(土)お待ち致して居ります。さようなら。3月15日」・・・療養生活をしていても、病気が回復してくると外泊することができる。父が外泊で自宅に帰ってくることになった時の手紙である。もうオーバーはいらない季節になっていたが、時たま寒い日もあって、妻の夫に対する優しい気遣いを偲ばせる。
「よく雨が降り寒かったり気候不順ですから御体に気を付けて下さいね。皆元気で居ります故御安心下さい。何にも変わった事ありませんのでこれで失礼します」・・・特に用件もなく、たったこれだけの内容の手紙もあった。
「○子(私の姉)の出産予定日は25日。雨降りだったので、別に変わった事もないので26日、診察に私ついて行きました。今日、明日には出来ません。痛み出すのを待ちましょうと云う事でした。誰でも自然を待つ内一週間位たってしまい、赤ちゃんが大きくなり過ぎるとか色々の事にて注射で出産する結果ですので、多分末か9月初頃になるかと思います」「針と糸、気になりますが暫く待って下さい。私何時もハンドバッグに持っていますのに、言って下さったら良かったのに。○子のことも気になり、とにかく入院する直前が大切ですから、入院すれば後は医師にまかせて安心ですから、入院して目鼻ついたら寄せて頂きます。ではそれまで、さようなら。御元気でね。お父さま」・・・もうすぐ初孫が生まれるという、楽しいけれど不安な頃の手紙である。
 手紙には、電話で話せば済むことを、長々と書かれているものもあった。ふと、我家に電話がいつ付いたのだろうかと思って調べてみたら、「電話架設のご通知」というものがあって、昭和44年5月7日の日付がある。父が療養生活を送っていた頃は、まだ我家に電話がなかったのだ。

2003年4月9日(水) まだまだあるある古いもの

 午前中に、退職ご挨拶の葉書168通の点検を済ませ、ようやくポストに投函することができた。昼からは再び家の中の片付けごとに精を出す。仏壇の上に置いたままになっていた、埃の被った箱を開けると、まだまだ古いものが出てきた。
■「一年中役にたつ家庭向西洋中華料理独習書」・・・330ページ。『婦人生活』昭和二十九年五月号の附録である。写真やイラストが豊富。「私の僕のとっておきの料理」というコラムが随所にあって、有名人が寄稿している。映画俳優の菅原謙二、森繁久弥、映画女優の岡田茉莉子、北原三枝、月丘夢路、「流行歌手」の近江俊郎、淡谷のり子、「ラジオスター」の中村メイコなどが、顔写真とともに登場している。こんなに古い本が、どうして今まで捨てられずに残っていたのだろう。これからの自分の生活に、きっと役に立つとお考えになった神様のお計らいかもしれないから、しばらく捨てずに置いておくことにした。
■「軍隊手牒」・・・白地に「勅諭」「勅語」が赤い文字で、振り仮名付きで、長々と書かれている。「讀法」は黒字で「兵隊ハ 皇威ヲ發揚シ國家ヲ保護スル爲メニ設ケ置カルルモノナレハ・・・第一條 誠心ヲ本トシ忠節ヲ盡シ不信不忠ノ所爲アルヘカラサル事・・・」とあり、続いて「國民一般ニ賜ハリシ詔書」「軍隊手牒ニ係ル心得」が記載されている。最後の方には、所管「第十五師団」、「部隊號 騎兵第二十六聯隊第四中隊」、兵科「騎兵一等卒」、本貫族籍「福井縣」、氏名、誕生、身長、戦時著装被服大小区分とあって、帽子、衣袴、外套、靴の大きさ、兵役の記録、出身前履歴、給与通知事項が続く。我家には私の父が作った家系図があって、四代遡ることができる。その家系図によると、この手帳は私の父の兄(私のオジ)のものであることが分かる。
■「奉公袋」・・・表の名前のところには、父の名前が書かれた布が貼ってあるのだが、この布は比較的新しい。この袋の本来の持ち主は、上記に記した私のオジであろう。裏には「收容品」とあり、「一、軍隊手牒、勲章、記章 二、適任證書、軍隊ニ於ケル特業教育ニ關スル證書 三、召集及点呼ノ令状 四、其他貯金通帳等應召準備及應召ノ爲メ必要ト認ムルモノ」と書いてある。かろうじて読み取れるほどに古びているので、引用文に間違いがあるかもしれない。

(注意):上記「 」書きしたところで、一部新漢字になっているところがあるが、勿論、現物は旧漢字で書かれている。カタカナに濁点がないのは、「勅諭」「勅語」は天皇の「おことば」だから、濁りがあってはならないとされ、濁点はつけないことになっているからである。
*こんなことを書いていると一向に片付けが進まないので、この続きはまたの機会にする。

2003年4月8日(火) 朝から雨が降っている。

 朝から雨が降っている。時々突風が吹いて、家の前の公園の、満開の桜が散ってしまった。退職の時にいただいた花束は、いつもいい匂いを部屋中に放っていたのだけれど、ちょっと触っただけで花びらや葉っぱがぱらぱらと落ちるようになってしまった。悲しいことだけど、捨てることにした。花束をいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
 今日は朝から退職の挨拶状の作成に追われた。途中、お昼過ぎになって、170通にもなることが分かって、足らなくなった葉書と切手を買いに、またまた郵便局まで出掛けた。ついでにスーパーに寄って、惣菜を買った。在職中は、仕事が終わってから寄っていたから、惣菜には「20%引き」や「半額」のラベルが貼ってあった。けれど、お昼の今日は、そんなラベルの貼られた惣菜は一つも見かけなかった。今までは決まった収入があったので、値段のことは気にせず買っていたのだけれど、定価通りに買うのが馬鹿らしくなった。これからは出来るだけ夕方遅くに買いに行こう。
 スーパーからの帰途、酒屋に寄った。缶ビールを1ケース(25缶入り)を買うためである。奥さんに「1ケースください」と言うと、今は半端の9缶しかないと言う。「9缶では縁起が悪いので10缶にしておきます」といって、1缶を陳列棚から持ってきた。この酒屋のご夫婦は、テレビ番組の「蝶々・雄二の夫婦善哉」(当初はラジオ放送だった。桂三枝が司会の「新婚さんいらっしゃい」の元祖といえる)に出場したことがある。蝶々はミヤコ蝶々さんのことで、雄二とは南都雄二さんのことである。お二方とも、今は亡き方だ。
 退職の挨拶葉書は明日中に点検して投函する予定である。

2003年4月7日(月) 退職して一週間が過ぎようとしている。

 退職して一週間が過ぎようとしている。もう遠い昔のような気がする。選挙の時期で、私の家の近くにも、宣伝カーがしばしば回ってきて、朝も昼も騒々しい。家の中に居ても住宅関連の会社の方が訪問してきたり、近所の方が転居のご挨拶に来られたり、生命保険の勧誘の電話が鳴ったり、回覧板が回ってきたり、退職しても、結構しなければならないこともあって、暇で困るということはない。そのうち落ち着いたら暇になるとは思うが。朝は8時までには起きるようにしているが、今日は8時を過ぎてしまった。規則正しい生活を維持しなければと、肝に銘じた。今日は午前中は家の掃除をして、昼からは退職のお礼用の葉書を買いに郵便局まで行った。これから印刷するところだ。100通ほどになる。プリンターは使い慣れていないので、大変だ。整理しておきたいことや、片付けておきたいことが、細々とあって、当分は落ち着かない生活が続きそうだ。

2003年4月4日(金) 歯医者、郵便局、買物

 もう勤め人ではなくなったのだから、普段着で出掛ければいいのだけれど、まだ身辺の整理がついていないから、普段着といってもどこにあるやら分からない。仕方なく、送別の会用に買った真新しい背広に、ネクタイをきっちりと締めて出掛けた。小雨の中を、歯医者に行き、固定資産税を支払うため郵便局に寄り、食事の買物をして帰った。仕事から解放されたとはいえ、結構すべきことがあるものである。

2003年4月3日(木) 退職者感謝礼拝時の記念写真

 チャペル内で撮った「退職者感謝礼拝」の記念写真が、はがきで送られてきた。人生の良き思い出として私のアルバムに加えさせていただくことにした。メールで係の方にお礼の言葉を送る。ところで、チャプレンといわれる方は、いつも温厚なお顔、態度をされている。どうすればそんな風になれるのだろう。修養が足りない自分を反省する。
 夕方は、延び延びになっていた歯の治療をするために、近所の歯医者に予約を入れた。在職中は仕事の事が気になって、日を選んで治療の時間はいつも仕事を終わってからの時間帯にしていたけれど、一日中自由の身だから、時間にこだわらず、明朝10時30分に伺うことにした。

2003年4月2日(水) 相手の立場に立って考えるということ

 今日は区役所に行く用事ができたので、9時に家を出た。区役所までは歩いて30分かかる。バスが走っているが、私は歩くことが好きだから、歩くことにした。途中、足の不自由な老人に出会った。「区役所はどちらですか」と聞かれた。私は指さしながら「この先もうすぐそこですよ。私も行くところです」と答えた。老人は私に従って歩きだしたが、すぐに立ち止まって、遠くに目をやると、「バスで行きます」と言った。私にとっては何でもない距離だったけれど、この足の不自由なご老人にとっては、途方もない距離だったのだ。私は自分の感覚だけで「もうすぐそこですよ」と言った自分を恥じた。
 私の母は、私の足で歩けば10分の距離の駅前まで、毎日買物に出掛けていた。それを何でもないことだと思っていたが、母は駅前までたどり着くのに30分かかるといっていた。途中で腰や足が痛くなって、休み休み進むからである。歩いて10分の距離は、母のような老人にとっては、30分の距離なのだ。日頃から相手の立場に立って考えることを戒めにしているつもりでも、本当に相手の立場に立って考えるということがいかに困難なことであるかを思い知らされた。
 区役所では職員が溌剌と働いていた。人間が働いている姿は美しい。自分の今の立場からは羨ましく思える。今しばらくはその気はないのだけれど、自分にあった仕事で、自由な時間で、気楽に働ける職場が見つかれば、再就職することがあるかもしれない。

2003年4月1日(火) 新しい人生の始まり

 今日はいつもより少しばかり遅く起きて、のんびりと家の中の掃除をした。仕事から解放されて、晴々とした気分でいるけれど、仕事に関係した書類を、もういらないと破り捨てていると、寂しい気分も起こってくる。だからといって、職を辞したことに後悔の気持ちはほとんどない。
 在職中は朝6時に起きて、NHKのラジオ体操(6時30分から10分間)を聞き終わるまでに家を出た。ラジオ体操をしていたわけでなく、その時間はネクタイを締め、いざ出陣という、せわしない時間だった。普段は寝る時間が惜しく、12時を過ぎてから寝ていた。何かをしていると、つい没頭してしまって、正味の就寝時間が4時間という日が続く時もあった。記憶力が衰えたのは歳のせいだと思っていたが、必ずしもそのせいだけではなさそうだ。きっと睡眠時間が不足していたのだ。出勤途上の車内でのうたた寝が気持ちよかった。今ではすべてがなつかしい思い出になってしまった。
 在職中は休みが続くとついつい夜型人間になっていた。夜中は電話や訪問者もなく、邪魔が入らないので、何かを創作するなど、考え事をする時はいいのだけれど、夜型は肉体的にも精神的にも危険だ。これからは早寝早起き。毎朝、遅くとも8時までには起きること。2日に1回は外に出ること。買物でもいい。近所を散策することでもいい。月1回の町内会の清掃に参加すること。
 今日は家の掃除を一気に済まそうと思っていたが、ほんの一部しかできなかった。しばらくは家の中の掃除、身辺の片付けごとに時間を費やすことになろう。第二の人生の真の始まりはまだまだ先だ。

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